骨董文具カンデラ堂〜推しに手紙を、心に愛を〜
七緒ナナオ📚2/1発売【審問官テオドア】
第1話 推しとファン
01.バイトと推し事①
北千住駅を西口からでると、昼と夜とが混じり合った藍色とオレンジ色と空色とがグラデーションを作りながら広がっていた。ほう、と吐き出した白い息が、ペデストリアンデッキから臨む駅前通りのアーケードが放つ賑やかな光と混ざり合う。
今日はあつあつのスープパスタか、煮込み料理が活躍するんだろう、だなんて思いながら、高校を卒業する前から使っているヨレたカーキのダウンコートのポケットに両手を突っ込んだ。耳まで隠して目深に被ったニット帽は、夏より前に買ったものだから、それほど防寒にはなっていない。肩をすくめて背中を丸め、地上へ降りる階段を目指す。エスカレーターを選ばなかったのは、少しでも身体を動かして体温を上げたかったから。
大学進学をきっかけに新潟から上京して、八ヶ月。その間、バイトを解雇された回数は十指に余るほど。継続してバイトをするのが、こんなにも難しいなんて。実家の炬燵で肩まで浸かり、飼い猫のウドとポジショニング争いをしていたころは、思いもしなかった。今度こそはと意気込んで、結局バイトをクビになる。最短は三日で、最長は三週間。今向かっているビストロこそが、最長記録を更新しているバイト先だった。
このまま一ヶ月、いけるかもしれない。記録更新、できるかもしれない。そんな期待を抱いて軽くステップを踏みながら宿場町通りを少し入ったところで「
「あれ? お前、パスタ屋のバイト、クビになったんじゃないの」
「やめろよ、不吉なことを言わないでくれ。あと一週間ちょいで最長記録の一ヶ月を更新するってときに」
「悪ぃ悪ぃ。昨日の夜、不律が別の店で接客のバイトしてんのを見かけてさ」
だからてっきり、またバイト先が変わったのだと思っていた、と電球から氷が入ったグラスへコーヒーを注ぎながら冷やかす嶋田の言葉を否定するために、ふるりと首を横へ振る。
「それ、人違い。昨日はバイト先の厨房にこもってずっとパスタ茹でて、ピザ焼いてた。そもそもおれは、接客NGだし」
そう告げると、身長一六八センチの視線がおれの目深に被ったニット帽のてっぺんから黒いスニーカーの爪先までをじろじろと何度か往復しだした。それと同時に、おれが何度も何度もバイトをクビになってきた理由を知っている嶋田の顔が、気の毒そうに萎れてゆく。
「あー……そうだったな。バイト続くといいな」
かわいそうなものを見るような目をした嶋田は、グラスに注いだばかりのコーヒーをぐい、と煽るように飲み干した。片手を振って見送る嶋田の顔には同情の色が滲んでいる。嶋田は信じていないのだ、おれのバイトが一ヶ月も続くことを。わざわざ接客NGにしてフロアには立たず、厨房へ引きこもっているおれの努力は無駄である、と言っているようなもの。
わかってる。トラブル続きで理不尽にクビになってきた経験があるから、今のバイトもそうだろうと思う嶋田の気持ちはよくわかる。
けれど。けれど、だ。嶋田は妙に勘がいい。
前のバイトをクビになる直前。その前も、その前の前も。いつだって嶋田はあらわれて、そうしてなんて言われた? あのときも、そのときも「バイト続くといいな」じゃなかったか。
「……えっ。まさかおれ、今日でクビになるのかよ」
と呆然と漏らした途端、腰骨から肩甲骨の辺りまで悪寒が走った。果たしてそれは虫の知らせか、それとも経験則か。
おれは思わず、はあ、と息を吐き出した。深く吐き捨てたその息は、繁華街の明かりに負けず劣らず白く白く広がり、藍色の夜に溶けて消える。落ち着きを失った心を誤魔化すように踏み出した一歩が、次第に大きく早くなる。
気づけばおれはバイト先のイタリアン居酒屋へ向かって駆け出していた。
嫌な予感は当たるものだ。
バイトに関する嫌な予感は、特に。
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