かんばせぐるむ
satoh
返却期限
閉館後の図書館は,日中の静寂とはわずかに異なる響きを秘めている。
昼間は訪問者たちの小さな足音,ページをめくる紙の囁き,淡い照明の下で交換される短い会話が,薄いベールのように空気を包み込んでいる。けれど,ドアが閉まり,カウンターも消灯し,館内放送が「本日の開館時間は終了いたしました」と告げると,空気は少しずつ重みを増し,見えない静圧が書架の隙間まで満たしていく。
人に知られぬ,この場の呼吸が始まるのだ。
私はここで働き始めてまだ日は浅いが,その「呼吸」を感じ取ることができるようになっていた。
棚の番号札を確認し,分類の数字に従って本を並べ直す。背表紙が整然と揃うと,心の中に小さな達成感が灯る。利用者が迷わず目的の書物にたどり着けると思うだけで,ひそやかな誇りが湧き上がる。平凡なルーティンだが,私にとっては大切な仕事だった。
その夜も,最後の書架へと歩み寄る。館内のほとんどが影に沈み,天井の非常灯はかすかな青白い光を落としている。
光と影との境界に浮かび上がる棚が,一つ,気にかかる。まるで余所者のように紛れ込んだ不自然な棚――「返却期限切れ」と貼られた,あるはずのない棚である。白く書かれたその文字は,公式なラベルの整然とした字体とも違う,手書きのような不揃いさを帯びている。私はここで働くまで,そんな棚があるとは聞かされていなかったし,内部資料にも見当たらない。にもかかわらず,確かに,そこにある。
棚にはほんの数冊だけ,本が置かれている。
その晩,私が手に取ったのは「思い出帳」と題された古めかしい一冊だった。装丁はくたびれた革で,埃じみた臭いがする。ゆっくりとページをめくると,子供の写真が挟まれていた。女の子が写る光景は,ごく普通の家庭的な思い出だ。七五三の晴れ着,校庭を走る姿,誕生日ケーキを前に笑う表情。
けれど,ページをめくるごとに,その少女の顔だけが焦点を失うようにぼやけていく。はじめはピンボケ程度だったものが,最後のページに達する頃には,彼女の顔の部分はまるで切り抜いたように空白になっている。顔のあったはずの場所は,白紙よりもさらに不透明な,見つめ返す無のような何かが潜んでいた。喉の奥がひりつく。気付いたときには,棚に戻していた。
翌日,図書館は変わらぬ静寂と秩序の中にあった。
昼下がり,窓辺から差し込む光が埃を金色に浮かび上がらせ,閲覧席では利用者が各自の世界へと没頭している。けれど,私には一種の粘りつく違和感が拭えなかった。誰かが私を窺っているような,鏡の裏側から音もなく覗き込まれるような感覚。ふと目を走らせると,人の流れに溶け込むようにして一人の若い女性がいることに気づいた。長い髪を一つに束ね,所在なげに書棚の間を往来している。まるで探し物があるのか,それとも目的もなく彷徨っているのか判然としない。しかし,その横顔は昨日の写真に写っていた少女が大人になった姿を連想させる。ほんの一瞬,彼女の視線がこちらをかすめた気がして,背筋が粟立った。
閉館のアナウンスが流れる。
いつもなら疲れをほぐすために,単純な類の仕事に没頭する時間だ。だが,私は昨夜とは逆の理由で「返却期限切れ」の棚を覗くのをためらう自分に気づいていた。けれど,結局惹き寄せられるように足が向いてしまう。そこには新たな本が増えている。「□い」とだけ書かれた表紙。その文字はまたしても不揃いな筆跡で,まるで何かを訴えるようだった。
震える指先で開くと,中には誰宛てとも知れぬ手紙の断片が繰り返されていた。「ごめんなさい」「ごめんなさい」……同じ言葉が何度も綴られ,黒いインクが涙の跡のようににじんでいる。
ページを捲ると,一枚の写真が挟まっていた。昨日見た少女と同じ服装,同じ雰囲気。けれど,前夜は虚ろだった顔の位置に,今度はかすかな輪郭が戻っている。
一瞬,背後で風が流れた気がした。「それはもうあなたのもの」と,耳元で囁かれたような幻聴。慌てて振り向くと,そこには誰もいない。棚の隙間からひそやかに漂う冷気が,私の頬を撫でた。
本を落としそうになるほど,私は震えながらそれを閉じ,棚に戻す。もう,あの棚には触れたくない。だが,その存在を意識した時点で,私と棚は奇妙な紐帯で結ばれたような気がする。図書館は日中変わらぬ秩序を装い,利用者は静かに知識と物語を享受する。でも,私は知ってしまった。この館が閉じた後,分類体系にも載らない書架が呼吸し,顔を失った少女,後悔に満ちた手紙が,静かに時を溶かしていることを。
今も私はそこで働き続けている。貸出カウンターに立ち,問い合わせに応じ,雑誌コーナーの整理を続ける。ただ,以前とは違うまなざしで館内を見回してしまう。「返却期限切れ」の棚を二度と見ないように努めても,背中に感じる気配は消えない。
書棚と書棚の狭間で,あの無名の力が流れ続けているような,何者かが私を次の物語へと誘うような,そんな得体の知れない震動が残っている。
逃げられない――その直感は,静かな本の海の底で脈打ち続けている。
なぜか,口端が歪むのを感じた。
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