灯台の音
車を降りると,冷えきった海風が鼻腔を突いた。
もう長いことこの岬には来ていなかった。子供の頃,父がたびたび姿を消したあの場所。私がここに戻ってきた理由は,一通の不可解な手紙だった。差出人不明の封筒には,父が愛用していたメモ帳から切り離された一片が挟まれていて,そこには父とわかる独特な字で記されていた。
「灯台はまだ鳴っている」
その短い文面は,まるで時空をねじ曲げて私を呼び戻す呪文めいていた。私は車のドアを閉め,風と磯のにおいの中で,遠い記憶を辿る。あれは私が中学生くらいの頃だ。父は月に一度,何かに取り憑かれたようにこの岬へ出かけていった。普段は黙ってメモ帳に何かを書き付けるだけで,母が「また灯台?」と嫌味っぽく尋ねても,父は決まって笑って手を振る。それだけだった。
けれどあるとき父は戻らなくなった。
それから家庭は,海風が吹き抜けた後のような空虚さだけを残した。
何十年も経った今,風景は驚くほど変わらない。
潮気の濃い風,雑草にまみれた海沿いの小道,傾きかけた柵,そしてその先に立つ白い灯台。だが近づくにつれ,その建物が疲弊しているのが分かった。壁面には塗装の剥がれや錆の滲みが雨筋のように刻まれ,石段にはひびが入っている。触れば粉のような砂がぽろぽろ崩れそうだ。
そして私は聞いた。
低く,濁った音。それは風と海鳴りと混ざり合いながら,どこか身体の奥底に直接響くような不思議な音だった。耳を澄ませると,それが確かに灯台から発されているとわかる。子供の頃,父が不在の家に残された母と私の耳には,そのような音が届いたことはなかった。灯台はただそこにあり,夜間には光を放つ無機質な建造物に過ぎなかったはずだ。なのに今,私は音を感じる。
その音が一度鳴るごとに,まるで体温がひと欠片ずつ削られていくような,粘性のある冷たさが背筋を滑り落ちる。あのメモの文言――「灯台はまだ鳴っている」――が現実味を帯び,胸が重くなる。
扉は思いのほか簡単に開いた。
内側は薄暗く,壁面は湿り気を帯びている。床材は腐りかけ,水を吸った木片のような軋む匂いがする。内部は意外なほど静かだが,上方からかすかに響くあの低音が梯子のように降りてきて,私の耳元で消える。らせん階段が上へ上へと続いている。ためらいながらも,一段ずつ足を進めるたび,灯台特有の湿度と潮の匂いが私を包む。
階段の壁面に何かが刻まれているのに気づく。
近づくと,それは手で引っかいたような浅い溝で,雑然とした文字や数字が散りばめられている。バラバラの断片。それらは見覚えのある筆跡で,父のメモ帳の字と似ていた。数字や意味不明な言葉,聞いたことのない地名らしきもの。何度も繰り返される曲線や,判読不明の符号めいた記号もあった。まるで誰かが思考を削り取り,その断片を壁に貼り付けたようだ。
思考が渦巻くなか,私は最上部へとたどり着く。
灯台の最上層は,薄明かりの中で金属が鈍く光る空間だった。中央部には巨大な鐘のような構造物が吊られている。その形は不気味に歪み,まるで真鍮と錆と塩が結晶化した彫刻のようだ。私はその鐘が発する音に引き寄せられるように一歩踏み出す。
そこに,人影があった。
男が一人,背中を向けて鐘の支柱に寄りかかっている。何かで叩いているのか,あるいは自分の体をぶつけているのか,低音はその男の動きに合わせて震えるように響いていた。
怖気づいた私は息を止める。やがて男がゆっくりと振り返った。
それは確かに父の背格好だった。
しかしその顔は,私が記憶する優しい父の面影とは違う。瞼のない眼球が乾いた海藻のように光り,唇はひび割れ,頬には無数の細かい傷が走っている。表情というより,ただの器官がそこに存在するだけで,感情という色彩が感じ取れない。私が知っていた父ではない――けれど,何かが私に「これが父だ」と囁く。
「灯台は,鳴らし続けねばならない」
掠れた声が,まるで深海から引き上げた錆びた機械のような響きをもって伝わる。その声には,かつて父が持っていた温もりなどない。その言葉を告げるたびに,鐘は重く響き,床が震え,壁の文様たちが歪んで見える。足元のひび割れから,海水めいた液体がにじみ始めている。
私は無意識に走り出していた。
階段を駆け降り,扉を押し開け,外気を求めて足をもつれさせながら灯台を飛び出す。背後であの低音が,笑うように,嘲るように耳を追いかけてくる気がする。座席に飛び込み,叩きつけるようにクラクションを鳴らした。
数日が過ぎても,あの灯台の音は私の頭から消えない。
朝,歯を磨くときにも。夜,布団に潜るときにも。
静かな生活の隙間ごとに,その鈍い低音がこびりついてくる。
再び岬へ戻れと。あの鐘の前にもう一度立てと。 頭蓋に滲むその音は,私を静かに,しかし執拗に呼び戻そうとしているように思えてならない。
またあの低く濁った響きが,頭の奥で鈍く揺らめく。
――灯台はまだ鳴っている。
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