幾億の星を越えて

図科乃 カズ

 

 

 非常音が脳内に響くと超電導リニア電車が急停止した。

 窓の外を眺めていたボクの体が進行方向に傾く。車内の乗客からも声が漏れる。

 中央都庁前駅ターミナルを出た直後の出来事、緊急停止とは珍しい。

 そう考えていると頸椎埋込端末ナビゲーションから伝搬された電気信号がボクの視界にウインドウメッセージを流した。


『次の合同庁舎前駅で非常停止ボタンが押された関係で緊急停止しました。人類相互共有電脳機構Human Interaction Computer Systemによって対応いたします。ご乗車のお客様には大変ご迷惑をおかけしますが今しばらくお待ちください』


 続けて集団意思集計オーディエンスが重なるように表示された。

 現在この電車を利用しているヒトがリストアップされ、人類共生社会に対する彼らの貢献度、緊急定時時間による被害額が算出されていき、数万ポイントの損害額を掲示した。

 それに対するヒトビトニューラルネットワークの反応が集計グラフで表示される。

 償還させるべきとの意見が9割を超えた。前方の座席から「迷惑かけたんだからそれくらい当然だ」という声が聞こえた。

 ボクは軍帽をかぶり直すとシートに身を沈めた。

 未だに電車は停まっている。おそらく今ごろ同僚が対象者を保護していることだろう。

 合同庁舎前駅で活動している同僚の映像共有をHICSに要請するとボクの要請はすぐに承認されホームで行動する同僚の映像が脳内に広がった。

 濃紺に白縁の軍服を着た同僚達がやつれた中年男性を確保していた。

 やはりポイント・・・・が不足していたのだろう。ボクは冷房の効きすぎた車内に寒さを覚え軍服の襟元を密着させた。


 HICSが制御するこの世界に偶発的な事故はありえない。ヒトが認識するあらゆる事象はHICSが計算しつくしその全てに対応しているからだ。

 頸椎埋込端末ナビゲーションが埋め込まれたボク達は、HICSの計算通りに生活していれば怪我をすることもなければ病気になることもない。人類最大の敵だったガンは100年前に克服され、ヒトゲノムを自由に作り替えることができる現在では自然死という言葉すら消えつつあった。

 そしてボク達はHICSが構築するニューラルネットワークによって生物の集団として1つの擬似的な意識を形成できるところまで来ていた。今も脳内で見えるオーディエンスがそうだ。

 ボク達はHICSによって個々の意識の隔たりが解消され、集団的生物1つの生物としての意識を持とうとするところまで来ていた。


 しかし、その秩序を維持するために1つの絶対的なルールがある。

 ヒトにとっての現世の楽園。その楽園を維持するため、ボク達は個体ごとに生命維持評価基準ポイントが付与されている。このポイントはHICSにより管理され、集団的生物ボク達の社会に与える影響度によって増減する。生物としての死を超越したボク達にとってこのポイントは肉体の寿命そのものだ。

 HICSの指し示すまま生きている限りこのポイントは減ることはない。ポイントが減少するのはボク達の社会で逸脱した行動を行ったエラーが発生したとき。例えば、いまボクが遭遇している状況――大勢のヒトが利用している電車を緊急停止させた場合などだ。


 通常であればオーディエンスを元にHICSが対象者のポイントを減らし、公共交通機関の混乱をすぐに収拾すればよいだけだ。その処理はほんの数十秒で終了し、電車もすぐに運転を再開する。

 そうならなかったのは対象者のポイントがゼロになったから――。

 ポイントの消滅は肉体の生命活動の終焉を意味する。生命の終わり、肉体を形成する細胞1つ1つが静かに穏やかにその役目を終えていく。

 しかし、それはそのヒトにとっての死ではない。

 生命活動が停止した後も対象者の意識は電気信号インパルスとなってHICSが構築するニューラルネットワークを伝搬し、他のヒトの意識と混ざり合い、変化と記憶を連鎖的に継続していく。肉体という生命維持装置から脱却してニューラルネットワークの接点シナプスとしてより純粋な電気的活動体へと変わるだけなのだ。

 肉体から電気的活動体への移行を補助するのがボク達「見届人」センチネルだ。


 ボクは意識を視覚に戻すとサングラス越しに窓の外を見た。

 いつの間にか電車は動き始め、無機質なビル群が後方へと流れていく。スーツを着た人々が吸い込まれるようにそのビル群に入っていくのが見えた。ボク達の意識は頸椎埋込端末ナビゲーションによって呼吸の1つさえ電気信号となってHICSのネットワークに伝搬され共有される、肉体の有無にかかわらず。

 ボクは同僚に連れられていった男性のことを考えた。

 どうして対象者は電車を止めたのだろう。ボクにはいくら考えても理解できなかった。

 そしていつしか考えることを止めた。

 ボクの役割は見届人センチネルだったからだ。




   ※




 超電導リニアから旧式幹線に乗り換えて更に数時間、四角い窓から見える景色は幾何学的なビル群から緑が埋めつくす大地に変わっていた。

 人類相互共有電脳機構HICSの恩恵を受けるには都市部で生活することが最善だ。わざわざ不便な土地に住み続ける必要はない。ヒトビトが自分の土地を棄てて都市部に集結して半世紀、電車はボクを揺らしながら無人の駅を幾つも通り過ぎる。

 誰も住まなくなって野生の緑で覆われた土地、遠くには都市部を養う無人工場群が虚ろな塊となって電車の後を着いてきていた。その上を鳥の群れがV字で飛ぶ。


 西に傾きはじめた太陽が連なる山々に隠れた頃、電車は山間部にある駅で停止した。

 屋根すらない無人駅、ひび割れたホームから生えたメヒシバやネコジャラシ雑草が橙の太陽に照らされている。それでも最低限の機能は稼働しているようで、人工改札機で認証を済ませて駅前に出るとHICSによって手配された全自動移動車両タクシーがすでにあった。

 ボクを乗せたタクシーは滑るように走り出し、かつて商店や民家だったであろう廃墟を通りこして山道に入った。更に2時間、このまま山頂を目指す。


 フロントガラスの切り出す景色が木々のトンネルだけになった頃、タクシーは音もなく停止した。ここから先は目的地まで徒歩となる。

 すでに夜の帳が降り自然光のない山林は闇に包まれていたが、光をうまく受けとめられない弱視のボクには丁度よかった。

 サングラスを外して改めて辺りを見渡すと山頂へ続く登山道が分かった。頸椎埋込端末ナビゲーションが行き先を矢印で示す。

 目的地まで続く一本の道を進む。

 むき出しの土がボクの足裏にこれまで感じたことのない凹凸感を伝えてきた。標高のせいだろうか、8月だというのにひんやりとした夜涼やりょうがボクを包み土と草の匂いを運んでくる。耳に入るのは夜を招く鳥の鳴き声。

 どれも肉体で感じるのは初めてだったが全てはニューラルネットワークで共有していたこと。肉体は敏感に反応しているが脊髄反射のようなもので、ボクの脳の中では理解の範囲内だった。

 漆黒の山林が開いたのはその時だった。


「――ああ」


 周囲を一望できる山頂の高台。

 そこに立つボクの目の前に広がるのは、透明な夜空に登る乳白の天の川銀河系の光。その清渓せいけいは中天へと流れていき、1000億の星の輝きがボクに降り注ぐ。人工の光がないせいか、それとも夜の空気が澄んでいるせいか。白、蒼、黄、朱の大小様々な点がせせらいでいた。

 夜空を見上げしばらく放心していたボクに誰かが呼びかけた。


「いらっしゃい、センチネルさん」


 いつの間に近くに居たのだろう、驚いて振り返ると淡く浮かび上がった人影があった。

 線の細い、幻のような彼女は翠の黒髪と紅い口紅が印象的だった。


「あなたがドクター・トキコ・キリガヤですね」

「〝最後の番兵センチネル〟というくらいだからもっと厳つい人が来ると思っていたわ」


 うっすらと笑うトキコはボクを手招きすると少し先にあるテーブルとチェアに案内した。

 そこに座るとより一層夜空が広がって見えた。


「あなた、随分と興味深いわ。白い肌に、髪は銀色? けれども赤い瞳が星より輝いて見える」トキコがあまりにも不躾にボクを覗き込むので、

遺伝情報欠損症ジェネティックです。コンマ数パーセントの差で生まれてよいことになりました」ボクは少し苛ついて言わなくていいことまで口にしてしまった。


 あらゆる遺伝子は生存する価値がある、人類共生社会にほんの数ナノメートルでも貢献できるのであれば。

 生命活動を維持している今のボクはHICSによって集団的生物1つの生物一部1つの細胞であることを許されている。それがボクの存在できる理由、しかし――。

 トキコはまだボクを見ている。夜空と同じ透き通った黒い瞳――その瞬間、本当はボクがどう思っているのかを読み取られたような気がした。


「ヒトの遺伝子のパラメータ数はご存じかしら?」

「約2万個のタンパク質コードがあると聞いたことがあります」

「そう、2万個。たったそれだけの変数でわたし達ヒトは出来ているの」

「たった2万個、でしょうか。脳には14兆個のシナプスパラメータがあります。その変数が〝ボク〟をひとりの意識体ボクにしているのです」


 意見してしまったことに気づいたボクは視線を反らすために自分の指先を見た。

 遺伝子の中のたった2万個の配列で作られたボクの手指は、白くて細くて何も掴めなさそうだ。それなのに生かされているのはこの配列が排除基準値より僅かに上だったからで、ボク自身14兆個のシナプスが受け入れられたからでない。ボク個人の意識は無価値なのだ。


「個の集合体であるヒトの社会が集団の意思を決定する時に、個の意思がどのように影響するかとても興味深いテーマだし、あなたはその可能性を信じてるのね」

「ボク達個人の考えが人類相互共有電脳機構HICSに影響を与えるなんて自惚れてはいません。少なくともボクはHICSの一部にすぎないのです。ボクはただ、ボクの体が2万個のパラメータの失敗作ジェネティックであっても、ボクの14兆個のパラメータの変化意識にはさほど作用しないとお伝えしたかっただけです」

「ふふ、ごめんなさい。あなたがとても綺麗だったからつい意地悪をしてしまって」


 薄く笑ったトキコはそう言って星空を見上げた。

 肩に掛かっていた黒髪がさらりと流れる。遠くを見るその横顔はとても幻想的だとボクは思った。

 ボクにはもう彼女への嫌悪感はなかった。


「白い星、黄色い星、青く点滅していたり、赤く燃えていたり。あそこにはわたし達が観測できる範囲だけでも1000億以上の星があるわ。ヒトの脳神経細胞ニューロンも同じね。大脳に160億個、小脳に690億個、それが宇宙にも匹敵する脳神経回路ネットワークを構築してる。そこを伝搬する14兆個のシナプスパラメータ。その運動を観測すれば誰ひとりとして同じではない。だけど――」


 トキコがボクの方を向く。彼女の手がボクの手に伸びた。


脳神経回路ネットワークを伝搬する電気信号インパルスの強弱だけが〝あなた〟だといえるのかしら?」


 その瞳が、一瞬、悪戯っぽい光を帯びた。

 と、彼女はボクの手を掴むと自分の胸に押し当てた。見た目よりも豊満な感触が手のひらから伝わってくる。

 しかし、ボクには単なる乳腺と脂肪細胞の集合体という感情しかわかなかった。

 ボクの反応が面白くなかったのか、トキコはつまらなそうに手をほどいた。


「あなた、なんの変化もないのね」

遺伝情報欠損症ボクではなく、普通のヒト異性でしたら生物学的にきちんと反応したと思います」


 脳科学者であり天文学者でもあるトキコ・キリガヤは生物学にも精通していた。なのでボクの言葉の意味を瞬時に理解した彼女はじまじとボクを見つめ返した。

 真核生物であるヒトは有性生殖によって遺伝子を求め合い相手との交換を行う。一説には遺伝子は自分とは最も異なる配列を持つ遺伝子を求めるという。

 しかし、ボクの遺伝子は他の遺伝子を求めない。遺伝情報欠損症ジェネリックで性が不完全だからだ。

 それに気づいたトキコだったが、


「あなたの姿を見たときにそこまで計算しておくべきだったわ。どうしたものかしら、2万個の遺伝子と14兆個のシナプスの関係あなたに興味がないと言ったら嘘になるけれども、これからの観測を変更するつもりもないし」


 知的な雰囲気を残しつつ僅かに戸惑っているのが分かった。

 そういう演技かもしれないし、天才が見せた素の部分とも感じた。もしかするとその両方かもしれない。そう思えるほどトキコ・キリガヤはボクにとって不思議な存在だった。


「なぜドクターは今ごろになって頸椎埋込端末ナビゲーションを受け入れたのですか?」


 HICSからこの任務をアサインされたとき、最初に疑問に思ったことを彼女に尋ねた。

 ボク達は頸椎埋込端末ナビゲーションを埋め込むことによって、旧時代的なヒトの群れから人類相互共有電脳機構HICSを介して社会有機体となった。ボク達〝個の意識〟はニューラルネットワークの中で電気信号インパルスとして1000京以上のシナプスパラメータとなり集団的生物1つの生物の意識を形成している。

 こうしたヒトの進化の中、トキコ・キリガヤはHICSへの接続を最後まで拒否していた。

 その彼女があることを条件に頸椎埋込端末ナビゲーションを受け入れたのが6ヶ月前。HICSは集団の意思としてトキコ・キリガヤの条件を承諾し、この山頂にある彼女の研究施設を増強した。


ここ・・ではもう、やれることがなくなったから」彼女は目を細め口元で自嘲する。

「ドクターがなさりたかったこととは?」ボクは本当に知りたいと思った。

「それはね」トキコはふふと笑った。

「きっとあなたと同じことよ」


 それは違う、ボクは瞬時に判断した。

 コンマ数パーセントの差でボクを誕生させたHICSにボクは感謝も憎悪もない。1つの細胞として与えられた生命を使用して与えられた役割を果たすだけ。それが集団的生物HICSの意思だと理解していたから。

 だからボクは、彼女のようにたった1ヶ月で生命維持評価基準ポイントをゼロなどにはしない。それが単に肉体を離れて純粋な電気的活動体へ戻るだけだとしても。

 むしろおかしいのは彼女の方だ。


「どうしてわざわざポイントを減らすような事をしたのですか。ボクにはとても真似できません」

「そうかしら」彼女は立ち上がった。


 長い髪がボクの眼前で揺れる。彼女の頭上に浮かぶ星雲天の川がボクを見下ろした。


「あなたは2万個の遺伝子の結果ジェネティックである自分の体と自分の意識14兆個のシナプスの変化はお互いに作用しないと言ったけれど、深層ではそうではないと理解していて不安になってるの」

「そのようなことはありません、ドクター」

「そう? わたしはその不安定さは正しいものと思えるわ。だって、ジェネティックであることを意識している時点であなたという個に影響を与えているといえるもの」

「それは心理学です。生物学的人類学的に見ればなんの進化も進歩もありません」

「けれどもあなたのパラメータ脳神経回路を変化させるにはそれで十分。あなたは常に変化してる。その量子的なゆらぎは原理的に存在するの。そしてある一定の密度ゆらぎを越えた瞬間、重力を発生させるの」

「ボクが変わることはありません」


 出来損ないのボクは、これまでも、これからも、ひとりで居続けなければならない――そう言いかけたボクの唇を彼女は人差し指で優しく触れた。


「個はね、孤独ひとりだと分かると重力を作って引き合うの――〝さみしい〟って」


 その瞬間、ボクの肉体に電流のようなものが走った。

 それは脳神経回路を走る電気信号インパルスではなくもっと原初的な何かだったが、ボクにはそれが何かは理解できなかった。

 戸惑う僕の前で彼女は背後に目を遣った。

 高台の上には彼女のための研究施設と巨大なパラボラアンテナが夜に浮かんでいた。


「ごめんなさい、そろそろ時間ね」


 彼女はボクに手を伸ばした。

 長い髪が星々の瞬きを反射する。髪の上を流れる一条の光がそのまま夜空に舞っていった。

 ボクはただうなづいた。それが見届人ボクの役割だから。



「あなたが最期に会った人センチネルで本当によかったわ」



 ボクの手を握り返すと、トキコは満足そうにうっすらと微笑んだ。

 その時、彼女の後ろを流星が流れて消えた。

 8月の夜、ペルセウス座から星の雨が降り始めたのだ。




   ※




 研究施設の中にはトキコのための保管カプセルベッドが用意されていた。

 幾つもケーブルが繋がれたまゆのようなそれに身を横たえた彼女は「自分で用意しておいてなんだけど、あまり寝心地はよくないわね」と笑った。


「わたしの肉体が生きるのを止めた後、あなたはどうしなければならないか聞いているかしら?」


 ベッドの中で彼女がボクに尋ねる。ボクが頷くと彼女は口の端を笑みで滲ませた。

 ボク達「見届人センチネル」の任務は生命活動を停止した肉体を回収すること、それが本来の役割。

 しかし、今回のボクの任務は少しだけ違っていた。

 トキコ・キリガヤだった肉体を回収することは変わらない。そこにもう1つ別の〝見届け〟が追加されていた。それがトキコ・キリガヤの出した条件だった。


「しっかりと見ていてね。あなたと同じようにきっと綺麗だと思うわ」


 内に秘めた興奮を抑えられなかったのか彼女の頬がほんのり火照っているのが分かった。

 電気的活動体に移行する人間を何人も見届けてきたが彼女のような反応をするヒトを見るのは初めてだった。

 HICSにアクセスするとトキコの頸椎埋込端末ナビゲーションが正常に作動しているのが分かった。HICSは既に彼女の脳神経回路の複写トレースを終えており、彼女が発する最後の電気信号インパルスをも自らの一部にしようと待ち構えていた。

 HICSの目的はトキコ・キリガヤの頭脳――全てをデータ化して取り込むこと。

 しかしそれは同時にトキコ・キリガヤの解放も意味していた――脳神経細胞ニューロンの活動によって発生した彼女の脳波は大空へと放出され、ペルセウス座の流星群に乗り宇宙へと伝搬する。そうする取り決めだった。


「ヒトの脳神経細胞と宇宙の星々は量子力学的に同じ構造をしているの。宇宙は1000億の星が大規模構造を形成し、脳内では850億個の細胞が脳神経回路を構築してる。それらをネットワークとして機能させているのは重力か電磁気力かの違いなだけで、その2つの力は宇宙誕生直後はもともと1つの力だったの。だからわたしはその力が交わる点その力の最初の場所に行きたいの」


 トキコは熱っぽく語った。もしかすると彼女は本当にそこまで辿り着くかもしれない。

 宇宙の原初、急膨張ビッグバンを起こす前の宇宙は1つの点に過ぎず、超高密度で超高温な点の中には重力や電磁気力に別れる前のたった1つの力しかなかった。そこが彼女の目指す先なのだとしたなら全く想像できない次元の話――。

 すぐ近くに居るのに急に彼女との距離を感じた。彼女はもう違うものを見ている気がした。


 彼女の視線の先にあるもの、それを見ることをボクは望んではいけない。ボクが見届けなければならないのは彼女自身なのだから。

 冷静になったボクは、任務を遂行するためにベッドの蓋に手を掛けた。

 これを閉めれば彼女は肉体という生命維持装置を置いて長くて一瞬の旅に出る。紅い唇も澄んだ黒い瞳もボクにはもう何も語らなくなる。

 ふと視線を感じて下を見ると、彼女が目を細めて微笑んでいた。


「あなた、見届人お仕事になると無口になるのね」


 ボク達見届人センチネルは任務中に余計なことを口にしないよう訓練されている。


「あまりからかわないでください、ドクター」

「――あ、待って」


 蓋に力を込めようとしたボクを彼女の言葉が止めた。


「また意地悪ですか?」

「やり残していたことがあるの」


 彼女は腕を伸ばすとボクのネクタイを強引に引いた。いい香りが広がり彼女の顔が近づく。

 と、次の瞬間にはボクの唇は彼女の唇で塞がれていた。

 唇の表面から彼女の温かさが伝わるたびに脳神経回路を伝搬する電気信号インパルスではない電流がボクの全身を駆け回った。

 彼女はずっとボクを見ていて――別の柔らかな物がボクの唇を押し広げた。


「――ンッ!」


 驚いたボクは離れようとしたが、彼女はボクの顔を掴むと舌先で口内をかき回した。これまで感じたことのない甘く痺れるような感触が口内を満たしていく。

 粘膜を纏った彼女の舌が別の生き物のようにボクの舌を弄ぶ。滑らかで、甘くて、柔らかくて、とろけるような――。


「ふふ。大げさね、あなたは」


 唇が離れたと理解できたころ、彼女はボクを解放してくれた。満足した彼女の唇はボク達の分泌物にまみれて艶めかしく反射していた。

 まだ呆然としているボクに彼女は悪戯っぽく笑った。


「わたしの遺伝子をあげたのだからあなたはもうさみしくないわ」


 ――寂しい? ボクが!

 彼女の言葉に血液が逆流し、気づけば彼女の肩を掴んでいた。

 そのまま顔を近づけ吐息が頬に当たる距離になっても、彼女の蠱惑的な表情は変わらなかった。

 今だけは真っ直ぐにボクを見つめてくれている。

 ボクは静かに唇に唇を重ねた。さっきよりもはっきりと彼女の温もりと柔らかさを感じる。

 彼女はボクに体を預けてくれた。ボク達はもう一度お互いの体温あらゆる情報を交換した。今度はボクから彼女に。


「――ボクの遺伝子もドクターに差し上げました」


 ボクの指先が彼女から離れると同時にボクは彼女にそう告げた。ボク自身、何故そう言ったのか理解できなかった。口づけだけでそのようなことが出来る訳がない。彼女もそれは分かっている筈だ。

 それなのに彼女はボクに向かってうっすらと微笑んだ。


「あなたは最後の番兵センチネルさんなのだから誰よりも後にいらっしゃい。わたしはそこで待ってるから」


 それが彼女と交わした最後の言葉となった。




   ※




 研究施設の外に出たボクは空を見て息を飲んだ。

 中天へと登る天の川に逆らうように幾つもの光跡が夜空の彼方へと流れていた。

 流星群などではない。数百年ぶりに訪れたペルセウス座の大流星嵐がボクの真上で繰り広げられていたのだ。

 吸い込まれそうな夜空から無数の流星が滝のように落ちてくる。空が光跡に埋めつくされる。煌めく星光が草木を闇に沈め、音を吸収していく。ここは星々だけが生きる世界となった。

 視界に広がる光景に平衡感覚を失いそうになりながら辺りを見渡すと、天空へと頭を向けるパラボラアンテナの姿が闇の中から浮かび上がった。

 トキコ・キリガヤの脳神経回路を伝搬する電気信号インパルスを電磁波に変換して宇宙へと送信するための無機質な葬送装置。彼女は肉体を離れ、インパルス意識を細分化し、粒子となり波となり、138億光年より更に先にある宇宙の力が交わる点へと向かうのだ――ボク達ヒトを残して。


 まだ唇に残っていた感触を確かめるように口を固く結ぶ。

 刹那、天を見上げるパラボラアンテナから眩い光が柱となって宇宙へと駆け上がった。

 その光は粒子であり波であり普通のヒトが視認できるものではなかったが、遺伝情報欠損症ジェネティックなボクの赤い瞳だけは見ることができた。

 空を貫く一条の輝きはまるでトキコの意思を表しているかのように真っ直ぐに宇宙を映す夜空へと伸びていき、ペルセウス座の流星達がそれを歓迎した。

 ボクはボクの意思で頸椎埋込端末ナビゲーションを一時停止した。人類相互共有電脳機構HICSには数字だけで十分だ。


 その時、急に吹いた風がボクの軍帽をさらった。中に押し込んでいた長髪が風に舞う。

 それでもボクは夜空を見上げ続けた。光の粒子と波が向かうその先を見届けたい、無性にそう思った。


 138億光年前、ビッグバンによって発生した「量子のゆらぎ」は宇宙にひしめく物質全ての源となり、今では「宇宙のゆらぎ」となって互いに求め合い1つに戻ろうとしている。それは素粒子であり、遺伝子であり、電磁気力であり、強い力であり、弱い力であり、引力引き合う力であり――。

 トキコ・キリガヤもまたそうした力を感じ、求め合い、引かれていったのだ。それは、ボクの全細胞、全電子信号、全粒子がどうしようもなく彼女の引力性にかれてしまったのと同じように。


 もう一度風が踊った。今度はボクを優しく撫でるように。

 乱れた髪もそのままに、ボクは宇宙を見続けた。

 ボクだけが見える粒子と波で出来た光の矢トキコ・キリガヤは、白、黄、青、赤の星点描で埋めつくされた宇宙へと溶けていき、次々と誕生する流星によってかき混ぜられ拡散していった。

 透明な夜空に展開する星々の粒子は、引かれあい、近づき、繋がり、大きな渦となってお互いを求めて回り続ける――それが宇宙のネットワーク、トキコ・キリガヤがゆく次元。

 ボクは息を吐く。唇にはもう彼女の感触はなかった。


 

 ――あなたも寂しかったのですか?



 それはボクの胸の中だけの声、脳神経回路に伝搬する電気信号の強弱に過ぎない。そしてそれは決して彼女と交わることはない。

 何故ならボクは、人類相互共有電脳機構HICSの中で終わり示すデータセンチネルとして、最期までひとりでいなければならないのだから。



 ボクは軍帽を拾うと、遙か遠くに見えるヒトの都市まちの灯りを見据えながら高台を降り始めた。




   <了>

 

 

 

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