【老舗バー微百合短編小説】琥珀のささやき ~バーテンダーは人生をグラスに注ぐ~(約5,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

【老舗バー微百合短編小説】琥珀のささやき ~バーテンダーは人生をグラスに注ぐ~(約5,000字)

●第1章:沈黙の輪郭


 東京の片隅にある老舗バー「アンバー」。木の温もりを感じさせる重厚なドアを開けると、そこには琥珀色の灯りに包まれた静謐な空間が広がっていた。カウンターの隅には、毎週金曜の夜になると一人の女性が座っていた。彼女の名前は早川千景。40代後半の文筆家で、かつては数々の文学賞を受賞した天才として知られていたが、今はほとんど作品を発表していない。


 長い髪をざっくりと後ろで束ね、控えめなメイクに黒いタートルネック。すらりとした指でグラスを持つ姿には、どこか近寄りがたい気高さがあった。その横顔は、まるで一枚の絵画のように美しく、時折微かに浮かべる寂しげな表情が、見る者の心を揺さぶる。


「早川さん、いつものですね」


 バーテンダーでありこのバーのオーナー、白石綾乃が柔らかな声をかけた。綾乃は30代後半。細身の体に白いブラウスとベストを身につけ、短めの黒髪を耳にかけながら、常に優しい微笑みを湛えている。


「ええ、お願い」


 千景は小さく頷いた。その仕草には、長年の馴染みならではの親しみが感じられた。


 綾乃が琥珀色のウイスキーをグラスに注ぐ。その液体が静かに波打つ様子を、千景はじっと見つめていた。グラスの中で揺れる光は、まるで彼女の心を映し出すようだった。


「少し沈黙を飲み込めるお酒がほしいの」


 千景はいつもこんなふうに詩的な言葉を口にする。だが、それ以上のことを語ることはほとんどない。瞳の奥に秘められた物語を、誰も知ることはできなかった。


 綾乃は千景の言葉の意味を理解しているかのように、静かにグラスを磨き続けた。二人の間には、言葉以上の何かが流れていた。それは、孤独を知る者同士の無言の共感だったのかもしれない。


「綾乃さんって、不思議ね」


 ふいに千景が言った。綾乃は手を止め、首を傾げた。


「どうして?」


「私みたいな厄介な常連を、ずっと受け入れてくれる。その優しさが……不思議なの」


 綾乃は微笑んで首を振った。その仕草には、どこか少女のような愛らしさがあった。


「早川さんこそ、私のつたない接客を気に入ってくださって。それに……」


 言葉を切った綾乃の瞳が、柔らかく輝いた。


「バーテンダーは、お客様の心の声を聴くのも仕事ですから」


 その言葉に、千景は小さく笑った。それは、彼女が見せる数少ない笑顔の一つだった。


 窓の外では、東京の夜が深まっていく。アンバーの静かな空気の中で、二人の女性の心が、少しずつ、確かに響き合っていた。


●第2章:琥珀色の記憶


 千景が文壇に現れたのは20年前、若干24歳のときだった。デビュー作となる短編小説『夜の鱗』は、その繊細な感性と独特の言葉の紡ぎ方で、瞬く間に文学界の注目を集めた。


「早川さんの小説、私も読ませていただいていたんです」


 ある静かな夜、綾乃がそっと告白した。カウンターには二人きり。閉店間際の穏やかな空気が流れていた。


「まさか」


 千景は驚いて顔を上げた。その表情には、普段見せない感情が浮かんでいた。


「特に『空白の鳥』は、何度も読み返しました。あの……主人公の女性が、自分の言葉の重さに苦しみながらも、それでも誰かに届けたいと思う気持ち。とても心に響いて」


 綾乃の言葉に、千景は一瞬、息を呑んだ。それは彼女の最後の作品。10年前に出版されてから、彼女はペンを置いていた。


「でも、私の言葉は……」


 千景は言葉を濁した。グラスの中の琥珀色の液体が、僅かに揺れる。


「私の言葉は、誰も救えなかった」


 その声は、か細く震えていた。綾乃は静かに千景の横顔を見つめた。


「そうでしょうか?」


 綾乃の声は、優しく空気を震わせた。


「私は、救われましたよ」


 その言葉に、千景は目を見開いた。綾乃は自然な仕草で、千景の手に自分の手を重ねた。その温もりが、千景の凍えた心に染み渡っていく。


「早川さんの言葉は、確かに私の心に届いていました。それは、きっと私だけじゃない」


 綾乃の手は小さく、柔らかかった。それは不思議と心地よく、千景は慌てて手を引っ込めることができなかった。


「あの頃の私は……」


 綾乃は静かに語り始めた。彼女もまた、誰にも語らなかった過去を持っていた。


「母を亡くして、自分の居場所が見つけられなくて。でも、早川さんの小説を読んで、また前を向こうと思えたんです」


 その告白は、千景の心の奥深くまで響いた。10年前、彼女が筆を折った理由。それは、ある読者の死がきっかけだった。自分の言葉で救えなかった命。その重みに耐えられず、彼女は沈黙を選んだ。


 だが今、目の前にいる綾乃は、その言葉に救われたと言う。


「私……」


 千景の声が震えた。綾乃はそっと手を握り直した。


「無理に話さなくても、大丈夫です」


 その優しさに、千景は目を閉じた。記憶の中で、琥珀色の光が揺れている。


●第3章:言葉の重み


 雨の音が静かに響く金曜の夜。アンバーには、いつもより少ない客しかいなかった。千景は、窓に伝う雨粒を見つめながら、グラスを傾けていた。


「今日は、少し話してもいい?」


 千景の声に、綾乃は優しく頷いた。


「どうぞ」


「10年前……私の小説を読んだある女性が、自殺したの」


 静かな告白に、空気が凍りついた。


「彼女は最初、私の小説で救われたって言ってくれた。でも、それは一時的なものだった。結局、私の言葉は彼女を本当の意味では救えなかった」


 千景の指が、グラスの縁を撫でる。


「それ以来、私は自分の言葉を信じられなくなった。誰かの心に触れることが、怖くなってしまって」


 綾乃は黙って聴いていた。その瞳には、深い理解の色が宿っていた。


「でも、それは早川さんのせいじゃないと思います」


 綾乃の言葉は、優しく、しかし芯が通っていた。


「私たちにできることには、限りがある。でも、それでも誰かの心に寄り添おうとする。その気持ちは、決して間違っていないはず」


 千景は綾乃を見つめた。バーテンダーの瞳には、確かな信念が光っていた。


「綾乃さんは、よく私の気持ちが分かるわね」


「それは……」


 綾乃は少し言葉を切り、微笑んだ。


「私も似たような経験があるからかもしれません」


「え?」


「私の母は、心を病んで自ら命を絶ちました。私が高校生の時です」


 綾乃の告白に、千景は息を呑んだ。


「私は、母の苦しみに気付いてあげられなかった。だから、このバーでは、お客様の心に寄り添いたいと思っているんです」


 綾乃の言葉には、悲しみと共に、強さが感じられた。


「私たちは、誰かを完全に救うことはできないかもしれない。でも、その瞬間、その場所で、できる精一杯のことをする。それが、私の選んだ道です」


 千景は黙って綾乃の言葉を受け止めた。二人の間に流れる空気が、少しずつ変わっていく。それは、傷を分かち合った者同士の、新しい絆の始まりだった。


●第4章:心の距離


 週末の夜、アンバーは普段より賑わっていた。千景は、いつもの場所でグラスを傾けながら、綾乃の仕事ぶりを見つめていた。


 綾乃は、様々な客の要望に柔軟に対応しながら、一人一人の心に寄り添うように接している。その姿は、まるでバレリーナのように優雅で、どこか芸術的だった。


「綾乃さんって、本当に素敵な人ね」


 千景は小さくつぶやいた。その言葉に込められた感情は、彼女自身にも分からないものだった。


 仕事を終えた綾乃が、カウンターの向こうから千景に微笑みかける。その笑顔に、千景は心が温かくなるのを感じた。


「お待たせしました」


 綾乃は、千景の前に新しいグラスを置いた。


「これ、私の気分を読んだの?」


「ええ、なんとなく」


 綾乃は照れたように髪を掻き上げた。その仕草が、妙に愛らしく見えた。


「私ね、最近考えているの」


 千景は、グラスの中の琥珀色の液体をじっと見つめながら言った。


「また、書けるかもしれないって」


 その言葉に、綾乃の目が輝いた。


「本当ですか?」


「ええ。ここで過ごす時間が、少しずつ私の中で物語になっていくの」


 千景は、微かに頬を染めた。


「特に、綾乃さんの存在が……大きいわ」


 その告白に、綾乃も赤面した。二人の間に、甘い緊張が流れる。


「私なんかが、そんな風に影響を与えられるなんて」


 綾乃は恥ずかしそうに目を伏せた。その仕草が、千景の心を揺さぶった。


「影響どころじゃないわ。綾乃さんは、私の心を……」


 千景は言葉を探した。


「解かしてくれた」


 その夜、アンバーの琥珀色の光の中で、二人の女性の心は、確実に近づいていた。それは、傷を持つ者同士だからこそ分かり合える、特別な絆の始まりだった。


●第5章:触れ合う魂


 秋の深まりとともに、アンバーの琥珀色の光はより深い色合いを帯びていった。千景は、いつものように金曜の夜をカウンターで過ごしていた。


「これ」


 綾乃が、一冊のノートを千景の前に置いた。シンプルな黒い表紙のノートは、まだ新しそうだった。


「何これ?」


「早川さんが、また書き始めるときのために」


 綾乃の言葉に、千景は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「私のために、選んでくれたの?」


「ええ。このノートを見かけたとき、早川さんの新しい物語が、ここに紡がれていくような気がして」


 綾乃の頬が、かすかに紅く染まる。千景は、その表情に心を奪われた。


「綾乃さんって、こういうところが本当に……」


 千景は言葉を探した。


「優しすぎるのよ」


 その言葉に、綾乃は首を振った。


「違います。私は、早川さんの新しい物語が読みたいだけです。それは、きっと私だけじゃない」


 綾乃の真っ直ぐな眼差しに、千景は言葉を失った。その瞬間、彼女の心の中で何かが動き出した。凍りついていた感情が、少しずつ溶けていくような感覚。


「ありがとう」


 千景は、そっとノートに手を伸ばした。その時、指先が綾乃の手に触れた。温かい。その一瞬の接触に、二人とも息を呑む。


●第6章:溶けゆく氷


 真夜中近く、アンバーはもう閉店間際だった。千景は、綾乃にもらったノートを開いていた。まだ何も書かれていないページが、静かに彼女を見つめている。


「何か、浮かんできました?」


 綾乃が、片付けの手を止めて尋ねた。


「ええ、少しずつ」


 千景は、ペンを握る手に力を込めた。


「バーテンダーの女性と、常連の作家の物語。二人とも、誰にも言えない過去を抱えていて。でも、少しずつ心を開いていく」


 綾乃は、その言葉に息を呑んだ。


「それって……」


「ええ、私たちの物語よ」


 千景は、照れくさそうに微笑んだ。それは、彼女がめったに見せない表情だった。


「私、綾乃さんのことを書きたいの。あなたの優しさを、強さを、そして……私の心を溶かしてくれた温もりを」


 綾乃の目に、涙が光った。


「私なんかを、物語にしてくださるなんて」


「違うの」


 千景は立ち上がり、カウンター越しに綾乃の手を取った。


「あなたは、『なんか』じゃない。私の新しい物語の、かけがえのない主人公よ」


●第7章:新たな物語


 秋が深まり、木々が色づき始めた頃、千景は新しい小説を書き上げた。それは、『琥珀の調べ』と題された中編小説だった。


「読ませていただきました」


 綾乃は、原稿の最後のページを静かに閉じた。その目には、涙が光っていた。


「どうだった?」


 千景は、少し緊張した面持ちで尋ねた。


「素敵な物語です。でも……本当に私なんかを」


「また『なんか』って言う」


 千景は、優しく叱るように言った。


「綾乃さん。あなたは、私の世界を変えてくれた人よ。この物語は、そんなあなたへの感謝の気持ちなの」


 綾乃は、感極まったように千景を見つめた。


「私も、早川さんに出会えて良かった」


 その言葉に、二人の心が確かに響き合う。


●第8章:光の中へ


 『琥珀の調べ』は、静かな反響を呼んだ。


「早川千景、10年ぶりの新作で魅せる心揺さぶる人間ドラマ」


 文芸誌の見出しを、綾乃は嬉しそうに読み上げた。


「これで、早川さんはまた作家として戻ってこられた」


 千景は、微笑んで首を振った。


「違うわ。私は、新しい作家として生まれ変わったの」


 そう言って、千景は綾乃の手を取った。


「それも、全部あなたのおかげよ」


 アンバーの琥珀色の光が、二人を優しく包み込む。


「これからも、ここで物語を紡いでいってもいい?」


 千景の問いかけに、綾乃は満面の笑みで頷いた。


「ええ、いつでも」


 その夜、バーの琥珀色の光の中で、二人の女性は新しい物語の一歩を踏み出していた。それは、傷ついた心が癒され、新たな希望を見出す物語。そして何より、孤独な魂が温かな光を見つける物語だった。


(了)


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