第3話 徐州 #3

「お前……〝飛燕〟か?」

 納屋の中で亮は男に言った。そして手に持った布と水差しを寝ている男に手渡す。

「…………」

 男は無言で亮から水差しを受け取り口をつける。そしてゴクゴクと喉を鳴らした。

「外が慌ただしいと思ったら……やはり追っ手が来ていたのか」

 そう言って、男は壁の板の隙間から外の様子を窺う。もうとっぷりと日が暮れ、夜の帳が降りていた。厩は月明かりでかろうじて周囲の様子を見てとれる。

〝飛燕〟――さっきの会合で名前が上がった、冀州常山県黒山賊を率いる伝説の盗賊。

 それがこの男なのだろうか?

 盗賊というには、あまりに線の細い男だった。あまつさえ十万の兵を率いて天下に号する勢力を築いた大将軍とはとても思えない。まるで男娼のような美貌の男だ。しかもその口調や物腰は、洗練された高貴な印象さえある。年も若々しい。三十を過ぎて幾つも経ってないだろう。しかし亮は確信していた。先程見たあの眼差し――その奥に秘められた理力は、並大抵の人物のものではなかったからだ。

「そうだ。お前の言う通り、俺は黒山賊の元首領、通称〝飛燕〟と綽名される平難中朗将。本名は張俊英という」

 意外にも男はあっさりと答えた。

「しかしそれも今や無価値。敗軍の将には過ぎたる名前だな」

 男は自嘲気味に笑って、傷の疼きに眉を歪める。

「……さっき、街の集会場で、黄巾賊を征討すると言う軍師に会った」

「なに? 曹操の部下か? 私がこの地に潜伏していることに気づくとは……鼻のいい奴だ」

「陳宮といっていた」

 その言葉を聞いて、飛燕はああ、と納得したように頷く。

「知っているのか?」

「有能な男だ」

 飛燕はそう言ってフッと笑う。

「巷では〝王佐の才〟と名高い人物だ。かつて董卓暗殺に失敗し、故郷へ逃れる途中、官吏に捕らえられた曹操を自らの官職と私財を投げ打って助けたこともある。曹操の才能に心底惚れこんだ、奴の片腕ともいえる男さ」

「そうなのか?」

 亮はそう言って陳宮という男を思い出す。魅力と人望を誠意という香辛料にして振りまき、皆の信頼を勝ち取るその姿は、戦場で知謀を尽くす軍師というよりは、学究に情熱を傾ける学者か思想家に近い印象を受けた。軍師のタイプも人それぞれ……ということか。

「童、軍師に興味があるのか?」

 そして彼は亮を真っ直ぐに見据えて言う。

「童じゃねェ。亮だ。諸葛亮」

 ぶっきらぼうな亮の態度に、飛燕は小さく笑う。

「そうだな。礼を言いたい。ありがとう、亮」

 飛燕が慇懃に礼をした。痛みに顔を歪め、ぎこちなかったが、それは大人相手の丁重なものだった。

「もう少ししたら、台所で使用人たちの食事が終わる。そしたら残った粥をもってきてやる」

 ぶっきらぼうに亮が言う。

「すまない」

 飛燕は再び礼を言った。結局、彼は最後まで〝何故助けた?〟という質問はしなかった。しかしされても亮は困っていただろう。〝ただなんとなく〟――それしか答えが思い当たらなったからだ。

 飛燕は自分の傷の手当を始める。幸い急所を外れていたらしく、傷口からの失血は治まっていた。手際よく包帯を巻く男の様子を、亮はなんとなく眺めていた。

「お前、また戦を始めるつもりか? そこらじゅうの黄巾党を煽って、もう一度反乱を起こすって聞いたぜ」

 亮は飛燕を睨む。陳宮という軍師はこの男の煽動により黄巾党が息を吹き返し、中原は再び阿鼻叫喚の地獄となると言っていた。確かに本物の〝飛燕〟なら、それを可能にする影響力があるだろう。しかし目の前で傷の手当をするこの男の様子から、世界を地獄に叩き落とす魔王のイメージを想像するのは難しかった。

「この国――琅邪をどうするつもりなんだ? 戦場にするつもりか?」

 飛燕がニヤリと笑って亮を見た。 

「どうして欲しい?」

 その言葉に、亮はハッとなった。――どうして欲しい? どうして欲しい? どうして欲しい?――まるで山彦のように、亮の耳にその言葉が何度も何度も繰り返される。言ってから気づいた。果たしてオレはどんな返答を期待していたのだろう?

 生活に不自由はなかった。琅邪という国も居心地が悪い訳じゃない。死と隣り合わせの戦場も、同族の人肉を食らうような困窮も、本当の意味で亮は経験したことがない。この乱世にあって、それは何にも代えがたい幸運であるはずだった。それは自覚している。痛いほど自覚している。が――しかし、何なのだろう、心のどこかに存在するこの小さな異物感は――。

〝どうして欲しい?〟――心の底に沸き立つその質問の答えを知って、亮は愕然となった。震える口で、亮は小さく呟く。

「オ、オレは――」

 亮か口を開きかけた、そのとき――。

「賊だッ!!」

 厩の外で大声がした。宵のしじまが俄かに破られる。けたたましい足音と、轟く馬蹄の音。そして人の叫び声。それほど遠くない。遠くに火の明かりが揺らめいた。屋敷の前を駆け抜けていく集団たちの持つ松明だ。

 反射的に亮は外に飛び出していた。

「おい!」

 後ろで飛燕の声がした。しかしその姿を顧みず、亮は馬具を装備していた一頭の馬へと跨り、ピシリと一閃、鞭を入れた。


   ※  ※  ※


 賊は邑の中心を過ぎ、東の裏手、沂河支流の堤の方角へと馬を駆っているようだった。村人は松明を手に、賊を包囲すべく追っ手をかける。しかしその灯を数えるに、とても包囲網をしけるような人数ではなかった。追いつき、なおかつ捕えることなど絶望的だろう。

 逃げられる――と感じた瞬間、亮は馬首を返し、南の辻へと進路を変えた。馬で堤を越えるには下流に架かった橋を渡る必要がある。であるなら、この経路を使えば賊たちの先へと回りこみ相手に追いつく目算は充分にある。何より生まれ育った村の地理はお手の物。亮は暗闇でも間違えることなく夜道を突き進んでいった。

 予想は的中した。

 三叉路で合流し、堤の一本道を走る亮の視界に、前を走る馬の尻が見えた。一、二、三。全部で三頭――賊は三人。

「食いついてきやがった!」

 風に乗って、前方から声がした。どうやら気付かれたらしい。

「斬るぞ!」

 その言葉と同時に、三頭の馬脚が乱れる。三頭の一番後ろの一頭が、走る速度を緩めたのだ。馬上の賊が、腰から刀を抜き放つ。そして体を捻り、亮の到来を待ち構える。応戦の構えだ。

 そのとき初めて亮は自分が丸腰であることに気づいた。厩から勇んで飛び出したきり、何の装備も持ってこなかったのだ。亮の胸に死の恐怖が沸き立つ。しかしもはや手遅れだった。戦う以外に彼に残された選択肢はない。であるなら――。

 亮は覚悟した。それは死の覚悟だった。

 あっけないくらい亮は自分の死を受け入れていた。それは棄て鉢と言っても良かった。

 亮の馬が、賊の馬へと接近する。

 月光に賊の刃が煌めいた。河の水面がキラキラと賊の顔を照らしだす。残忍そうな汚い顔。

「シャッ!」

 賊が刀を振りおろした瞬間、亮は自らの馬を捨て、跳躍した。

 捨て身になって、相手の胴へとすがりつく。予期せぬ相手の行動に、賊はの顔が戸惑いの色に染まった。馬上でもつれ合い、必死の取っ組み合いをする二人。

 そのとき馬が嘶いた。

 馬に振り落とされ、二人は塊となって地面へと落馬する。そのまま堤を転がり、ゴロゴロゴロと河原へと落ちて行く。

「グウッ!」

 鈍い音とともに賊が呻いた。

 落下した先の河原の石に、賊は後頭部をしたたか打ちつけたのだ。それは偶然だった。回転の具合によったら、その石に当たるのは亮であってもおかしくはなかった。

 亮の下で、賊がグンニャリと動かなくなった。打ちどころが悪かったのだろう。即死だった。亮を掴んでいた力も不意に消える。亮はまとわりつく死体を必死になって引きはがした。

「おのれッ!」

 頭上で声がした。

 見ると満月を背に、滑るように堤を降りてくる人影があった。

 人影の手には振り上げた刀。それは間違いなく亮の頭を狙っている。

 亮は咄嗟に飛び退いた。と同時に刀が空を切った。

「!!」

 右腕の袖が両断されているに気づいた。しかし切られたのは着物だけではなかった。刀の先が腕を掠め、ドッと血が噴き出す。しかし亮はそれに気づかなかった。気づいたのは、切られた袖口が真っ赤に濡れていることを知った後だった。

 不思議と痛みはなかった。ただ熱かった。傷口がではない。体全体が。

 一の太刀を大振りした賊が、二の太刀を繰り出すために体制を整える。その瞬間――。

 再び亮は跳躍していた。馬鹿の一つ覚えだと我ながらウンザリする。しかし腕に覚えもなく、丸腰だった亮にとって、武器は無駄に大きな図体、それしかなかったのだ。

 幸い、賊は小柄で華奢な体つきをしていた。その体に覆いかぶさり、体重に物を言わせて押し倒す。ゴツゴツした河原に、賊は背中をぶつけて「グゥッ」と呻く。

「離せッ!」

 腕の下で賊が叫んだ。言うとおりになどできるわけがなかった。離せば刀で切られる。亮は刀を握る相手の拳を掴み、近くに会った石へと叩きつけた。カランと音がして、賊の手から刀が離れ、河原の石の隙間へと転がり落ちる。そして攻勢に出ようと、怪我をして血に塗れた右手で相手の襟元を掴む。

 そのとき、右手の掌に予期せぬ感触が走った。

「――!!」

 亮は咄嗟に相手の襟を掴んで引きむしる。月光に、賊の白い肌が浮かび上がった。

 そこには乳房があった。

 形良く弾む二つの膨らみ。それを見た瞬間、亮の緊張が驚きで一瞬、切れた。

「ぐうッ!!」

 亮はこめかみに激しい痛みを感じ、倒れこんだ。組み敷いた賊――女が、掴んだ石を握りしめ、亮の頭へとしたたかに打ちつけたのだ。

 視界がチカチカと明滅し、亮は天地の感覚さえもなくなって、ゴツゴツした石の地面に這いつくばる。石で打たれた耳がワンワンと喧しい耳鳴りを奏でている。まるで蜂の大群が頭に棲みついたかのようだった。

 眼の前で女が立ち上がった。はだけた服の前合わせを整え、懐から匕首を出す。そして仰向けに倒れる亮を見下ろした。

「とどめだ!」

 朦朧とする意識の中で亮は天を仰いだ。そこには満月を背に亮に迫る女の影があった。

 亮はハッと目を見開いた。月光と河の水面の反射によって浮かび上がった女の顔――その顔に見覚えがあったのだ。

「お前は――」

 間違いない。今日、あの薊の茂る丘の上で、花を摘んでいた可憐な少女――。

 遅い春の霞に揺らぎ、まるで白昼夢のように亮の前へと現れ、そして微笑んだ少女――。

 その少女が今、自分の命を奪おうと白刃を煌めかせ、亮に迫っている。

 亮は何かを叫ぼうとして口を開けた。しかし喉が渇いて声が出ない。叫ぶ理由は恐怖ではなかった。叫ぶことで彼女の反応を見たかった。我ながらこんな状況で何を馬鹿なことを、と自嘲したが真実だ。亮の考えていたこと。それは自らの延命よりも、彼女の顔をもっと長く見ていたい。彼女が何者なのか知りたい。ただそれだけだったのだ。

 不思議と恐怖はなかった。

 この少女に殺されるなら、それはそれで悪くない、と思った。

 そして亮は、静かに目を閉じた。

「追っ手だッ!」

 突然、声がした。馬上のもう一人の賊の声だ。同時に堤の上手で大勢の人の声がした。追っ手の村人たちがようやく到着したのだ。それは奇跡ともいえるタイミングだった。

「行くぞ! 馬に乗れ!」

「でも、まだとどめが――」

「構うな!」

 賊と女との切羽詰まった会話が聞こえる。そして遠ざかるニ頭の馬の蹄の音。

 その音が完全に消えたとき初めて、亮は自分がまだ生きていることを実感した。

「こっちだ!」

「人が倒れてるぞ! 二人だ!」

 近くで松明の揺らめきと、河原を見下ろす人の気配がする。

 目を閉じた亮の脳裏に、昼間見た丘の上の情景が甦る。風にそよぐ草原いっぱいの薊の花。微笑む少女の後姿。形のいい乳房と艶めかしい白い肌。そして月光に浮かぶ、血の飛沫に濡れた少女の顔――色々な情景が瞬時に浮かんで、そして消える。

 そのまま亮は意識を失った。


   ※  ※  ※


 翌日より、琅邪国陽都周辺はにわかに物々しい雰囲気に包まれた。昨日まで都伯の連れていた斥候三十余人が、いつのまにか五倍の数に増えていたのである。それは軍の輜重を担当する兵たちだった。輜重兵は迅速に野営の設備を整え、兵站の整備、糧抹の確保に奔走を始める。すべてはあの陳宮という軍師の手際の良さだろう。その様子をみるに、曹操率いる黒山賊討伐軍の本体が、この地に到着するのは時間の問題と思えた。

 先に言ったように、その様子を地元の住民は苦々しい目で見ていた。招かれざる客。厄病神。いやともすると死神にだってなりえる。たしか曹操軍は五千と言っていた。そんな大軍、こんな辺鄙な田舎の街にやってくれば、街に備蓄した食糧なとあっという間に食いつくしてしまうだろう。官軍といっても粗暴で野蛮な連中。ヘソを曲げればどんな仕打ちをされるかわからない。

 しかしそれにも増して琅邪の住民たちが危惧する由々しい事態があった。

 討伐軍の本営は、陽都南方の田畑を大規模な駐屯地に選んだ。そこは琅邪の生活を支える穀倉地帯である。永い冬が終わり、来月になれば種蒔きの季節となる。しかしそこに軍が陣取ればそれも不可能になるだろう。種が蒔けなければ秋の収穫も見込めない。つまり農民たちはこの一年の収穫をまるまる失うことになる。只でさえ先行きの見えないこのご時世において、それは死活問題だった。

 だが、悪いことばかりではなかった。軍を統括する軍師、陳宮は、八面六臂の活躍で住民の懐柔に奔走していた。軍の駐留における損失補填に周辺の州へ物資提供の交渉に行ったり、駆り出された邑人の労働に正当な賃金を払ったりした。それは乱世を我がもの顔で蹂躙する連中の多い中、まさに例外ともいえる律儀さであった。

 そうした彼の誠意は軍と民、対立する二つの集団の軋轢を、少しづつ、しかし確実に解していった。

 ともあれ平和だった琅邪に戦乱の足音が静かに、そして確実に近づいていた。


   ※  ※  ※


 亮は自宅で目を覚ました。

 まるまる一日、眠っていた。河原で村人に発見されたのち、しかるべき処置をうけて自宅に送られたのだ。幸い石で殴られた頭の怪我も大時には至らなかったようだ。右腕の傷口も広いが深くはなく、健が切れたりもしていない。

 疼く頭痛に耐えながら亮は床から起き上がった。そして屋敷の外へと出る。行先は当然、あの男のいる厩だった。

「メシをもってきてやった」

 厩には飛燕がまだ寝ていた。もっともその傷では動くこともできないから当然である。

「バレてないようだな」

 亮は自分に出された粥の鉢を、飛燕に手渡して言う。

「すまん」

 受け取る飛燕。そして上品に粥を啜った。飛燕はこの数日食事をしていないはずだ。飢餓に耐えかねているのは間違いないはずだが、がっつきもせず落ち付いた様子だった。

「朝、馬丁の老人が来た。馬の世話をしていたが、私にはまったく気づかなかった」

 飛燕の言葉に亮がああ、と答える。

「甘爺さんだ。爺さん、おいぼれて目と耳が悪いからな」

 甘爺さんは先々代から諸葛家に仕える老使用人だ。残りの余生をここにいる三頭の馬の世話ために過ごしている人畜無害の老人だった。厩には彼ぐらいしか寄りつかない。潜伏する飛燕にとっては都合のいいことだった。

「怪我か?」

 飛燕が亮の頭に巻かれた包帯を見て言った。

「おう」

 恥ずかしそうに亮が言う。賊にやられた、とは言わなかった。もっとも言わなくても飛燕は分かっていたが。

「無茶したな」

「やめろ。お前みたいな死にかけに心配される筋合いなんかねェ」

 ぶっきらぼうに亮が答える。飛燕はフフッと笑い「そうだな」と頷いた。

「昨日の賊は――」

 粥をたいらげ一息つく飛燕に亮が呟いた。近くの飼葉の山に腰を落とす。

「黄巾賊なのか?」

「ああ」

 飛燕が答える。そして涼しげな流し目で亮を見やった。

「恐らく青州から来た一派だ」

「何故分かる?」

「前の辻を走り去ったとき聞いた賊の言葉に訛りがあった。それに逃げた方向――東には大規模な青州黄巾賊の秘密拠点がある。おそらくそこの手の者だちだろう」

 飛燕の推理は正しかった。亮は少しだけ驚いて質問を続ける。

「黄巾賊にしては若かったぞ?」

 黄巾の反乱は八年前。だから亮にとって黄巾賊というのは親世代の年の連中ばっかりだと思っていた。しかし昨日見た賊は若い――そう、若く美しい少女だった。

「育っているのさ、子の世代、孫の世代がな」

 そう言って飛燕が皮肉っぽく笑う。

「時代は変わっている。動いているんだ」

 飛燕が遠い目をする。亮も昨日の夜のことを思い出していた。美しい少女の姿を――。

「なぁ、お前――」

 亮は言いかけて言葉に詰まった。少し躊躇した末、神妙な面持ちで聞く。

「……黄巾賊の親玉なんだろ? 奴らともう一度会う方法はないのか?」

 その言葉に、飛燕は驚いた様子だった。

「士大夫の坊っちゃんが賊に何の用だ? 怪我のお礼参りでもするつもりか?」

 訝しげに亮を睨む飛燕。彼の目に、子供がややこしいことに顔をつっこむな、という非難と警戒の色が浮かんでいた。しかし亮は顔を背けて頷く。

「フン、そんなところだ。このままじゃ気がすまねェ」

 本当の理由は――少女だった。気を失ってからずっと彼の夢には彼女の美しい容姿が焼き付いて離れなかった。とにかくもう一度会ってみたい。彼女のことが忘れられなかった。

 亮の真意を知ってか知らずか、飛燕はフフッと笑った。

「マセた子供だ」


   ※  ※  ※


 表に出ると門前に父の珪が立っていた。父は客人と立ち話をしている。客人――先日、酒盛りをしていた許子将という男だ。

「何のもてなしもできませんで」

 そう言って珪は丁重に礼をする。どうやら客を送る門出らしい。

「いや、大変お世話になりました」

 許子将もにこやかに礼をする。

「もう少しご滞在して頂いてもよろしかったんですが……」

「いえ、あまり長居はできませんし、道中急がねばなりません。なにせ――」

 そう言って許子将は空を見上げる。

「ひと雨きそうな様子ですからな……」

 その言葉は暗喩だった。今朝からの街の様子に、不穏な空気を察したのだろう。早々に逃げだす算段か。しかし反面、この初老の男は琅邪の行く末を心底憂いている様子だった。

「行先はどちらへ?」

「江南へと行こうと思っています」

 珪の問いに許子将が答える。

「実は前々からお話がありましてね」

「江南というと――」

「この度、知己であった劉繇殿が帝の詔勅により揚州刺史に任命されましてな。非力ながらそのお手伝いを致したいと思っています」

「ほほぅ、劉繇殿ですか」

 珪はその名を聞いて目を見開いた。ちなみに亮はその劉繇という男を知らなかった。

「劉繇殿は漢の皇族にも繋がりのある高貴なお人柄。余生を尽くすに相応しい御仁です。もっとも、私のようなこの非才な老骨にどれほどの役が務まるか、甚だ疑わしいものですが」

 そう謙孫し許子将が笑う。

「この老骨にも、錆び着いた野心がまだ残っていた、ということですな」

 劉繇は、董卓亡きあと群雄割拠の一翼を担う人物だった。若いころは盗賊に捕らわれた叔父を自ら助け出したり、汚職に塗れた地方へと赴きその不正を厳しく正すなど、皇族出身ながら気骨ある男として名が通っている。一早く雄飛し、河北と南陽に二大勢力を築きつつある袁紹、袁術の袁家二氏に比べると、その勢力、影響力は見劣りするが、なにしろ天子様の血を引いているのだ。これほど天下を狙うに絶好の大義名分はない。

 初老の客人は曇天を見上げた。

「我、願わくば当代の蕭何とならん――」

 それはこの許子将という老人の、人生最後にして最大の賭けでもあった。

 蕭何とは、漢の高祖劉邦に仕えた人物である、興国の功臣として皇帝劉邦に最も信頼され位人臣を極めた名政治家だ。もし劉繇が天下を獲った暁には、それを補佐した許子将は、彼と同様、一国の長ともなれる可能性があるだろう。確かに袁紹、袁術は天下に一番近い位置にいる実力者である、しかしそれ故に、両陣営には目下、各地から優秀な勇将や策士がこぞってその麾下へと馳せ参じている。きっとその大勢に混じれば、許子将ほどの人物であっても才能が埋もれてしまうかもしれない。その点、劉繇の陣営はまだ人材が薄く、頭角を表すのに好機であった。鶏口となるも、牛後となるなかれ――人物を見るに定評のある許子将をして、劉繇こそ仕えるに値する人物だという判断は、そんな理由からだった。

 亮は空を仰ぐ白髪混じりの男の横顔を遠くで眺め、思った。

 この老人は、運命に抗おうとしている。

 そして自らの運命を、自らの手で切り開こうとしている――。

 彼の横顔を見て、亮はこのインチキ臭い客に、初めて好意と敬意を抱いた。

 そして心底うらやましいと思った。「オレもついてかせてくれ」という言葉が喉まで出かかり、胸が熱くなる。

「おう、亮。なんだ、そんなとこに突っ立って」

 亮に気づき、珪が笑って手招きをした。

「ども……」

 亮は無愛想を取り繕い、許子将に小さく会釈をする。老人は髭を撫でて挨拶を返す。

「そうそう、劉繇殿といえば、もう一つ」

 許子将が珪に向き直り、心配そうな顔で語り出す。

「劉繇殿の実兄の兗州刺史、劉岱殿が、済北国で黄巾賊を相手に戦を始めるという話ですぞ」

 そう言って許子将が鋭い目をする。済北国とは兗州北東部にある土地で、泰山の麓。琅邪からは北西に位置する。曹操軍が黒山賊を下した魏郡とこの地のちょうど間あたりにある場所だった。

「しかしかなり苦戦を強いられることになりそうです。兗州に侵攻してきた黄巾賊は、かの青州に拠点を持つ勢力らしいですから」

 青州黄巾党――その言葉に、亮はピクリと反応する。

「しかもその数が尋常ではない、およそ百万――」

「ひ、百万!?」

 珪が目玉を剥いて仰け反った。

「もちろん、戦に参加しない女子供もいるでしょうが……なにせ相手は幾年月を戦い抜いた黄巾賊。鍬を槍に変えれば、誰もが戦働きができる兵どもです。百万はあくまで風評ですが、それに近い規模であることは間違いありますまい」

「そんな軍勢が琅邪に来たら、いかに勇猛果敢な曹操軍と言えもひとたまりもありませんなぁ……」

 珪はハァ、とため息を吐いて言う。

「曹操ですか……」

 珪の口から出た〝曹操〟という名を聞いて、許子将の顔つきが変わった。

「あの男にも御用心下され。諸葛珪殿」

「曹操という男をご存知なのですか?」

 珪の質問に、ゆっくりと頷く初老の客人。

「かつて都で会ったことがあります。確か当時大尉を勤めていた喬玄殿からの紹介で……」

 喬玄は許子将の親友だった男で、亮の兄、諸葛瑾が通う私塾を開校した人物だ。噂によると娘が二人いて、姉妹ともに傾国と謳われる天下に轟く美姫らしい。

「曹操という男――正直、この私にも計り知れぬ人物です」

「許子将殿ほどのお方でも、ですか?」

 珪が驚いた顔をする。客人は髭を撫でて静かに頷いた。

「治世の能臣、乱世の奸雄――」

 許子将がそう言って言葉を詰まらせ、しばらくののち、小さく呟く。

「……正直、彼を評する言葉として、それが適当であったかどうか、今でも分かりません」

 許子将は、都で曹操と面会したときのことを思い出していた。その記憶を辿ると彼はいつも背筋に言い知れぬ冷たいものを感じる。

 そのときの曹操は、また二十歳にも満たない青年だった。

 嫌に鋭い目をして、水のように酒を飲む男だった。宦官の孫でありながら狭気があり、しかし目から鼻へ抜けような優秀な青年だという噂は聞いていた。確かに対面した彼は常に思慮深く、機知に富んでいた。武骨な男と思っていたが顔は端正で華もあった。酒の席の途中、彼が即興で吟じた詩は驚く程に美しく、感嘆のため息さえ出る程だ。しかし許子将はそんな彼の心の奥底に、もっと深く、暗い闇が潜んでいることを感じ取っていた。

 彼はまるで人間ではないようだった。人の皮を被った何か別の生き物――。

 これではまるで立場が逆だ、と彼は思った。自分の評を聞きたいとやってきた年端もいかぬ若造。しかしその瞳に宿っていたものは、目上であるはずの許子将を常に評価するような視線だったのだ。そして酒宴が進むにつれ、彼の瞳の異彩に、いつの間にか執心している自分がいる――。

「ともかくあの男は破格の相を持つ男。今は盟友の袁紹に従い、彼の使い走りをしているようなしがない部将ですが、奴はそれで終わるような男ではありません」

 許子将はブルッと背筋を震わせ、髭を撫でる。

「近々、兵を率いてこの地にやってくると言う話……ともすると黄巾よりも大きな厄災をもたらすかもしれません、くれぐれも御用心を」

 許子将はそう言って、ついで今までの長話を謝った。そして最後に深々と一礼し、クルリと踵を返す。

「父上に孝行するんじゃぞ」

 門出の先で、視界に入った亮に向かって、許子将はそう呼びかけた。

 亮は旅立つ客人の顔をじっと見つめ、口の中で小さく呟く。

「治世の能臣、乱世の奸雄……」

 その言葉に、許子将の瞳が不意に光る。そして亮を真っすぐ見つめた。

「お主は、どちらの世でも奸雄じゃな。間違いない」

 少年の肩をポンと叩き、客人は歩き出した。

 まだ見ぬ地、まだ見ぬ乱世へ。己を信じて、その身が朽ちるまで。

 自らに残された、搾り滓のような野望のみを武器にして――。

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