愛してる、ショパン

雨宮 瑞樹

愛してる、ショパン

「ただいま」

 一人暮らしを始めて三年。誰もいないひんやりとしたワンルームの薄いドアを押す。手に持っていた白石真理と書かれた社員証を鞄にしまい込み、代わりに使い古したポーチを取り出した。チャックを開けて、指先で堅い感触を確かめて取り出し中身を口の中へ放る。キッチンでコップに水を入れて、飲み干した。ふうっと息をつく。そして、壁に向かって微笑みかけた。

「ただいま帰りました」

 声をかけた先は、ベッドの横壁一杯に引き伸ばして張ってある肖像画だ。ピアノの詩人と称されるフレデリック・ショパン。線の細い顔立ちにある、力強い瞳を見つめる。

「今日も一日、無事に終わってほっとしました」

 当然、話しかけたところで返答などあるはずない。でも、私は話しかけずに入られない。この身体は、二度と抜け出すことができない深く透明な深海に身体ごと落ちてしまっているのだから。約二百年の時を越えて。


 きっかけは、半年前。

 その頃、私は病気を患って入院することになった。持て余す時間は、ぐるぐるの負の思考へと追いやられ、不安を増長させる。どんどん後ろ向き担っていく自分が嫌になって、何でもいいから気を紛らわる方法を編み出した。それが、音楽だった。最近の流行りの歌手、洋楽を聞き漁ったが、どれもしっくりこない。そんな中、たまたま流れ出した『夜想曲ノクターン第二番』。一瞬で心が奪われた。優雅で甘い、優しい旋律。暗かった気持ちが、ピアノの調べに乗って、すっと消えていくようだった。それが、私がショパンという人へ恋に落ちた瞬間だった。水をずっと欲してやまなかった身体がスポンジのように、穏やかな音色が吸収されていくようだった。その代わりといわんばかりに、涙が溢れた。全身が震えるほどの感動を初めて味わった。それからショパンの代表曲から練習曲に至るまで、すべて聞き漁った感動の嵐が吹き荒れたように、震えが止まらなかった。

 退院したあとも、その沼から抜け出すどころか、どんどんはまっていった。部屋にいるときは、必ずスピーカーからショパンを流す。聞けない時は、鼻歌で無音をカバーする。布団の中でも、目を閉じながら頭の中で再生させる。

 そんな日常が翌日も続くと信じて疑うことはなかった。

 

 翌朝、目が覚めて、いつも通り顔を洗って仕事へいく支度をする。いつもならば、朝は時間に追われていて、曲を流す余裕がないのだが、今日は無性に大音量で彼の曲を聞きたくなった。急いで、『華麗なる大円舞曲』を流す。朝のこの時間帯に相応しい。それを聞きながら、水を用意。鞄の中のポーチから、いつも通りのものを飲みこみ、黒いパンツスーツとジャケットを着こんだ。ちょうど曲が終わった頃、支度を終えて、鼻歌を歌いながら鞄を手にする。

「行ってきますね」

 壁のショパンに微笑みかけて、鼻歌を止めないまま、玄関のドアノブへ手を掛けた。

 手にバチっと強い静電気のような電流が走っていた。その瞬間、唐突に眩い光がドアノブを掴んでいる手から放たれて、私の身体をまるごとその光の中に飲み込まれていた。目が眩んで前がみえない。恐怖を何とか紛らわせたくて、ショパンの楽しげな曲を口ずさむ。それから、どのくらい時間がたったのか。


 突然、視界が拓けたかと思いきや、瞳を丸々とさせている男性が目の前にいて、仰天する。

「その曲……どうして、知ってるんだ?」

 男性はいうが、そんなことどうだってよかった。まだ家から出てもいなかったはずなのに、どうして人がいるだろう。しかも、今立っているの場所は、中世ヨーロッパの街中のようだ。目の前に立っている男性も中世の男性衣装を纏っている。

 あり得ない。夢ではないかと、何度も目をごしごし擦るが、現実だというように目の縁が痛んだ。それだけで、発狂しそうなのに、男性の顔をまじまじと確認したら、そんなこのどうでもよくなるほどの衝撃が心臓を貫いていた。長めの焦げ茶色の癖毛。高い鼻。そして、少し暗い瞳。いや、まさか。そんなはずはない。可能性を打ち消そうとしていると、彼が急に私の手をとっていた。

「ちょっと、来てくれ」

 男に手をひかれ、すぐ近くのアパートメントの一室へ連れてこられていた。リビングには暖炉、奥に寝室。何かの映画で見たことのあるような部屋だった。不安が押し寄せたが、その懸念は彼が私の手を放した瞬間に消える。彼は、一直線にリビング脇へ置かれているピアノの前に座っていた。鍵盤に手をのせ、私が先ほど口ずさんでいた曲『子犬のワルツ』を弾きだしていたのだ。驚いて、私はその横に駆け寄る。長い指先が、鍵盤の上で子犬のように楽し気に、素早く動き回っている。まるで自分の曲であるかのように。先ほど打ち消した可能性を目の前に突き付けらた気がして呆然とする。しばらくして、弾き終えた彼は、私の顔を見てはっきりと言った。

「申し遅れた。僕は、フレデリック・ショパンだ」

 ゴクリと唾をのむ。頭が混乱して、現実を受け止めることにもたついていると、畳みかけるように、彼の質問が続いた。

「さっき歌っていたのは、この曲だったろう? どこで知ったんだ?」

 彼は、真剣そのものだった。その顔をまじまじと見つめる。あり得ないと思う。でも、彼が言う通り、この人は本物のショパンだ。どうしてか、間違いないと思う。確信した途端、この訳のわからないこの状況への戸惑いなんて吹っ飛んでいた。

「もちろん、あなたの大ファンだからです! ショパンさまが作った曲は勿論、全部知っています!」

「聞きたことは、そういうことじゃない。君が歌っていたのは、昨日完成したばかりの曲で、まだ誰にも聴かせたことがなかった。それなのに、どうして君は知っていた?」

 彼の疑問は、そちらだったのか。高ぶっていた気持ちに蓋をされると、焦りに変わっていた。まさか、未来から来たからとは、答えられるはずがない。

「えーっと……この前その辺歩いていたら、ピアノの音色が聞こえてきて……それで」

 最後は笑顔で濁すと、彼は何とか納得してくれたようだった。

「あぁ、そういうことか……」

「盗み聞きするような真似をして、すみません。 でも! 私は、本当にショパンさまが大好きなので! だから、どうか嫌わないでください」

 しがみついて懇願すると、ショパンは穏やかに笑っていた。ズギュンと胸を撃たれる。教科書やネット、どんなに調べても出てこない表情。初めてみる彼の笑顔にぶわっと一気に熱が上がっていた。なんて、素敵な笑顔なのだろう。うっとりと見つめてしまう。

「君は面白い人なんだね。その服装も、変わっているし」

 冷静に指摘されて、再び上がった熱を冷まされる。この時代にスーツなどあるはずはない。それに関しての言い訳はどうすればいいだろう。

 考え込んでいると、ゴホゴホと、嫌な咳が響いた。彼から発せられた咳は、どんどん酷くなり、とうとう彼の身体はピアノの椅子から崩れ落ちていた。咳込み続ける細い背中を私は必死に擦っていると、彼の細い指先は、自分の口元を抑えていた。その様子に、私は目を見開くことしかできなかった。細く長い指の隙間から、ダラダラと赤い液体が流れている。私は急いで、頭の中のショパン年表を開く。その年表を見て背筋が凍った。

 子犬のワルツを作曲し終わった、約一年後。ショパンは、結核でその生涯を終える。

 

 しばらくすると、咳は落ち着いてはいたが、顔色は最悪になっていた。

「すまない」

 玉のような汗を額に浮かべてながら、私に言う。ピアノは、寂し気にじっと彼を見つめているようだった。胸がぎゅっと鷲掴みされたかのように、苦しくなる。動く気力もない彼の細い腕を自分の首へ回して、私がゆっくりとベッドまで連れて、ベッドへ横たえさせた。

「君はもう帰ってくれ。ありがとう」

 横になった彼は、相変わらず青白い顔をしていた。身体が弱っているときの心細さは、私も経験したことがある。こんな状態で、一人彼を取り残すなんて、私にはできない。キッチンへ向かい、コップ一杯の水を持ってきて、サイドボードに置く。

「少し水分を取りましょう」

 声をかけて、彼の背に手を入れ身を起させる。水を飲ませると、再び横になっていた。疲れた表情をして、ふうっと大きく息をする。青白さの青が少しだけ消えてくれたような気がしたが、辛そうだった。何もできないもどかしさを、拳で握りつぶすと、ふとこみ上げるものに突き動かされていた。

「あの! 私に、あなたのお世話をさせてくれませんか? 私は、あなたを支えたいんです!」

 勢いよく言うと、伏せていた彼の瞳が、ゆっくりと私へ移動していた。そして、鋭く真剣な眼差しを向けてくる。私は目を逸らすことなく、じっと見返し、彼の言葉を待つ。

「……まるで、僕が死ぬことを分かっているような口ぶりだね……」

 あえて言わないようにしていた言葉を、見透かされていて、たじろぐ。無言を突き通していると、彼は達観したようにいった。

「いいんだ。医者からも、そういわれているしね。長くは、ないと」

 静かに言うと、ベッドから見えるピアノへ寂しげな瞳を向けていた。

「僕の人生は、ピアノがすべてだった」

「……だからこそ、私はあなたを支えたいんです。最期まで」

 包み隠さない残酷な単語を添え、真っ直ぐに彼を見つめる。ピアノへ向けていた彼の瞳が揺れていた。

「容赦ないね」

 ははっと、力の抜けた声で笑って、口元を引き締め、強い意志を秘めた瞳を見せる。

「君の申し出を、有難く受け取らせてもいいのかい?」

「もちろんです」

 力強く頷くと、彼は穏やかな微笑みを浮かべていた。

「そういえば、君の名前、聞いていなかったね」

「私の名前は、マリです」

 苗字をとって、そういうと彼は優しく私の名前を呼ぶ。

「マリか……いい名前だ」

 細める瞳に、私が映っていた。


 それから、彼はしばらくベッドの上で安静に過ごしていた。その間、彼の了承を得てクローゼットに入っていた彼の姉の洋服を借りて、食事や彼の介助に専念する。できる限りのことをやって、夜はベッドサイドに持ってきた椅子でじっと彼の様子を見守る。

 それを何日か続けたある朝。眠りこけていた私の耳に、優しいピアノの調べが響いてきた。私が彼へ恋に落ちたきっかけとなった『夜想曲ノクターン第二番』だった。まだ夢の中にいるような、気分になる。彼が奏でる音は、あまりに切なくて、心臓に細い糸が巻き付いて、きゅうっと締め付けてくるようだった。優雅に体を揺らしながらピアノを弾く背中が、どんどん滲んで曖昧になっていく。曲が終わり、彼が立ち上がって私の方へ振り返った時の瞳は、大きく見開かれていた。

「どうして、泣いているんだ?」

 戸惑いながら声をかけられる。答えたかったが、喉の奥が激しく痙攣していて、声が出なかった。

 こんなに、才能溢れたこの人を。ピアノを愛してやまない人を。どうして神様は、彼の命をこんなに早く刈り取ろうとするのだろう。彼にはもっと、生きる権利と価値があったはずだ。心臓に巻き付いた糸は、更にぎゅうぎゅうと締めあげてくる。涙が、止まらなかった。嗚咽する私に、彼は、戸惑いながらも泣き止むまで、寄り添っていてくれていた。

 

 しばらくして、高ぶった気分が落ち着いてきた頃、彼は水を持ってきてくれていた。

「大丈夫かい?」

「すみません」

 持ってきてくれた水を飲む。ひりひりしていた喉に、水の冷たさは心地よかった。熱くなった頭が、冷えていく。その瞬間、私は「あ!」と声を上げていた。私の声に驚いた表情を見せる彼を差し置いて、私は被りつくように自分の鞄へ駆け寄った。

 中を急いで調べる。あった。よく手に馴染んだポーチを取り出す。私がここに導かれた理由は、これだ。チャックを開けて、中身を取り出し、蛇口を捻ってコップに水を汲む。どこまで持ち直してくれるかわからない。でも、かける意味はあるはずだ。水と一緒に、薬を彼の前へ差し出した。

「これは?」

 この時代に、カプセルの薬なんてない。怪訝な顔をされるが、私ははっきりと告げる。

「あなたの病気に効く薬です」

「君は、医者なのかい?」

「残念ながら違います。でも、このまま何もしないよりは、ずっといいはずです。私を信じて、飲んでください」

 私が入院するに至った病名は、彼と同じ結核だった。

 

 彼が薬を飲み始めると、病状は、格段に良くなっていた。顔色もよく、食事もとれるようになり、毎日ピアノへ向かうことができるようになっていた。その変化が、心から嬉しかった。彼自身が奏でるピアノの音色は、清らかな水のように心に染み渡る。神様に文句をいった自分を、許してほしいとさえ思えた。彼の活動は日に日に活発になっていった。私の頭の中のショパン年表にはないコンサートを開き、喝采を浴び、更には本来彼が亡くなる直前に作曲されたはずの曲も、すでに完成されていた。やっぱり、この人は天才だ。そう思わずにいられない。興奮と感動の毎日。このまま死んでもいいと思えるほど、私は幸せだった。

 しかし、穏やかな日々は、突如として終わりを告げていた。


 それは、彼がいない時間帯だった。彼は、体力をつけるために、必ず散歩に出かける。その間、洗い物や家事をしていると、急激な胸の苦しさに襲われた。咳がとまらなくなって、頭に靄がかかり始めて、床に踞る。その最中、彼が帰ってきていた。

「マリ! 大丈夫か?」

 慌てて駆け寄ってくる。大丈夫と、言おうとしたら、ゴボっと嫌な音のする咳が出た。気づけば、床に赤い液体が広がっていた。

「……まさか……」

 彼の形のいい唇が戦慄く。希望から絶望へ突き落とされたような薄暗い色の瞳に変わっていく。そんな顔しないでほしい。これは私が望んだことなのだから。あなたが、少しでも生き永らえてくれるのならば、これ程幸せなことはない。そう伝えたかったのに、視界が真っ暗になっていた。

「マリ……」

 名前を呼ばれて、目が覚める。いつも彼が使うベッドに、私が寝かされていた。私の手をぎゅっと握ってくれている彼の大きな手が温かい。ぼんやりとした視界がゆっくり鮮明になっていく。そこに彼の悲し気な顔が視界に映り込んできていた。

「いつもくれていたあの薬は、君のものだったんだね……。何も知らず、僕は何てことを」

「謝らないでください。私は大丈夫です」

「大丈夫なんかじゃない。薬は君のものだ。君が飲むんだ」

 訴える彼に、私は首を振る。

「私は、昔からあなたをもっと生かしたいと強く願っていました。だから、私は、ここに導かれたんだと思うんです」

 家の部屋の中で、彼の曲を流しているとき、いつも思っていた。ショパンには、もっと長く生きていてほしかった。もっと新しい曲が聞きたかった。その強い思いが神様に通じたから、この状況を作り出した。だから、私は今彼の前の前にいるのだ。間違いなくそう思うのに、彼は苦し気な表情を浮かべていう。

「僕は、ずっと願っていた。もっと、時間が欲しい。もっと、ピアノと向き合いたい。もっと、生きていたい。そんな僕の浅ましい願いが、優しい君の思いと繋がってしまった。僕が、マリを引き寄せてしまったんだ」

 後悔しきれないとばかりに、項垂れる。彼の肩は震えていた。

「しかし、僕の身勝手な願いの代償が、君の命だというのならば、僕はそんなものいらない。自分の本来あるべき運命を、すべて受け入れる」

 顔を上げた彼の目には、死を見据えた強い眼差しがあった。彼が死に急ぐ必要なんてない。私は、何度も首を横に振る。

「私なんか生きていたって、こんな素晴らしいものを生み出すことなんて、できない。でも、あなたならできる。後世に語り継がれるような、輝くような音楽を残すことができて、みんなの希望となって、暗い世界から救いだしてくれる力がある。私もその一人でした。あなたの曲に出会い、救われたんです。だから、あなたの命は、私とは比べ物にならないほど、重い。あなたには、ちゃんとこの先も生きていてほしいんです」

「命に軽いも、重いもない。みんな等しく大事な命だ。マリを犠牲にして手に入れた人生なんか、僕にとっては無意味なんだ。曲を作ることも、できなくなる」

「あなたなら、できます。どんなことでも、乗り越えていける」

「できない! そんなこと……絶対できない……。だって、僕にとって、マリは一番大事な存在なのだから。愛しい人を見捨てることなんて、僕にはできない」

 私の手を包み込んでくれている細く長い指先が震えた。その震えが伝染して、忘れかけていた心臓に巻き付いていた糸が血が滲みそうなほど、強く締めあげていく。そこから、嬉しさ、切なさ、悲しみ、後悔。全部混ざりあった涙が、じわりと溢れた。彼の細い肩も大きく上下していて、私のせいで絶望に落としてしまったことを知る。

 私が、悪いんだ。本当ならば、薬を彼へ全部託して、私は去るべきだったのに。私は浅はかにも望んでしまった。私と彼。どちらが先に逝くかわからない。だけど、その日が訪れるまで、ずっと一緒にいたいと。その未練がましさが、こんなに苦しませることになるるなんて、思いもしなかった。胸が苦しくて、痛くて、たまらない。

 

 翌朝。彼に握られている手をそっと抜け出して、大きくて繊細な手を撫でると、胸がどんどん苦しくなって慌てて手を放した。重い身体を何とか起こして、椅子で眠っている彼の顔を脳に焼き付ける。ここで過ごした日々を、すべて胸に刻みつけ、彼を起こさないように気を付けながら、ベッドから出た。 そして、この世界にやってきた時のスーツに袖を通した。あの日、私はこのスーツを着て、自分の家のドアノブに手をかけた瞬間、ここに辿り着いた。きっと同じことが起こるはずだ。鞄からポーチを取り出し、テーブルの上に置く。望み託して、いざ玄関へ向かおうとしたら、彼の声が呼び止めた。

「マリ……何をしているんだ」

 彼の声は掠れていて、切なさが滲んでいた。向けようとしていた爪先が止まってしまう。同時に、最後にもう一度だけ、彼の顔を見たいと思った。しかし、振り返った時には、彼はもうすぐ傍まできていて、叶わなかった。私の体はすっぽりと彼の腕の中に包まれていた。視界は彼のぬくもりでいっぱいになる。私は、ゆっくり彼の細い背中に手をまわして、全身に彼を刻むように目を閉じた。とくり、とくりと、彼が生きている音がする。離れたくない。ずっと、一緒にいたい。泣き叫ぶ心を圧し殺して、私はゆっくり身を放して、今度こそ彼の顔を見つめる。彼の目の淵には、今にも零れそうな水が溜まっていた。

「行ってきますね」

 泣かない私の代わりに、彼の目から溢れた透き通った道筋が、頬を伝い床にポトリと、落ちていた。彼から背を向けようとした動作が立ち止まってしまいそうになる。それでも、行かなくてはならない。未練を引きはがして、ドアへゆっくりと手を伸ばす。

 その時。切ない音色が私の背中をそっと押していた。私を送り出すための『別れの曲』だった。それを、耳に焼き付けながら、私は今度こそドアノブに触れた。その瞬間、触れた場所から眩い光が放たれる。そして、私の身体はその中へ吸い込まれていく。光に包まれる最中、彼の声が聞こえた。

「マリ……さようなら」

 

 気付いた時、私は慣れ親しんだ自分のベッドの上だった。彼といたときの体の不調は完全に消えていたが、目には涙が溜まっていた。滲んでいる部屋を見渡す。鞄が目に入った。急いでベッドから降り、中身を確認する。置いてきたはずのポーチが視界いっぱいに飛び込んでくる。震える手で、取り出しチャックを開ける。薬は、彼が飲んだはずの分も含めて、すべて元に戻っていた。強烈な落胆が、私を突き落とされ、身動きすることがきない。縋るように、壁を見やる。貼ってあったはずのポスターは、跡形もなく消えていた。

 それから、長く私はショパンから、遠ざかっていた。考えたくなかった。私の部屋からショパンが消えてしまっていた意味を。彼に与えてしまった何かしらの影響を。知ることが怖かった。

 それから、私はショパンと過ごした輝くような日々を忘れたくて、がむしゃらに働いた。残業もすすんで受け入れて、午前様になるのもしばしばだった。

 そうやって仕事に没頭し続けたある日。とうとう終電を逃してしまっていた。

 仕方なく、タクシーを捕まえて、車に乗り込む。行き先を告げると、ゆっくり車が動き出していた。車内にひっそりとラジオが流れていた。

「深夜、疲れた皆さんを癒してくれるのは、やはりショパンでしょう」

 パーソナリティの声が、彼の名前を告げる。じわっと目に涙が溜まっていく。そして、その後続いた「彼は、四十九歳でこの世を去りました」という言葉に、息をするのも忘れていた。私の知っていたショパンは、三十九歳でこの世を去っている。彼は、私の願いを受け取ってくれた。少しでも永く、ちゃんと生きてくれた。一気に涙が溢れて止まらなくなる。タクシーの運転手は私の変化に気づいて「ラジオ、止めましょうか?」と尋ねてくる。私は叫ぶようにいった。

「絶対に、止めないでください!」

 私の叫びに、驚いた運転手は、首を捻りながら私を意識の外へ追いやり、前を向いていた。

 そして、ラジオの声はその先を穏やかに語っていた。

「彼は自分の人生すべてを、ピアノへ捧げました。そんな彼が最期に残した曲は、かつて愛した人の為に作曲されたといわれています。ショパンの最高傑作と絶賛されたこの曲を皆様へ、お届けします」

 曲が流れ始める。初めて聞く曲に、息ができないくらい、胸が詰まった。私を覆いつくしていた苦しさを、すべて許し、包み込むように優しく奏でられるピアノの音色。

 彼と過ごした一瞬の流れ星をのような日々が、鮮明に蘇っていく。彼の微笑み。長い指先。ピアノを弾く後ろ姿。

 最後に抱きしめられた温もりと鼓動まで。

 別れの時、私は涙を堪えた。だから、これ以上、涙を流すまいと思ったのに、抑えようとすればするほど、嗚咽が洩れた。そして、曲は終わりを告げ、先ほど流れた曲名を静かに明かしていた。

『愛してる、マリ』

 

 


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愛してる、ショパン 雨宮 瑞樹 @nomoto99

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