第2話 一二月三一日

 その日の夜。不思議な夢を見た。

 どうやら、今から程遠い未来が舞台のようだ。

 

 ――「五五八〇年一ニ月三一日」――

 

 随分と極端な年代設定だな。


 僕は、古めかしい銭湯の受付前にいた。

 受付のカウンター横にかかったカレンダーの表記からするに、そこは未来の日本だった。不意に窓の外を見てみる。


 未来の日本は、整備され尽くした街並みにガラス張りの高層ビルが軒を連ね、車は宙に浮かび、ヒューマノイドなんかが歩いていて――と、よくありがちな情景を想像していた、が。

 

 その街並みは日本史の教科書で見た、古き良き昭和の日本だった。どこを見ても、未来の〝メカメカしい物〟は見つからない。


 改めて、古風なデザインのカレンダーに目を細める。


 ――「五五八〇年一二月三一日」――

 

 やっぱり、ここって未来なのか? それにしては、時代と雰囲気がうまくマッチしていない。


「いや、まぁこれは夢だから。夢っていうのは何でも起きる空間で、おかしなことなんて一つもない。おかしいって思うことが、おかしいことだから」


 自分でもよく分からないことを言い聞かせながら、どこか懐かしくて温かみのある風景を横目に、歩みを進める。

 

 ――歩いてしばらくすると、駄菓子屋さんらしき建物が目に入った。

 入口には色褪せた『ラムネ』と書かれた旗が立っていて、この時代に相応しい雰囲気を醸し出している。


 未だに頭が上手く回ってないようなので、何か飲んで頭を冷やそうと思いつき早速、戸を開く。

 

 お店に入ると、痩せた体つきに首襟が伸び切った白いシャツを着て、ハチマキを巻いたおじいさんが一人、暖簾の向こう側から顔をのぞかせた。


「いらっしゃい。お前さん、見ない顔だな。ま、何にする?」


 慣れた口調でおじいさんは言った。

 周囲を見渡すと、色とりどりの小さなお菓子の入った瓶が並べてあって、全体的に少しごちゃっとしているが、どこか懐かしさもあって良い感じだ。


 しかし店内にはおじいさんの姿しかなくて、しんと静まり返っている。


 外はもう夕方で、学校も終わる頃だろうし、子どもたちの賑やかな声が聞こえてもおかしくないと思うのだが――。

 

 ラムネ一本を買って外に出る。どうやら、お財布はちゃんとポケットに忍ばせていたようで安心した。


 しかし僕がいつも所持しているそれと比べて、妙に同等の金額が入っているのが現実味を帯びているように思えて、若干身震いする。


 ガラス瓶に入ったラムネは、おなじみのビー玉がからんと涼しげな音を奏でる。

 お店の前の色褪せた青いベンチに座り、キンキンに冷えたラムネを飲んでいると、幾分か頭が整理されてきた。


 そして、何か違和感を覚えているのを自覚する。

 

「この世界、何かおかしくない? 時代と雰囲気がまったく合っていないのはもちろんだが……それ以上に、何かがおかしい」


 目と耳をそば立てて、感覚を研ぎ澄ませる。

 

 ――そうだ、街を歩く人の目つきがおかしいんだ。

 

 高度経済成長期の日本。


 世間は活気に満ちていたと、日本史の授業で習った。

 ここの街並みは、その風景がそっくりそのまま切り取られているかのようだった。しかし。

 

 ――この街には、活気なんて全くないに等しい。

 話し声だとか、店主の宣伝文句なんかが聞こえない。建物を立てたり、工事をしたりといった活気のある音さえしない。



 それもそのはずだ……。街並みは既に整いすぎているくらいに綺麗だから。



 古めかしい景色にラメを散りばめたように、どこかまっすぐな趣を感じ取れない。


 人はまばらだが、歩いてはいる。一人で。

 誰もが皆一人きりで歩き、感情のないような表情を浮かべ、進行方向だけをまっすぐ見て、僕の前を横切っていく。

 

 何か、怖い。

 早く、逃げ出したい。

 

 直接何かをされたわけでもないのに、物事に対してこれほど逃げたいと思うのは初めてだった。


 そんな中、珍しく歩きながら話している二人組が通りかかった。

 周りの人々は、それに蔑むような視線を送りながら、早足で追い越していく。


 揃いも揃って、なぜそこまで拒絶するんだろう。別に、普通のことじゃない?


 その人たちの会話に、耳を傾けてみる。

 

「俺、今の人生設定飽きたわ。フリーダム使って、また別の設定にしてもらおうかなぁ」

「また、フリーダム使うのか。お前はほんと、すぐに今の設定に飽きるもんな」

「おめぇも人のこと言えねぇだろう、この前はアイティー会社の社長になって、今は大工の親方になってるんだからよ!」

「良いだろう、人生ってのは、それぞれの自由なんだから――」

 

 ――え? この人たち、何言ってるんだ?


 大工の親方なんか、そんなすぐになれるものじゃない。弟子としてたくさん努力して、初めてなれるものなんじゃないのか? 


 ……っていうか、『フリーダム』って何?


 いや、きっとあの二人酔っ払ってるんだ。足取りからしてそうだし、丁度仕事も終わって一飲みする時間だろうから。

 僕の数少ない昭和についての知識を基に、そう思うことにした。


 その後も一人だけで歩く人が、視界を横切っていく。

 どこか懐かしくて温かみのある景色とは裏腹に、そこには冷え切った空気が流れていた。

 

 ラムネを飲み終えた頃、一人の少女が通りかかった。少女と言っても、僕と同じ高校生くらいの風貌だ。


 少女も一人で歩き、片手には星空写真カバーの本を持っている。同じく、まっすぐ前だけを見て歩いている。


 言うまでもなくその目に活気はなく、感情の一つも感じられない。僕の方を見向きもせず、通り過ぎていく。


 

 ――僕は普段、誰かと積極的に会話するような質ではない。


 コミュニケーションという言葉に嫌悪感を抱くほど、人と話すのが苦手。できれば、関わりたくない。


 面倒事に巻き込まれるのが嫌だし、わざわざ自分からその確率を上げる必要はない――そういう思考が先走りして、僕の口をつぐませる。

 一方で、こんな自分に話しかけてくれる人に対しては、感謝している自分もいる。


 しかしこの世界では、そんな僕がうるさい立場になるくらい静かな雰囲気が漂っているのだ。なんだか、むしゃくしゃする気持ちになる。


 それに加えて、さっきの泥酔したおじさん達の話が頭から離れず、どうにも落ち着かない。

 

「きっと彼女なら、しっかりとした『普通』の答えを述べてくれるのではないか」


 自然とそう思った。

 年が同じくらいだから、勝手な親近感を覚えているのかもしれない。


 少女もきっと、この不思議な時代を生きる人だろう。彼女なら、あの二人の話の真偽について知っているかもしれない。


「何なの、『フリーダム』って」


 たとえ彼女にそう思われたとしても、確かめたい気持ちの方が強かった。

 きっと、早く安心したかったんだと思う。一刻も早く、気持ちを鎮めたい。

 

 嫌な予想が行動を鈍らす前に思い切って立ち上がり、少女に近づいていく。

 怪しい人だと思われないように普段、人に話しかけるスタイルで何気ない雰囲気づくりを心掛ける。


 ある程度近づいた。

 よし、話しかけるだけだ。なんてことはない。大丈夫だ……待って、一呼吸ついておこう。


 自分から話しを切り出すことと言えば、明日の持ち物について心配な場合にクラスメイトに尋ねるくらいだから、これが本当に緊張した。

 

「あ……あの、すいません」


 精一杯の勇気を出して声をかける。少女は、途端に歩いていた足をぴたっと止めた。


 しばらくそのままじっとした後、おそるおそるこちらを振り向く。そして、必要以上に驚いた表情で僕を見た。

 目は大きく見開いていて、顔がかなり引きつっている。あまりに驚いていたから、僕も動揺してしまった。


「な……なんですか?」


 少し間を開けてから、少女は言った。声がかなり震えている。


 近くでよく見ると、容姿端麗で茶の混じった黒髪ストレートの少女はかなりの美人で、目を合わせられないほどだった。


 整い過ぎた顔立ちに氷のような冷たさを感じる一方、細長いまつ毛の下に隠れる儚い瞳は、彼女の心の底を移しているようにも見える。


 そんな反応に話しかけない方が良かったか――と後悔したが、ここまできたら聞いてみるしかないと、腹をくくった。

 

「あの……急にすいません。フリーダムって、何か知っていますか?」 

 その瞬間、大きく見開いていた目は点になって、僕をじーっと見つめている。


 そうか。やはりあれは、よくある泥酔したおじさんたちのおかしな会話で、僕は少女から頭のおかしな人だって呆れられたのか。


 少女にどうかしてると思われるのは気が引けるが、この夢の中の人々は、僕たちと同じ普通の人間なんだと安心できることの方が大きい。


 正直こんなにも突飛な夢を見てしまって、だいぶ焦っていたところだ。

 さっきのお財布の金額といい、妙に現実味を帯びてる部分もあるし――。


 

「え、も……もしかして、フリーダムを知らないのですか?」



「え……っ」

 力の抜けた、声にならないような音が出る。少女は、そんな僕をよそに話し始める。


「フリーダムは誰しも知っているものだと思っていたけれど……。フリーダムは簡潔に言うと、自分の思い描く人生を、現実に投影する機械です。この世界のほとんどの人、いや、各家庭に一台ずつ国から無償で支給されているものですし、あ……あなたの家には無いのですか?」

 

 えっ、逆に質問? ちょっと待って、僕の想像してた流れと違う。呆然とする中、何とか言葉を紡ぐ。


「それだと……何もすることなく、物事を現実にできるということですか?」

「え……えぇそうですよ。それとも、フリーダムなしでどのように生活しているのですか?」

「えっと、そ、そうなんですね、分かりましたありがとうございました」


 そう言った途端、気がつけば僕の両足は走り始めていた。

 

「ど、どういうこと!?」「な……なんだ、この世界は。これが未来の地球? いやいや、これは夢なんだからただの空想にすぎなくて、夢の中では何でもありなんだから」


 それにしても、街を歩く人々の冷徹な視線が頭から離れない。

 走っていた足が止まり、両手を膝につく。どうやら、身体はだいぶ疲れているらしい。全身に悪寒が走り、嫌な汗をかいている。別に、夢なんだからそこまで怖がる必要ないのに……。

 

 夕日が雲から顔をのぞかせて、街中を蜜柑色に染め上げた。


 それは嫌な汗をかいた背中を優しく照らす――と、身体を優しく包み込んでいく感触があった。


感じたことのない包容力と浮遊感とともに、光の中はいつもの家庭の匂いがした。



 正直、この時の記憶は定かでない。ただそれはとても懐かしくて、肩の力が一気に抜けていく感覚がしたのを覚えている。



                                  

            ※



 不思議な夢を見た。


 それは、変わった男の子と話してる夢。

 

 ――「五五八〇年一二月三一日」――


 私はいつもの本屋さんで一冊の本を前に、頭を抱えていた。『星空観察』という、シンプルなデザインの本。


 星空を見たり、木々を飽きるまで一人眺めたりする時間には、何とも言えない良さがある。


 これまではただ眺めるだけで満足してたけれど、それらについて調べることで、一味違った景色が見えてくるかもしれないと思って、この本を買おうか悩んでいた。

 

 その古びた本屋はいつも人気がなくて、店員のおばあさんが一人いるだけ。


 それもそのはず。今はフリーダムがあるし、本なんて必要ない。

 フリーダムに頼ってしまえば、星についての一から百までの知識を一瞬で身につけてしまうことなんて、朝飯前。

 

 しかし第一として、私はフリーダムを信用していない。だから、フリーダムを使うという選択肢は、私の中では存在すらしない。


 ――なぜ私が、この時代の「普通」に馴染めないのかには、はっきりとした理由がある。

 

 私は父や周囲からよく〝変わっている〟と言われる。その証拠として、私が本屋に入ろうとすると、周囲のほとんどが軽蔑の眼差しを向けてくる。

 

 そんな私を唯一、見守ってくれる人がいた。それは、私の母。


 母は父とは正反対の性格で、本が好きな私のために、よく絵本を読み聞かせてくれた。

 そんな母も珍しく、本が好きな人だった。何故そうだったのかまでは、分からないけれど。


 取り分け、私は星や歴史をテーマにした絵本が大好きだった。

 これといった理由はないが、あえて上げるとするなら、どこか惹かれるものがあったからだろうか。

 

 幼い頃。

 私は「おかあさん、むかしの世界に行くことはできるのー?」って聞いた覚えがある。今思うと、変な質問だと思うけれど。


 お母さんは私の突飛な問いかけに対しても、丁寧に返してくれた。


「いいえ、過去の地球にも未来の地球にも、行くことはできないの。私たちは今を生きることしかできない。その代わり、過去のことも未来のことも、フリーダムを使えば分かると思うよ。でもね、お母さんはそれがすべてではないと思うの」

 

 丁寧に言葉を紡ぐように、お母さんは続ける。


「お母さんはね、本を読んで自分で考えてみるのも、大切なんじゃないかなって思うの。そうしないと、人の存在する意味がなくなる気がして……。そうすればきっと、大切な何かを知ることができるって、なんとなく信じてるの。ごめんね。今はまだ、アカネには難しいお話かもしれないね」


 私は、今では出せないような、一段と明るかった声音で言った。


「ううん、あかね分かるよ。あかね、えほん読むの大好きだもん!」

 

 その言葉を聞いたお母さんの嬉しそうな表情には、不安が入り混じっているようにも見えた。


 どうして、そんな表情をしたのか。けれど、そこまで幼い時の記憶を今でも鮮明に覚えているのは、確かだ。


 私はそれからも極力、「フリーダム」ではなく「本」で知識を得るようにしていた。


 

 ――しかし、母はもういない。



 原因不明の事故に遭い、フリーダムにお願いしても、母を助けられなかった。

 それから私は、自分でも分かるくらいに変わってしまった。フリーダムが大嫌いになった。


 すべての病気や怪我を完治できると言われていたあのフリーダムが、母を救わなかったから。


 

 ――その日を境に、今後どれだけ苦労しようとも、フリーダムの力は一切使わないと心に誓った。

 


 私はそれ以前から、フリーダムに対して不信感を抱いていた。何故なら、フリーダムは私と母に対し、他の人とは明らかに違う扱いをしていたからだ。


 私と母は一度、「過去について知りたい」とフリーダムに入力した。歴史書だけでは不可解な点も多くて、その点についてどうしても知りたかったからだ。


 フリーダムに入力すると、一冊の本が私たちの前に現れた。その本を開く――しかし、本には何も書いてなくて、中のページはただの白紙だった。

 

 その質問をしてからというもの、私と母からの要望は一切聞かなくなる時期もあった。そんな事例は、他に聞いた試しがない。

「故障か?」

 お父さんも驚いて、一から修理してもその状態はまったく改善されなかった。

 

 きっと、フリーダムに対して過去について聞いていたのは、私たちくらいだろう。

 今の時代、人々は過去よりも未来を大切にするのが価値観になっている。


 そのこともあり、フリーダムは故障ではなく、私たちに何かしらの脅威を感じているのではないかと考えるようになった。

 

 フリーダムは今やすべての領域で、人知を軽々と超えている。フリーダムと人類の差は今日も少しずつ広がっていると考えると、恐ろしくて仕方ない。


 周囲や世間一般はそんな私に対して、いかにも理屈っぽい理由を下にバカバカしいと言い放ち、軽蔑した。

 

 フリーダムは母を〝守れなかった〟のではない、〝守らなかった〟のだ。


 その理由は、未だ分からない。

 それを明確にするためにも、本を読み続けている。フリーダムに対抗できる唯一の策だって考えてるし、信じてるから。

 

 またそんなことを思い出していると、本を読む手が止まっているのに気づいたのだろうか、おばあさんが話しかけてきた。


「あなた、お若いのに、いつもここに来ているわよね? お客は、あなたくらいしかいないから。いつも、ありがとうね」


 見慣れているおばあさんだけれど、話しかけられるのはこれが初めてだ。

 いざ話しかけられると、どう答えたら良いのか分からなくて、一気に私の背中は熱くなった。

 

 おばあさんはおろおろしている私の手元を見つめて、穏やかな口調で話し始める。


「星空に興味があるのかい? 良いわねぇ。いつも来てくれているから、それはあなたにあげるわ」

「え……いや、良いです。ちゃんと代金は払いますから」


 お財布を出そうとした私の手を止め、おばあさんは言った。


「あなたそのお金、自分で努力して稼いだでしょう」

「えっ……」


 思わず、掠れた声が出る。おばあさんは続けた。


「今はフリーダムがあるから、お金になんて困らない。フリーダムを使えば、ここの本すべてを買うことだってできるのに、あなたはその一冊を買うだけで、とても迷っていたからねぇ。そんなあなたの、力になりたいと思ったのよ」

 

 驚いた。


 この人も、〝この世界にお金が存在する意味のなさ〟が分かる人なのかと感激したから。


 私はその本を素直に受け取り、「ありがとうございます」とお礼をして本屋を後にした。

 

 そう、フリーダムがあれば億万長者にだってなれる。実際、私の周りでもそうなってる人が結構いる。


 しかし、たとえお金持ちになったとしても、その生活に飽きが生じてくる人が多いらしく結局、以前の質素な生活に戻っている、というのがありがちなパターンだ。

 

 フリーダムの力を一切使わなくなり、気づいたことがある。



 それは――「この世界にお金が存在する意味はない」ということ。



 フリーダムの力さえ使ってしまえば、お金はいくらでも手に入る。お金はいくらでも手に入るから、あってないようなものだ。


 それでもこの世界には、意味もなく「お金」という概念が存在する。そしてみんな、それを当たり前のように使ってる。

 何故ならば、それがいわゆる「普通」だからだ。


 

 この世界には、普通ではない「普通」が存在する。

 


 帰り道。おばあさんの言葉を、何度も回想していた。おばあさんの言葉で、もう一つ引っかかるものがあったからだ。


 私は、おばあさんが言っていた『努力』という言葉を耳にしたことがなくて、その言葉の意味が分からなかった。

 家に帰ったら、辞書で調べてみようと思っていたその時。


 

 男の子に出会った。


 

「あ……あの、すいません」

 背後から話しかけられ、私は何かに撃ち抜かれたようにびくっとする。それもそうだ。

 見ず知らずの人に話しかける人なんて、まずいない。


 最初は何も話さずに、その人の詳細について十分把握した上で話しかける、という接し方が「普通」なのに、その人は、この世界の暗黙の了解を一切無視して話しかけてきた。

 

 しかしいつものように冷たく接して、早く会話を切り上げようとも思えなかった。

「普通」を通り越した男の子に対して、何かしらの好奇心が湧いたからだろうか。


 その男の子は、雰囲気というか何かが違った。何が違うのか、はっきりとは言い表せない。


 それなのに、声を聞いただけでそう感じるのはどうしてだろうか。でもなんだろう、生き生きしているというか。本能的にそう思えた。

 

 勇気を振り絞っておそるおそる振り返ると、セットされた少し長めの黒髪に、ほっそりとした体つきの男の子が困惑した表情で立っていた。


 見た目からして、私と同じくらいだと考えられる。とても心配そうな顔をしてこちらを見たり、ぎこちなく目を逸らしたりしている。

 

 ――どうして、私は逃げないんだろう。怖いなら、逃げれば良いのに。


 しかし、一見不穏に感じるその人の雰囲気は同時に、異様な温かみを帯びているようにも見えた。

 

 その雰囲気が、私に二つの気持ちを突きつけてくる。

 

 一つは瞬間的に感じた、逃げたいという単純な気持ち。


 そしてもう一つ。

 それは、男の子の圧倒的な違和感からくる、私が探し続けている問いの答えを知っているのではないか、という淡い期待。

 

 二つの気持ちを総合的に吟味した結果、話してみようという考えに至った。考えたのは時間にして多分、十秒くらい。

 口元の震えをなんとか落ち着かせて、声を絞り出す。


「な……なんですか?」

「あの……急にすいません、フリーダムって何か知っていますか?」

 

 頭が真っ白になった。


 ……どうして、「普通」を知らないの?


「え、も……もしかして、フリーダムを知らないのですか?」

「えっ」という表情が、返事として返ってくる。

 

 やっぱり、もしかして……。いや、冷静に考えないと。記憶喪失かもしれない。


 少し変わった人とこのまま話すのは気が引けるが、気がつくと私はフリーダムの説明を始めていた。


 頭の中が渦巻いている中、なんとか噛み砕いて説明し、その人のおかしな質問にも答えた。しっかりと答えられただろうか。正直、自信はない。

 

 取りあえず、一通りの説明はできた。よし。次は流れからして私が質問する番だよね――と思ったのも束の間、男の子は走って逃げてしまった。


「えっ……ちょっ、ちょっと待って! 私もあなたに聞きたいことが――」

 

 そんな心の声が届くはずもなく、背中はどんどん小さくなっていく。余りに瞬間の出来事で、言葉を声に置き換える時間さえ与えてくれなかった。


 もう一度、『星空観察』の本を見つめる。

「お母さん、私……間違ってないよね」

 

 顔を上げて、空を見る。この街を黄金色に染め上げていた夕焼けは、暗くて汚いピンク色に変わり始めている。


 今日もため息一つの夜が来るのを、告げているようだった。

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夜空の一つ、最後の希望 @tenkuu-tayori

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