第4話 徐州 #4

 旅立つ客あれば、訪れる者もいる――。

 許子将の去った二日後、諸葛家に待ちわびていた来訪者が現れた。いや、正確には来訪者ではなく帰還者である。

「兄上!」

 八歳になる末っ子の均が、門を潜る旅人へと飛びつくように走り寄った。

「ただいま。留守の間、代わりはないか?」

 旅人は弟の頭を懐かしそうに撫でる。戸口には義母の弘氏、妹の瓊と瑛も出迎える。

 帰還者は洛陽へ遊学していた諸葛家の長兄――きんだった。

「亮、大きくなったな」

 屋敷の玄関に立っていた弟の姿を捕えた兄が、背中の荷を解きながら話しかけてきた。亮は相変わらずの仏頂面で「おう」と答える。

「また喧嘩したのか? 派手にやったな」

 亮の頭の包帯を見て、瑾は小さく笑う。七つ年が離れているが、亮の方が頭一つ分大きい。体格も亮の方がはるかに逞しかった。瑾は長い顔で痩躯の、いかにも学者肌といった風貌である。

「フン」

 久し振りに会った兄を見て、ぶっきらぼうに亮が横を向く。

「相変わらずだな。あまり無茶をして、諸葛の家名に泥を塗るようなことはするなよ」

 瑾がヤレヤレといった様子で頭を振る。

 相変わらずだ、と亮は思った。三年ぶりに再会しても二言目には説教か。心配症の兄の性格は、やはり昔から変わらない。

「父上は自室か?」

「ああ」

 瑾は昔から利発な子供として名が知れていた。幼い頃より『毛詩』『尚書』『左氏春秋』を諳んじ、まさに目から鼻へ抜ける秀才として琅邪で評判の子供だった。〝諸葛の鬼童〟などといわれる不肖の愚弟とは正反対である。正反対なのは性格も同様で、真面目で礼儀正しく親孝行。巷では父親の自堕落ぶりから〝鳶が鷹を生んだ〟と口を憚らず噂が上がったものである。

 瑾と亮の関係は、一つ屋根の下で育っていながら、幼いころからどこかギクシャクと不自然なものがあった。兄弟でありながら、あまり馬鹿をして遊んだり、取っ組み合いの喧嘩をしたりした思い出がない。七歳という年の差もあるだろうが、その理由の最大の原因は、瑾と亮、二人の正反対の性格にあることは間違いなかった。

 そして、正反対の性格と言えば――。

「只今帰りました。父上」

 瑾は自室にいた父、珪の元へと帰還の挨拶をした。

 珪は昼間から赤い顔をして、呆けた顔で三年ぶりの息子を迎る。酔っぱらっているのは一目瞭然だった。

「心配をおかけしました。諸葛瑾、只今帰りました」

 父の前に跪き、丁重に親子の礼を尽くす瑾。そんな律儀な息子の姿を見て、珪はバツが悪いように笑い、グイッと酒が満たされた杯を飲み干す。

「おぅ、生きてたか。瑾」

「董卓が都を焼き払う直前、今は亡き塾長、喬玄殿に縁故のある方々に、避難の便宜を計って頂きました。お陰で戦火をこうむることもなく無事、故郷へと帰ることができました。これも一重に先生の人望と、先生をご紹介して頂いた父上のご恩の賜物でございます」

 かしこまって深々と頭を下げる瑾。

「つーか、相変わらず顔が長いな、お前……また伸びたんじゃないか?」

 突然、父親が冗談を言った。まるで文脈を無視した言葉だった。珪はヘラヘラと笑い、おどけた顔して盃に酒を注く。

「は……」

「いいからさっさと部屋に戻って寝ろ。疲れてるんだろ?」

 そう言って、父は息子を蠅を追い払うかのような手つきで退けようとする。

「……では失礼いたします」

 瑾は礼儀正しく頭を下げ、部屋を退出する。踵を返して振り返ったその顔に一瞬、苦虫を噛み潰したような失望の色が浮かんで、消えた。それは親子感動の再会には相応しくない表情だった。

 亮は二人のやり取りを終始、遠巻きで見ながら、なんだか大根役者が家族を演じているヘタクソな芝居のようだと思った。

 父と子の確執――それは昔からのことだ。

 生真面目で堅物の兄と、道楽者でちゃらんぽらんな父。真反対な性格の二人。いつからだろう。血を分けた二人の間には、互いの理解と存在を拒絶し合うような、見えない深い溝ができていた。その水面下の対立は、諸葛の家と亮の幼年期に、小さな影を落としていた。

 しかし亮は知っている。父、珪が、息子の安否に日々心をを痛めていたことを。客人である許子将に、息子の無事を藁にも縋る思いで必死に尋ねていたことを。

 しかし、いざその愛する息子と面と向かうと、途端にこの態度。憎まれ口と皮肉。

「……父上は相変わらずだな」

 瑾が戸口に立っていた亮を見やり、小さく呟く。

「兄貴もな」

 亮の返答に、瑾は自嘲ぎみに微笑む。

「琅邪に留まるのか? 兄貴」

「しばらくはな。もはや呑気に遊学と言ってられる時世ではない。天下は今、麻の如く乱れ、予断を許さぬ状況にある。しばらく故郷で今後の身の振り方を考える必要があるだろう。それに――」

 そこで瑾は言葉を切った。そしてしばらくののち、亮の目を真正面に見据えて言い放つ。

「私はこの諸葛家の跡取りだ。不甲斐ない父に代わり、命の代えても家名と一族を護らねばならない」

 そうして瑾は滔々と、亮に世界で今起こっている戦乱の実情を語り始めた。


   ※  ※  ※


 初平三年、現在。董卓の亡きあと、混沌として雲霞の如く渦巻く群雄諸侯たちの潮流の中心にいたのは、間違いなく二人の男であった。

 袁術と袁紹――共に袁姓を名乗る二人の君主である。

 まず天下に最も近い勢力といえば、まず何といっても南陽に本拠地を置く袁術である。

 袁術は、過去四代に渡って三公を輩出した漢王朝の名門中の名門出身であり、生まれながらにして周囲に絶大な影響力を発揮していた大門閥の御曹司だった。そして、現在の勢力範囲は、豫州、荊州、楊州と、その規模は広大。またその支配地域は、中原で最も人口が多く肥沃で豊穣な土地だ。運河が縦横に通り、東西南北への陸運、海運の要所でもある。依って軍資金も潤沢。選抜された兵士も精強。つまり彼は天下を獲る為の〝地の利〟を存分に持っていたということである。他勢力から頭一つも二つも抜きんでるのも、さもありなん、というところだろう。

 その大勢力である袁術に対抗できる勢力は、河北に勢力を広げる袁紹だ。袁術と袁紹は汝南袁氏当主である袁逢の子供、兄弟同士である。しかし正統の跡取りは弟の袁術で、袁紹は妾の子として生まれ、幼い頃に伯父の袁成の元へと養子に出された。なので二人は籍の上で従兄弟という関係になる。

 そのため袁紹は先祖代々住む汝南周辺の豊かな土地を相続できなかった。だから同じ名門出身でも、血統や境遇では袁術に一日の長がある。が、彼にはそれをカバーして余りある才気があった。

 袁紹は寛容で魅力的な男だった。鷹揚で親分気質、気前が良く、他人の意見を聞く耳と、それを誠意を持って受け入れる器を持つ人物だったのだ。

 なので彼の周りには早くから自然と人が集まり、乱世では自然と大軍閥が作られることになる。かつて反董卓連合軍が結成されたとき、その盟主に満場一致で推挙されたのも、一重にその人柄の成せる技といえよう。彼の配下には、曹操、鯛信、張?など、董卓を相手に獅子奮迅の活躍を見せた当代きっての勇将が揃っている。つまり彼は袁術にはない〝人の利〟を持っていたのだ。


〝地の利〟〝人の利〟、それぞれに〝利〟を持つ血の繋がった兄弟二人――彼らが互いに手を結んでいれば、きっと天下はすんなりと彼らの袁家の掌中に転がり込んだであろう。しかし残念ながら、そう簡単にはことは進まないのが、歴史のちょっと複雑なところである。

 その原因は彼らの関係にある。二人はお互いを蛇蝎の如く毛嫌いしていた。特に袁術の袁紹に対する憎しみは激しかった。自分の方か正統な袁家当主であるにも関わらず、袁紹の方が巷の人気が高いのだ。だから「妾腹のクセに生意気な」と憤慨する。それは要するに嫉妬だった。

 そして何より、この二人の対立を決定的にする事件があった。

 それは反董卓連合軍の結成された当時のことである。リーダーである袁紹(最も、彼がリーダーであること自体、袁術には耐えられない屈辱だったことは想像に難くない)が、連合軍の諸侯たちに一つの提案を持ちかけた。

 その提案は、皇帝の擁立、という大胆不敵な作戦だった。

 当時十歳だった今上皇帝劉協は、董卓の元にあって擁立され傀儡となっている。董卓がいかに邪智暴虐であろうと、皇帝と共にいれば官軍、正義である。反董卓連合軍は何としてもこの正義を覆す大義名分が欲しかった。

 そこで袁紹は、同じ皇族で、しかも後漢興国の祖、光武帝直系の子孫である劉虞という男に白羽を矢を当てた。彼を皇帝に即位させ、反董卓連合軍の旗頭に担ぎ出し、董卓と劉協を逆賊として征討しよう魂胆である。

 結局、この計画は当事者である劉虞が固辞したことによって頓挫してしまったが、その計画に最初に噛みついたのが袁術だった。

 彼は陣中で口角の泡を飛ばし、袁紹にこう言い放った。

「もはや漢王朝には護るに値する力などない。なぜいたずらに皇帝を立て、大義などという有名無実にすがる必要がある? 今は下剋上の乱世。皇帝の姓が劉から袁に変わることに、何の不自然があろう? 袁紹、お前も誇り高き袁氏のはしくれなら、自らの血統に対する誇りを持て!」

 そう言って彼は異母兄にペッと唾を吐いた。彼は自らが皇帝になることを予告したのだ。それは、誰もが唖然となる底なしの野望だった。袁紹は狂気の沙汰と目を剥いたが、袁術は本気だった。むしろニ百年近く続いた王朝をあっさりと見限るという誰も考えなかった着想を、このときすでに持っていたという点では、彼はかなり先進的で革新的な発想の持ち主といえる。

 そもそも袁紹と袁術は兄弟でありながら、その容貌も正反対だった。小太りで風采の上がらない袁紹に比べ、袁術は眉目秀麗な貴公子然としており、それ故人一倍自尊心が強く、潔癖だった。そして何より自らの血統に絶大な自信を持っていた。そんな彼にとって、自分が皇帝となることは最終目標として自然なことだったし、逆に高貴な血を共有していながら、醜く誰にでもヘコヘコと頭を下げて、ニコニコと愛想良く振る舞う袁紹の態度が、虫唾が走るほど許せなかったのだろう。

 こうして二人は、互いを憎み合う敵対勢力となって今に至る。

 言ってしまえば兄弟喧嘩であった。しかも周辺の諸侯を巻き込んだ、大スケールの兄弟喧嘩である。巻き込まれる側にとってみては堪ったものではない。

 今のところ、袁術に加担する諸侯は、孫堅・公孫サン?。袁紹に加担するのが劉表・韓馥。どっちつかずが陶謙、劉ヨウ?といったところか。もちろん誰も好きで同盟しているわけではない。自勢力と対立する相手と凌ぎを削るため、利害が一致しただけに過ぎない一時的な協力関係だ。なにせ今は生き馬の目を抜く乱世なのだから。

 まぁ、どちらにしろ、今の亮には関係のない、雲の上のことだったが――。


   ※  ※  ※


 亮の頬を冷たい風が叩いた。乾いた風の冷たさは、春の到来に抵抗し、舞台を去りゆく冬という季節の最後の足掻きに思える。丘の上は、一面、薊の花が咲いていた。そう、いつの間にか春がやってきたのだ。

 青臭い匂いを口いっぱいに吸いこみ、亮は大きく深呼吸をする。そして頭に巻かれた包帯を取り去った。風に乗り、包帯が空へと飛んで行く。

 あの夜――賊と戦ってから、半月が過ぎようとしていた。亮はそのときの出来事を思い出すと、まるで夢の中の出来事のような心地になる。ふと彼は自分の右手を見る。傷は治り、傷痕もほんの僅かに残るのみ。その消えかかった傷痕だけが、あの夜のことを事実として記憶から呼び起こす、唯一の証拠となっていた。

 月光に浮かぶ、少女の顔――。

 その整った顔。その容姿を思い出すと、亮は不思議な切なさを感じる。半月間、亮は朝も夜も、そのことばかりを考えていた。

 三日前、琅邪に曹操の軍がついに到着した。亮は魏子世を伴って、その閲兵を見学にいった。

 その数は噂どおり五千。その数は圧巻だった。

 陽都の官邸で、地元士大夫の代表団と曹操軍との簡単な交渉の場がもたれた。いわゆる地位協定である。曹操軍の代表は、全軍を預かる校尉である夏侯惇。威風堂々とした男伊達で、曹操の義理の従弟にあたる部将だ。夏侯惇の脇には、軍師であるお馴染み陳宮と、軍と共にやってきた少壮の軍師である郭嘉という男。その背後には曹家や夏侯家の武将たち。曹操の親戚筋にあたる部将がズラリと居並んでいる。

 対する琅邪側は、陽都県令の魏斉。そしてその横には、先日帰郷したばかりの諸葛瑾が相談役として参画している。交渉では軍の駐屯における基本的な取り決めが交わされた。最低限の住民への安全保障。生活用水の確保。協定を犯した者への罰則など。会談は、終始和やかなムードで進行した。それは陳宮と諸葛瑾の両参謀の聡明で寛容な人格によるものが大きかった。

 交渉の間、陽都の広場には、曹操の軍の一部が規則正しい方陣を描いて整列していた。その様子を一目見ようと、見物客が蟻のように集まり、街はにわかに活気づいている。その群衆の中に亮もいた。

 亮は生まれて初めて、訓練された軍隊というものを目の当たりにした。曹操軍は、かつて反董卓連合軍の中にあって、目覚ましい活躍をした精鋭中の精鋭である。呂布と並び称された董卓軍最強の猛将、徐栄と互角の戦いを繰り広げたジョウ?陽県シ卞?水の戦いは、今も官軍の営舎では語り草になっている。恐らく兵士個人の練度、能力でいえば、中原最強と言っても過言ではないだろう。精鋭としてこれに匹敵するのは、〝江東の虎〟と渾名される袁術麾下の武将、孫堅の軍ぐらいのものか。

 そんな精鋭たちだから、さもありなん。兵士一人一人の装備や態度、そして顔つきからして違っていた。亮が子供のころから見慣れていた黄巾賊崩れの民兵たちとはまったくの別モノ。彼らは人殺しのために集められ、人を殺して食い扶持を稼ぐ、筋金入りのプロフェッショナルたちなのだ。

 整列した軍隊を遠巻きに眺め、亮は心の中で何か不思議な感情が沸き立っていることを自覚した。それは、危うい力に対する陶酔のような感覚だった。ともすれば、琅邪一帯を焦土にすることもできる力。そしてそれが曹操という一人の男によって統制されているという事実――。

 許子将の話を聞いて、曹操という男を一度拝みたいと思っていたが、残念ながら肝心の曹操本人は、軍勢の中にも交渉中の官邸の中にも、その姿を確認できなかった。

 噂では、作戦に同道する鮑信将軍と軍議を交わすべく済北国に足を止めていると聞く。この地の軍に合流するのはあと五日ほどかかる。それまで駐留軍はしばしの余暇を与えられたということだ。

 一つ、琅邪の民にとって嬉しい想定外があった。陳宮が明言した通り、曹操の軍は想像以上に行儀が良かったのだ。確かに兵士の中には下卑た乱暴者たちは数多い。しかし軍には、その荒くれ者たちを震え上がらせるほどの鉄の軍規が布かれていた。一般人への暴行、略奪、搾取は禁止され、法を破ったものは厳罰に処される。曹操の軍では上から下まで身分を問わずその規律が厳守徹底されていた。よって駐屯している兵士たちは表向き、民に対して寛容かつ友好的だった。ピリピリ、ビクビクとしていた琅邪の民は、その態度にホッと胸を撫で下ろした。

 亮は正直驚いた。軍隊とはこれほどまでに統制された存在だとは思わなかったのだ。もっとも、それは陳宮という不世出の軍師の才覚と、彼を従える曹操という男だからこそなしえた例外なのかもしれないが。


   ※  ※  ※


 丘の頂上に立って、亮は天を仰いだ。

 冷たい風が空のちぢれ雲を吹き飛ばしていく。曹操の兵、五千。それだけの力があれば、小さな雲の一つなら動かせるかもしれない――そんな莫迦莫迦しいことを考え、フッと自嘲する。

「雲の動きが、そんなに可笑しい?」

 突然、風に乗って声が聞こえきた、鈴のような美しい声だった。亮は驚いて振り向く。

 風上に、一人の少女が立っていた。

 冷たい風に長い黒髪を遊ばせ、小さく微笑んで亮を見る少女。

 ドクン、と亮の心臓が跳ねた。

 間違いない。その少女は、十日前に出会った、あの少女だったのだ。

「…………」

 亮は黙っていた。そして突然現れた可憐な少女を見やった。不器用で感情表現の下手な亮は、戸惑い、相手を見つめる顔がつい睨むような表情になってしまう。

 天から舞い降りた天女のようだ、と亮は思った。

「この場所で会うの、これで二回目だよね?」

 少女はそう言って笑った。まるで華のような笑顔だった。十日前、河原で殺しあった相手に対する態度とは思えなかった。亮は未だ、今、丘の上で起きている出来事が現実である確信が持てなかった。

「そして、君と会うのは、三回目……かな?」

 そう言って、薊の咲き誇る大地を踏みしめ、少女が亮へと歩み寄る。そして彼の目の前までやってきて、亮の顔を覗きこんだ。

 鳶色の大きな目が、空の青を映していた。吸い込まれそうな瞳だった。

「傷、もういいみたいだね」

 少女は白い手を伸ばし、亮の右手に触れようとした。亮はびっくりして、反射的にその手を払いのける。

「やめろ!」

 亮は思わず叫んでいた。少女はちょっと吃驚した顔になったが、すぐに笑顔に戻る。

「お、お前、青州黄巾賊なんだろ!? 何でこんなとこにいる!」

 亮が藪睨みに少女を見る。

「あ、〝お前〟って何よ! 生意気ね。私の方が年上なんだから敬語使いなさいよね。〝目上を敬まえ〟って孔子様も仰ってるでしょ?」

 少女が怒ったフリをして口を尖らせた。愛嬌のある表情。

「知るか」

 亮は顔を赤らめ、そっぽを向く。

「それに黄巾賊っていっても……私、まだ半人前だし、どこにいたっていいでしょ?」

 そう言って屈託なく笑う少女。身構える亮は正反対に、彼女はまったく無防備だった。

 半人前――と自分で言うとおり、彼女はまだあどけなさの残る少女だった。十代半ば――亮より数年年上ぐらいの歳だろう。もっとも、身長は亮の方が頭二つ分は大きいが。

「…………」

 亮はバツが悪くなって下を向いた。上目づかいで少女を見る。

「それにしても、よく私が青州黄巾賊って分かったわね」

 目を見開いて驚く少女に、フンとぶっきらぼうに返事をする亮。

「それくらい……見れば分かる」

 もちろん、飛燕の入れ知恵だということは言わなかった。

「じゃあ、私も当ててあげる」

 そう言って、少女が亮の身なりを上から下までゆっくりと眺め、面白そうに笑う。

「君、陽都の諸葛さん家の子でしょ?」

「なんでそれを……!?」

 亮はハッと顔を上げて少女を見た。少女は得意そうに笑って指を立て、くるくると回す。

「内緒~」

 アハハハ、と少女が再び笑い出した。年下の亮を莫迦にしたような態度だった。亮は鼻白む。しかし少女はそんな彼の心中などお構いなしに、無邪気にコロコロと声を上げて笑う。少女の鈴のように鳴る声が、丘の上の空へと浸透していく。

「また、この丘に来る?」

「俺はこの場所が好きなだけだ」

 少女の質問に、噛み合わない返答を返す。素直になれないのは生来の性だ。

「私も好きだよ。ここ」

 亮の態度などお構いなしに少女が言う。まるで太陽のような笑みだった。亮はいたたまれなくなって声を荒げる。

「つーか、そもそもこの場所を見つけたのは俺が最初なんだぞ。ここは俺が俺の力で勝ち取った俺の陣地だ。勝手に来たりすんじゃねェ!」

「そうだね。じゃあ今度から、この場所に来るときは、君に許可をとることにするよ」

「そ、そういう意味じゃ――」

 突然、少女が亮の顔を真っ直ぐに見て、真面目な顔になった。亮はゴクリと唾を飲む。

「ここに来れば、君に許可がもらえる、よね?」

 そう言って彼女はクルリと背中を向いた。二人の間に心地よい風が通り過ぎる。

「……君の殺した、私の仲間の男、いたでしょ?」

 しばしの沈黙の後、少女が小さく呟いた。

「ああ」

 亮は彼女の背中に向かって呟く。月の夜のことを思い出していた。馬上で亮と格闘し、偶然とはいえ彼が殺した男――亮にとって初めての殺人だった。

 男の顔は今でも鮮明に眼に焼き付いていた。力なくグニャリと弛緩する白目を剥く死体。開いた口からダラリと垂れた舌。

「……あいつ、私の兄なんだ」

 その言葉に、丘の上の空気が変わった気がした。

「…………」

 亮は何も言えずに立ちつくしていた。そのまま彼女の背中を穴の開くほど眺めていた。何と声を掛けていいかわからなかった。

「別に、気にしないで」

 意外にも、そう言って振りむいた彼女の顔は明るかった。その顔は今まで通りの笑顔。

「死んで当然の男だから――」

 ふと、少女の笑顔に、様々な表情が錯綜した。それは決して単なる悲しみや憎しみではない、もっと複雑で難解な表情だった。得体の知れぬ感情を深い底に湛える、仄暗い底なしの沼のような――。それは清楚な十代の少女には似つかわしくない、諦観にも似た老成した表情だった。

「……お前」

 その表情に意味を、幼い亮はまだ読み取ることはできなかった。

 亮が声を上げようとした瞬間、その言葉を少女が制す。

「また、会えるよね」

 そう言って笑い、少女は再び踵を返して歩きだす。

「君の名前、聞いてなかった」

「……亮」

 亮は去りゆく彼女に名前を言った。彼女はとびきりの笑顔で返した。

「いい名前」

 彼女は丘を降りて行く。

「私は、アザミ――この丘に咲く花と一緒。よろしくね。諸葛亮」

 彼女の姿が消えた後も、亮はしばらくその場に立ちつくしていた。

 丘の上には、咲き誇る薊の花が、早春の風に穏やかに揺れていた。


   ※  ※  ※


 丘を下り、畦道を歩く。海の湿気を含んだ風が心地よかった。

 アザミ――亮はその名を心の中で何度も反芻した。まさしく丘の上に咲き誇る薊の花のような少女だと思った。明るい薄紫色をした美しく可憐な花弁。しかしその美しさは、棘のある総苞に包まれ、不意に相手を拒絶し頑なに心を閉ざす一面を思わせる。薊という花は、まるで彼女の持つ神秘性を象徴しているように思えた。

 亮は自覚した。自分は彼女を好きになってしまったということを。それは彼の生まれて初めての感情だった。

「おい、亮」

 不意に名前を呼ばれた。空を仰ぎ、物想いに耽っていた亮の空想が妨げられる。

 亮が見遣ると、畦道の先に建つ朽ちた霊廟の階段に数人の男が屯して、こっちを見ていた。

 数は四人。階段に座り込んでいる奴もいれば、崩れた柱に寄りかかっている奴もいる。

「久し振りだな。最近、顔ださないから心配してたぜ」

 集団の中で飛び抜けて体格のいい男が亮に言う。若い男だった。その顔には見覚えがあった。

 県尉、郭栄かくえいの息子、郭志かくしだ。歳は今年で十七。札付きのワルで、陽都一帯の悪ガキたちを仕切っている男だ。別に親の権力を笠に着ているわけではない。周辺の不良グループたちを悉くブッ倒してのし上がった、生粋のガキ大将。父譲りの熊のような容貌と体格で、街で亮の身長を凌駕する唯一の若者だった。部下の面倒見もよく、最近は不良たちを束ねて侠客の真似事みたいなこともしている。

 彼と亮とは一応、馴染みとして友好な関係を保っている。最も、そういった若者同士抗争に何の興味もない亮が、一人蚊帳の外にいるというだけのことではあるが。しかし〝諸葛の鬼童〟とレッテルを張られる亮は、郭栄にとっては目をかけるに値する人材だった。

「お前、賊を一人、殺したんだと?」

 取り巻きの仲間の一人がリーダーの言葉を継ぐ。亮は返事もせずに仏頂面のままだ。

「オイ、何か言えよ! クソガキが!」

 もう一人が怒鳴る。いきなりの喧嘩腰。しかし乗り出した部下を「やめろ」と郭志が制す。

「流石は〝諸葛の鬼童〟、オレの見込んだ通りのヤツだ」

 そういって郭志が笑った。亮の無礼をあえて許容するところで、大物ぶった余裕をふりまく。

「何の用だ?」

 亮が郭志を睨んで言った。正直言って面倒くさかった。この手の群れる輩は好きではない。

「亮、オレたちと一緒に来い」

 階段から立ち上がり郭志が亮の眼前へと近づいてきた。猛禽類のような鋭い目付き。

「来いって、どこへだ?」

 亮はまったく動じずに睨み返す。このくらいの凄みにビビるような亮ではない。

「決まってんだろ。曹操軍だ。士官すんだよ」

「……本気か?」

 亮の言葉に、郭志がクスリと口元を曲げて笑った。

「県尉の倅だと思って馬鹿にすんなよ。悪いがオレは、いつまでも琅邪で燻ってるつもりはねェ」

 郭志が不敵に言って、後ろにいた仲間たちに顎で合図をする。「おお」と仲間から威勢のいい返答が返ってくる。

「亮、お前もこんなド田舎、いつまでもいたくねェだろ? オレたちは曹操の軍隊に潜り込んで、戦場で手柄を上げる」

「ゆくゆくは郭志大将軍だ!」

 仲間の一人が声を上げた。それを合図に、皆が再び怒声を上げる。郭志はその声援に応えるように手を振り上げた。まるでいっぱしの武将きどりだ。そしてもう一度、亮に向かい合い、呟いた。

「お前もついてこい。亮。一緒に黄巾の豚どもをブッ殺すんだ」

 黄巾、という言葉に胸が騒いだ。不意に、先ほど出会った少女、アザミの笑顔が目に浮かぶ。

「…………」

 亮は黙って郭志を睨んでいた。

 郭志の誘いも悪くない、と思った。その心意気と覚悟に共感もできる。自分とて、この琅邪に骨を埋めるつもりはこれっぽっちもないし、生まれ育った土地に微塵の未練もない。

 世界が見たい。まだ見ぬ世界が――それは亮が子供のころから繰り返し切望した夢だった。郭志はその夢を、曹操という降って沸いたように訪れた異世界からの来訪者に託そうとしている。それも選択肢の一つとして決して間違った決断ではないと思う。しかし――。

「断る」

 亮は静かにそう言い放った。

 つい半月前の彼なら、あるいは郭志の話に、賛同していたかもしれない。しかし今、彼には一つ、心を占める揺るがない不可侵の存在があった。

 丘の上に立つ少女――青州から来た黄巾賊の娘。

「臆病者! その図体は飾りか!」

 郭志の背後で、仲間たちが次々と口汚い言葉で罵る。郭志は黙って、最後に一度だけ、亮の鼻づらの顔を近づけた。そしてあらん限りの軽蔑の眼差しで、彼の顔に臭い息を吐きつける。

「見そこなったぜ。〝諸葛の鬼童〟――」

 ペッと唾を地面に吐き、郭志は踵を返す。その後についてゾロゾロと去っていく仲間たち。

 一人残された畦道に佇みながら、亮は天を仰いだ。

 これは予兆だ――。

 曹操軍、青州黄巾賊、それらの風に晒され、琅邪の空気は確実に今までと変貌してしまった。もはやこの土地は、亮の馴染んだ素朴で平和な故郷ではなくなっていた。戦乱の空気には、人の心を惑わす狂気を含んでいる。そして狂気が駆り立てる結末は、未だ誰も予想できはしない。


   ※  ※  ※


 格子から差し込む光が、キラリと反射した。

 亮が厩に入るとすぐに、反射した光が彼の目を射した。眩しくで目を細める。

 そこでは、男が一人、剣を手に舞を舞っていた。飛燕だった。

 刃が光を反射し、厩のあちこちの壁に幻想的な白い光輪を描く。洗練された、優雅で美しい舞だった。しなやかで力強くそれでいて艶めかしい。それは素人目に見ても、演者の熟達さと武芸の腕が推し量れるほどだった。

「傷はいいのか?」

 亮の言葉に、ピタリと動きを止め。キレ長の目を向けで流し目をおくる。

「大分な」 

 そう言って飛燕は剣を鞘へと収めつつ、自分を匿ってくれている少年に答えた。

「……外が騒がしいな」

「曹操の軍が到着したからな」

 手に持った水差しを渡しながら、亮が言う。飛燕は礼を言ってそれを受け取った。

「軍師の陳宮が、警備隊を組織しているらしいぜ」

「ふむ。この場所がバレるのも時間の問題か。そろそろ潮時だな」

 そう言いながら、飛燕は水差しを口につけゴクゴクと飲み干した。

「どこかに行くアテがあるのか?」

 亮の質問に、飛燕がフフッと小さく笑う。

「アテはないが、やることは山ほどあるからな。事態は逼迫している」

 飛燕は剣舞によって汗を滲ませた肌を拭う。そして半裸となって背中に巻かれた包帯を解き始めた。

「曹操軍が到着したとなると、この周辺にいる黄巾賊勢力が黙っているはずもない。近いうちに必ず何かしらの衝突が起きる」

 傷の具合を確認しながら、飛燕が説明を始める。傷口は大分治っているようだった。

「泰山、東莞、斉国、城陽。各地に拠点を持つ大きな黄巾の勢力は、それぞれ目的も思惑も違う指導者に率いられている。確かに糾合すれば規模は絶大だが、個々の勢力たけではとても官軍には太刀打ちできない。つまり、一枚岩じゃないってことさ」

「じゃあ、そいつらを集めてまとめるのが、アンタの仕事ってわけか」

「そういうことだ」

 飛燕が頷く。

「兵を集めて、もう一度戦を始めるのか? 曹操と」

 亮のその言葉に、飛燕がハハハと爽やかに笑った。

「勝てる気がしないな」

 冗談とも本気ともとれる口調だった。ただ、不思議とその敗北宣言には遺恨や忸怩の色がまったくない。

「……曹操は強いのか?」

 その問いに、飛燕の顔から微笑が消えた。

「信じられないほどにな」

 真っ直ぐに亮を見据える。

「今まで幾度ととなく戦場を渡り歩き、数多くの相手と戦ってきた。盧植、朱儁、董卓、呂布――いずれも想像を絶する強さの敵たちだった。しかし曹操の強さはその中でも異質だ」

「異質?」

 亮は訝しげに目の前の美男を見る。飛燕は眉間に指を当てながら慎重に言葉を紡いだ。

「そうだな……奴の用兵は、例えるなら……蜘蛛だ」

「蜘蛛?」

 飛燕が頷く。

「ゆっくりじっくりと、まるで巣に絡められるように捕えられ、そして貪り食われる。確かに奴の軍は兵科に目立った特徴もなく、派手な武勲を持つ者も少ない。しかし奴の軍と剣を交えた途端、感じるんだ。言いようのない不気味な違和感を――」

「違和感?」

「勝てると確信した瞬間、その勝利はより大きな敗北によって包まれ、いつのまにか自分は奴の胃の中で溶けて死んでいることを実感する――」

 飛燕の顔が心なしか青くなっていた。今まで余裕を示していた貴公子の豹変に、亮は曹操の用兵の不気味さ、異様さの一端を垣間見た気がした。

「できることなら敵にしたくない男だ」

「じゃあどうするつもりだ? 降参か?」

 亮の挑発に、飛燕の顔に微笑が戻る。

「それはいい策だ。丁度、私もそれを考えていたんだ」

「何!?」

 冗談を言ったと思った飛燕の顔は、意外にも真剣だった。彼の突拍子もない返答に、亮が一瞬、戸惑いの顔をする。仏頂面に微かに浮き出たその狼狽を、飛燕は見逃さなかった。

「亮」

「な、なんだ?」

「お前、軍師になりたいと言ってたな」

「べ、別にそんなこと一言も言ってねェ!」

「いいから聞け」

 そっぽを向いて戸惑った顔をする亮に、飛燕が静かに言った。神妙な顔つきだ。

「今回の曹操の目的が、黄巾賊の征討だと本気で思っているのか?」

「何?」

「黄巾賊残党征討というのは、単なる出兵の名目に過ぎん。曹操の目的はもっと別の所にある、ということだ」

「どういうことだ?」

 亮は思わず身を乗り出す。飛燕は不敵に笑って言葉を続けた。その内容はこうだ。

 目下、天下に広げられた白地図に野望の色彩を描いているのは、北の袁紹と南の袁術。いずれも大勢力である。そして今、亮のいるここ琅邪のある徐州は、この二つの大勢力の丁度中間地点、どちらの勢力にも与さない中立の緩衝地帯にある。その最大の原因は、徐州を治める陶謙が玉虫色の対応をしているからである。日和見で知られる陶謙がどちらの袁氏に与するか、それは今、最も重要でデリケートな戦略的ファクターだった。

 そこで河北にいる袁紹は考えた。もし今、領内を荒らす黄巾賊を退治すればどうなるか。きっと陶謙はその恩に応えて袁紹側に靡く。そしてあわよく軍事協定を結べたなら、それは袁術の喉元に匕首をつきつけたも同然だ。曹操と鯛信はその大いなる野望の尖兵に抜擢されたのだ。

 また、曹操は同時に、袁紹が陶謙に仕向けた刺客でもあった。黄巾賊討伐軍の武力は、その矛先を変えれば陶謙を滅ぼす武器ともなる。つまり曹操は陶謙にとって、彼の自治を補佐する協力者である反面、脅迫的外交の急先鋒でもあるのだ。

「曹操とその背後にいる袁紹の本当の標的は、陶謙だ。奴らにとって黄巾賊など眼中にない。兵を動かす大義名分でしかないのさ」

 飛燕はそう言って、首をすくめた。

「この間の魏郡での合戦は互いに消耗の激しい泥試合だったからな。我々黄巾賊と戦うのはもう懲り懲り。曹操もきっとそう思っている。賊などと戦い、悪戯に兵を消耗したくないと」

 亮は、飛燕の説明を驚きを持って聞いていた。亮はいままで、戦が起こる意味をあまり考えたことがなかった。また戦とは、互いが憎しみ合った末に、憎悪の衝突によって起こるものだと、勝手に思っていた。しかし実際はそんなシンプルなものではない。世界はもっと複雑で、様々な思惑が錯綜しているのだ――。

「あくまで黄巾賊の討伐は名目上のもの。曹操は我々と戦う意思などない。いや――」

 そこまで言って、不意に飛燕は説明を止めた。そして長い思案に耽る。

「奴ことだ、むしろその先を考えているのかもしれん――」

「先?」

 亮の質問に、飛燕は答えなかった。代わりに真摯な顔で、少年の目をじっと見つめる。

「亮」

「なんだよ」

「もっと、大局を見ろ」

 飛燕の言葉に、亮はハッと息をのんだ。自分を見つめる美男の顔は、真剣だった。

「この世界は、もっと複雑で難解だ。この世のすべての事象には、原因があり、そして結果がある。決して戦場で生き残った者だけが勝者ではない。世界には様々な思惑を持った者が星の数ほどいて、そいつら一人一人に賢しい知恵がついている。幾万の思惑が潮流となって混じり合い、ときに清流となり、ときに濁流となって、この世界は形作られているのだ。まるで黄河の流れのように――」

「…………」

「あらゆる思い込みを捨て、心を空しく世界を見ろ。そうすれば自ずと全てが見えてくる。事に対し誰が得をし、誰が損をしたか。誰が裏で手を引き、誰が踊らされているのか――」

「じゃあ、曹操は、いったい何を企んでいるって言うんだ!?」

 亮は思わず叫んでいた。

「それを知るには、あの男よりも高く飛ばねばならん」

「飛ぶ――?」

 亮の言葉に、飛燕は天を仰いだ。

「軍師とは天空の鷹だ。亮。誰よりも高く飛び、世界を俯瞰する鷹の目を持て」

「お前は飛べるのか? 曹操より高く――」

「……俺は飛燕だ。燕は早く飛ぶことは出来ても、高く飛ぶことはできない」

 亮の質問に、自嘲気味に口を歪め、飛燕が笑う。

「だが、お前はまだ嘴の黄色いヒヨっ子。無限の可能性を持つ、生まれたての雛だ」

 ゆっくりと、目の前にいる少壮の軍師見習に向かって呟く。

「亮、高く飛べ」

 飛燕の目が、希望に満ちた光を放ち、亮の目を射抜いた。

「さすれば汝、天に望まれたる軍師とならん――」

 そのとき不意に陽光が射し、飛燕の持つ剣に反射した。ギラリと鋭い光となって、亮の顔を怪しく照らす。亮は目を細めることも忘れ、じっと目の前にいる美男の顔を見つめていた。

「軍師――」

 言葉は、亮の胸に深く刻み込まれた。

 それは一宿一飯の恩として飛燕が亮に贈った、最初で最後の薫陶だった。


   ※  ※  ※


 その日、陽都の広場にて、民を騒がすちょっとした事件があった。

 輪になって取り囲む人だかりの中心に、縛り付けられた三人の兵士が膝を折って蹲っている。いずれも曹操討伐軍に所属している兵卒だった。

 それは、公開処刑だった。

 軍刀に砥石をかける首斬り役の兵の隣に、官服の男が歩み寄る。

「諸君らは軍紀を軽んじ、誇り高き漢王朝の臣下にあるまじき卑劣な愚挙を犯した。そして、我らが主君、曹操閣下の顔に泥を塗り、琅邪の民の平和を脅かした。その罪、万死に値する」

 男――陳宮が高らかに宣言する。その凛と響く声に、民は一斉に拍手喝采を送った。

 三人の兵士たちは、昨夜、兵営を抜け出し、近くの民家を襲った。そして抵抗する家の主人を暴行し、その娘を凌辱したのである。

 その行為に対し、軍師、陳宮の決断は迅速かつ苛烈だった。

 陳宮は、公明正大にして清廉な男だった。それゆえ軍紀に厳しく、特に民間人への略奪や暴行には容赦ない処断を下すことで有名であった。今回も寛大な処置を求める意見を断固として退け、極刑を即断した。

 民たちが、縛られた兵たちに生ゴミや石礫をぶつける。その行為を制しつつ、陳宮は処刑係へと速やかに指示を飛ばした。

 虚空に三つの首が跳ね、広場の土が、流れる血を吸った。

 同時に、琅邪の民の大歓声が広場に響いた。

「琅邪の皆よ!」

 陳宮は、凛々しい眉を顰め、周囲を取り巻く見物客たちを見回して言う。

「この陳宮の名に賭け、今後このような失態のないことを誓おう!」

 そう言って、深々民へと礼をする。周囲の歓声はますます高まった。

「……へぇ、カッコイイわね。あの軍師さん」

 歓声に熱狂する見物客の中に紛れていたアザミがそう呟いた。

「そうか?」

 隣にいた亮が、応える。

 亮とアザミ、二人は民に混じって公開処刑を見物していた。

 丘の上での再会以来、彼らは何度かの逢瀬を重ねていた。もっとも逢瀬と呼べるほど色っぽいものではない。アザミが亮を誘い出し、色々な場所へと連れ出すだけだ。草原で馬を駆ったり、丘の上で昼寝をしたり、河瀬で水遊びをしたり――その関係は男女の中というよりは、無邪気な子供のそれに近い。

「陳宮っていうの? ふぅん、結構好きかも。顔もイイ男だし」

 アザミが背伸びをして、人の輪の中心にいる軍師を見やって言う。

「フン、クソ真面目過ぎて面白みのないヤツだ」

 亮が機嫌を悪くしてそっぽを向く。

「それがいいんじゃない。男は真面目で誠実が一番よ」

 アザミが亮に向きなおって言う。

「悪かったな。真面目じゃなくて」

 拗ねたようにぶっきらぼうに言い放つ亮。

「あ、なに? いっちょまえに嫉妬してるの? 亮」

「バ、バカ言うな! 誰がてめーみたいなブスと――」

「あはははは、照れてるの?」

 アザミがコロコロと笑い出す。陽気な、太陽のような輝きの笑顔だった。亮はカッとなって彼女に食ってかかる。

「コラ、まてよ! クソ女ッ!」

 亮の制止を軽くいなして、笑いながら人ゴミに消えていくアザミ、慌てて亮は彼女を追った。

「リョーちゃん!」

 人ゴミがら抜け出し、逃げようとしたアザミの腕を掴んだとき、後ろから声がした。

「魏子世」

 振りかえると、そこには、幼馴染みの友人が立っていた。

「何だ?」

 亮の言葉に、にわかに魏子世はオロオロと挙動不審な態度をした。そして亮と手を握る可憐な少女、アザミを上目づかいにチラチラと見る。

「そ、その女は――」

「ご、誤解するな! そんなんじゃねェ!」

 握った手を慌てて振りほどく亮、その様子にアザミが微笑んで言う。

「亮の友達? よろしくね。私は、アザミ」

 屈託のない笑顔でア自己紹介をする少女。それに対しオドオドと警戒する魏子世。

「見ない顔だね。琅邪の人じゃない――」

「黄巾賊の間者よ。琅邪を偵察中なの」

「えッ――!?」

 驚いて息を止める魏子世。アザミは悪戯っぽく声を上げて笑った。

「冗談よ! いこ! 亮!」

 そう言って突然踵を返し、駈け出すアザミ。無邪気で天衣無縫な態度だった。

「あ、お、おい! テメェ! 待ちやがれ!」

 去っていく二人を、魏子世はポカンとした顔で見送った。


   ※  ※  ※


 襲歩して走る馬は、まるで旋風のようだった。

 周囲の風景が、飛ぶように後ろへと流れて行く。目まぐるしく飛び去る世界に、自分と、自分の乗った馬と、前を走る少女の乗った馬だけが、切り取られるように世界に留まっていた。

 亮は馬の扱いが得意だった。昔から体格が良いので、馬を御す体力も十分にあり、幼い頃から乗馬に慣れ親しんでいた。そして何より、馬丁の甘爺さんの躾ける馬は、飛びきり駿馬で行儀が良いのだ。

 しかしそんな亮の自信を打ち砕く相手が、目の前を走る少女、アザミだった。

「春月!」

 少女は愛馬の名を叫び、軽く鞭を入れる。呼応するように馬は駆けるスピードを増した。

 見事な手練だった。女だてら、なんていう言葉では通用しない。並の騎馬兵や曲芸師でさえここまでの腕はない。まるで人馬が一体になったようだ。

「遅いわよ! 亮」

 彼女の楽しそうな檄が風に乗って亮へと流れてくる。

「うるせえ!」

 確かに追いすがるのに必死だった。

「どこに行く気だ!?」

 陽都の処刑を見物したあと、アザミに「ついてきて」と言われ、亮はこうして彼女と早馬を飛ばしている。かれこれ半日。途中に休憩を入れつつ琅邪陽都県より、落ちゆく陽を目指し、西へ西へと。陽亮の頭の中の地図が正しければ、もう徐州国境も越えてしまっているはずだ。

「ついた!」

 大地の果てに、まさに陽が沈まんとしていたそのとき、彼女はその短い旅の終焉を告げた。

 渓谷の隘路を越えた場所で、アザミは急に馬の脚を止める。亮もあわててその後につけた。

 暖かな橙色に染まる夕日に照らされ、目の前には雄大な大地が広がっていた。

 茜雲が、去りゆく夕日の光の残滓を名残惜しそうに集め、空に無数の影を造っている。その下には、遠く、連峰の稜線が春の霞にぼやけ、浮かび上がっていた。高台から見下ろす大地には、なだらかな水郷地帯が広がり、網の目のように広がる用水路の水面が、碁盤の溝に流れ出した水銀のようにキラキラと輝いている。その光景の美しさに亮は思わずため息をついた。

「どう?」

 亮の反応に満足そうに頷き、アザミが馬を降りる。どうやらここが彼女の目指す目的地だったらしい。確かに、彼女が自慢するのも納得の、素晴らしい風景だった

 鞍から飛び降り、大地に足をつけた彼女が、ウ~ンと一つ、大きく深呼吸をする。亮も同様に馬を下り、彼女の元へと並ぶ。主人という荷から解放された馬たちは、つがいのように、ヒンヒンと鼻を擦り合わせながら、仲良く呑気に近く草を食み始めた。

「あの山、憶えてる?」

 不意にアザミが遠くに聳える、一際高い山を指さして言った。 鋸のように尖り、岩肌が荒く露出した、無骨で威圧感に満ちた山だった。

「む?」

「泰山。仙人の住む山よ」

「ふぅん」

 別段、興味のない素振りで返事をする亮の顔を、アザミはちょっと意外そうに見やる。

「……ふぅん、って、憶えてないの?」

 不可解な質問だった。亮が首を傾げる。アザミはちょっと呆れたようにため息をついて、亮の肩を叩いた。

「そっか、アナタ、小さかったもんね。記憶にない、か」

「オイ、いったいどういうことだ!?」

 アザミの態度に業を煮やし、亮が食ってかかる。

 少女が亮へと向き直り、ウフフと含んだ笑い声を上げた。そしてじっと亮の目を見つめてくる。彼女の瞳が悪戯好きの猫のように楽しそうに輝く。

「諸葛亮。丘の上で逢ったとき、どうして私がアナタの名前を知ってたか――その種明かし、知りたい?」

「なんだと?」

 彼女のもったいつけた言い方に、亮がイライラして噛みつく。

「私は、昔、アナタと逢ってるの」

「何――!?」

 アザミの告白に、怒鳴り散らそうとした亮のが声を詰まらせた。彼女と昔、逢ったことがある――? どういうことだ?

「憶えてないのね、無理もないわ。アナタはまだ子供だったもの」

「…………」

「私の故郷はここ、泰山。八年前、私はここでアナタと出会った――」

 その告白に、亮はハッとなった。八年前、亮がまだ物心つくかつかない頃のことだ。だが親に聞いて知っている。確かに亮は、その時分、この泰山に住んでいた。

「アナタのお父様は当時、ここ泰山郡の丞を務めていたわ。私の家は、泰山に代々居を構える士大夫の家柄。私のお父様はアナタのお父様の部下だったの」

 そう言って、アザミは遠い目で、遠くに聳える霊峰、泰山を眺める。

「泰山の役所で、父親につれられて、アナタとアナタのお父上逢った日のこと、私ははっきりと憶えてる。私はまだ十にも満たない子供だった。もちろんアナタは洟を垂らした赤ん坊」

「赤ん坊じゃねェだろ! オレだって四歳だ」

「赤ん坊よ。図体だけはデカかったけどね――それにすぐに気づいたの」

「なに?」

「だって、あんなに可愛げのない不細工な子供は見たことなかったんだもん。八年ぶりに丘の上で逢ったとき、思わず噴き出しちゃった。あのときの赤ん坊と同じ顔なんだもん。アナタ」

 そう言ってアザミはプーッと噴き出した。

「なんだとこのヤロウ! 喧嘩売ってんのか!?」

 亮は顔を真赤にして食ってかかる。アザミはからかうようにヒラリと体を翻し、掴みかかって小突こうとする亮の腕をかわす。

「甘い甘い。そう簡単には捕まらないわ」

「てめェ、逃げるな! 大体、士大夫の家の娘が、なんで黄巾賊なんかに――」

 そこまで言って、亮はハッと息を呑んだ。

 不意にアザミの顔が曇ったのだ。 夕日に照らされ、朱に染まる彼女の顔から、笑顔は完全に消えていた。

「…………」

 亮は唇を噛んだ。

 胸に激しい後悔の念がこみ上げてくる。自分の発した質問の意味とその答えに気づき、なんて馬鹿な質問をしてしまったのだろうと猛省する。

 父親から聞いたことがある。泰山の丞を辞し、諸葛の家族が琅邪に移り住んだ頃に、泰山で大規模な黄巾の反乱があったということを。邑の施設は焼かれ、為政者は悉く殺され、巷は阿鼻叫喚の地獄となったと聞く。

 今は乱世。それは残酷な下剋上の世界。聖は俗に、盛者が貧者へ、聖域なく棄損され墜とされる絶望の世界――あらゆる価値観がひっくりかえるこの不条理の嵐の中で、高貴な家の令嬢が、野蛮な賊に身を窶すことに、どれほど沢山の理由があろう。

 幼少時代、士太夫の家柄に生れ、何の不自由もない生活を送っていたはずの彼女の身の上に、どんな悲劇が訪れたのか――そんなことは聞かなくても分かる、想像の範疇の出来事だった。

「…………」

 押し黙る亮の横で、アザミの微かな吐息が聞こえた。

「アザミ――?」

 泣いているのか? と、亮が彼女の顔を覗きこもうとした刹那――。

 不意に彼女の口から流麗な声が響いた。



 歩して斉の城門を出で   遥に蕩陰の里を望む

 里中に三墳有り      塁塁として正に相似たり

 問う「是れ誰が家の塚ぞ」 田疆古冶氏

 力を能く南山を排し    又は能く地紀を絶つ

 一朝 讒言を被りて    二桃 三士を殺す

 誰か能く此の謀を為せる  国相斉の晏子なり



 それは詩だった。

 紡がれた彼女の美しい声が、心地よい旋律となって、茜色に染まる空へと溶けて行く。

「……何だ?」

 亮は

「知らないの? 『梁父吟』――昔、この土地に住んでいた晏子っていう偉い人のことを詠んだ詩よ」

「どういう意味だ?」

「一つの桃を獲り合って、三人の勇士が死んだっていう話。その桃を獲り合うとように仕向けたのは晏子っていうヒト。勇士は三人とも嫌な奴だったから、晏子が謀で一網打尽にしたっていうわけ」

 説明をするアザミの顔に寂寥の色は失せ、元の太陽のような明るい笑顔に戻っていた。

「なんて素晴らしい知謀でしょう! っていう、偉~い軍師を讃えた詩ね」

「軍師――」

 亮は小さく呟いた。

 アザミの口から語られる、軍師を讃える詩――それはなんだか不思議で蠱惑的な響きだった。

「お前、学があるんだな」

「アナタがないだけよ。亮」

 そう言って笑うアザミ。普段なら「なにを!」と抗議する亮だったが、今回はその言葉を飲み込んだ。何故なら、アザミの瞳に溢れだしそうになるほどの涙が溜まっていたのだ。

「昔、お父様が良く詠ってた詩。で、詠ったあと、父は必ず私にこう言うの。お前が男の子だったら良かった。そうすれば、斉の景公に仕える晏子のように、一国の宰相にもなることができたかもしれないのに、って」

「…………」

「でも私には無理。例えお父様の言うように、男に生まれていたとしても――」

 そう言ってアザミはグイッと目を擦り、零れそうになる涙を拭った。そして小さく洟を啜る。

 その仕草を見た亮に、ふと、堪らない空虚な感覚が去来した。それは、刹那に共有した彼女の中の空虚だった。亮は思った。今、自分が彼女にできることは何があるだろうか、と。彼女の胸にポカリと空いた、信じられないほどの空虚を埋める手立てはないのか、と――。

「……オレじゃ駄目か?」

「え?」

「オレがなってやるよ。その軍師とやらに」

「アナタが!?」

 アザミが目を見開いた。亮はバツが悪くなってフンと横を向く。

「無理か?」

 突然、あははははははは、とアザミが大爆笑した。蔑みや罵りではない、純粋な笑いだった。

「何言ってるの!? 真面目になっちゃって! らしくない~!」

「笑うな! 恥ずかしいだろ!」

 目尻に涙を浮かべ、お腹を抱えて笑うアザミ。亮は顔を真赤にして抗議する。

 突然、亮の手に暖かい感触が走った。

 それは彼女の手だった。彼女の柔らかな掌が、亮の手の上へとそっと置かれたのだ。

「無理じゃない――」

「…………」

 アザミの手に力が籠った。その力は熱い感情の塊となって亮の手を包みこむ。

「無理なんかじゃないよ――」

 少女はそう呟き、そして亮の顔を見て笑った。

 夕日の朱が、彼女の長い睫毛に残った涙の雫へと反射し、虹色の光に輝いていた。


   ※  ※  ※


 帰り道は、闇の中だった。

 二人が琅邪に帰ってきたのは払暁とほぼ同時。あの沈んだ太陽が、東から再び顔を出すころだった。

 約束の場所――薊の丘へとたどり着き、二人はそこで別れの挨拶を交わした。

「アザミ!」

 そのとき突然、野太い声がした。二人は驚いて声のする方を見やる。

 黎明の闇の中、丘の麓に数騎の馬影が浮かびあがる。馬には男たちが騎乗していた。

「どこをほっつき歩いていやがった!」

 男の一人が叫び、並足で前に歩み出る。粗野な口調と野太い声に相応しい粗暴な雰囲気の男だった。奴を含め、男たちは総勢八人。

「なんだ、てめェらは――」

 凄みを利かせて叫ぼうとした亮の声を、アザミが制した。

「まって。仲間よ。私の兄たち」

 亮にそう言って目くばせをし、アザミは馬を駆って歩み出る。

「別にどこにいこうが私の勝手でしょ! 何か文句ある!?」

 毅然とした態度で、アザミが男たちに言い放つ。

 アザミの兄――無論、義理の兄たちだ。そしてその身なり。汚い格好だがつけている馬具や武器は豪華で高価なものだ。きっと邑や砦を襲ったときの戦利品なのだろう。そう、奴らは黄巾賊――アザミの所属する青州を荒らしまわる黄巾党の若者たちだった。 

「お、コイツ、男つれてやがるぜ」

 馬群の中の一人が、亮を指さして行った。男たちの間に、ゲヘヘヘヘ、と下卑た笑いが巻き起こる。明らかに相手を小馬鹿にした、見下した態度だった。亮の胸にふつふつと怒りが込み上げる。

「街で男を引っかけたのか? いっちょ前に」

「おいおい、これで何人目だ? まったく、盛りのついたメス犬じゃあるまいし――」

「なんだと!? コノ――」

「兄上!!」

 亮が怒鳴ろうとした瞬間、それを制してアザミが叫んだ。

「こんなところで油を売ってていいの!? 計画の決行までもう時間がないのよ?」

 アザミの怒声に、男たちは首をすくめる。

「オメェに言われなくても、ンなこたァわかってるよ。下見の帰りだ」

「いくぞアザミ。飯の時間だ。早く帰らねェとオヤジにどやされるぜ」

 そう言って男たちは馬を返し、次々に丘を降りて行く。

 帰り際、男のたちが亮に言い放った。

「おめェ、アザミには気をつけろよ。そいつはとんでもねェアバズレだ」

「夜通し楽しんで、さぞや満足だったろ? これからもよろしくな! 兄弟()」

 ゲヘヘヘ、と上がる笑い声。聞くに耐えない卑猥な罵倒だった。

 瞬間、亮の怒りが爆発した。

「てめェら、待ちやがれッ!」

 亮は叫んで馬に鞭を入れた。そのまま丘を駆け下り、男たちへと踊りかかり一人残らず殴り殺すつもりだった。

「ブッ殺す――ッ!?」

 瞬間、馬が嘶き、転倒した。その勢いで亮は落馬し、薊の野へと放り出される。そしてしたたかに背中を打って悶絶した。呼吸困難に落ち入り、ヒーヒーと喉が鳴る。

 天地が逆転した大地の先、亮の視界に一騎の騎馬が見えた。

 去っていく男たちの中、一人の男が馬首を返し、亮に対峙していたのだ。

 男は手に弓を持っていた。それを見て亮は理解した。この男は自分の乗っていた馬を弓で射ったのだ。目にも留らぬ速射だ。

 大柄で隻眼の男だった。額から頬に掛け大きな刀傷がある。アザミを罵倒し去っていく〝兄〟たちとは、体格も風格も違う。亮はピンときた。この男だけは賊じゃない――正規な殺しの訓練を受けた軍人、プロフェッショナルだ、と。そして悟った。他の連中は素手でも殺せるかもしれないが、この男は無理だ。ちゃんとした武器を以てしても、勝てるかどうかわからない。

 どうしてこんな男が、賊の中に紛れている――!?

「ガキ」

 馬上で隻眼の男が言い放つ。

「深入りするな。家に帰っておとなしく寝ろ」

 弓をしまいながら、男は捨て台詞を吐いた。そして丘を降りていく。

 亮は悔しさのあまり、叫んだ。

「まてッ!」

 ふと、亮の肩に手が触れた。アザミだった。

 アザミは小さな微笑みを口元に浮かべ、心配そうに亮を見る。

「……私は大丈夫だから」

 大丈夫なもんか。と亮は思った。

「じゃ、いくね」

 アザミは亮へと振りかえり、最後に分かれの挨拶をした。

 その目は絶望に縁取られた、悲しそうな瞳だった。諦観にも近い空虚な瞳――。

「くそッ! くそッ!」

 亮は地面に生えた草を引きちぎり、血が出るほどに握りしめた。

 そしてずっと、日が昇り明るくなるまで、アザミの去った先――青州の方角を見つめていた。

 

   ※  ※  ※


「間違いない。そいつは張闔ちょうがいという男だ」

 亮の話を聞いた飛燕の瞳が妖しく光った。

「何者だ、そいつは……?」

 亮の質問には答えず、飛燕は柳眉を顰め、厩の窓から蒼く澄み渡る空を眺める。

 諸葛家の厩。亮は腹に響く鈍痛に、芋虫のように地面に這いつくばりながら、恨めしそうに近くに立っていた飛燕の顔を伺う。

 亮はつい先ほどまで、怒りに我を忘れるほどに激昂していた。丘の上でアザミが去った後、厩にとって返し、新しい馬を駆ってすぐさまあの忌々しい黄巾の男たちと武人風の男に追いつき、決闘をするつもりだった。

 まるで手負いの野獣のように総毛立つ亮を封じ込めたのは、他ならぬ飛燕だ。

「うるせえ! テメェには関係ねェことだッ!!」

 そう言って暴れる亮のみぞおちに、飛燕は目にも留らぬ速さで剣の鞘を撃ちこみ、彼を地面へと這わせた。亮はその一撃で体の自由を奪われ、飛燕のいいなりにならざるをえない状況へと陥る。

「いいから聞け。犬死にしたいのか」

 親の仇を見るような目つきで自分を見る少年に、飛燕は涼しげな顔で答える。

「それにしても……そうか、そういうことか……」

「だからなんなんだ! てめェ!」

 一人、納得したように頷く飛燕に、亮が噛みつく。

「お前の会った男たちは、青州黄巾党。恐らく城陽の周辺を縄張りとする一派だ」

「んなこたァ、わかってんだよ!」

 亮が腹を押さえて苦渋の顔で罵倒する。

「そしてその中にいた、隻眼の男――張闔」

 飛燕はそこで言葉を切り、地面に寝そべる亮を見やって言った。

「徐州刺史、陶謙の部下で、都尉を務める男だ」

 飛燕の言葉に、亮はハッと息を呑んだ。

「陶謙――!?」

「ああ。あの男……優柔不断の日和見主義者だという評判だが、なかなかどうしてたいした策士だ。さすがは乱世で覇を競う群雄の一翼、ただの無能じゃないな」

「ど、どういうことだ!?」

 亮が抗議する。飛燕は順を追って説明を始めた。

「現在、徐州を治める陶謙は、対外的には袁紹と袁術、どちらの陣営にも就かずに中立的立場をとっている。しかし張闔の存在ではっきりした。あの男は、裏で袁術と手を結んでいる」

「何?」

「しかもあくまでその立場を保つため、事を起こすにも表だって正規兵を動かすことなく、その役を地元の黄巾賊にやらせる腹だ。奴の狙いは恐らく城陽の黄巾賊を扇動して、この琅邪にけしかけること」

「琅邪が戦場になるってのか!?」

「ああ。恐らくヤツらの最大の目的は――」

 その瞬間、飛燕の瞳がギラリと光った。その目の異彩が亮を射抜く。

「曹操の暗殺――」

「その通り!」

 突然、厩の入口で声がした。

 ビックリして声の方を見やる亮。戸口に一人の男が立って、中にいる亮と飛燕を覗き込んでいた。

「誰だ!?」

「飛燕将軍、み~つけた」

 陽気に鼻歌を歌い、男が千鳥足で厩の中へと歩いてくる。

 小柄な男だった。そして若い。まだ二十代前半だろう。服装は官服。目が大きく爛々としており、人懐っこくも狡猾そうな、猫を思わせる風貌だった。亮はその顔を見たことがあった。確か閲兵式の時に曹操旗下の部将たちに並んで立っていた、陳宮ではないもう一人の軍師――。

「いいからいいから、説明を続けてくださいよ。将軍」

 男がいきなり陽気に笑いだした。白い歯を見せ、飛燕の名を呼ぶ。

「説明もなにもそれでお終いだ。黄巾賊を操り、この琅邪を訪れる曹操を暗殺し、その首を手土産に袁術と同盟を結ぶ。それが陶謙が想い描いている筋書だろう」

「う~ん、お見事、お見事」

 そう言って、男はパチパチと拍手をした。そしてあはは、と笑う。その口は酒臭かった。良く見ると顔も紅潮している。どうやら酔っぱらっているらしい。

「……招かれざる客だな。君は誰だ?」

 飛燕がうろたえずに男に聞く。男はヒャヒャヒャ、と笑いながら答える。

「あ、ヒドいなァ。この厩の中ではアナタだって招かれざる客でしょう? 飛燕将軍」

「つーか、誰なんだ、てめェ」

 やっとの思いで立ち上がった亮が、業を煮やして男に食ってかかる。

「こりゃ申し遅れた。私は郭嘉かくか、字は奉孝。天下一の軍師です」

「なに?」

 〝天下一の軍師〟という言葉に、犬の耳が立つようにピクリと反応する亮。

「ずいぶんと酔いどれた天下一だな」

 飛燕が意地悪そうに笑って言う。その厭味を気にする素振りもなく、郭嘉と名乗った男はヒャヒャヒャと大爆笑をした。

「百万の兵は騙せても、こいつだけは騙せませんからねェ~」

 そう言って、郭嘉は袂から酒甕を取り出し、ゴクゴクと喉を鳴らして呑みだす。

 なんだ、単なる酔っぱらいの兄ちゃんじゃないか、と亮は思った。同じ曹操に仕える軍師だが、いかにも優秀で賢人然とした陳宮とはまるで違う。

「思い出したぞ、郭嘉。始め袁紹軍に士官したらしいが、あまりの素行の悪さに愛想をつかされ、曹操が引き取った軍師というのは、お前のことか」

「袁紹? あ~、ダメダメ、あいつはダメだ。曹操様とは頭のデキも器も違う」

 フニャフニャと手を振り、鼻で笑う郭嘉。

「そんな、私のことはどーでもいいんですってば。問題はアナタだ。飛燕将軍」

 ふと、酔いどれ軍師の酩酊気味に泳いでいた目が、飛燕を真っ直ぐに捕えた。

「私をどうするつもりだ? 捕まえて処刑するか?」

「滅相もない。そんなことするなら、とっくの昔に兵を引き連れてきてます。私はアナタがこの琅邪に潜伏しているってことは、最初からちゃ~んと分かっていたんです」

 そう言って自慢げに鼻を鳴らす郭嘉。本当か嘘か分からない物言いだ。

「黄巾賊の一派が曹操様の命を狙っている。そしてアナタは、腐っても黄巾賊を束ねていた将軍だ」

「だから?」

 飛燕が目を細めて、目の前の酔いどれ軍師を見る。相手を試すような口調だった。しかしそんな視線にもどこ吹く風。郭嘉はマイペースに笑って言う。

「あ~、も~、人が悪いなぁ。今、巷に百万はいるといわれる黄巾賊を糾合し、纏められる統率力のある人は、飛燕将軍、アナタしかいないんですよ。こんな汚い厩で油を売っている場合じゃないでしょ? それにアナタは馬鹿じゃない。曹操様を殺して陶謙につくか、陶謙を殺して曹操様につくか。果たしてどっちが得か、自ずと答えは出ているでしょう?」

「さぁ、分からんな。どちらかというと、曹操には一敗地に塗れた恨みがある。陶謙につくのが道理だと思うが?」

「違う違う違う! アナタも意地悪な人だな! もう!」

 なおも意地悪そうにトボけた態度の飛燕に、郭嘉は滑稽に地団駄を踏む。

 そして、ズイッと飛燕に顔を近づけて言った。

「アナタは分かっているはずだ。曹操猛徳という男の恐ろしさを……」

「…………」

「まぁ、魏郡でのことはお互い忘れましょうよ。恨みっこなしで。曹操様は明後日、この地に到着します。それまでに決断しておいてくださいね。」

 そう言って、郭嘉はクルリと踵を返した。そして最後に一言。

「飛燕将軍。黄巾兵百万とアナタの力、この二つをもし曹操様が手に入れられれば、袁紹も袁術も敵ではない。天下は約束されたも同然です」

「買い被りすぎだな」

 飛燕がフゥーと呆れたように肩をすくめる。

「あ、そうそう、もちろん、この天才軍師、郭嘉もお忘れなく」

 そう言い残し、ヒックと大きなしゃっくりをして、郭嘉は千鳥足で厩を出て行った。

「……なんだアイツは?」

 亮がジトッと酔っぱらいの去った先を見やって言う。

 勝手に持論をくっちゃべって、勝手に去って行った。まったくもって独善的で不可解な男だ。

「だが頭は切れる男のようだ。天下一の軍師というのはいささか吹きすぎだけどな」

 飛燕が笑って言う。しかしその目は笑っていなかった。

「……どうするつもりだ?」

 亮の質問に、飛燕は黙ったまま首を振る。最後までその答えは聞けなかった。

 厩には、微かな酒の残り香が漂っていた。


 曹操孟徳――彼が主軍を率いこの琅邪へ来訪する〝運命の日〟は、あと数日に近づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

臥龍飄飄 二度寝沢 眠子 @nidonezawa_nemuko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ