『マスカラとチークとアイライナー』【短編】【朗読推奨】【5分で読めます】

雨宮崎

マスカラとチークとアイライナー

冷蔵庫に貼ってある小さなホワイトボード。


『マスカラとチークとアイライナー』とメモしてある。


昨日の夜、ケンカして家を飛び出した彼女が書いたメモだ。


彼女はこうやって、大事なものを忘れないようにメモする習性があった。


忘れないように書き込んだのだろう。




しかし、激しい雨と冷たい風の中、彼女は怒りをまとって出て行ってしまった。


ケンカの原因はいろいろだけど。

正直、あんまり覚えていない。

たぶん、僕がひどくぼんやりしていたことに、彼女が怒りを覚えたのかも。


けど、しかたがないじゃないか。


だって、僕はいつもこうなんだ。

変えようとがんばってみたこともあったけど、いったい何をどう変えたらいいのかさっぱり分かんない。


これでも悩んだ時期はあったわけだよ。


でも、怒らせてしまったことには悪いと感じている。


なので今日は街に出て、彼女のメモに書いてある物を買ってきてあげようと思う。


罪滅ぼしさ。


街は昨日の冷たい大雨の面影を残した、すっきりしない天気だった。


なんだか、機嫌を損ねていつまでもぐずぐず泣いている子供みたいに。


そうやってぼんやりと街に出たせいで、何がマスカラで何がチークで、何がアイライナーなのか、さっぱりわからないことに僕は気づいた。


店員のおねーさんに聞いてみたけれど、

「彼女さんのお使いのブランドはお判りですか?」と聞かれて、まったくわからずに30分も無駄にしてしまった。


化粧道具って、たくさんあるんだね。


ドン・ウィンズロウの小説を買うのとはわけが違う。

ドン・ウィンズロウはいつまで経ってもドン・ウィンズロウだけど、マスカラとチークとアイライナーは、煩悩の数だけ存在することか。


そんなわけでドン・ウィンズロウの新刊を買って家に帰ることにしたよ。


今回も楽しみにしていますよ、ウィンズロウ先生。



家に帰ると、彼女はベッドで横になっていた。


呼吸も荒く、どうやらひどく具合が悪いらしい。


僕は慌てて熱を測り、着替えさせて、体を拭いてあげた。


熱は40度近くあった。


食欲がないらしいが、ゼリーだけは食べられるようだ。


彼女は病院が嫌いで、病院に行くくらいなら白骨化してやると叫んだ。


しょうがないから、彼女の要望を聞いてあげることにする。


体がよわいくせに、あんな冷たい雨の中、外に出ていくからだよ。


僕は呆れながらも、薬を買いに行き、ゼリーとポカリと冷えピタとウェットシートを調達した。


それから数日、僕は彼女に付きっきりで看病をした。


幸いなことに、僕はいま、失業保険で食いつないでいる。


時間なら、腐って土に戻ってしまうくらいたくさんあるからね。


彼女の熱は1週間続いた。


彼女は何度も僕にごめんねと告げた。


おそらく、出費のことを気にして言ったのだろう。


たしかにギリギリの生活であったが、しょうがない。


ドン・ウィンズロウの小説を買うんじゃなかったと後悔しないほどには、なんとかなっているからね。


とはいえ、しばらくはこの小説を繰り返し読むことになるだろう。


まぁ、僕はさ、ぼんやりしているから同じ内容の小説を何度も楽しめるわけだよ。


ぼんやりしているのも悪いことばかりじゃないっていつか君に伝えたいところだね。


だから彼女が回復して、元気にショート動画を見て笑っている姿を見たとき、僕はぜんぜん気が付かなかったよ。


ホワイトボードにいつの間にか、

『マスカラとチークとアイライナーとあなたの優しさ』って書いてあったことにね。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『マスカラとチークとアイライナー』【短編】【朗読推奨】【5分で読めます】 雨宮崎 @ayatakanomori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ