寄る辺
その灯りを初めて見たのは,春のまだ肌寒い夜だった。
外は風がざわめき,庭の若葉がかさりと鳴っていた。寝室の窓越しに隣家の物置,その奥に広がる更地を見やると,豆粒ほどの小さな明かりが,薄緑色の闇を背景にふわりと揺れていた。
あんな場所に灯りなんてあったか。
まぶたをこすり,もう一度窓に顔を近づける。微かなオレンジが,霞んだ春夜の向こうで静かに点滅している。だが,そこは数ヶ月前に建てられた簡易な小屋が春先の嵐で吹き飛ばされ,ただの更地に戻ったはずだ。
翌朝,眠気を引きずりつつ外へ出てみたが,そこには何一つ残っていない。足跡らしきものもなければ,光源の名残もない。代わりに,雨上がりの土に混じって,花びらが何枚か散らばっているだけだった。
それから数日後,残業で深夜に帰宅したとき,再びその光を見かけた。今度は豆粒どころではない。薄曇りの月を透かすカーテン越しにもわかるくらい,揺らぐ炎のようなオレンジの輝きがある。
翌朝にはまた跡形もなく消えている。その不可思議さを気味悪く思いながらも,忙しさに紛れていつしか意識から薄れていった。
次に光が現れたのは,風が静まり返った夜だ。庭には細い枝先のつぼみが色づき始めている。今度は光の中,ぼんやりと人影が見えた。
幼い子供らしき影が,やわらかな明かりの下で何かを拾っている。赤い靴を履いた足元が,濡れた土だか折れた草だかを拾い上げ,小さなポケットへしまう。こちらの存在には気づいていないらしい。その様子をカーテン越しに盗み見る私の方こそ,かえって無遠慮な覗き見をしているような居心地の悪さを覚える。
だが,声をかけようという気には不思議とならなかった。あの光と影は,どこかこの現実から少し離れた場所に属しているようで,言葉が届かない気がしたのだ。
そんな奇妙な夜が,月に一度ほどの割合で繰り返された。光がともり,その中に立つ小さな影は,地表から何かを掘り出し,拾い,しまい込んでいる。私はその光に引かれるようになっていた。原因を突き止めようというわけでも,影に手助けしたいわけでもない。ただ,その光を眺めることで,自分の中の何かが赦されているような感覚に浸れるのだった。
ところが,ある日を境に,その光は忽然と姿を消した。暖かい雨が降り,草が伸び出しても,更地はただ湿った土と芽吹き始めた野草があるばかり。光も影も,ない。
私は奇妙な喪失感を覚えた。なぜあの光を求めるのかわからない。ただ,あの光を見た後には,夜がほんの少しやわらかく,安心できるものに変わっていた。それが消えたとき,胸に空いた隙間は思いのほか深かった。
だから,久しぶりにその光が戻ってきた夜,私は驚きで凍りついた。
光はかつてないほど明るく,まばゆい。そこには,もう幼子ではない誰かが立っていた。赤い靴は同じだが,やや背の高い,十代後半ほどの少女らしい影。彼女は顔を上げ,まっすぐこちらを見ている。
視線が絡み合う。その目は,春夜の闇を吸い込むような,底知れない光を帯びている。
声がなりかけた瞬間,影はふっと消え,炎のごとき光もまた,一瞬で溶けるように消え失せた。
夢だったのか。そう思いたかった。
けれど翌朝,隣家の物置の扉に奇妙なものがかかっているのに気づいた。
赤い靴,片方だけ。湿った土で汚れ,色がくすみ,無造作に吊り下げられている。
その瞬間,得体の知れない孤独が胸を刺した。
光なき夜は,これほどまでに深く,冷ややかだったか。私はそっと窓を閉め,カーテンを引く。しかし,心のどこかで暗闇の向こう,あの光が再びやってくる予感がする。そして,その時が来たなら,私はきっとまた,目をそらすことができないだろう。
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