さらば夢の国

文字を打つ軟体動物

知った。

 今日は20歳の誕生日、自分が主役のパーティーを抜け出して、マンションの屋上へと階段を駆け上がる。

 見渡してみれば満天の星空……なんてことはなく、周りのビルに阻まれて空の面積がほんの少ししか残っていない。

 この立地にため息をつきながら、空に手を伸ばそうとして引っ込める。

 家賃をケチらず、もうちょっと高いところに住めばよかった。


 用意していたタバコを箱から取り出して、ライターで火をつける。

 たばこを咥えて一気に煙を吸い込んだ私は、異物が肺に入り込む感覚の気持ち悪さにげほげほとむせて煙を吐き出す。

 メロンの味なんかじゃない、ひどい味が口腔にこびりついている。

 こうして私は、タバコの味を知った。


 ああ、また知ってしまった。

 そう、あれから私はたくさんのことを知った。

 知りたいこともどうでもいいことも、楽しいこともつまらないことも、綺麗なことも汚いことも。

 


 君の見ていた夢の国はずっと遠くに行ってしまって、手すら伸ばせなくなった。

 私は戻れない。

 戻れない、のに。

 私の心は、夢の国に囚われている。





 小学3年生、少し大人になった気がして、何に対してかわからない期待を抱きながら新しいクラスへと向かう。

 正直そんな期待があったかは定かではないが、小学校の頃の記憶なんてこんなものだ。

 とにかくこの頃の私は、薄れた記憶を反芻し続ける悲しき大人などになるなんて夢にも思わずにわくわくしながら新学年に突入したのだ。


 にぎやかな教室、初めて会うひとがたくさん。

 こんなに知らないひとがいるなら、夢の国から来たお姫様もここに、なんてメルヘンな想像をしてしまう。

 先生に言われてみんなが決められた席に着いた頃、教室のドアががらがらと開く。

 入ってきたのは、夢の国のお姫様みたいなかわいい女の子だった。


 透き通るような長い髪に、髪と同じ色の真っ白な肌。

 白いドレスを身に纏って、まるで本物のお姫様みたいに。

 その一挙手一投足が美しく、目が離せない。

 お姫様は決められた席にふわりと座って、そのまま眠ってしまった。


 新しいクラスになってから1週間が経って、私はお姫様についてふたつのことを知った。

 まずは服が1着しかないこと。

 純真無垢という言葉にふさわしい真っ白なドレス、その1着だけ。

 もちろんその印象は大人になってから感じたもので、当時の私はきれいだなとしか思っていなかっただろうけど。 

 ふたつめは、お姫様は授業が始まると、きまって教室を出ていくこと。

 チャイムが鳴ると、お姫様はゆっくりと立ち上がって教室を後にするのだ。


 ある日の午後、お姫様が教室を出ていくとき私はどうしても気になってしまいついていくことにした。

 お姫様は階段を上がったと思えば下がり、校庭に出たかと思えば学校に戻り……今思えばお姫様は私に気付いていたのだろう。

 それで、お姫様が立ち止まり、私が駆け寄る。


「ねえ、お姫様。何してるの?」

「お姫様、ね。そう、私はお姫様。授業から逃げているの。あなたも一緒に逃げに来たのかしら?」


 そう言ってお姫様は私の頬に手を当て、顔を覗き込む。

 その美しい所作に、きらきらと光を反射する青い瞳に、小さい私は彼女を本物のお姫様だとすっかり信じ込んでしまった。


「なんで逃げてるの?」

「それはね……そうだ、今から私の家においで。教えてあげる」


 そう言ってお姫様は、私の手を握って駆け出す。

 走ってもその優雅さを崩さず、ドレスの裾を踏むこともしないお姫様に私は「このひとはきっと、生まれながらのお姫様なんだなぁ」なんてぼんやりと思った。


「お姫様のおうちって、夢の国?」

「夢の国には帰れないの、追い出されちゃったから」

「なんで追い出されちゃったの?」

「ないしょ」


 それから私は手を引かれて、学校を出て。

 たくさんの道を曲がって、坂を上がって下がって。

 辿り着いたのは、お城なんかじゃない、ちょっとぼろい一軒家。

 家に上がってすぐに、お姫様は私をベランダへと連れて行く。


「ねえ、お姫様はなんでそんなに白いの?」

「色を盗まれてしまったの、むかしはとっても鮮やかだったのよ」

「それはたいへん、取り返さなくちゃ」

「盗んだひとは夢の国にいるから、取り返せないのよ」


 そう言ってお姫様は顔を隠す。

 きっと悲しそうな顔をしているんだろうな、なんて思って、私は覗き込んだりしないことにした。


「ねえ、そういえば私は何をすればいいの?」

「私の話を聞いてくれればいいのよ」

「そう」

「ほら、あそこのひと」


 お姫様は向かいの道を通りがかった人を指さす。


「タバコを吸っているでしょ? あれはね、メロンの味がするんだって」

「ほんと?」

「あまりにおいしいから、子供には吸わせないようにしているんだよ」


 次は空を指さすお姫様。


「雲はね、たくさんの魚が空を泳いでいて、その影なんだって」

「へぇ」

「だからね、時々空からお魚が降ってきたりするんだよ」


 そんなとりとめのない会話をして、日が暮れる。

 広い空は真っ黒に染まり、ちいさな光がたくさんまたたく。

 そこに一筋、煌めく光が落ちていく。

 流れ星だ。


「知ってる? 流れ星は夢の国から追い出されたひとなんだよ。私もむかしは、流れ星だったの」


 空を見上げるお姫様は、哀愁の表情を浮かべていた。

 私は、きっと帰れないのが寂しいんだろうなと思って……何もできなかった。

 少し間をおいて、お姫様は口を開く。


「ねえ、私がさっきまで教えたことはね、ぜーんぶ想像なんだ」

「ソウゾウ?」

「思い浮かべることだよ、それが嘘かも本当かもわからずに」


 私には難しくて、お姫様はやっぱり頭がいいんだな、なんて思った。

 そんな私を見て察したのか、お姫様は言葉を付け加える。


「そうだね……想像っていうのは、夢の国にしかないってことだよ。見れないし触れないけど、心のなかにあるんだ」

「で、ソウゾウだとどうなるの?」

「夢の国にしかないから、ここでは嘘ってことになっちゃうんだ」

「じゃあお姫様は夢の国のお姫様じゃなくて、お姫様でもなくて……」


 私は驚いて、混乱して、頭を抱える。

 それを見てお姫様はふふっと笑う。


「大丈夫、夢の国ではぜんぶ本当だよ」

「よかった! でもそしたら、うそで、ほんとで……」

「嘘だけど、本当なんだよ」

「うーん、わかった!」


 今度はちょっとだけわかるので、ぜんぶわかったつもりになって話を進めてもらう。

 それに気づいていそうなお姫様は、またふふっと笑って私の頭を優しく撫でる。


「きみは学校で、なんで授業から逃げるか聞いたよね」

「うん!」

「あれはね、知ることから逃げてるんだ」


 知ることから逃げる、という言葉にピンと来ずに、なんでだろう、なんて考えているとお姫様はまた口を開く。


「想像っていうのはね、知らないことを知ってることで補っていることなんだ。知れば知るほど、想像できるものは減っていく」

「つまり、何かを知ると、それは夢の国から追い出されちゃうんだ」

「私はね、知ることが怖いんだ。想像できなくなることが怖いんだ」

「流れ星がただの石だったら嫌でしょ? でも、想像できなかったらそうなっちゃう」

「怖いんだ、だから逃げてるの」


 そうまくし立てるお姫様からは、高貴な雰囲気がすこし剥がれて……ちょっとだけ、私のような女の子に見えた。

 なんだか消えてしまいそうで、不安で、手を伸ばして、それで。





  それからのことは覚えていない。

 多分、家に帰って怒られて、それで終わり。

 確かなのは、お姫様がいなくなってしまったこと、それだけだった。


 あれから私はたくさんのことを知った。

 知りたいこともどうでもいいことも、楽しいこともつまらないことも、綺麗なことも汚いことも。

 雲は水滴の集まりだって、流れ星はただの石だって、君は想像だって。

 

 自分の意志で、想像力を失った。


 自分の意志だった、私は知ろうとしてたくさんのことを知った。

 それなのに、私はお姫様に、夢の国に囚われ続けている。

 だから、そろそろ夢の国とは決別しなければいれない。


 20歳の誕生日、タバコの味を知って、君の想像をすべて否定できた。

 さらば夢の国、ずっと忘れないけれど、もうそっちを見たりはしないよ。

 何かを感じて見上げてみれば、狭い空にが綺麗な弧を描きながら光り落ちていった。

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