転がる人
朝,またあの人が転がっている。
玄関の戸を開けると,通りを擦るように滑る白いシャツが目に入る。泥を含んで重く垂れた裾が,道路の凹凸をなぞっている。何度見ても,誰も声をかけない。顔を背ける人ばかりだ。いつからか,この街には「転がる人」がいた。
「また,転がってるねぇ」
隣家の婆さんが洗濯物を干しながらつぶやく。私は返事もせず,軽く会釈だけして足早に通り過ぎる。まるで,新年に飾られる門松のような,行事の一環のような。当たり前の風景のひとつになりかけている。
転がる人が現れたのは,およそ一ヶ月前。ある日,石を蹴ったような,ガラスを擦るような妙な音が,朝と夜,いつとも知れずに響いた。それが人間だと分かるまでには,それほど時間はかからなかった。誰も何も言わない。でも誰もが知っている。
転がる人は,ただ転がる。坂道を下ったり,平らな道で小さく跳ねたり,路地裏を横切ったり。止まる場所も,時間も決まっていない。誰かが立たせようと試みたこともあるらしいが,その瞬間,異様な重量で地面に張りつくかのように固まってしまったのだという。それ以来,誰も近づかない。
職場でも,この話題は遠ざけられつつある。「あれは何だ」と問えば,空気が沈む。深追いすると厄介なことになる,そんな共通認識が生まれているかのようだ。結局,皆,視線を宙に彷徨わせるばかり。
しかし私は,胸の奥に沈殿した疑問を消せないでいた。どうして転がるのか。何が,その身を丸めて路上を往くよう促しているのか。
昼休み,曇天の屋上でこぼれ落ちるように問いを呟くと,近くでタバコを揉み消していた同僚が僅かに振り返った。
「あれか」とだけ言って,肩をすくめる。彼はすぐに屋上を去った。引き留める理由も思いつかない。ただ,彼の「そういう奴」という吐き方が耳に残る。
帰り道,公園の入口で転がる人を見た。積もり始めた落ち葉の上,半ば埋もれるように体を丸めている。見間違いだろうか――その姿は,自分からそうしているようにも見えた。意思を持って,身を折りたたみ,地面と一体になっているような。
不意に,視線が合う。転がる人の眼差しには光が無く,闇が渦巻くように思えた。深い穴が私の心臓を直に覗き込むみたいだ。
風が吹くと同時に,彼はまた緩やかに転がり始めた。私の足元をかすめて通り過ぎる刹那,何かを囁いた気がした。そのまま坂を下り,闇の向こうに消える。追うことも,呼び止めることもできない。
夜,眠れずにいると,頭の中でその声がリフレインする。
――君も,転がれるよ。
朝,気づくと私は床近くで丸まっていた。手足を縮め,頭を押し込むように。起きあがると,妙な背筋の寒さが残る。
玄関を開ける。いつも見かける転がる人の姿はない。その代わり,朝陽に照らされた通りに,私の影がくっきり浮かんでいた。影が,微かに揺れている。地面の上で,転がるように。
かんばせぐるむ satoh @sat0ln
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