断片

町に新しい橋が架かった。

川幅は決して大きくないが,その場所にはかつて「川切り」と呼ばれる浅瀬があり,行き交う人々と季節ごとの行事が自然に交差していた。祭りの頃には川向こうからも人がやって来て,子供たちは水際でじゃれ合い,老人たちは腰を下ろして湯気の立つ茶をすすり合う。行き来は不便だったが,土地の呼吸に溶け込んだ風景ではあった。


しかし,時は移ろう。

町が大きくなるにつれ,その浅瀬はボトルネックとみなされていく。ついには機能的な橋が建設された。新聞に載った完成記念の記事には,町長の晴れやかな笑顔や,土木事務所職員たちの固い握手が並び,地元紙のコラムには「新たな時代の架け橋」なんて月並みな文句が踊った。町の人々はそれを歓迎する雰囲気を表面には出していた。新しい橋だ,文明の進歩だ,と。反対する者はなぜか口を噤み,賛同する者は過剰に肩を揺らした。


ところが,その橋には一つ,説明のつかない問題がある。

誰も,橋を渡り切れない。いや,橋を渡ったという人はいる。口々に「向こうへ着いた」と言う者はいるのだが,次の瞬間にはなぜか元いた場所に戻っている。どちらを振り返っても同じ町並み。すれ違ったはずの人や車両は,互いを全く認識していない。最初は冗談か,老いた者の妄言かと思われたが,それが若者にも,旅行者にも起こり,週が経つにつれ「この橋はおかしい」という共通理解が成立してしまった。


町役場は曖昧な対応で済ませる。橋のたもとには簡素な看板が立てられ,「この橋を渡る際は注意してください」と記されるだけ。注意,と言われても何をどうすればいいのか。誰もが腑に落ちないまま,やがて人々は深く考えるのをやめ,橋は「そういうもの」として扱われ始める。物好きな観光客や,他所から来た研究者めいた人物が挑戦しては,同じ結果を得る。誰も新しい情報を持ち帰らず,川向こうの風景は常に謎のヴェールに包まれたままだった。


そんな状況で,私もこの橋へ足を運ぶ。

休暇の日,午後四時を過ぎた頃。秋が終わりかけて,手元のコーヒーもぬるくなったので,ついでに様子を見てみようかと思いついた。橋は想像以上に無機質で,街灯に照らされている。その下には,流れの遅い川が反射する微かな光。欄干には刻まれた名前があり,それが完成式典で選ばれた町長のお気に入りらしい。

――人気ひとけはない。風は季節の境目を知らせるかのように,冷たくもなく,暖かくもない曖昧な温度で,コートの内側を抜けていく。


橋を半分ほど渡ったところで,世界がぐらりと揺れるような感覚に襲われた。

視界が薄暗くなり,川面の光がどす黒く滲み,耳は自分の呼吸音すら聞き取れないほど静まり返る。鼓動も,足音も,全てが消し去られた密室のような空気。震えそうになる足を止め,これ以上進むべきか引き返すべきか迷った瞬間,向こう側から人影が見えた。等身大の姿,背格好,服装まで,まるで鏡を見ているような……それは「私」だった。瞳孔は異様に拡張し,白目は端に追いやられた瞳,まるで人形のような笑みが貼りついている。

声を出そうとするが,喉は動いても音が出ない。相手は口をぱくぱくさせている。声にならない,しかし唇の動きが擦れ合う乾いた音が耳奥にじくじくと響くような気がした。

気づくと,目の前には橋の終点があり,私は,何かに押し出されるように一歩踏み出した。


次に意識がはっきりした時,私は自宅の居間に座っていた。

時計の針は橋へ行く前の時刻を指している。まるで時間が逆行したかのようだが,私は確かに橋の上で奇妙な「もう一人の私」を見た。その記憶は鮮明なのに,身の回りの世界は私を正しく繋ぎとめていない。


スーパーで買ったはずの牛乳がない。

昨日挨拶した隣家の青年は,まるで初対面の顔で私を見る。

私が日々積み重ねてきたはずの存在証明が,じわじわと剥がれ落ちるような感覚。周囲から光が漏れるように,私という輪郭が世界に定着できなくなっている。


机に向かい,これを書いている。書き損じる。書き損じる。


ふと窓の外を見ると,街灯の下に私が立っている。瞳孔の大きい私が,こちらをじっと見つめている。


ペンを置き,私は再び橋を渡るべきかどうか考え始めた。

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