海をまとう

黒巻雷鳴

海をまとう

 わたしは、夜の海がきらいだ。

 黒い世界から聞こえてくる潮騒が、死への恐怖にとてもよく似ているから。

 そっとまぶたをとじて、冬の汐風を全身に浴びる。

 何度もリフレインする波の音。やがて、わたしの意識は肉体から解放され、浮遊し、海神わだつみに誘われるまま吸い寄せられてゆく。

 ふと、漂いながら夜空を仰いだ。綺羅星にみえるのは、すべて人工衛星だろうか。そう考えると、あの輝きのひとつひとつが、どこか虚しく思えてしまう。

 穏やかな波の連続。ゆるやかにくり返される浸食は、とうとう無防備なわたしの足もとにまで届いた。

 奪われる体温──砂に沈む冷えきった爪先。不思議と、そんな感覚が心地よかった。

 わたしは、うねりに向かって歩きだす。じゃぶじゃぶと音をたてて平穏が壊されてゆく。

 暗闇のなか、遠くに見える水平線が溶けては揺れて、揺れてはまた、溶ける。

 いつの間にかにじんだ視界には、波の花が乱れ咲いた。

 酸素はもう必要ない。両手をひろげ、今度は強く瞼をとじる。

 感覚は失われてゆくのに、記憶だけは鮮明によみがえってきていた。

 大きな校舎、舞い散る桜の花びら、学生服の駆けるうしろ姿、白い入道雲、濡羽ぬれば色の長い髪、陽に透けるもみじ、級友たちの笑い声──。

 そこで、わたしの身体からだは浮上する。

 水面みなもを勢いよく突き破るのと同時に、海水と涙がまじりあって滴り落ちる。

 潤む瞳に映ったのは、星のまたたきと旋回する光の帯。それはとても綺麗きれいで、美しい景色だった。ふるえる唇を噛めば、生を実感した。ああ、そうだったのかと、この時になってはじめて理解する。

 わたしは、何もしてこなかっただけ。あの狭い教室の片隅で、手のひらで顔を、耳を、覆い隠してうずくまっていただけだ。それはまるで、糸の切れた操り人形──制服を着た、壊れた人形に成り果てていた。

 そんな自分は間違った存在だと気づいても、わたしは動かなかった。何もしなかった。変わることを恐れていた。弱者のままでいいと望んでしまっていた。

 凍えるほほに熱い涙があふれてくるのがわかる。

 わたしは、泣いた。泣いていた。今までとは違う泣き方で。

 解き放たれた感情はうねりとなって大きく膨らみ、はじけて雨のように降りそそぐ。

 わたしは生きたい、強くなりたい。

 誰に倣うやり方ではなくて、ただ、がむしゃらにもがいて、強く生きたい。生きたいんだ。

 そう教えてくれたのは、わたしがきらいな夜の海。

「ありがとう」の叫び声は、潮騒にさらわれて、暗い沖へと消えていった。






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