海月-Immortal Jellyfish

静 霧一

Immortal Jellyfish

私はクラゲの夢を見た。

光が差す海の中で、ただ果てもなく漂い続ける、そんな夢であった。

途中、小魚の群れが私の横を通り、その勢いで起きた波に揺られ、私はどこかへと流されていく。


波に身を委ねて、美しい水面を眺め続けるのも悪くない。

そんな心地の良い夢の中で、パタパタと足音が聞こえた。

誰かが近づいてくるその足音に、不思議と嫌な感じはしなかった。

次第に私の意識は海面へと引き上げられ、眩く揺らめく白銀の光の中へと吸い込まれていった。


目が覚めると、目の前にはいくつもの付箋が目に入った。

ディスプレイに投影された作りかけのサイトデザインが淡い光を放っている。

モニターの右端を見ると、時刻は23時35分と表示されていた。

終電まであと15分。私は慌てながらノートパソコンをバッグにしまい、そのまま逃げるようにして社内の施錠をした。


終電の電車に揺られながら窓の外を見る。

すでに住宅街は眠っており、夜の暗さが一層増したせいか、電車の窓ガラスに私の顔が鮮明に反射している。眼の下にはうっすらと影ができ、頬には赤みがなく、気力のない表情をしていた。


スマホを見ると時刻は11月25日の0時を表示している。

電車に揺られながら、私は記念すべき30歳を迎えた。

誰からも通知がない、無音の30歳であった。



私の嫌いな朝が来た。

寝不足の気怠い体を無理やりに動かし、生き急ぐように家を出た。

駅ホームのいつもの5車両目のドアが開く線の手前に立ち、「あなたの人生を変えませんか?」という美容整形の看板広告を見ながら電車を待つ。


7時31分。通勤快速の電車が汽笛を鳴らしながらホームへと突入する。

その瞬間、強烈な眠気に襲われ、私の視界が暗転した。

本能は死を直感したのか反射的に白線のギリギリで足を踏みとどめていた。


到着した電車には、すでに乗客がすし詰め状態になっており、そこを新たな乗客が押し込む形で乗車していく。

溜息と雑踏で飽和するその電車は、時間に遅れまいと急ぐようにして発車していった。


私は電車を見送りながら空いたベンチに腰掛けた。

冷静になって、自分があの電車に飛び込み死のうとしたことに慄いた。


ベンチで無気力に座りながら、電車を何本も見過ごした。

遅刻は確定だろう。息継ぎの間もない仕事のタスクで埋まったカレンダーが一瞬頭を過ったが、鉛のように重くなった体はそれ以上動くことはなく、無意識にスマホのチャットに「体調不良で休みます」の文面を送っていた。


ふと、波がさざめく海の音がした。昨夜聞いた夢と同じ音だ。

この音に呼ばれている気がして、ふと顔をあげるとちょうど電車が到着しており、私を招いているかのように扉が開いていた。


私は海の音が聞こえるほうへと流されるままに電車に揺られた。2時間もの長旅が終着を迎え、私がたどり着いたのは片瀬江ノ島駅であった。


海に近いこの駅の改札口を出るとすぐに、潮の香りが鼻をかすめ、波の音が耳をくすぐった。駅から一番近い海岸線までは私は小走りで向かい、汚れることなど気にせずに砂浜へと足を踏み入れた。

平日昼間の浜辺は人が少ないおかげか、海が少しだけ広く見えた。私は砂浜の真ん中に体育座りをし、視界いっぱいに広がる海を眺めた。

「あの」

ふと、後ろから声をかけられた。

いきなり声を掛けられ驚き思わず振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。透き通るような白い肌に、太陽の光で赤みがかった艶のある黒髪のショートカット。まだ着慣れていないブレザーと少し緩んだネクタイに垢ぬけない幼げな顔立ちを見るに、歳は高校生ぐらいだろうか。

「ここ、僕の席です」

少年は私が座っている場所を指さしている。

「すいません」と私は反射的に敬語になり、人一人分横にずれた。少年は私に警戒することなく、静かに空いたスペースに座り、私と同じように海を眺めていた。海を眺めている少年の横顔はとても美しく、私は思わず緊張した。

「海、眺めるの好きなの?」

私はその少年に尋ねた。

「うん。好き」

少年は海をじっと見ながら答えた。

波の音に紛れて、どこかの学校のチャイムが聞こえた。私はふと少年に違和感を覚えた。学生の11月はまだ冬休みではないはずで、この少年はなぜ、この閑散とした砂浜にいるのだろうか。

「学校は?」

私は頭に浮かんだ疑問を曲げずに聞いた。一瞬その少年が見せた胡乱な目つきに、私の背筋が冷ついた。学校に行けない理由を聞くなんて、思春期真っただ中の子供に現実を突きつけるだけの他傷行為そのものではないか。

私は即座に「ごめん」と口にし俯いた。

「お姉さんと一緒だよ」

少年は海から私へと視線を変えた。

私はその瞬間すべてを悟り、そして自分の情けなさを痛感した。私は肉体だけが大きくなったただの子供だ。こんな年端も行かない少年の一言が、私の胸の奥へと深く突き刺さった。


少年は私の悲愴な表情に困惑したのか、左手を伸ばし私の頭を優しく撫でた。

私はその瞬間、涙がこぼれた。自分自身の傷と痛みに化粧をしてごまかし続けてきたが、いつの間にかその化粧が私と同化し、傷と痛みを押し付ける壁となっていた。少年はその壁を取り払うかのように、優しく撫で続けた。


5分程だろうか。とうとう私の涙袋も空となり、ひっくという喉が鳴る音で肩が揺れるだけとなった。

少年は私が落ち着いたのを見ると、頭から手を離し、また体育座りの体勢へと戻った。何度も夢で聞いた海の音がすぐ近くで聞こえる。この音に誘われるがままにこの場所にたどり着いたが、その答えが海なのか少年なのか、それともその両方なのかがわからない。私はその答えを知りたいと、本能で望んでしまった。

「君の名前を教えて?」

私は少年に訊ねた。

「佐伯 祥」

「祥くんね。ありがとう」

「なんで名前なんて聞いたの?」

「私が知りたかっただけよ。優しくしてもらった人の名前を知らないなんて、恩知らずも甚だしいもの。私の気がすまないの」

「へんなの」

「へんかな?」

「へんだよ」

祥と私は見つめ合い、そして笑った。



「クラゲにはね、脳も心臓もないんだ。僕らとは違ってきっと悩みなんてないんだろうね」

祥はクラゲが展示されている丸い淵で囲われたガラスの水槽を見ながらそう呟いた。彼が行きたい場所があると連れてこられたのは近くにある江の島水族館で、私たちはその中のクラゲの展覧コーナーを見ていた。

今鑑賞しているクラゲの展示名にはタコクラゲと書いており、その幼生が小さな水槽の中でキノコ状の傘を揺らしながら一生懸命に泳いでいた。


タコクラゲの展示の横には、クラゲの不思議コーナーというクラゲの生態を紹介する展示がされており、その題目は「クラゲの生殖について」というものであった。


――クラゲは無性生殖と有性生殖の2通りの生殖方法が存在します。有性生殖では、受精卵は「プラヌラ」と呼ばれる幼生となり、岩などに付着してポリプになる。ポリプの無性生殖の方法には、種類によって、2つに分裂する方法もあれば、組織塊から増える方法などがあります――


私はクラゲの生殖説明を読んで驚いたと同時に、人生で初めてクラゲに真剣に向き合っている気がした。大学生の時の元カレと水族館に行った際にもクラゲの展示を見たことはあったが「綺麗」という言葉以外は何も出てこなかった。綺麗なものに興味はあっても、クラゲには興味がなかったのだ。


「見せたいクラゲがいるんだ」

祥は私の手を弾いて、いくつかクラゲの水槽を飛ばした。


私は突然のことで驚いたが、背中越しに見た彼は子供らしくはしゃいでいるようにも見え、何も言わずに手を引かれた。連れていかれたのは小窓の前であった。

中身を覗くと、米粒ほどの小さなクラゲがふわふわと浮いている。か細い触手を動かし、優雅に泳いでいる。傘の中心には紅を差したように赤い臓器があり、まるで牡丹の蕾が泳いでいるような美しさがあった。

その神秘的な美しさ惹かれ、思わずそのクラゲを見入ってしまった。


「綺麗でしょ?」

祥は私に顔を近づけ屈託のない笑顔を向けた。

私はその笑顔に胸の奥に突き刺さるものがあり、たじろぎながら「う、うん」と頷いた。クラゲの展示名に目を移すと、そこには「ベニクラゲ」と記載されていた。

「ベニクラゲっていうんだ。見た目まんまって感じだね」

「和名はね。でも英名は違うんだ。ベニクラゲは英名でImmortal Jellyfishと呼ばれているんだ。”不滅のクラゲ”って意味だよ」

「不滅…?」

「ベニクラゲはね、不老不死の生き物なんだよ」

不老不死という言葉に私の頭の上には疑問符が浮いた。なにせ不老不死など、漫画やアニメの世界でしか出てこない単語だ。漫画やアニメの悪役が不老不死を獲得しても、正義のヒーローにやられて結局不老不死は実現できていないのがオチだ。そんな空想世界の中でも実現しえないものをこのクラゲが実現しているというのだろうか。であれば、世紀の大発見なはずだが、私は今初めてベニクラゲという名前を聞いたから、本当に不老不死なのかと疑いにかかった。

「ベニクラゲはね、死の直前に若返るんだ」

「若返る……?」

「そう、若返る。さっきのクラゲの生殖についての解説覚えてる?」。

「有性生殖と無性生殖のやつ?」

「うん。クラゲは死に至ると海に溶けて消えるんだ。だけどベニクラゲは違う。死に至る直前に肉の塊のような状態になって溶けそうになったところでポリプとなって無性生殖をして生きながらえるんだ。その一連のサイクルが若返りって揶揄されていて、それが永続的に続いていくから不老不死を持つクラゲって呼ばれている所以なんだよね」

「そしたら不老不死もあながち間違えではないってことなんだね。不思議」

「でもこの若返りも絶対に起こる現象じゃない。若返りせずにそのまま肉の塊となって死ぬ個体もいる。人工的に若返りを行う実験も成功率はかなり低いんだ。だから完全にこの不老不死現象を解明は出来ているわけじゃない」

私は「そうなんだ」といってベニクラゲをじっと見つめた。たった一匹のクラゲに世界の奥行を教えられた気がした。ふと視線を祥に移すと、彼の瞳に水槽の光が反射していて、瞳の中でベニクラゲが泳ぐ姿が映っていた。


時刻は12時を回り、お腹を満たすために江ノ島水族館の向かいにあるハンバーガー屋へと入店した。平日のランチタイムであったが、お店の中はゆったりとした時間が流れていた。このお店にはテラス席が併設されており、せっかくならと私たちはテラス席を選んだ。

テラス席見る景色は江ノ島の海岸線が一望でき、海では波に乗るサーファーの姿が見える。

「ここの眺め好きなんだ」

「確かに綺麗だね。私もこんな景色で食事するの初めてかも。よく来るの?」

「さすがに僕一人じゃ来れないよ。昔は父さんと母さんに連れてきてもらったんだけどね」

「今は来ないの?」

私の質問に祥が口の端を一瞬噛んだ。

「10年前にね、父さんと母さんは交通事故で死んじゃってさ。僕だけたまたま生きてたんだ。たまたま。なんでだろうね、本当」

祥は乾いた笑顔を浮かべ海の遠くに視線を向けた。

「意味は……あると思う」

私は言葉を振り絞った。

「意味?」

祥が頬杖を止め海から私に視線を変えた。

「私ね、今日で30歳になったの。それでね、30歳の今日の朝にね、ふと電車に飛び込んで死のうかなって考えちゃったんだよね。死ぬことなんてこれっぽっちも考えてこなかったのにさ。30歳になったのにさ、誰からも祝福されなくて、本当に惨めで、何が楽しくて生きてるんだろうって。祥くんに会ってなかったら、もしかしたらそのまま海に飛び込んでたかもしれない。少し大袈裟かな。だけどこうして普通にお腹がすくのも、祥くんと話せてちょっとだけ楽になったからだと思うんだ。だから私にとっては君とここで会ったことに意味はあるはずなんだ。こじつけかもしれないけど」

私は少し頬を緩ませ微笑んだ。

「そっか」と祥は呟き私の顔からまた視線を逸らした。だけどもその視線の先は海の遠くではなく空や浜辺をうろうろしているところに可愛さを覚えた。

その後、注文していたハンバーガーのセットが届き2人で口の端にソースをつけながら無邪気に食べた。

「そういえばさ、私なんでここに来たんだろうってずっと考えててね。昨日見た夢のせいなのかなって」

私は食後のコーヒーを飲みながら呟いた

「夢?」

「うん。昨日ね、海の中で泳いでいる夢を見たんだ。それからずっと耳の中で波の音が聞こえててね。今朝も聞こえたんだ。私の住んでいるところに海なんてないからさ。なんだったんだろうって」

私は軽く笑って見せたが、祥は私の表情とは正反対で神妙な面持ちを浮かべていた。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない」

祥は何かを考え込むように顎に手を当て俯いていた。

「本当に何でもないの?」

私は一歩踏み入る。

「ちょっと馬鹿らしいことなんだけど笑わないでくれる?」

「笑わないよ」

「僕ね、前世がクラゲだったんじゃないかって思うんだ」

祥の言葉は冗談かと思ったが、彼の目にそんな濁りはいっさいなかった。

「クラゲ?なんで?」

「僕もね、たまに夢を見るんだ。お姉さんと一緒で、海の中を何も考えずに漂う夢。でもね、僕の夢には続きがあって、見る度に少しづつ海の底に沈んでいっているんだ。沈んでいるから苦しいとか怖いとかっていう感情は無くて、むしろ沈まなきゃって焦りさえあるんだ。まるで死にたがっているみたいにね。きっとこの夢は僕がクラゲだった時の記憶で、海の底に沈んで人間に生まれ変わったんじゃないかって。海が好きなのも、クラゲが好きなのも、きっとこのせいなんじゃないかってね」

祥は少し照れ笑いをした。日差しが彼を照らすたびに、髪の毛が赤毛に染まる。白い肌のせいもあって、赤毛はより鮮明に、まるで水族館でみたベニクラゲの赤と同じように見えた。



「辞めさせてください。突然のことですいません」

私は次の日、朝一番で退職願を出した。

目の前にいるバリキャリ上司は口をぽかんと開けて硬直していた。

辞めることに明確な理由はない。

ただこのままの人生だと、きっと私は電車に飛び込んで死ぬか、湯船の中で気絶しながら寝て溺死するかの2択になってしまうと予感した。人員不足が続くこの会社で、無理やり引き留められ退職交渉に苦戦するとだろうとかんがえていたが、案外すんなりと意見が通ったことに驚いた。


そして1月半ば、私は再び江ノ島へと向かった。

相変わらず江ノ島には海の音が響き渡っていて、冬の肌寒い風が吹き抜けていた。私は首を縮込ませながら、祥の姿を探しに江ノ島の海辺やその周辺の街中を歩きまわる。

目的なくぶらぶらと歩きまわっていると、とある1軒の本屋の前にたどり着いた。2階建ての低層ビルに1階を全面的に本屋にしており、少年誌の新刊から子供の絵本まで幅広く揃う古くからの街の本屋さんであった。本屋の入り口付近にはリセールされた古い本がカートや本棚の中にすし詰めとなって置かれており手書きで「全て100円」と札が掲示されている。

1階と2階を繋ぐ壁には大きく「佐伯書店」とこの店の名前が書かれていた。店内の蛍光灯は長年使われている消耗のせいか薄暗がりで、平日の昼間なためかお客さんがいない状況で静かであった。

「いらっしゃい。珍しいねこの時間にお客だなんて」

店内の奥にあるレジには白髪の年配女性が座っていた。おそらくここの店主なのだろう。

「あ、いえ、素敵な書店だなと」

「ふふふ、そういってくれる人はそういないよ。ありがとう」

店主はにんまりと笑った。皺の一本一本が深く刻まれており、特に目じりには細かく堀の深い皺が浮き出ている。皺はその人を表すというが、この女性の皺には優しさが滲み出ており、彫刻のような美しささへ感じる。

「ここには観光かい?」

店主が私に訊ねる。

「いえ、観光ではないのですが……たまたま通りかかって。いいお店だなって」

「おやまぁ…良い人もいるもんだね。そういってくれると嬉しいわ。だけどね、もうここ畳む予定なのよ」

「畳む…?」

私は首を傾げた。その様子に店主は何か言いたげな様子で口をもごもごとさせる。

「あなた時間ある?少しだけ婆さんの世間話を聞いてくれると嬉しいわ」

「え、あ、はい。時間ならあります」

私は少し戸惑いながらも、これも何かの縁かと思い店主の誘いに乗った。

レジの奥には事務所兼用の六畳一間の和室にちょこんとテーブルが置かれているだけのシンプルな部屋があった。イグサの香りが鼻を突いて、遠い日の祖母の家を想起させる。靴を脱ぎ和室へと上がり座布団へ正座をした。店主は和室の奥にある台所へと行き、温かいお茶とかりんとうを差し出してくれた。

「この本屋ね、来月に畳むことにしたのよ」

唐突な話の始まりに、思わず「えっ」と声を上げた。

「そんなに驚くことでもないわ。こんな真昼間なのにお客さんが来ないのよ。今は紙じゃなくてスマホで小説を読むでしょう?私は紙が好きなのだけれどこれも時代なのかねぇ……。それにもう腰が痛くて動くのも辛いのよ。だからね、畳もうと思ったの」

店主は少し寂しげな表情を浮かべお茶をすすった。

ふと、私の耳に海の波の音が聞こえた。そちらのほうに視線を向けると、そこには桐で出来た3段ほどの箪笥があった。その箪笥の上には1枚の写真が立てかけられていた。

私は立ち上がり、その箪笥の上の写真立てを持ち上げる。それは佐伯書店を背景にした家族写真であった。若い夫婦が映っており、真ん中には幼い男の子が一人立っている。私はこの幼い男の子に見覚えがあった。

それは、この間江ノ島の浜辺で会った祥であった。

「おや、その写真が気になるかい?」

「はい……。この男の子、佐伯 祥って名前でしょうか?」

その瞬間、店主は目を見開き驚いた顔をしていた。

「祥を知っているのかい?」

「はい。実は2ヶ月前に私江ノ島に来てまして、その際に海の浜辺で会いました」

「そうかい……またあの子はそこにいたのね」

「どういうことですか?」

「祥の両親が交通事故で亡くなったことは聞いたかい?」

「はい……まぁ」

「祥の父親は私の一人息子でね。祥は私の孫なのよ。昔は活発な子だったけど、親を亡くしてからずっと引きこもっちゃってね。なかなか友達も出来なくて、学校に出ても早退して、あの浜辺にずっといるのよ」

「そうでしたか……」

「祥の様子はどうだった?」

「自分だけが生きていることに悩んでいました。自分の生きている意味を見いだせていないというか……殻の中に閉じこもっている感じでした」

「どうしたものかねぇ……」

店主はため息をつきながら、写真を見つめた。その目が潤み始めていることに、胸の奥のほうがぎゅっと掴まれる感触がした。

「そういえば祥くんは今どこに住んでいるんですか?」

私は無理やり話題を変えた。

「ここの2階だよ。今はいないけどね」

「待たせてもらってもいいですか?」

「いいわよ」

店主は腰を上げた。部屋の奥の台所には裏手口がついており、そこから外に出ると2階へと続く赤く錆びた外階段が備え付けられていた。その階段を登り、鍵のついた扉を開ける。

2階は2つの部屋で構成されており、手前は店主の部屋で、奥の部屋が祥の部屋となっていた。

私は受け取ったスペアキーをを鍵穴へと差し込み、ゆっくりと右へと旋回させ開錠した。

部屋は広々としたワンルームの作りとなっており、白いカーテンを通して柔らかな陽の光が部屋の中を照らしている。玄関で靴を脱ぎ、心拍を上げながら部屋へ上がった。居室の真ん中には布団が敷かれており、部屋の隅には本棚と小さな簡素な机以外には何も置いていない。

私は部屋の隅に荷物を置き、布団の上に腰を落とした。

布団からは私を強烈に惹きつける人の香りが漂う。何者にも例えることのできない、体の奥を熱くさせる独特な匂い。私の意識はその匂いに眩み、布団に横たわった。

少しだけ休もう。

次第に閉じていく瞼に抗うことなく、まどろみの中で気持ちよく眠りについた。


目を開けるとそこは海の中だった。

あぁ、またあの夢だ。私は海の流れに身を任せながら漂い続けた。

途中、海の中で誰かが私を呼んでいる気がした。声は聞こえない。だが確かに私を呼んでいる。私が漂いながらもその呼びかけのするほうへと向かうと、そこには小さなベニクラゲが一匹泳いでいた。

そのベニクラゲに表情はないが優しく笑っているように感じる。私はそのベニクラゲは細い触手を伸ばし、私の触手に絡ませた。触手は先のほうからだんだんと奥へと入ってき、一つになるようにして絡み合った。

だんだんとお互いの体が融合していき、海の中へと溶けていく。儚く消えていくこの感覚に私は快楽を感じた。


もうダメだと思った途端、冷たいなにかの感触を感じ、私はパッと目が覚めた。

心臓がバクバクと音が分かるほどに脈を打っている。日はすでに落ちているようで、部屋の中は真っ暗な状態となっていた。私は横向きの体勢を変えようと体を動かそうとするが自分の背後に誰かがいるようで動くことが出来なかった。

そして私が冷たいと感じた感触は、どうやら私の手に絡み合った白くて少し骨ばった少年の柔らかな手の温度のようであった。


「祥くん―――」

私はぼそりと名前を呼んだ。

彼は寝息を立てており、私の声は聞こえていない。


私に絡まった彼の指はとても愛らしく、そして私の理性を破壊するには十分すぎるほどに淫靡なものであった。

また夢の中の快楽を感じたいと、私は彼の指を絡ませた手をそっと太腿の内側へと手繰り寄せる。

下着の隙間に彼の指を入れ、直接陰部に触れた途端、私の本能は理性を喰い殺した。


彼の指を私の指で抑えつけ、陰部を優しくなぞり動かす。そのまま彼の細く長い中指と永遠を司る薬指だけを残し、本能のままに濡れた性器の奥へと挿れた。私の指とは違う、男の骨ばった指はまるで違う生き物のように私の中を這い、聖域に優しく触れた。


止めることは出来なかった。ダメだと思っていても抗うことは出来なかった。聖域を何度も触れられた私は呆気なく絶頂を迎えた。

彼の指には糸を引いた私の愛液が絡まっている。急いで拭かなきゃを思った途端、その指はひとりでに動き出し、私の太腿の内側を掴んだ。


「お姉さん、変態だね」

耳元で囁かれた言葉に、私の奥がまたじんじんと疼きだす。

「起きてたの?」

「うん。途中からね」

「なんで止めなかったの」

「それはお姉さんに触れてみたかったからだよ」

「意地悪だね。ろくな大人にならないよ」

「そしたらお姉さんはろくな大人じゃないね」

「意地悪」

私は体の向きを変えた。

そこには祥の顔が間近にあり、舌を伸ばせば届いてしまうほど唇が近くにあった。

「さっきクラゲの夢を見たんだ。ベニクラゲの夢。無理やり触手を伸ばして一つになろうとするの。だけどね夢は途中で終わってしまったわ。だから祥くん。夢の続きを見せてくれる?」

「お洒落に着飾らないでください。したいんでしょ?」

「したいよ」

私と祥はその瞬間、窒息するほどに唇と舌を絡ませ合った。

服を脱ぎ捨て、お互いの体を求めあう。そして愛を確かめ合うかのようにお互いの聖域をぐしょぐしょになるまで舐め合った。

準備などしてこなかった。だけど私はもはや先のことなど考えていなかった。彼は初めてのようであったが、私は彼の聖域を手繰り寄せ、優しくその先端を私の奥へと挿れた。

夢で感じた快楽が、今まさに私の中で生まれている。

ぎこちなくも一生懸命に私の中に種を残そうとする彼の表情がたまらなく愛おしかった。

あぁ、もっとその表情を見せてほしい。ずっとずっと。

だが彼も限界のようであり、私の中で乱暴に絶頂を迎えた。

精液が私の聖域から溢れ出し、布団を汚した。


本能はだんだんとその力を失い、理性が冷静さを取り戻した。

お互い視線を合わせることが出来ず、無言のまま服を着た。

「ごめんね。突然お邪魔しちゃって」

「ううん。大丈夫だよ。僕しかここにはいないからね」

私と祥はたどたどしく距離を測る。

表情の冷静さとは裏腹に、私の中には罪悪感が芽生えていた。

私の抑えられない本能で年端も行かない彼の初めてを奪い、彼と出会った日の綺麗な思い出をぶち壊した。精神の強姦を私はしたのだ。


慌てて荷物をまとめ、玄関で踵を踏みながら靴を履いた。

ここを出れば彼にはもう会うことはできないだろう。頭によぎったそれが、ドアノブを握る手が震わせた。


「離れていかないでください」

祥が私を後ろから抱きしめた。

その手と声は震えていた。彼は私の背中で泣いていた。

私はドアノブから手を離し、彼の震える手を握った。

真っ暗な海の底に、愛を拗らせ間違えた2匹のクラゲが漂う。


あぁ、もう番なんだ。

番のクラゲは生殖すると死を迎えるという。

そうならば、私たちはベニクラゲに違いない。

私の前世もクラゲだったのではないかと、ふと今でも思う時がある。

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海月-Immortal Jellyfish 静 霧一 @kiriitishizuka

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