黒い闇と白い闇

八無茶

第1話

 今関西では有名なニュースとして斎藤兵庫県知事の話で、関東の人から次の質問がありました。『どうなっているのか?兵庫県で部下に2人も自殺者を出していて、それを3か月も隠蔽していて、それを知った友人が告訴状を出したため、ばれて、斎藤兵庫県知事の話は国会で百条委員会にまで出されていた人が、今は選挙で再選おめでとうと兵庫県知事を続けている』との疑問でした。関東と関西ではニュースの内容や量が違うため訳が分からなくなっていたのでしょう。百条委員会の一人が『こんな百条委員会やっておれるかい。辞めや』と言って百条委員会をやめた人や、国会で斎藤兵庫県知事は『解任』の結論が出されたのに翌日のテレビのインタビューでは『よく眠れましたか?』とか『朝ごはんは何を食べましたか?』のようなありきたりの質問にも呆れたが、まじめ腐った顔をして答えようとし無い姿が放映されていました。その後うまい具合に選挙で当選し県知事を引き継ぎしています。当選後は応援のビラを作った会社と公職選挙法に当てはまるか当てはまらないかでもめています。今の日本はどうなっているのでしょう。追い詰められていく場所も、話す相手もいなくて自殺した人の心境やいかなるものだったのでしょうか。それに百条委員会をやめた人のことも話題にも上がらない。なぜなのか?

もう『打ち首の刑罰』の範囲は越えていても、平然と兵庫県知事をやっている悪魔の所業を、また次の悪魔が真似をするでしょう。斎藤兵庫県知事の部下が告発状を残し自殺しても、自殺者は本人が精神的に弱かったためで、県知事の責任ではない。そんな世代に私たちは生きているのです。打ち首にして野ざらしにしておくと、いじめも自殺者も、問題の黒い闇を生きている人間は二度と表われないでしょう。

『いじめと自殺者』を減らす手立てとして『打ち首にしてしまえ』は相当の効果が出ると思いますが、なぜ『ギロチン』が無くなったのかの歴史もしばらく考えてみます。

時間をください。



話は変わりますが宝塚の自殺者の問題もどうなっているのか?いまだに明確にされていません。

自殺した子が馬鹿だったのでしょうか。世の人は悪魔ですから宝塚歌劇団は『清く、正しく、美しく』ではなく、魔女歌劇団として今も健在です。



他にもたくさんあります。

なぜ新年早々、昨年の暮れに起ったバスケット部顧問教諭(47才)から受けた体罰を苦にして自殺した大阪市桜宮高校2年生バスケット部キャプテンの事件が報道をにぎわしています。

凄惨な体罰の状況や2年前にも同校のバレー部体罰事件の顛末等が合わせ報道され、責任の所在の追及や罰則を含め「こうあるべきだ」のべき論だけが飛び交っている状況です。

これは「指導死だ」と新しい言葉まで作って評論家は息巻いています。今の世には、「パワーハラスメント」や「セクシャルハラスメント」等の言葉がり、子供でも体罰がパワーハラスメントであることぐらい理解できるのに、なぜ大人は曖昧にしたり、細かい事象にこだわり、特定の人の責任や親の責任、学校の責任、教育委員会の責任、行政の責任等を論評するだけで、論評する自分達大人としての反省はどこにもない。次に起こる同じような事件に対する評論の履歴の1ページを残す役には立つのだろう。

 この事件も時間がたつと忘れられ、根は何だったのか、病は何かの論評なく、曖昧な状態で終わるだろう。そして被害者たちの家族単位の問題に据え置かれるだろう。なぜなら同年9月兵庫県川西市の高校2年生がいじめで自殺している。ご両親はわが子を中傷する発言を繰り返していた3人に対し、本年1月9日、告訴状を提出した。まだ解決していない。



 私は体罰を全面的に否定はしていない。しかしこの顧問教諭の採った行動は体罰を超え暴力であり、いじめである。20~30発も殴り、口から血を流し顔は腫れあがる程の怪我をさせられた事は体罰でしかない。なぜ頭を下げるだけの謝るだけで、刑に服さなくていいのだろうか。これは大事なことだ。よく考えてみよう。そのためには逆を考えてみよう。



逆を考えてみる。キャプテンが顧問教諭を毎日のように殴り続けた。その理由は顧問として発奮させるためだった。素晴らしい体育設備を持ちながら、また素晴らしい過去の栄光があるのに今の成績はどうだ? なぜだ? 校長もそう言っているだろう。お前の指導の仕方が悪いからだ。もっと真剣に指導しろ。と事ある度に殴り続けた。


この場合だったら確実に暴力事件として世間を騒がせるだろう。犯罪として扱われるだろう。暴力学校のレッテルが張られるだろう。この逆の先生の暴力はなぜそうならないのだろう。『すいませんでした』で頭を下げりゃいいんだ。で済んでいる。



この社会が黒い闇に満たされている。そして白い闇は『仕方がないな』『黙っていることが正解だ』『高校にも行けなくなるぞ』『出世が止まるぞ』白い闇の中を彷徨して苦しんでいる。黒い闇に変わった瞬間、飛んでもないことが起こるぞ。または『自殺』である。



 最近(2024/11/6)では追手門学院でも起こっている。『腐ったミカンは早く放り出さねば全部に広がる』事件だ。学校側は謝罪したが、職員三名は退職を迫られうつ病になった。うつ病の謝罪費、9200万円で和解。これは大人版の虐めであるが、いまだに腐ったミカンの話が現存するのだと驚愕した。60年前、私の息子が『腐ったミカンは早く放り出さねば全部に広がる』と学生の前で恥をかかされた。この時は親として苦労した記憶がある。真実を勇気を持ってもう一度先生と話をしろ。それとその先生にはいずれ罰が当たる位しか慰めの言葉は無かった。川が付く高校名で先生の名前は戸〇だと今でも覚えている。暫く白い闇の中で苦しんだ様子も覚えている。黒い闇に向かわなくてよかったと思っている。




 このような事件が発生するたびに考えることがある。

「かあちゃん、帰らぬ、さびしいな。金魚を一匹絞め殺す」

北原白秋が1919(大正8年)に雑誌「赤い鳥」に発表した童謡「金魚」の一節だ。

「まだまだ、帰らぬ、くやしいな。金魚を二匹絞め殺す」と続く。

この作品は「あまりに残虐だ」と批判する西条八十に、白秋は反論したそうだ。

「子供が金魚を絞め殺したのは母に対する愛の表れなのだ。その衝動は悪でも醜でもなく、人間の本性だ。子供の持つ残虐なものは、成長力の一面であって、美であり、詩である」と。    私も考えました。

西条八十の考えは、子供の所作感情の奥に潜む白い闇には目をつぶり、当り前のことを述べた凡人であり、北原白秋はさすがに『秀才』だなと思いました。 

白秋の感性には、子供の成長過程では、死は身近なものであり、白秋の時代には金魚や蛙やトンボに命の手触りがあったのだろう。都市化が進み環境も大きく変わった。命の手触りを感じる象徴的な場所は学校になり、繁華街に代わってきた。学校では「いい子」だった。そんな子供たちが抱える心の揺らぎを「白い闇」という。しかし白秋の感性からは人間の本性だが子供の成長力の一面であり成長期の過渡期の心の揺らぎだと受け採れる。

心を育てる自然の大切さが取り残され、合理性を追い求める社会の流れの中で、一部の人は、この白い闇を克服する自律性に遅れを取り、病となり黒い闇に移行してしまったと考える。また反対を考えよう。

「部活の成績が上がらない。部員を一人、殴りつける」「校長が体育設備に金をかけている割には成績が上がらない。部員を二人、殴りつける」「一生懸命指導しているのに、なぜ解かってもらえない、部員を三人、殴りつける」この状態は、成長が止まった人間の病であり、もう暴力犯罪者である。




白い闇の代表例は、平成15年長崎で起きた駿ちゃん(4才)事件であろう。

幼児誘拐殺人事件は同じ年頃の子供を持つ長崎の市民に恐怖を与えた。新聞やニュースでの報道に対し、対岸の火事的に殺された駿ちゃんへの哀悼と犯人への恐怖や憎悪を感じながら見守っていた全国民は、犯人逮捕の報道に言葉をなくしてしまった。犯人は中学1年生(12才)だったのだ。

事件の概要は次の通りである。

母親と一緒に来た家電量販店でゲームを楽しんでいた駿ちゃんを、犯人の中学生は言葉巧みに連れ出し、屋上の駐車場で全裸にして鋏で傷をつけ、屋上から突き落とし、死体のそばに駿ちゃんの靴を揃えて置いていたという。

 犯人が通学していた学校では、成績はトップクラスでおとなしい子であり、学校を休んだことも無く、問題を起こしたこともない子であったとの事だ。白い闇の中にいた人の定番の言い訳だ。しかしわがままで泣きだすと母親がすぐ抱きかかえていたり、自宅マンションの階段踊り場で泣き喚きながら暴れている姿も目撃されていたとの事。同じくそのマンションで猫が屋上から投げ捨てられたり、裸にされた幼児が泣いていることもあったそうだ。

駿ちゃんは

長い期間、白い闇の中で悶え苦しみ、誰からも相手にされず、気が付いて貰えなかったのだろうか。そしてある日を境に黒い闇に快楽を求めたのだろう。

寂しい話だ。



 白い闇は、その後も「いじめ」として脈々と病み続けている。冒頭の兵庫県川西市の高校生の件、その1年前は滋賀県大津市の中学生の件、被害者は白い闇からの逃避として自殺で終止符を打っている。一方、白い闇の中で揺らぐ加害者の心の葛藤は、少年法で守られて、虐めや暴力として表現しても、虐めやパワハラの加害者または被害者として表に出ない上、その奥に潜む心の揺らぎは何だったのだろうとは関心も持とうとしない。

この病を克服できなかった人は、白い闇から黒い闇の中で葛藤し続け、犯罪を犯したり、自殺者を作ったり、今回の体罰事件(暴力事件)を起こす結果となってしまうのだろう。



「白い闇」や「黒い闇」は見つけ難い。しかし発覚した時には悲惨な被害者を伴う。

「早期に見つけ対処しなければならない」実行できない、やる気もない政党のマニフェストみたいなことをお題目に挙げ、学校の教諭に、校長に、教育委員会に、市の行政に、挙句の果ては親にも責任がある、として幕を引いてしまう世の中である。




 私は考える。「白い闇」や「黒い闇」を早期に見つけ対処することには異論はないが、問題の根源は心の葛藤である。この葛藤に立ち向かうための信念が必要であると考える。

長い歴史の中には「・・の十戒」「・・の十訓」あるいは「・・家の家訓」等がある。しかし私が培った訓戒は三つしかない。子供の頃には「道徳の時間」があったが、そこで教えられ心に刻まれたことは、三つの教えだった。たった三つである。


  1.嘘をつかない

  2.隠し事をしない

  3.迷惑になること(嫌がること)はしない


この三つだった。たったの三つであった。

対象になるものは何かを今さら言うまでも無いが、子供ながらに理解してきた対象は、親に対してであり、友達に対してであり、先生に対してであり、働いているすべての人に対してであり、動物に対してであり、山や川等の環境に対してであり、すべてが対象であった。

悪いこともした。なぜならするなと教えられていない。3に当て嵌まるとして怒られた。いじめもあった。なぜならいじめをするなとは教えられていない。これも3に当て嵌まるとして怒られた。しかし怒られた時や相手が悲しそうにしている時や自分が悩み苦しんだ時、この三つの教えを思い出し、守らなければならないと自分に問いかけた時、やめる決心や謝る勇気や親や先生に相談する勇気が生まれたものだ。自殺者が出る前に情報への対処ができ、解決の道が詮索できたと考える。



 今の大人たちはこの三つの掟を忘れている。忘れているというより次のように解釈している人が多いのではないかと思えて嘆かわしい。


  1.学校や会社、行政を守るためには、虚偽報告も持さない。

  2.不都合な情報は隠蔽も持さない。

  3.大義名分があれば、迷惑をかけても仕方がない。


このような考えが、世間の片隅に少しでもあれば、心を病む「白い闇」や「黒い闇」で葛藤する人の解決にはならないと考える。

「いじめ」や犯罪は増え続け、犯罪被害者や自殺者は増え続けるだろう。


ある意味、大人から昔、子供に教えたたった三つの掟を思い出し、屁理屈の無い掟を子供と一緒に守っていけばすこしは『いじめ』や『自殺者』は減ると思う。


善悪の根源を知るためにも、そして悲惨な被害者発生を抑制するためにも、

大人も子供も三つの掟を守ろうではないか。

                                           完


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