三林晩餐

あじさし

三林晩餐

 ソ連時代に建てられたアパート群は再来年には取り壊されることになっていた。無数のバルコニーからは、エアコンの室外機が蜂の巣から顔をのぞかせる幼虫のように並んでいる。からからと地面を転がる枯れ草を踏みながら、遠くに来てしまったととおるは思った。

 実のところ、とおるには日本で教育実習を終えた後にこの国に来た目的は特になかった。強いていえば、人生で一回くらいは地元を離れてみたかったというところだろうか。就職してしまえばそんな機会は皆無になるだろうと彼女は思った。

 火急の必要がなかった選択肢にも勿論現実はついてくる。できるアルバイトの少ない中、自炊は必須だった。一週間の食材で一杯になった袋を抱える姿は、生活感がありながらも異邦人に見えたし、また彼女は少しそれを楽しんでもいたのだ。

 息が上がるのをこらえながら階段を上がっていく時、住民らしき男とすれ違った。とおるはこの国の流儀にならって顔を合わせず通り過ぎた。

 部屋の鍵を開けるとまだ誰もいなかった。ルームシェアをしている韓国人のヨナと藍洙ランズはまだ大学があるようだった。

 冷蔵庫に食材をしまっていると玄関から物音がする。

「戻ったよ」藍洙ランズが鞄をテーブルの横に置く。

「帰ってきたか」

「買い出し結局一人で行かせちゃってごめんね」

「ううん。軽いもんだよ。ヨナって今日遅くなるんだっけ?」

「七時には戻るって夕べ言ってたよ」

「そっか」

 とおると藍洙ランズ、ヨナは、三人の中では英語で話す。授業や買い物でロシア語を使っているけれど、疲れてしまうのだ。

「もう食材切っちゃう?」と藍洙ランズがとおるに訊く。

「うん。でもとりあえず米を水に浸すかな」

「了解。その間に野菜とか皮剥いちゃうね」

「ありがとう。お願いする」

 米を水に浸し、とおるは藍洙ランズが皮を剥いた野菜をカットしていく。

「そういえばさ」

「うん?」

「アパートで誰かとすれ違った時、どうしてる?」

「誰かって。そうね。向かいのベレシコワさんとかジャリーリさんは世間話するなぁ」

 とおるは彼女のコミュニケーション能力の高さを少し羨ましく思った。

「ここに来てすぐ、エレベーターに乗り込んだときに日本みたいな感じで会釈したんだけど、シカトされたことがあって」

「ここの人はシャイだからね」

「シャイ?」

「この前、ベレシコワさんとエレベーター乗ってたときに乗り込んで来た人がいてね。お互い特に何も言わなかったんだけど、彼女が言うには二十年くらいの顔見知りだって」

「それはあなたたち二人を気遣っただけでは?」

「そうかもしれない。でも、ご近所同志でご機嫌に挨拶交わしてるところなんて見たことある?」

 とおるはなんとなく納得がいかなかったが、藍洙ランズに言われると次第にそのような気がしてきた。不思議なことに、いつも彼女の話し方には妙な説得力があるのだ。

「あれ、持ってくるね」

「いつもごめんね」

「いいのいいの」

 備え付けのコンロでは火力が弱いので、とおるはよく藍洙ランズが持ってきたガスコンロを借りる。炒め物をする時には特に重宝するのだ。カットした羊肉を炒めながら野菜を次々投入していく。

「さて」米を火にかけると、とおるは別の鍋を取り出すとひよこ豆を開けて水に浸した。

「それも調理するの?」

「ううん。これは明日作ってプロフに乗せようかなって。前にヨナが気に入ってたから」

「ふうん」

 藍洙ランズは、とおるとヨナが一昨日些細なことで口論をしたことを知っていた。

「きちんと言葉にもしなさいよ」

「分かってる」

 ヨナは(そして藍洙ランズも)思ったことをすぐ口にするようにとおるには思われた。一方、とおるはどちらかと言えばその場の雰囲気を読むことができる方で、言葉よりも行動で示す方が誠実な時もあると信じていた。


 とおるは手を洗うとラジオのスイッチを切った。なぜかアパートに最初からあったソニー製のもので、ロシア語のニュースや聞いたことのないクラシックをいつも流す。藍洙ランズは眼鏡を掛け、フィールドワークで録音した話者の話を書き起こしている。その間、とおるは課題を進めた。異様に量が多い課題のほんの一山に過ぎなかったが、少しずつでもやらないと眠る時間が無くなってしまう。

 藍洙ランズが流す音源の話者は、とおるにとって課題に輪をかけて単調で次第に集中力が散漫になってゆくものだった。話者がおばあさんで学校などでもあまり馴染みのないロシア語で話すせいかもしれなかった。

 おばあさんは穴の開いた桶から水が少しずつこぼれていくように質問に一つずつ答えていたが、ふいになにかを歌い出す。

「あっ!」

「どうしたの?」藍洙ランズはノートから目を離さず尋ねた。

「この歌聞いたことが、あるような」

「ほんと?」

「うーんとね」とおるは突然立ち上がったことにバツが悪くなっておもむろに座りなおす。

「あっ。チンドン屋がやってた曲だ。歌の名前までは、分かんないや」

「チンドン屋?」

「日本のブラスバンドって言っていいのか分かんないけど、昔、太鼓とか管楽器とか持ってあちこち回って音楽を演ってお金を稼いでいた人たちがいたんだ」

「それは詳しく訊きたいなぁ」

「私全然知らないよ」

 とおるがチンドン屋を見たのは一回きり、子供の頃に祖父に連れられて明治村に言った時だけだった。

 とおるは後になってから、その歌は『美しき天然』という曲名だと知ることになる。ユーラシアのど真ん中で日本の歌を聴くという不思議な体験は、とおるにとって藍洙ランズとヨナとのイメージと強く結びついた。彼女たちを思い出せばその歌を、その歌を耳にする機会があれば自ずから彼女たちとの日々を思い出すのだ。

「いい匂いがするわね」

「ヨナ。遅くまで疲れたでしょう?」

「今日はプロフ作ってみたんだ。今温めるよ」

「いいわ。まだ作ってからそんな時間経ってないでしょう?」

「いや。折角だから熱いものが食べたいだろ?」

 ヨナは少し考えてから、それもそうねと言った。

 とおるは内心、ヨナとの二日ぶりの会話がすんなり行ったことに拍子抜けしていたが、それを顔に出さないように努めた。そうしたら何かに負けた気がするのだ。

 とおるが温めたプロフを三人で食べながらヨナが藍洙ランズや私に最近の活動を話したり、藍洙ランズが最近行ったフィールドワークについてを話したりする。相当気に入った様子でほおを赤くしながら何度もおいしいと言う。藍洙ランズは、とおるやヨナが部屋に戻ると必ずその日あった事を尋ねる。それが習慣になって、二人は自分から出来事を話すようになっていた。

「で、こんな歌ヨナは聞いたことある?」藍洙ランズはとおるがチンドン屋の歌といった曲をハミングする。

「うーん」ヨナは少し考えてから聴いたことはないと言った。

「日本の歌なのかな」

「中央アジアから日本に輸入された歌とは、確かに考えづらいかも」

「でも、シベリア抑留の兵士が現地で覚えて日本に持ち帰った可能性はないかな」

 三人はそれぞれ意見を出してみたものの、糸口のようなものは曖昧だった。

「そういえば、とおるの留学の目的ってなんだっけ?」藍洙ランズが尋ねた。

「これといって目的は、ないかな。大学で取ってたロシア語をもっと勉強したかった。それくらい」

「そう」とヨナが言った。

 彼女の父は事業をしていて、父の会社に入って社会人として留学していた。父はユーラシアにも幅広く事業を拡大しつつあると彼女は以前語っていた。

「そもそも何の役に立つのかなんて分からないけどね」

「とおるは確か先生の資格を取ろうとしてたんだよね」と藍洙ランズが訊いた。

「うん」

「卒業したら先生になるの?」

「今のところはね」

「だったらロシア語の教師になればいいわね」

「どうかな。私が試験受ける予定なのは高校の先生のだけど、日本ではロシア語教える高校はほとんどないからなぁ」

「じゃあ、なんでそもそもロシア語を?」ヨナがとおるに尋ねた。

「私の実家がある街は日本の中でも比較的よくロシア人が仕事で来ててさ。街中にもロシア語の看板があるくらいなんだ。小さい頃、親の仕事なのか観光でついてきたのか、同じくらいの年の子と商店街で知り合ってね。よく遊んだんだ。海も山も近かったからいろんなとこ行ったな。ある日結局帰っちゃったんだけど今でもよく覚えててさ」

「あらまあ」と藍洙ランズが相槌を打つ。

「あほみたいな話でしょ。でも、それがきっかけなんだ」

「ふうん」とヨナが言った。

「でも、ロシア語の話者がいくらかいたらそういう仕事もあるんじゃない?いつか大きくなったその子にも会えるかもしれないじゃない」

 とおるにとって、ヨナがそんな言葉を掛けたのは予想外だった。

「役に立つか分からないけど、もしそういう人たちの助けになれたら嬉しいと思う。別にあの子が今どうしてるとかじゃなくて、今の目標として」

「つまり、ライフワークとしてか。なるほどね」藍洙ランズは何か納得した様子だった。

「できるんじゃない?あんたなら大丈夫だよ」

「ヨナに言われるとなんか照れるな」

「まぁ、営業職は向いてなさそうな気がするわね」

「なんだと?」

「こらっ、二人とも」藍洙ランズが立ち上がっていさめる。

「とおる、言いたい事あるんじゃないの?」

 彼女は三人の中では一番背が低いけれど、穏やかに話しても声がよく通った。

「夕食に使われたくなかったら名前でも書いとけなんて言い過ぎた。一昨日はすまなかった」

「は?ああ、確かに夕食に私のナッツ勝手に使われたのはイラっとしたわよ。でも、別にもう終わったことじゃない」

「ヨナ、あんたも謝んなさい」

「ごめんなさい。自分の買ったおやつは分かるようにしておくわ」

 流石に藍洙ランズから子供みたいな扱いをされて、とおるもヨナもバツが悪かったので、話を反らすことにした。

「今夜は食器洗い、藍洙ランズの番だからね」

「えぇ?その、とおる、ヨナ。今夜はどっちか代ってくれない?書き起こし今日中にやんなきゃいけないの」

「じゃあヨナは?」

「なんで私が。一番遅く帰ってきたのに」

「私と藍洙ランズ作ったんだ」

「今日はあんた休講だったじゃない」

 結局、洗い物はとおるとヨナで行うことになった。藍洙ランズがヨナにひよこ豆の話をしたらしぶしぶとおるに付き合ったのだ。

「全く、どうやったら鍋こんなに焦げ付かせるんだか」と文句を言いながらもなべ底まで綺麗に磨く。

 とおるが元の鍋があった棚を開けると馬乳酒の瓶がある。遠出をしたときにたまたま市場で見つけて、誰もその味を知らなかったので、買ったのだ。飲みなれないアルコールのせいか、比較的アルコールに強いとおるでも次の日の夕方まで頭痛が引かなかった。藍洙ランズはいつも以上に明るく笑い上戸になった。涼むために外に出た時は橋の欄干に上がって水面に映る月を取ってくると言ってきかないので、とおるは必死に彼女を引っ張って部屋へ連れ戻さなくてはならなかった。

 一方ヨナは部屋に戻るまで気味が悪いくらいおとなしくしていたが、藍洙ランズをベッドに戻してとおるが様子を見ると部屋の隅で体育座りをしてうなだれていた。とおるが近づくとヨナは何かを言っているようだった。

「オンマ、アッパ」

 ヨナのほおを涙が伝うのを見たとおるは、彼女を抱きかかえるとベッドで仰向けに眠る藍洙ランズの隣に寝かせてやった。

「はい、これで最後」

「ありがとう」鍋を拭いてしまうととおるは食卓で残りの課題にとりかかったが、文が目の前で滑るように頭に入って来なかった。

「何?顔になんかついてる?」ドライヤーを止めるとヨナがとおるに尋ねる。

「ううん。ヨナさぁ」

「何よ、改まって」

「明日はひよこ豆を入れてみようと思うんだけど」

「まあ、おいしそう。もしよかったら明日はもっと辛めにしてくれると嬉しいわ」

「スパイスもまだまだあるし、やってみるよ」

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三林晩餐 あじさし @matszawa

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