鄙の消光、悪魔の言ノ葉

鬼伯 (kihaku)

第1話 鄙の消光、悪魔の言ノ葉

01 鄙の消光(しょうこう)


 鄙(ひな)という語感がすきだ。hi(ヒ)というエイチの音は乾いていて重量感がない。na(ナ)というエヌの音は少々湿気をともないやわらかい。この組み合わせがいい。冬の乾いた土壌に湿気をせおった小さな風がおとずれる、そんな風景を思う。春だ、めざめだ。凍った畑の土がパキッと割れる。穴ぐらのクマがガサッとめざめる。去年まいておいた種がサテッとおきる。鄙はいのちたちを見守り、いのちたちは鄙をはぐくむ。この鄙という語感がすきだという説明をちゃんとしようとすると、どうもウソっぽくなる。ことばで何かを伝えることができる、説明できるというのは幻想だろう。ことばについて、私はつぎのように考えている。

*  *  *

 悪魔がささやいた。「物事を瞬時に伝えられることばというものがあるが欲しくないか」。人間は答える、「そんな優れものがあるなら欲しい」。悪魔はいった、「では、おまえたちが持っている察し思う気持ちを半分よこせ」「優れ物のことばが手に入るなら、察し思う気持ちなんかいくらでもやる」

 人間は前のめりになった。こうして人間は悪魔と取り引きをした。悪魔はよろこんだ。人間もよろこんだ。悪魔は人間の苦しむ姿を思いうかべてよろこんでいたのだが、人間はまだ、察し思う気持ちが言語よりはるかに貴重なものだったことに気づいていない糠よろこびだった。

*  *  *

 感じること、それはハッキリしたものだ。だがそれを説明することばは茫漠としたものだ。が、私たちは往々にして、感じるは茫漠で、それを伝えることばはハッキリしたものだと思っている。この勘違いは大いに悪魔をよろこばせる。私たちは察し思う気持ちを土台から作り直さなければならない。察し思うその根っこはまだ残っている。そこに肥料を蒔いてゆこう。 

 消光とは「たいした事もせずに、毎日を過ごすこと」と新明解国語辞典はいい、「月日をおくること」と広辞苑はあっさりしている。鄙の鄙人(ひなびと)が何ということなく日々を送り、やがて何ということなく日々に送られる日まで生きるという風景、それが鄙の消光……。玄関先の臘梅が黄色いつぼみを見せている。

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02 議員災害庁

 

 先日、久しぶりに大雪がふった。大雪といっても計ったら15センチか17センチほどだ。雪国の人には嗤われるが慣れていない地域では大雪だ。往還は車が通るからすぐ消えるが、家の裏側や日陰には何日ものこる。屋根から軒下にすべりおちた雪は岩のように硬くなって手こずる。

 軒下におちるぶんにはその家だけの問題だが、人が通る道におちると他人に大怪我をさせかねない。新雪ならまだしも、いちど陽にあたって夜間の冷えにさらされた残雪は岩石のように変化する。それを頭にくらったら一巻のおわり。こりゃーあぶないゾと思わせる屋根の家があって、道端に三角コーンでもおけばいいのにと思うが、知らないというのは恐いものなしのようだ。

 街のひとは鄙の気遣いが分からない。鄙のひとは街のマナーが分からない。互いに致し方ない。この田舎と都会のひとの問題、これは政治に関する姿勢や戦争にからまる問題でもあって……と考えるところがあるので、後日、正対したい。

 背戸にのこった硬い雪をくずし、スコップにのせていちいち日向にはこんだ。一息ついて地べたを見ると、いつのまにかホトケノザが咲いている。オオイヌノフグリはもうだいぶまえから咲いている。ホトケノザも咲いたか、春がちかい、と肩がゆるむ。能登にいちばん先に春がくればいいのにと思った。そう思うくらいしか役に立たないのだ、この鄙びとは。

 今年は元旦から能登地震の大変があった。悲惨な光景がテレビに映る。画面はくずれた家並、ふさがれた道、斜めになったビル、地滑りの山肌、すでに音のなくなったそういう光景が画面にひろがる。そこに悲鳴が立ちあがる、助けてください、助けて、という声声が画面をつきぬけてくる。

 考えてみれば、私たちは何とバカだったか。こんなに自然災害の多い国でさんざん痛い目に遭ってきたというのに、専門の災害対応省庁もおかずにきたのだ。ボランティアを美徳とし、自衛隊にたよるのは当然だ、そんなふうに流してきた。各地域に自衛消防車があるように各地域に路地に入れるミニショベルカーを配置していたらよいのにと思う。それは議員災害についてもおなじだ。歳費のごまかし、汚職、こんなにいっぱい議員災害があるのだから、議員災害庁もおけばよいのに。

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03 と、なっている


 福寿草の芽が出てきたのでまわりの青草をむしっておいた。きのうの朝、いちりん咲いた。5株ほどあるのだが、他の4株は「どうせまた寒気がくるさ、もちょっと寝よう」ということのようだ。こちらも一度にパッと出てきてパッと消えられるより、今日いちりん明後日いちりんというほうが愉しい。といいながら、先がけのいちりんには尊さをかんじる。

 だいぶ前からだが、テレビラジオから「――となっています」「――なんです」という文末が頻繁に聴かれる。「ここが駅となっています」「これが駅なんです」の類。どうも耳に障る。「ここが駅です」という平板な言い方ですむのに、なぜと思う。「これが駅なんです」は、これは駅には見えないでしょうが……というような場合の説明に適するが、近ごろのそれは本人の無意識自己主張のように思われる。「ここが駅となっています」は、ふだんは駅ではないのだが……というような場合に適するが、近ごろのそれは無意識無責任のように感じられる。

 自己責任ということばが押しつけられ、明日はわが身と誰もが不安になった。そこで些細なことでも責任者になりたくないということから、私が駅と断定しているのではないですヨ、なぜだか知りませんが「駅となっているんです」という表現になるのだろうか。しかし逃げまわってばかりでは生き甲斐がないから、誰が何ていったって一方では「ここが駅なんです」と自己主張する、そんな推理だ。無責任も自己主張も無意識だろうから厄介だ。

 私たち庶民が無責任・自己主張に鈍感になれば、選良たる議員にとってこれほど好都合はなく、毎回「しっかりと」といいながら、シッカリと無責任・自己主張をくりかえせるというわけだ。

 何でもかんでも「めっちゃ」「めちゃくちゃ」ですませるのはカラ自己主張の没個性。「美しすぎる」というスギル表現や、スポーツ選手を神になぞらえて「降臨」などという神表現は度がスギル。平板や平凡の生きる余地がなく悲しい。若者とメディアは似ていて、良識をよそおいながら一番でいたいという気持ちを抑えきれず過激に奔る。そういう若者やメディアをいい大人がまねて、まねっこ世界に埋没する。嘆息シカない。

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04 錯覚民主主義

 

 クリスマス・ローズが咲いてる、と家族にいわれて、あッホントだ、と気づく。まいにち見ている庭なのにミテナイ。クリスマス・ローズはキンポウゲ科だそうだがキンポウゲとは似ても似つかない。

 天童荒太の小説『ジェンダー・クライム』に、「あなたのご主人は――」と問われた人が「失礼な」と抗弁するシーンがあるそうだ。まだ読んでないのに読書案内を元に自分のほうに引きこむのは厚顔無恥だが、小説内の「失礼な」は、私の主人は私自身なのにつれあいを主人とは私に失礼ではないかと立腹するシーンだという。まったくだ。

 錯覚民主主義(illusion democracy)の中にいる私たちは斜面にいて平らだと錯覚しているようなもので、ロシアや中国や北朝鮮とくらべて日本は民主主義国家だとのんびりしている。世襲政治家でも苦にしない、地域自治会は土地の有力者に忖度して苦にしない、子どもの学校のことではフケイカイと称して苦にしない、そして妻自身がつれあいをシュジンと称して苦にしない。こういう小さなネガティブ努力を積みかさねてイリュージョン・デモクラシー城は堅牢になる。

 いちいち目くじらを立ててはやってらんないが偶には省察も必要だ。というのは私たちは政治家の金銭感覚や人間関係のシダラナサに立腹するが、政治家のそういう恒常性は、私たち庶民の身のまわりにそういう土壌があるからだという認識がないせいでもある。立腹すべきは自分自身にである。国家は宇宙船のようにどっかから舞いおりてきたのではない。一人ひとりがいて、家族があり、地域があり、地域のかたまりができ、国なるものを承認している。元を正さなきゃ駄目で、辞書のごとく配偶者とまでいかなくても、シュジンはやめてみたらみたらどうだろう。日常を急に変革するのはむずかしいことだから、ときどき他の言い方をしてみたらどうだろう。いやいや、もっと砕けて、家の中では主人とも殿とも閣下ともおだてあげたり、一転して宿六と配下においたりする家庭経営法もあるだろうから、それはそれとして、外社会ではシュジンを用いないという意識を内包しておけば世の中はずいぶん変わる。

 クリスマス・ローズが咲いていてもミテナイ私のようにならないために。

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05 力ずく


 ハナニラ(花韮)はベツレヘムの星ともいうそうだ。六弁のそれはまさしく星に見える。わがやのは紫。葉をこするとニラの匂いがする。

 今日も未明のラジオのトーク番組で聴く。夜があけて読む新聞の書籍広告で見る。「○○の力」ということば。読む力、聴く力、話す力、人を見る力、会社で生きのこる力。この種のいいかたがいっぱいだ。要するに、読む能力、聴く能力などとおきかえられる能力のことをいっているのだろうが、能力というと白地(あからさま)な感じがするので力という語でぼんやりさせているのだろう。力という語は文字どおり力強さをあらわすが、ややぼんやりを絡ませる。そのぼんやりに、読むや聴くを連結させるとピントが合ってくるという按配だ。

 それにしてもナー、何でもかんでも力(power)で説得されるのは興ざめだ。読む心とか聴く心とか、心はどこに行ったものか。あー、でも心もナー、ちょっといかがわしく危うい。心づくしは力ずく同様、落ちつけない。ショウペンハウエルの『読書について』や沢瀉久敬(おもだか/ひさゆき)の『「自分で考える」ということ』という「力づく」でも「心づくし」でもない本がいまもって魅力的なのはなぜだろう。

 力(ちから)をリョクと音読みして観察力、影響力、集中力、労働力ということばがある。これはそのまま分かる。だが、人間力、これはどうだろう。あまりに直截でキャッチしにくい。野球やバドミントンや卓球で真正面に打たれると慣れていない人はアタフタするように。人間力――あれ、人間じゃなかったのか? 人間だよな、あの人もこの人もこの私も。犬や羊に人間力あるねえ、というのなら分かる。人間に、人間力あるねえといわれても、あッオレ、人間じゃなかったのか、人間とかぞえられていなかったのか、と白けてしまう。

 流行語はときに魅力的だが、おかるい人が使いすぎると更におかるくなって信頼に欠ける。流行語もそれなりの理由を背負ってこの世に誕生してくるのだから排斥する必要はないが、「深いですねえ」という流行語を聞くと、この人は本当に感動しているのか、感動したくてその語を使っているのか分からなくなる。そんなとき、私の脳みそは「浅いねえ」とつぶやく。

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06 横綱は楽


 サンシュユ(山茱萸)の花がさいた、黄色い花だ。ユキヤナギがもうずっと前からさいている、白い花だ。白木蓮も笑んだ、かわいい蕾がふっくらと。この白木蓮の幹には鉄の鎖がうまっている。あーこの話はまたあとで。

 大相撲3月場所、横綱照ノ富士がまた休場だそうだ。横綱はいい。調子がわるかったら休場休場。ゆっくりじっくり休んでまた出てきて優勝だ。このところの横綱はそんなことを繰りかえしている。照ノ富士が序二段までおちて這いあがってきたときは感服したが、横綱になってからの休場休場は相撲全体が腰くだけに見えて、私はテレビ観戦をやめた。

 テレビ観戦をやめさせたのは横綱だけのせいじゃない。横綱のそういうことを許している相撲協会の無責任に厭気がさすからだ。ほんらい一番自律的でなければならない最高位が一番楽をしているように見える――そう思わせるところに厭気が立ちあがる。

 相撲協会がシダラナク見えはじめたのは白鵬の肘鉄まがいの取組をゆるした頃からだ。横綱がああいう相撲をしょっちゅう取って優勝し、それでいいというなら横綱の価値はかなり低い。どんなふうにでも仕掛けてこい、受けとめてぶんなげてやるというのが横綱であるのに、横綱みずから肘鉄では見るほうがヒジテツだ。

 上の者が得をするというのは政治の世界なんかによく見られる現象だからせめて相撲くらいまっとうにと思うのは期待が過ぎるだろうか。上の者が「得を独占する」ということで、能や歌舞伎からもいつしか私は遠ざかった。どんなにがんばっても名跡(みょうせき)を継承できるのはその家の血族だけというのに厭気がさした。名跡というのは家名のことだが家名を背負っているのは肉親だけじゃない。血縁外の弟子も大いに貢献している。歌舞伎や能は一般の家とはことなる社会的な地位を得ている。時代もかわった。にもかかわらず、というのが厭気の理由。

 名跡をつぐという点では落語などもそうだが、落語界は家族外の人がふつうに継承している。そういうところに自由性や自立性が見える。国の伝統だ何だと幻想的虎の威をかりて、ある種のヒエラルヒーから脱けだせない人たちに魅力はない。政治家の世襲なんぞはその筆頭。

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07 ミサイルと海


 北の窓から桃の花がきれいだ。桃の小林(こばやし)が150メートルほど先にあり、その背景に低山がよこたわる。この借景を毎年たのしむ。桃の花のかたまりが紅色の雲のようにたなびくさまは横断幕を張ったようだ。その紅色に、やや咲きおくれた白梅の花がかさなることがある。紅白幕はここから生じたのではないかと、そのたびに思って悦にいる。

 そんなところへ「北朝鮮、ミサイル発射」の速報がながれ、定型の「断じて許しがたい」の誰だかの反応がよたよたと追っかける。前者の報には脅威をおぼえつつ、後者のコメントはもう誰も見向きもしない。こんな国に誰がした。自分たちがしてきたのだ、選挙を通じて。おのれを呪うしかない。

 ミサイルが海におちて海の生物はどのくらい被害をうけるのだろう。そういう報道に出逢ったことがない。漁船に被害はなかったという報道は耳目にすることがあるが、魚たちの記事が出てこない。これでいいのだろうか。

 およそ日本の識者といわれる人たちの北朝鮮コメントは希望的観測のようなものが入りまじっていて真面に受けとめられない。かつて、100万200万の人が餓死寸前というコメントもあった。北朝鮮の人口は不詳とされるようだが一説に2500万といわれる。そのうちの100万200万が餓死寸前(餓死といいきらずに寸前という表現がビミョウなのだが)となれば国家崩壊の道をたどっているといってよいと思うが、そのきざしも見えない。

 だいたい情報ソースはどこかだ。テレビでコメントを発する人が北朝鮮に取材に行った様子もないから、情報の入手は韓国への亡命者と通じている誰かからかも知れない。逃げてきた人なら目いっぱい北の悪口をいうだろう。ときには無いことも有るようにいうかも知れない。それは致し方ない人間の情というものだ。そういうことを差し引きしないといけない。

 第2次大戦下におけるわが国にしても軍人民間人ふくめて300万人以上の死者を出したといわれるが、国家崩壊どころかむしろ国民一丸とまだまだの気運のほうがうわまわっていたようだ。内情はともかく上辺(うわべ)はそうだった。国家統制のもとではそうなるのが普通で、北朝鮮だっておなじだ。

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08 フルネームで


 この花の名は長らく分からなかった。イワカガミかな、いやイワカガミは高山植物ではなかったか、こんなところに咲くはずがない、さて……。こんなことを何年も繰りかえしてきた。今年は横着をやめてモバイルフォーンのカメラで撮り、植物サーチ機能でしらべた。他の方法でも確認した。ヒマラヤユキノシタだった。ヒマラヤユキノシタは咲(わら)ったろう、なんだこっちのことを分かっていなかったのか、と。咲は笑の古字。笑うには花が咲くの意味もある。

 一仕事おえてテレビをつけた。甲子園の高校野球の画面。選手個々の名が紹介されていた。ナニナニ君、ダレダレ君、苗字だけだ。画面ではフルネームが出ているのだが、下の名が何と読むのか分からないものもある。というより、このごろはキラキラネームというのだそうで、ほとんどが読めない。

 スポーツ選手の紹介のとき、いつも思う。なぜフルネームで紹介しないのか。氏は家名、名は個人名だ。大事は個人名なのに家名だけでおわるのは、封建制を引きずっていると思ってしまう。封建制ウンヌンは大袈裟ではない。家族という家は大事だが、親子であってもきょうだいであっても個々が尊重されてこそ民主的安全地帯になる。何のスポーツ番組だったか、解説者が「一度はフルネームで紹介したいですね」といったが、アナウンサーは無反応だった。

 民主主義の維持と開発は大行事や大変革のときだけ頑張ればいいというのではない。日常を大事にすることだ。選挙こそ民主主義の根幹、だから選挙へ行けと押しつけがましくいう人がいるが、行かないという選択肢があってこそ民主主義ではないだろうか。センキョセンキョというがその投票行動の根っこは日常だ。日常を古くさくしておいて選挙を通して新しい時代をなんてことは矛楯している。

 高校野球でいえば、一度はフルネームでアナウンスしてやることが人権尊重につながるし、はたまたニックネームでも可としたらどうだろう。高校野球は部活動だから甲子園大会中の監督やコーチは高校生自身とするという発想もあってよい。そういう経験が自立心を育てる。監督が女子という時代もこよう。プロ野球のナニナニ球団にスカウトされたという話題も悪くないが、他の部活動の在り方に影響をおよぼすような部活動リーダーになってもらいたい。

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09 モノマネ


 サンシュユ(山茱萸)の花が一段ときれいになった。黄色に迷いがない。花のあとに出てくる緑の葉はすぐに黒い斑点にまみれる。しかし枯れはしない。これを毎年繰りかえす。私も毎年思う。それでもサンシュユは生きて花咲く、がまん強い、と。眺められる私にとっては有り難いことだ、と。

 今朝の某新聞第33面に、東京・アーティゾン美術館の展覧会の記事があった。ルーマニアの彫刻家ブランクーシ(Constantin Brancusi 1876-1957)の展覧会についてだ。PR(広告)か一般記事か、判断にまよう作りだった。記事のタイトルは「ブランクーシ 本質を象(かたど)る」。縦書きの中に横見出しで「自然を写実的に再現した芸術は創造ではない。芸術家は創造しなければならない」とある。自然を写実的に再現した芸術ウンヌンはブランクーシ自身のことばなのか、美術館の学芸員に対する取材をとおして記者が設置したことばなのか判断つかなかった。

 そのことばの発源者が、ブランクーシなのか学芸員なのか新聞記者なのかよく分からないが、たぶん元々の発源者はブランクーシであろうが、「自然を写実的に再現した芸術は創造ではない」とホントに思っているならずいぶん驕慢なことだ。創造? 人間は創造なんて一つもしていない。創造とは人間のあいだの挨拶、励まし合いことばのようなものなのに。

 私はずっと思っている。芸術なんて誇らしげにいうけれど、しょせん自然のモノマネにすぎない、と。絵画にしても彫塑にしても音楽にしても陶芸にしても書道にしても、すべて自然のモノマネである。どこが、どのように、という質問を拒否はしないけれど、まず、じっくり、自分で考えてほしい。そんなにむずかしい話じゃない。根っこはぜんぶ自然にあると分かると思う。

 小籔でも小林でも小森でも入ってみれば分かる。小籔の中にすわってみる。あちこちからのびる小枝に蔓のからまり、その造形は神がつくったとしか思えまいヨ。虫食いの葉っぱの形や色、どれ一つ採っても人間にソウゾウできるか。抽象なんて洒落たことをいってみても、根っこに神がつくりたもうた具象がなければ成りたつまい。小籔に風の音楽、雨の音楽、尻の下の枯れ葉……。

 現代人は、想像とか芸術とか文化とか、これらの語を持ちあげすぎる。

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10 一雨一笑い一泣き


 朝7時前にゴミ捨てにゆく。昨日より濃くなっている緑。庭の緑もおなじだが日々に新たに日々に濃くなる。古代中国殷の湯(とう)王は、この緑の瑞々しい変化を見て、洗面台に「まことに日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」ときざみ、おのれの思考が停滞するのを戒めたのではあるまいか。

 緑があらわす生命の息吹を目にうつしていると、そういっては悪いが美術館などにいく気がしない。この瑞々しさにゃーかなわねえと思うからだ。作者の努力は買う。ちっぽけなわれわれ人間が精一杯の努力をする、そこは買う。だが何事も自然あってこそ、自然あってこその人間。その自然の根っこが光だ、太陽の光だ。

 太陽も宇宙ではちっぽけな一つの燃える星にすぎない。だが地球の生物にとっては偉大な燃える星だ。ちっぽけででっかい球体。アマテラスとはよくいったものだ。アマテラス、それは一つの家が占有できる根っこではない。全生物のものだ。アマテラスからかぞえて何代め? それはみんなおんなじこった。もっといえば、アフリカにいのちが芽生えてから何代め、これもみんなおんなじこった。それをわが家はウンヌンとつまらぬヒエラルヒーを構築しようとする人間をソフィストというのではなかったか。孔子もいっている、「教えありて類なし」。

 一雨ごとに濃くなる緑。一笑いごとに濃くなる幸い。一泣きごとにうるおう心。一歩みごとに、一努力ごとに、何事も一つひとつ。明日は向こうの緑は3の濃さになるかも知れないが、あっちの緑は2の濃さかも知れない。この地球に肥料をやってなんてことは通じないのだ。燃える星を根っこにして、雨に降ってもらい、風に吹いてもらい、雷に鳴ってもらい、小さな小さな種に覚醒してもらい、われら人族(ひとぞく)はその恵みに与(あずか)る。自分でたがやした結果、奮闘努力の結果、おがんだ結果、祈った結果、高度な文明を物した結果、人間が生きていられるというのはそんな結果じゃない。人間のことばなんぞひとことも知らぬ自然のいとなみに生かされているのだヨ。これは自分にいっている。

 時は春/日は朝(あした)/朝は七時/片岡に露みちて/揚雲雀(あげひばり)なのりいで/蝸牛(かたつむり)枝に這ひ/神、そらに知ろしめす/すべて世は事も無し(ブラウニング;R.Browning)。事が有る人もいる。人間は小さな虫だ。

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(悪魔の言ノ葉、おわり)


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