第3話 春宮へ
本当は喜ぶ場面なのだろうが、家族はセシリアも含め、皆どこかしら不安そうな顔をしている。
マリアムが直してくれた真っ白なドレスを身に着けたセシリアは、着の身着のままで馬車に乗り込んだ。馬車は春宮へと急ぐ。
精進潔斎のあいだは、何も持っていってはならないし、供の者も連れていってはならない。事前に聞いてはいたが、思ったより心細いものだ。
やがて馬車は春宮に到着した。馬車を降りるなり春宮内の礼拝室に連れていかれ、聖別される。聖油を塗られ祈りを捧げられ、母から聞いていた注意事項――出されたものしか食べないこと、むやみに部屋を出ないこと――を聞かされる。
そもそも知らない場所で、うろつくつもりもないし、知り合いもいないのにどうやって供される以外の食事を手に入れるのだろう。
セシリアは質問することも許されず、そのまま礼拝室の隣の小部屋に入れられた。
部屋は狭く、簡素なベッドと机と椅子が二脚。ベッドも机も椅子も白く塗られている。壁紙はよく見ると白地に白の幾何学模様だし、カーテンも真っ白だが花柄が織り出されている。とにかく真っ白な部屋だ。
この何もない真っ白な部屋で三日過ごすのは大変かもしれない。
とりあえずこの部屋に何があるか隅から隅まで調べる。幸いなことに時間だけはたっぷりある。
結局暇つぶしになりそうなものは紙とペンしか見つからなかった。
見つかったはいいがセシリアは、絵も詩も嗜まないので特に書くこともない。今一番書きたいものはカタリナへの手紙だが、そんなものをこんな場所で書くわけにはいかないし、届けるあてもない。
しばらくベッドに横になってみたり、窓の外を眺めてみたりしてみたがすぐに飽きてしまった。
部屋に入れられてすぐ気付いていたのだが、礼拝室に接した壁に、取っ手のない切れ込みだけの扉がある。近付いてみると、扉の一部を回転させることによって取っ手が出てくるようになっていた。
取っ手を引き出し、鍵がかかっているかも、と思いながらもそっと扉を押し開けてみる。
セシリアの予想に反して扉は、カチャリと音を立てて開いた。細い隙間から覗いてみると、暗くてわかりづらいがどうやら礼拝室の物置兼控室のような部屋のようだ。
暗すぎるので一旦部屋に戻り燭台に火を灯し、礼拝室の控室へ入る。礼拝で使う聖具が整然と置かれている。
いろいろと探してみるが暇がつぶせそうなものは聖典くらいしかなかったので、それを持って部屋に戻る。
聖典を読むのはいつ以来だろう。幼い頃に読んだ覚えはあるのだが忘れている話も多く、意外なおもしろさがある。
セシリアも毎週日曜日に教会に通っていたものの、あまり信心深い方とは言えなかった。
聖典も当然知っておく教養として読まされたので覚えていないところがたくさんあった。
修道女になるのも、信仰のためになる人間もいれば、セシリアのように行くところがない人間、食い詰めて駆け込む人間など様々だ。
今、王太子妃になるためにここにいるが、もし何もなかったとして、信仰心の薄い自分が修道女としてもやっていけたのだろうかと疑問に思えてくる。
聖典を読んだり、飽きると部屋の中を歩き回ったりしているうちに昼食の時間となった。
昼食は薄い具のないスープと小さな黒パンがひとつきりだった。
まだ半日しかたっていないが、王太子妃とは名ばかりで実は囚人なのではないか。精進潔斎という名目なのだからこれくらいは普通なのだろうか。
聖典の上巻を読み終わったが、夕食まではまだまだ時間がある。お腹と背中がくっつきそうだが、当然午後のお茶が出るわけもないだろう。
とりあえず聖典の下巻を取りに再び礼拝室の控室に入る。行儀がよくないことは重々承知だが、聖餅があったらちょっとだけもらってしまおうと思っていたのだが、食べられそうな物は見つからなかった。
出されたもの以外は食べてはいけないとは言われていたが、お腹が空きすぎて我慢できなかった。
それにセシリアは身替りだ。身を清めても何になるのか、という気持ちもあった。
礼拝室にも何かないかとそちらへ出る。
礼拝室は5人掛けのベンチが6脚ありそれほど広くはない。午後になり、日が傾いて祭壇の周りにだけ光があたっている。
他の部分は薄闇に沈んでまるで祭壇だけ浮き上がっているように見える。祭壇の前に立つとまるで舞台に立っているようだ。
軽く歌を口ずさんでみる。学校にいるときも嫌なことがあると礼拝室に忍び込んで、よく歌っていた。礼拝室は声がよく響いて気持ちよく歌えるのだ。
だんだん声を大きくしていって最後は大声で歌う。御魂よやすらけくという賛美歌なのだが、題に似合わず曲調が明るく歌っていると楽しくなってくる。
セシリアは歌は決してうまくはないが、歌うと気分がいいし気持ちを切り替えることができた。
一曲歌い終わり、ふうと息を吐く。またあの部屋に戻るのは気がすすまないが、気が滅入ったらまたここに来て歌うことにしよう。
そう思い部屋に戻ろうとしたセシリアの耳に、控えめな拍手が聞こえた。
誰もいるはずがない。そう思い礼拝室内を見回すと、一番後ろのベンチから人影が起き上がった。
「誰?」
悲鳴に近い声でたずねる。歌を聞かれてしまって恥ずかしいという思いよりも、不審者で何か危害を加えられたらと不安になる。春宮内とはいえ安心はできない。
手近にあった、祭壇の上に置いてあった燭台を手に持つ。セシリアの体の1/3ほどもある儀礼に使う大きなものだ。
「ちょっと、物騒だな。怪しいものじゃないですよ」
その人影は若い男の声で答え、ベンチから立ち上がりこちらへと近付いくる。
セシリアは燭台を真正面に構え、じりじりと控室のほうへ後退りする。なんとか部屋まで戻れないだろうか。
その間にも男はセシリアにどんどん近付いてくる。やがて男に日の当たり、男の容貌がわかる。
思ったよりも若い。セシリアより年上だろうがそこまで年齢は変わらないだろう。
身なりはかなりいい。高そうというだけではなく品がいい。
育ちのよさそうな灰青の瞳が面白そうに笑っている。
「誰ですか」
「ここに仕えているものですよ。王太子妃殿下はおもしろいかたですね」
「私は……」
セシリアが話すよりも先にお腹が不満の声をあげた。
「そんな物騒なものは下ろして。俺を信じてくだされば何か食べるものを持ってきてさしあげますよ」
男はセシリアの腹の虫にも驚かず笑わず、人の良さそうな笑顔を浮かべたままセシリアが一番望んでいることを提案してきた。
「名前も知らない方からのほどこしは受けかねます」
「俺は近衛騎士のアレクです」
アレクはそう言って騎士の敬礼をし、何も持っていないというふうに両腕を広げた。
「精進潔斎中なので出されたもの以外を食べるのは」
「そもそも精進潔斎って何に対してなんですか。あなたが嫁ぐのは人間の王太子ですよね。神様じゃない。精進潔斎する意味はありますか」
「それは……」セシリア自身も精進潔斎の誓いを破ろうとしていたので何も言えなかった。
「あんななにもない真っ白な部屋に入れて食事を制限して、精進潔斎というより洗脳みたいじゃないですか。王太子もろくすっぽ食べていないふらふらな女よりちゃんと食べて健康的な女のほうが喜ぶと思いますよ」
「それは、そうかもしれないけれど」
随分不躾な物言いをする人間だとは思ったが、アレクの言う事自体は、セシリアにとって納得できるものだった。
「あなたが食べたって誰にもわかりませんよ」アレクは整った顔に笑みを浮かべてささく。
「でも……」
「俺は誓って誰にも言いませんし、絶対にわからないようにします」
「……じゃあ、お願いしようかしら」セシリアがためらいながら頼む。
「すぐ戻ってくるので待っててください。誰も来ないと思いますが念のため部屋に戻っていてください。礼拝室側のドアをノックするので」
「わかったわ」
アレクはセシリアに微笑むと礼拝室を出て行った。セシリアは言われたままに部屋へと戻った。
空腹に負けて素性のよくわからない人間にとんでもない頼み事をしてしまった、とか、彼はなぜあんなところにいたんだろう、とかぐるぐると考えているうちに、礼拝室につながっている扉が控えめに音を立てた。
細く扉を開け確認すると、アレクが大きな籠を持って立っていた。扉を開けただけで肉を焼いたような香ばしいかおりが漂ってくる。
「少しだけ部屋に入ってもいいですか。荷物が重いので」
ここまできたらなるようにしかならない。セシリアは請われるがままに扉を大きく開けた。
アレクが籠を机に置き、かぶせていた布をとる。籠の中には焼いた肉と野菜をはさんだサンドイッチと数種類の焼き菓子、それに大きなポットが入っていた。
「宮廷料理人が作ったので味は折り紙付きですよ」
「ありがとう」
まだ湯気を立てているサンドイッチは、強烈にセシリアの空腹を刺激してくる。
すぐにでもかぶりつきたいが、そもそも食べて大丈夫だろうか。毒物が入っているかもしれないという危惧もあるが、やはり精進潔斎中だというのが気にかかる。
「ひょっとして毒が入っているかも、とか考えてます?王太子妃殿下に危害を加えるつもりなら礼拝堂で見つけたときにやってますよ」
アレクがセシリアの心を見透かしたように言う。
確かにアレクがセシリアに危害を加えるつもりならば、いまごろセシリアは死んでいるだろう。胡散臭さはぬぐえないが、少なくとも害するつもりはないと考えていいだろう。
「サンドイッチは早めに食べてください。焼き菓子はお腹がすいたときにでも。あと二日あるんですよね」
セシリアはあと二日もこの生活をしなければいけないと思うとため息が出そうになる。重苦しい気持ちでうなずいた。
「明日も同じくらいの時間に来ますよ。俺もそうそう抜けられないので一日一回だけですが」
「お願いします」
セシリアは素直に頭を下げた。この真っ白な部屋で空腹のまま二日間過ごす自信がとてもない、と思ったからだ。
「俺はこれで」
辞そうとするアレクを引き留めてセシリアがたずねた。
「あの、ひとつ聞きたいのだけれど、あなたはどうして礼拝室にいたの」
「仕事をさぼってたんですよ。だから王太子妃殿下もないしょにしててくださいね」
アレクはいたずらっぽく笑うと部屋を出て行った。
早速セシリアは椅子に座り、両手でサンドイッチを持ち上げた。具沢山でずっしりと重い。挟まれた肉からは今にも肉汁が滴り落ちそうだ。
肉汁でドレスを汚してしまっては大変だと、一旦サンドイッチを置き、手近にあった籠にかけてあった布を胸元に巻き付ける。細かい刺繍がほどこされていて、汚れよけとして使うには気がとがめるが、背に腹は代えられない。
改めてセシリアは大きな口をあけてサンドイッチにかぶりついた。
口中に肉汁が広がり、シャキシャキとした野菜もおいしい。サンドイッチを夢中で平らげて、お茶で一息つく。
ポットは大きくお茶もたっぷり入っているので、あとで焼き菓子を食べるときにも飲めそうだ。
お腹が満たされて人心地つく。空腹のままこの部屋で過ごすのは不安だったが、食料もあり聖典だが暇つぶしもあるのだから二日間頑張って過ごそうとそう思えた。
王国じまい、はじめます! 七嶋璃 @nanashima_akira
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