三林晩餐
あじさし
三林晩餐
ソ連時代に建てられたアパート群は再来年には取り壊されることになっていた。無数のバルコニーからは、エアコンの室外機が蜂の巣から顔をのぞかせる幼虫のように並んでいる。からからと地面を転がる枯れ草を踏みながら、遠くに来てしまったととおるは思った。
実のところ、とおるには日本で教育実習を終えた後にこの国に来た目的は特になかった。強いていえば、人生で一回くらいは地元を離れてみたかったというところだろうか。就職してしまえばそんな機会は皆無になるだろうと彼女は思った。
火急の必要がなかった選択肢にも勿論現実はついてくる。できるアルバイトの少ない中、自炊は必須だった。一週間の食材で一杯になった袋を抱える姿は、生活感がありながらも異邦人に見えたし、また彼女は少しそれを楽しんでもいたのだ。
息が上がるのをこらえながら階段を上がっていく時、住民らしき男とすれ違った。とおるはこの国の流儀にならって顔を合わせず通り過ぎた。
部屋の鍵を開けるとまだ誰もいなかった。ルームシェアをしている韓国人のヨナと
冷蔵庫に食材をしまっていると玄関から物音がする。
「戻ったよ」
「帰ってきたか」
「買い出し結局一人で行かせちゃってごめんね」
「ううん。軽いもんだよ。ヨナって今日遅くなるんだっけ?」
「七時には戻るって夕べ言ってたよ」
「そっか」
とおると
「もう食材切っちゃう?」と
「うん。でもとりあえず米を水に浸すかな」
「了解。その間に野菜とか皮剥いちゃうね」
「ありがとう。お願いする」
米を水に浸し、とおるは
「そういえばさ」
「うん?」
「アパートで誰かとすれ違った時、どうしてる?」
「誰かって。そうね。向かいのベレシコワさんとかジャリーリさんは世間話するなぁ」
とおるは彼女のコミュニケーション能力の高さを少し羨ましく思った。
「ここに来てすぐ、エレベーターに乗り込んだときに日本みたいな感じで会釈したんだけど、シカトされたことがあって」
「ここの人はシャイだからね」
「シャイ?」
「この前、ベレシコワさんとエレベーター乗ってたときに乗り込んで来た人がいてね。お互い特に何も言わなかったんだけど、彼女が言うには二十年くらいの顔見知りだって」
「それはあなたたち二人を気遣っただけでは?」
「そうかもしれない。でも、ご近所同志でご機嫌に挨拶交わしてるところなんて見たことある?」
とおるはなんとなく納得がいかなかったが、
「あれ、持ってくるね」
「いつもごめんね」
「いいのいいの」
備え付けのコンロでは火力が弱いので、とおるはよく
「さて」米を火にかけると、とおるは別の鍋を取り出すとひよこ豆を開けて水に浸した。
「それも調理するの?」
「ううん。これは明日作ってプロフに乗せようかなって。前にヨナが気に入ってたから」
「ふうん」
「きちんと言葉にもしなさいよ」
「分かってる」
ヨナは(そして
とおるは手を洗うとラジオのスイッチを切った。なぜかアパートに最初からあったソニー製のもので、ロシア語のニュースや聞いたことのないクラシックをいつも流す。藍洙ランズは眼鏡を掛け、フィールドワークで録音した話者の話を書き起こしている。その間、とおるは課題を進めた。異様に量が多い課題のほんの一山に過ぎなかったが、少しずつでもやらないと眠る時間が無くなってしまう。
おばあさんは穴の開いた桶から水が少しずつこぼれていくように質問に一つずつ答えていたが、ふいになにかを歌い出す。
「あっ!」
「どうしたの?」
「この歌聞いたことが、あるような」
「ほんと?」
「うーんとね」とおるは突然立ち上がったことにバツが悪くなっておもむろに座りなおす。
「あっ。チンドン屋がやってた曲だ。歌の名前までは、分かんないや」
「チンドン屋?」
「日本のブラスバンドって言っていいのか分かんないけど、昔、太鼓とか管楽器とか持ってあちこち回って音楽を演ってお金を稼いでいた人たちがいたんだ」
「それは詳しく訊きたいなぁ」
「私全然知らないよ」
とおるがチンドン屋を見たのは一回きり、子供の頃に祖父に連れられて明治村に言った時だけだった。
とおるは後になってから、その歌は『美しき天然』という曲名だと知ることになる。ユーラシアのど真ん中で日本の歌を聴くという不思議な体験は、とおるにとって
「いい匂いがするわね」
「ヨナ。遅くまで疲れたでしょう?」
「今日はプロフ作ってみたんだ。今温めるよ」
「いいわ。まだ作ってからそんな時間経ってないでしょう?」
「いや。折角だから熱いものが食べたいだろ?」
ヨナは少し考えてから、それもそうねと言った。
とおるは内心、ヨナとの二日ぶりの会話がすんなり行ったことに拍子抜けしていたが、それを顔に出さないように努めた。そうしたら何かに負けた気がするのだ。
とおるが温めたプロフを三人で食べながらヨナが
「で、こんな歌ヨナは聞いたことある?」
「うーん」ヨナは少し考えてから聴いたことはないと言った。
「日本の歌なのかな」
「中央アジアから日本に輸入された歌とは、確かに考えづらいかも」
「でも、シベリア抑留の兵士が現地で覚えて日本に持ち帰った可能性はないかな」
三人はそれぞれ意見を出してみたものの、糸口のようなものは曖昧だった。
「そういえば、とおるの留学の目的ってなんだっけ?」
「これといって目的は、ないかな。大学で取ってたロシア語をもっと勉強したかった。それくらい」
「そう」とヨナが言った。
彼女の父は事業をしていて、父の会社に入って社会人として留学していた。父はユーラシアにも幅広く事業を拡大しつつあると彼女は以前語っていた。
「そもそも何の役に立つのかなんて分からないけどね」
「とおるは確か先生の資格を取ろうとしてたんだよね」と
「うん」
「卒業したら先生になるの?」
「今のところはね」
「だったらロシア語の教師になればいいわね」
「どうかな。私が試験受ける予定なのは高校の先生のだけど、日本ではロシア語教える高校はほとんどないからなぁ」
「じゃあ、なんでそもそもロシア語を?」ヨナがとおるに尋ねた。
「私の実家がある街は日本の中でも比較的よくロシア人が仕事で来ててさ。街中にもロシア語の看板があるくらいなんだ。小さい頃、親の仕事なのか観光でついてきたのか、同じくらいの年の子と商店街で知り合ってね。よく遊んだんだ。海も山も近かったからいろんなとこ行ったな。ある日結局帰っちゃったんだけど今でもよく覚えててさ」
「あらまあ」と
「あほみたいな話でしょ。でも、それがきっかけなんだ」
「ふうん」とヨナが言った。
「でも、ロシア語の話者がいくらかいたらそういう仕事もあるんじゃない?いつか大きくなったその子にも会えるかもしれないじゃない」
とおるにとって、ヨナがそんな言葉を掛けたのは予想外だった。
「役に立つか分からないけど、もしそういう人たちの助けになれたら嬉しいと思う。別にあの子が今どうしてるとかじゃなくて、今の目標として」
「つまり、ライフワークとしてか。なるほどね」
「できるんじゃない?あんたなら大丈夫だよ」
「ヨナに言われるとなんか照れるな」
「まぁ、営業職は向いてなさそうな気がするわね」
「なんだと?」
「こらっ、二人とも」
「とおる、言いたい事あるんじゃないの?」
彼女は三人の中では一番背が低いけれど、穏やかに話しても声がよく通った。
「夕食に使われたくなかったら名前でも書いとけなんて言い過ぎた。一昨日はすまなかった」
「は?ああ、確かに夕食に私のナッツ勝手に使われたのはイラっとしたわよ。でも、別にもう終わったことじゃない」
「ヨナ、あんたも謝んなさい」
「ごめんなさい。自分の買ったおやつは分かるようにしておくわ」
流石に藍洙ランズから子供みたいな扱いをされて、とおるもヨナもバツが悪かったので、話を反らすことにした。
「今夜は食器洗い、
「えぇ?その、とおる、ヨナ。今夜はどっちか代ってくれない?書き起こし今日中にやんなきゃいけないの」
「じゃあヨナは?」
「なんで私が。一番遅く帰ってきたのに」
「私と
「今日はあんた休講だったじゃない」
結局、洗い物はとおるとヨナで行うことになった。
「全く、どうやったら鍋こんなに焦げ付かせるんだか」と文句を言いながらもなべ底まで綺麗に磨く。
とおるが元の鍋があった棚を開けると馬乳酒の瓶がある。遠出をしたときにたまたま市場で見つけて、誰もその味を知らなかったので、買ったのだ。飲みなれないアルコールのせいか、比較的アルコールに強いとおるでも次の日の夕方まで頭痛が引かなかった。
一方ヨナは部屋に戻るまで気味が悪いくらいおとなしくしていたが、
「オンマ、アッパ」
ヨナのほおを涙が伝うのを見たとおるは、彼女を抱きかかえるとベッドで仰向けに眠る
「はい、これで最後」
「ありがとう」鍋を拭いてしまうととおるは食卓で残りの課題にとりかかったが、文が目の前で滑るように頭に入って来なかった。
「何?顔になんかついてる?」ドライヤーを止めるとヨナがとおるに尋ねる。
「ううん。ヨナさぁ」
「何よ、改まって」
「明日はひよこ豆を入れてみようと思うんだけど」
「まあ、おいしそう。もしよかったら明日はもっと辛めにしてくれると嬉しいわ」
「スパイスもまだまだあるし、やってみるよ」
三林晩餐 あじさし @matszawa
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