手を拾う

いつもより早く目が覚めた。なぜか無性に喉が渇いて,水を一口含むと,外の光がいつもと違うことに気づく。カーテンをわずかに開けると,夜のあいだに降ったらしい淡い雪が庭を覆っている。白さは薄布のように頼りなく,しかし朝の空気に,静かで冷たい鋭さを与えていた。


通勤ラッシュを避けようと,普段より早く家を出る。足元を包む外気は一段と冷え込み,凍ったアスファルトが靴底を硬く,妙な音で突き返してくる。まるで,日常を微かに軋ませる警告音のようだった。

いつも通る小さな公園は,また一段深く声を潜めている。大きな杉が一本,奥まった場所で空を仰ぎ,拭い取られた声の残響だけが漂っていそうな,そんな静寂がある。これも,空気が澄んでいると呼べるのだろうか,とふと思う。


その杉の根元で,それを見つける。

最初は断じて目を逸らしたかった。折れた枝,奇妙な木片,そうであってほしいと祈るような気持ちで数歩近寄り,しゃがみ込む。

違う。それは「手」だった。

人間の,それも千切れたばかりのような切断面が生々しく,雪にしみる血はすでに薄紅色になっている。

鼓動がひとつずれたような感覚が身体を駆け巡り,思わず冷気の中で息が詰まる。誰かの一部が,ここで,まるで忘れもののように転がっている。


奇妙な衝動が私を支配する。手袋もせずに右手を伸ばし,ひやりと湿った指先を掴む。

捕まえた瞬間,指が微かに動いたような錯覚。心臓が二度,三度と音を乱して,けれど口から声は出ない。代わりに,周囲を素早く見回して,誰もいないのを確かめた後,私はその手を自分の鞄の中へ押し込んだ。


電車はいつもと同じ顔ぶれの通勤客で満ち,揺れはただの揺れであるはずなのに,鞄は異様な重みを帯びている。絶対に見られてはならないものを隠している,その事実が思考を熱くする。誰も気づいていない,知らないままだ。そう繰り返しても,乗客の横顔がガラスに滲むたびに,全員がこちらを注視しているように感じた。

会社に着き,デスクの足元に鞄を置いても集中できない。キーボードを打つ指先は冷たく震え,上司の声や電話の着信音が,遠くで反響するだけになっている。外を見ると,朝の雪はほんの少しずつ溶けている。まるで何もなかったように,日差しが路面に滲んでいる。


昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に,私は席を立つ。トイレの個室へ駆け込み,鞄を開ける。

そこに「手」はなかった。

代わりに,底に水滴のような液体が溜まり,光を微かに弾いている。溶けた? いや,そもそも手は凍っていたのだろうか。なぜ形を保てていたのか。わからないまま,私は浅い呼吸でその液体を見つめる。恐怖なのか安堵なのか,分からぬまま喉が鳴る。

形が消えたことで失われたものが何なのか,自分でもわからない。ただ,右手のひらには未だにひやりとした感触が居座っていて,その執拗さが不気味な余韻を残している。


退勤後,私は再び公園に足を向ける。薄暗くなりかけた空の下,杉の根元は新しい雪がかぶさり,朝の血痕は幻のように消えている。

けれど,幹には手形のような凹凸が,まるで浮かび上がっているかのようだった。誰かがしがみつき,指を立てたかのような跡。しばらく目を凝らしていると,右手がちくりと疼いた。


翌朝も,その次の日も,私は同じ時刻にあの公園を訪れる。

降ったり止んだりの雪の下,杉の幹には手形が増えている気がする。指の長さも形もまちまちで,それらは杉の皮膚に跡を残し,吸い込まれたものたちの記憶を主張するようだった。右手の痺れは日に日に強まり,血液が凍るような感覚が染み渡る。かつて拾い上げた手が,どこかでこの痛みと呼応しているのだろうか。


最後に公園へ行った日,空は不自然なほど澄み渡り,杉は無言で空を見上げていた。

私は,もう分かっている。

あの朝,鞄へ押し込んだ手がなぜ消えたのか,その行為が何を意味していたのか。

ここに積み重なる手形,記憶,呼びかけ。

何かを奪い,何かを溶かし,杉はただ立ち続ける。

ここに来て初めて,あの手の本来の持ち主を想った。

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