黒土
いつからだったか,机にぽつりと黒い染みが現れた。
最初はほんの小さな点で,すぐに拭き取れるものだと思っていた。濡れ布巾で軽く擦ったが,染みは残った。水性ペンのインクか何かだろうか。どこか気味が悪くて,仕事の手を止めて確認することもなく,その日はそのまま放っておいた。
次の日,黒い染みは少しだけ広がっていた。今度は薄い歯ブラシでこすったが,やはり取れない。むしろ触れた部分がわずかに光るように見える。インクでも塗料でもない。指先を軽く触れると,肌が冷たくなった。水滴のような質感に思わず引っ込める。
気付けば,書類にもノートにもその黒がにじみ始めているのだった。丸めて捨てた紙の隅にも,小さな点がいくつも浮かんでいる。拾い直した紙はびりびりに破った。机は消毒液をたっぷり含ませた布で拭いた。何度も何度も拭き直したが,黒い点は拭くたびに広がっていった。
翌朝,目を覚ますと床に広がる黒い滴が目に入った。机からこぼれたそれは,床板の隙間に吸い込まれるようにして動いている。窓から差し込む朝の光を反射して,なぜかしっとりと艶めいている。恐る恐る指先で掬ってみると,滴は水のように冷たい。それどころか,吸い込まれるような感覚があった。急いで手を引いたが,指先には黒がじっとりと残った。
洗面所に駆け込み,指を石鹸で洗った。けれど,指の黒い染みは落ちない。染みはそのまま手の甲に広がり,まるで皮膚に馴染むように浸透していく。心臓の奥にひんやりとした感覚が広がる。鏡に映る自分の目も,どこか淀んでいる気がした。
その日の夕方には,黒い染みは壁まで侵食していた。最初は机の周りだけだったのが,壁の隅やカーテンの縁,さらには天井の一部にも広がっていた。まるで部屋全体がゆっくりと黒に飲み込まれていくようだ。
黒い染みは,動いている。見つめていると,その滴がじりじりと動き,結びつき,広がるのがわかる。さらに奇妙なことに,耳を澄ますとわずかな音が聞こえた。滴が床に落ちるような音。けれども,その音は決して止まない。間近で聞こえるのに,その源が見つからない。
夜になると,音が強くなった。滴り落ちる音が床から,壁から,頭の中から聞こえてくるよう。ついには耐え切れなくなり,部屋を飛び出した。けれど,玄関の扉にも黒い染みがあった。滴り落ちる音は廊下にも響いている。
息を荒らげながら振り返ると,染みが人影のように蠢いていた。黒い滴が人の形を取り,じっとこちらを見ているように感じられる。目が合ったその瞬間,背筋が凍りついた。
滴が少しずつ,ゆっくりと伸びてくる。無音の動きなのに,滴る音だけが耳を満たす。
それが部屋の外へ溢れ出すころには,私の視界も,意識も,何もかもが黒に染まっていた。
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