お供え
線香の煙が,仏間の時間を止めているように見えた。
薄曇りの障子越しに沈む光。祖母の三回忌を終え,親戚たちが次々と外へ出ていくと,そこには湿った畳の匂いと重たい静けさだけが残った。掛け軸に描かれた仏の横顔が,一瞬こちらを向いたような気がして,目を伏せる。その瞬間,背後から母の声がした。
「お供え,お願いできる?」
振り返れば,母は包みと封筒を手にしていた。黒々と祖母の名が記された封筒。
母は笑うでもなく,しかし冗談でもなさそうだった。
「おばあちゃんがね,あんたに頼みたいってさ。あの世からでもって」
昔から,この家には奇妙な習わしがあった。忌日に合わせ,家族の誰かが一晩,仏壇の前で夜を明かす。それが「お供え」。祖母は「これを続ければ家が栄える」と言っていたが,理屈は誰も知らない。今回,その役が私に回ってきたらしい。
深夜,仏壇の前で正座したまま,線香のにおいを吸い込む。
時刻は分からない。外の風が止まり,畳の目がわずかに揺れる気配がする。
耳を澄ますと,柱の中で音が溜まっては消えるような気がした。
封筒を握ると,中から白い紙が滑り出る。
「うらにきてください」
達筆な文字がそこにあった。
指先が汗ばむ。封筒の中には写真が一枚。
知らない子供が笑っている。
祖母の写真ではない。
ましてや家族の誰とも違う。
畳の隙間から冷たい気流が頬を撫で,視線を上げると,線香の煙が奇妙な揺れ方をしていた。手招くような,誘うような揺らめき。
思わず声を出そうとするが,咽が詰まる。小さな音すらこの場には似つかわしくない気がして,唇を引き結ぶ。
翌朝,母が仏間にやってくる。
「何か入れた?」
首を横に振ると,仏壇の扉がわずかに開いていることに気づく。
中を覗くと,あの写真が置かれていた。
昨日見た子供の隣に,私が笑って立っている。その背景は祖母の庭だ。
母が封筒を確認するが,もう何も入っていない。紙も消えていた。
その日を境に,家では妙なことが続いた。
供え物の果物は腐らず,ただ縮む。夜になると風鈴のような響きが廊下を渡る。
笑い声らしきものが,庭先で波打つように浮かんでは消える。片付けても現れる,見知らぬ足跡。
「お供えが足りなかったんだろうね」
母がぽつりと言う。
祖母がそう言っていたというが,誰も何をどう供えればいいのか知らない。
ただ夢の中で,あの写真が幾度も現れた。そこには,私とあの子供が庭で笑っている。写真の中の私は何も言わず,ただ笑うばかり。
ある夜,子供が夢から染み出すように現実に立っていた。
仏壇の前で,見知らぬ服装なのに,どこか既視感がある。
笑みを浮かべて何かを待っているらしい。
「……捧げるよ」
口に出した瞬間,子供は満足げに頷いた。
仏壇の扉が静かに閉まり,線香の煙がすっと消える。
朝になって母が見ても,何事もなかったかのようだ。
ただ仏壇の奥に,何かが捧げられた痕跡だけが残っていた。
それが何なのか,誰も言えない。
それ以来,写真の中に写る私は,何故か笑っていない。
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