渡り蝶

翌朝,雪混じりの風が窓枠をかすめていた。

布団から顔を半分だけ覗かせると,網戸越しに小さな蝶がとまっているのが見えた。冬の光に溶けてしまいそうな,白く薄い翅。枯れ葉がふと空中で息をしているみたいだった。


「可哀想…」


意図もなく声が出る。意味など測りかねて,口先だけがひとり歩く。

学校へ行く支度をして,玄関を開けると蝶はまだそこにいた。


霜の降りた道で,足元がぎこちない。息は白く,青白い空へと伸びていく。黙って歩く他の生徒たちが残した足跡を辿るように進む。教室では先生の声が単調に響く。昼の廊下で机が引きずられ,不愉快な音が細長く伸びて消えた。


帰りの風は朝より鋭い。首元を強く締め直して家に戻れば,台所から煮物の匂いが流れ込んでくる。

身体が一瞬緩む。しかし,眼差しは自然と窓へ吸い寄せられた。


蝶は,まだいる。

一日中,あんな寒さの中でじっとしているなんて,もう生きていないのかもしれない。そう思った途端,胸の奥が黙りこむような痛みを帯びた。何かしてやれるだろうか。けれど身体は冷えきって,思考と同じように動かない。


その夜,夢を見た。

蝶が窓を越えて部屋の中に浮かんでいる。翅を動かしていないのに,宙に止まったまま大きくなっていく。人型に近づき,やがて私と同年代くらいの少女になった。ぼんやりと笑う顔。声をかけようとしても喉が塞がる。彼女は黙って私の手を取り,その指先は氷のように冷たかった。


翌朝,身体は鉛でも詰まったみたいに重く,ふらつきながら窓を見る。蝶はいない。網戸もただの網戸で,痕跡らしきものも見当たらない。それなのに,部屋の空気が昨日より冷たく,呼吸のたびに意識が擦り減る気がした。


学校では声が耳障りに響く。机に突っ伏して,時間が水の底を流れるのを待った。帰路では,風が頬を斬り,吐き気さえ込み上げる。家に着く頃には限界で,そのまま倒れこむ。

気づけば布団の中で,隣室のテレビ音と母の足音が遠くに散らばっている。まるで薄い膜を隔てているような感覚。瞼を閉じると,夢の中で見た少女の顔が浮かぶ。

今度の夢で,その顔ははっきりしていた。肩までの髪,血色のない頬,年相応としか言えない無表情。それでも,また手を伸ばしてくる。冷たい指と指が触れ,「渡らなきゃならないの」と囁く声。何を渡るのか問おうとして,蝶の羽音が耳元で震えた。


翌朝,窓には何もいない。

ただ,何かを落としてきたような空虚さが胸を擦る。

ふと手のひらを見れば,白く小さな翅が一片,絡むように残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る