第4話 素敵なものをありがとう
その日の退社後、彼の部屋に行き使い慣れた合鍵で中に入った。もうこの鍵を使うのも最後になるのだろうか。掌でその鍵を弄ぶ。
部屋の暖房もつけず、彼の帰りを待ち続けた。
彼と付き合ううちに、随分自分の性格が変わっていくことに気が付いていた。
自分はこんなにも気持ちを飲み込む性格の女だっただろうか。
言いたいも言わずに我慢するような女だっただろうか。
相手に大人しく従う女だっただろうか。
明らかにショックを受けた自分と、なんとなくこの『現実』を予感していた自分がいた。なんだか別の世界に迷い込んでいるような気すらした。
ただ、『噂』の真相を彼の口から直接聞きたかった。要するに私は都合の良い遊び相手だったのだろう。あまりにも愚かだ。
***
「あっ、来てたんだ」
「まあね」
「前もって来ることを知らせてくれたらよかったのに」
帰宅した優斗さんは明らかによそよそしかった。そして問い詰めたところ、噂はすべて真実であった。
「申し訳なかった。ただ、何度も妻との離婚を考えたこともあった。でも無理だったんだ。許してほしい」
「……」
「君と結婚できたらいいな、と思ったこともよくあった」
まだ彼に未練がある私は、その言葉が嬉しかった。しかし冷静に考えればそんなことはありえない。
「……子供も生まれるって聞いたけど」
「知ってたのか?」
「……会社の子が言ってた」
「……そうなんだ、子供ができたらもう離婚は無理だろ? 本当に美咲には悪かったと思う」
どうりで年末年始、お盆などには会ってくれなかったはずだ。奥さんの所に帰省していたんだ。
なんて調子がいい人なんだろう。認めたくなかったけれどこの人は狡い。年下の私などいくらでも都合よく言いくるめることができる自信があるのだ。
――最低な男だ。
それなのに見たことがない彼の妻が羨ましくてたまらなかった。彼を一人占めできる上に、彼の子供を生むことができるなんて。
私自身、この人と結婚して子供を持つことなどを想像したことがあった。
「――今までありがとう。じゃあ、鍵を返してくれよな。君との思い出は大事にする」
「……」
随分、あっさりと別れ話を切り出してきた。こちらはずっと、嫌われたくなくて感情を押し殺し続けてきたのに。
「美咲が聞き分けのいい子で良かったよ」
――聞き分けのいい子!?
全身の血液が急激に冷えていくような気がした。
嫌われたくない一心で、ずっと彼の意見に従ってきた。だから聞き分けの良い女なのだろう。
別れ話に私が簡単に同意すると思い込んでいるのだ。
口の中に血の味が広がったのは、唇を噛みしめていたからだと気が付いた。視界が涙で遮られてきてぼやけ始めた。
こんなにも一方的に終わりを告げられてよいものだろうか。
――許せない。
*
彼はこちらに背中を向けると壁際のクローゼットを開いて、その前でしゃがみ込んだ。そして、クローゼットの中から段ボールを取り出し始めた。引っ越しの準備に取り掛かったらしい。
まだ、私が部屋にいるというのにもかかわらず。無神経すぎる。
どうやら私が別れ話を素直に聞き入れて、了承したと思っているようだ。
私が聞き分けの良い、都合の良い女だからだ。ずっと従い続けていたからだ。
私の中で何かが音を立てて崩壊した。
――許せない!
彼に対して飲み込み続けてきた不満が噴き出すのがわかった。
もう、それを抑える事ができなかった。激しい衝動が浮かび上がり、たまたま、キッチンにある包丁が目に入った。その包丁を手に取ると、一気に彼の背中に突き刺した。
彼は振り返り、驚いた表情を一瞬浮かべたが、みるみるうちに苦悶の表情に変わった。私は更に力を込め、深く突き刺した。
――どこにも行かせない。奥さんの元にも帰らせない。
そこから先の記憶はひどくあいまいで覚えていない。
***
――『復讐』からは何も生まれない。周りを不幸に巻き込み、自分さえも滅ぼしてしまう。
『復讐』なんて物騒なことをする人間ではないと思っていたが、私は彼を殺してしまった。
自分の家族も彼の家族も皆不幸に巻き込み、私は警察に逮捕された。彼の妻はショックで流産してしまい、胎児は死亡したという。
しかし――。
『復讐』から生まれるものがあった。キラキラ輝いて素晴らしいものが。
――今、私は彼の子供を妊娠している。もうすぐ生まれる。
了
復讐からは何も生まれないと思っていたけれど、素敵なものが生まれました 山野小雪 @touri2005
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