2km/h

午後の光がそろそろ傾くころ,私たちが暮らす道は,奇妙な秩序に満ちていた。皆が同じ速度で歩いている。かつては気にも留めなかった速さ――ほんの2キロ程度に抑え込まれた,退屈なまでに均一な足取り。滑るような短い歩幅,踵が地面に吸いつくような着地。誰も声を上げないし,咳ひとつすら立てない。周囲には古びた看板や黄ばんだポスターが貼られた壁が並び,風の気配は薄い。


最初に気づいたのは,会社帰りだった。駅の改札を出た瞬間,足元がぐらりと歪み,いつのまにか知らない通りに立ちすくんでいた。そこには,誰もがゆっくり,まるで見えない定規でペースを測られているかのような行進を続ける群れがあった。脇の古い電柱,ガードレールに滲んだ塗料,遠くで割れた窓ガラス。その陰で,誰かがほんのわずかに歩速を乱した。そこへ,音もなく黒い影が滑り込み,その人を押し倒し,路地へ引きずり込んでいく。絶対的な静寂が,見物人たちを覆いつくす。彼らはただ,その行為が当然の報いであるかのように,微動だにせず視線を落とす。


私は怖くなって,足元に目を落とした。ポケットの中で小さな速度計が震えている。2.2キロになったら,もう駄目だろう。1.9キロでも,同じこと。完璧に2キロを維持しなくては。この見知らぬ通りから抜け出すには,それが唯一の条件らしかった。なぜこんな目に遭うのか,誰が決めたルールなのか――見上げれば空はやけに白んで,輪郭の曖昧な建物が重なり合っているばかりだった。


何日も何週間も経った気がする。実際にはどれほどの時間が流れたのだろう。会社に行ったはずの日から,戻ったような気がしては,また同じ通りに放り込まれる。通勤路とこの奇妙な界隈が交互に溶けあい,私の生活の境目が消えていく。同僚に問われても,私は曖昧に首を振るしかない。説明などできるはずもない。彼らは,2キロぴったりでしか生き延びられない街があるなんて,夢にも思わないだろう。


ある晩,速度計が狂い始めた。1.7,2.3,0.8……数字が点滅し,私は慌てて足を止めてしまう。そのとき,視界の端で何かが動く。黒い影が再び近づいている。細い路地から突き出た手が,私の肩をかすめる。冷たく,湿った掌。振り返ると,顔かどうかも定かでない何かが,確かにこちらを見つめている。声にならない囁きが耳の奥で滲む。速いのか,遅いのか,正しさなんてわからない。目を伏せても数字は狂ったまま。もう,2キロなんて幻想だったのかもしれない。


足元が,徐々に溶けていく感覚。空間が薄紙のように剥がれ,向こう側へ落ちていく。そこには何もない。音が消え,光も消え,ただ奇妙に湿った闇が私を包む。次に目を開けたとき,私はもう,どこにもいなかった。


会社帰りの通勤路には,いつもの店が並び,行き交う人々がいる。でも私は知っている。視界の隅には,いまだ微かに歪んだ通りへの裂け目があることを。いつかまた,何かの拍子にそこへ足を滑らせれば,2キロという不可解な基準に苦しめられる檻が待っているのだ。


何も語らず,ただ歩みを揃えた影たちは,今も遠くで踊るように移動している。


決して早くなりすぎないように。

決して遅くなりすぎないように。

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