第2話 徐州 #2


 亮は屋敷の離れにある厩へと足を向けた。

 別に馬の世話をしなくてはいけないわけではない。自分の屋敷の中で、亮は一番この場所が好きだった。

 無人の厩――板張りの壁や屋根の隙間から差しこむ黄昏時の陽光。静謐の中に、ときより聞こえる馬の嘶きと息使い。そんな中にいると自然と落ち着いて、ゆっくりたっぷりと考え事に耽ることができるのだ。

 飼葉の山の中に体を埋め、寝ころんで汚い天井を見上げる。そうして、亮は父親と許子将の会話の内容を反芻した。

 今、都は酷い有り様になっている。まさに危急存亡の秋。

「なんだよ、いつの間に。聞いてねェぞ」

 亮は独り言をつぶやく。無性に精神が逆立ち、胸が熱かった。

 董卓、呂布、王允、李カク(イ隹)――。

 酒の席で、許子将の口からでた名前たちが、グルグルと頭の中で回転する。

 子供心に充分理解していた。この数年で世界は確実に変貌を始めている。

 自分という存在を無視して――。

 この琅邪という土地は時の流れに取り残された独房だ。そして自分はそこに捕らわれた囚人のようなものだ、と亮は思った。そんな境遇、耐えられない。しかしそんなことを父や姉たちに言えば、確実に反論されるだろう。「それはむしろ幸福なことだ」と。「無為こそが安寧」「戦乱に巻きこまれる方が恐ろしい」「平和が続けば、それに勝る幸福はない」と。

 しかしそんなことは、どうでもよかった。

 今の亮にとっては、人殺しの軍隊や盗賊なんかよりも、自分の知らない場所で、自分の力の及ばぬ得体の知れないことが起きているという事実の方が何十倍も怖かった。そしてきっと、その肥大化した正体不明の事象は、逆らえぬ運命となって、ある日突然、自分の身にふりかかるのだ。

 そう、まるで天災のように――。

 そうなっては全てが遅い。それまでに自分にできることは、何かあるのだろうか?

 今の自分に出来ること――。

 それは少なくとも、街の不良を半殺しにして満足することではない。

「世界が見てェ――」

 亮は心の底からそう思った。しかしその願いを叶えるには、十二という彼の年齢は若すぎた。しかも自分の成長を待たずして、世界はアッという間に変貌を終らせるかもしれない。明日には王朝が打倒されて、どこかの誰かが新しい皇帝となり、天下を手に入れるかもしれないのだ。

 そんなの耐えられない。

 別に武勲が立てたいわけではない。都で出世したいわけでもない。ただ、時代の変化に、自分が立ち会えないこと。自分の居場所がないことが、許せなかった。

 亮はガバッと上体を起こす。

 琅邪という国も、諸葛という家も、彼を取り巻くあらゆる存在が、彼にとっては無味無臭の世界に思えた。そして感じる言い知れぬ孤独感――。

 そのとき突然、ガサリ、と音がした。

「――!?」

 微かだが、確実に。厩の奥で人の気配がした。

 亮は息をひそめ、立ちあがる。そしてゆっくりと音のした方向へとにじり寄った。

 飼葉が天井まで積まれた納屋――厩の一番奥の小部屋だ。

 ふと、亮は気付いた。床に散らばった藁の間に、点々と赤い跡がついている。それは間違いなく血だった。

「誰かいるのか?」

 暗闇に亮は呼びかける。しかし暗闇は答えない。亮は目をこらして歩いて行った。

 そのとき、不意に納屋に風か吹いた。

 その風は、物理的な質量をもって亮の頬を掠める。カッと乾いた音がして、亮の背後、厩の柱に、その風が命中した。それは小さな飛刀だった。

「誰だッ!?」

 亮は叫んだ。暗闇から殺気がしたのだ。それは亮が今まで感じたことのない、凄まじい敵意だった。

「…………」

 暗闇が無言の返答をする。ガサリ、と飼葉が擦れる音がして、不意に暗闇が動いた。

 亮は目をこらした。目が慣れ、次第に暗闇から切り取られるように人影が浮かびあがる。

「……子供か?」

 人影がそう呟いた。そこにいたのは一人の男だった。飼葉の山に埋もれるようにして、体を寝かせる男――見たことのない顔だった。

「お前は――」

 そう言おうとしたとき、ふと亮は気がついた。彼は血まみれだったのだ。見ると男の肩には、一本の折れた矢が刺さっていた。傷口からはドクドクと未だ血が流れている。

 夕日の加減で陽光が差しこみ、にわかに男の顔が露わになった。

 男は若く小柄だった。失血のせいかゾッとするほど白い顔をしている。しかしそれを差し引いても、女のように美しい容姿だった。髭はなく整った鼻梁とキレ長の瞳。そして整った柳眉が苦痛で歪んでいる。良く見ると、額に玉のような汗をかいていた。

「……悪いが、納屋を借してもらっている」

 男が言った。痛みを堪えていたが、その口調は温和だ。

「アンタ、何者だ?」

 亮が訝しげに男を睨んで尋ねる。

「ちょっと休んでるだけだ。迷惑はかけない」

 どうみても休んでいる、という程ではなかった。明らかに重傷だ。

「死んだら迷惑だ」

 亮のぶっきらぼうな言葉に、男が震える口を歪ませる。どうやら笑ったようだった。

「そうだな。そうなったら悪いが近くの河原にでも捨ててくれ」

 亮は男の身なりを確認する。男は甲冑を着こんでいた。どう見ても堅気の地元民ではない。最近、この琅邪でも夜盗や盗賊が横行していると言っていた。もしかしたらこの男はその一味なのかもしれない。しかし、と亮は思った。その割には来ている物が立派過ぎる。その装備は、ひとかどの武将のようだった。

「童、人を呼ぶか?」

 不意に鋭い口調で、男がそう言った。

「ならば仕方がない」

「…………!」

 瞬間、亮の背筋に悪寒が走った。

 男の目に、冷たい光が宿っていたのだ。それは殺戮の目だった。言語道断で人を斬る殺人者の目だった。情熱も昂揚もない。ただまな板の鯉を調理する料理人のような、ひたすら冷めた眼差し――亮は今まで、こんな目をする男に出会ったことがなかった。

 亮はつい先ほど、丘の上で叩きのめした不良たちの目を思い出した。虚勢を張って「殺す」と意気込む男たちの目。その目と彼の目はまったく異質なものだった。

 口で言う必要などない。目そのものに刻まれた「殺す」という圧倒的な意思――。

 まるで蛇に睨まれた蛙のように、亮は金縛りにあったようにその場に立ちつくす。手が震えていた。それは自分でも信じられない、初めて感じる絶対的な恐怖だった。

「……お前、死ぬのか?」

 恐怖に悲鳴を上げる体を鞭打ち、亮はやっとの思いでそう呟いた。

「このままだったら、そうなるだろうな」

 男が呻く。先ほどの凄まじいまでの殺気が消え、女のような顔に戻る。

「何が欲しい?」

 亮の言葉に、男の目が驚きに開いた。

「……水と包帯を、あとは食べる物を所望したい」

 男がそう言って、亮の顔をじっと見つめてくる。

「あとでもってくる」

 亮は小さく頷き、クルリと踵を返した。そして無言で厩を後にする。

 突然の闖入者に、胸がドキドキしていた。しかし不思議と危機感はなかった。さきほどの凄まじい男の殺気にあてられてしまった、という気もする。

 彼が盗賊なのか何なのか、敵か味方か、そんなことは今の亮にはどうでもいいことだった。ただ、退屈だった日常が、男の登場という違和感によって掻き乱されたという現状が、不思議と心地よい、と感じていた。

 そう、まるで静かな水面に投じた小さな石が、周囲に波紋を作るように――。


   ※  ※  ※


 屋敷の中には、すでに大勢の男たちが集まっていた。

 琅邪国周辺に棲む士大夫たちだ。もちろん未成年は亮だけで、皆、家名を背負う地域の領袖である。

 宵の口に行われる邑の会合、その舞台である県令の屋敷。亮は子供だったが、酒浸りで役に立たない父親の代理人として、何度かこの大人たちの会合へと参加していた。もっとも、参加するだけで発言などはしない、単なる使い走りだが。

「史家村の庄屋が襲われたらしい」

「家畜と家財、いっさいがっさいもってかれたって?」

「これで五件目か」

 大人たちは、ガヤガヤと話し合い、情報を交換している。亮は間を縫うように人ごみの中を進み、所在なさそうに立っている友人、魏子世の元へ歩み寄った。

「あ、来たか、リョーちゃん」

 魏子世が言う。と、その時魏子世の隣にいる男が声を張り上げた。

「皆さま、今宵はお集まりいただきまして誠にありがとうございます。この魏斉、不徳ながら県令職を続けてこれたのも、一重に皆さまあってのこと。この未曽有の有事に皆さまのお智慧を是非とも借りたいと思っております」

 大仰に礼をしてみせる、この中年の男は、名を魏斉。この館の主にして陽都県令――つまり市長のような存在であり、魏子世の父親でもある。もちろん今夜の会合の発起人も彼だった。

 会合の議題は、近頃頻発している夜盗についてだった。先程の噂話の通り、陽都周辺の集落で、農家が襲われて、家畜や家財が盗まれている。盗みに入られた家はいずれも村で有力な地主の家だ。幸い、まだ犠牲者は出ていないが、納屋に寝泊りしていた馬丁が襲撃に巻き込まれて大怪我を負う事例が一件報告されていた。

「しかし、夜盗というのは一体、どんな輩なのでしょうな」

 一人の男が口火を切る。

「確かに見事な手際ですな」

 見事、というのは盗みの手口のことである。主人の不在を狙っての犯行、かなり正確な情報収集の上、大規模な集団が組織立って行わないと、これほど見事に手口で盗みを働くことは難しい。

「とても食い扶持を失って彷徨う流民のような輩には出来ない芸当だ」

 県令である魏斉は、顎髭を撫でながら憂慮の顔を見せる。

「……もしや」

 そこで魏斉は言葉を切った。その後に続く言葉を言うのが躊躇われたのだ。

 しかし、場にいる皆は、既に口に出さなかった言葉を充分理解していた。

「黄巾党の残党か……」

 誰ともなく、次いで出たその言葉に、場の空気が重くなる。

 黄巾党――その三文字は、その場の誰にとっても、忘れられぬ禍々しい疼痛となって、ずっと心の中に残る傷痕だった。

 八年前、中原全土を揺るがす大規模な住民反乱があった。太平道と呼ばれる、道教を起源とした宗教を興した張角という男がその首謀者である。張角は自らを大賢良師と名乗り、詭道、詐術の類をもって続々と信者を増やし、その余波を駆って後漢王朝に反旗を翻したのだ。

 黄巾党とは、目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を巻いた事に由来する。

 彼らの反乱は冀州、豫州、徐州、青州、荊州と次々に飛び火し、やがて数百万規模の大反乱へと発展していった。

 事態を重く見た政府は、盧植、皇甫嵩、朱儁など、当代最高の実績と経験を持つ歴戦の将軍をもってこの反乱の鎮圧に当たった。

 反乱軍と官軍は各地で激戦を繰り広げ、多くの戦死者を出し、田畑は荒廃し、幾つもの町が灰燼に帰した。

 しかしその幕切れは呆気ないものだった。教祖である張角が病死すると、反乱軍は急速にその求心力を失い瓦解を始めたのだ。こうして中原全土を巻き込んだ大反乱は一年足らずで終結した。世に言う〝黄巾の乱〟である。

 八年前、亮はまだ物心もつかぬ子供だったが、この天下を揺るがす動乱をなんとなく肌で感じていた。そして何より彼は、この反乱の後始末に追われる大人たちの後姿を見て育ったのだ。

 反乱平定は、単なる破滅の序曲に過ぎなかった。反乱によって疲弊し、膿んだ傷口はついに破傷し、王朝は二百年に及び溜めこんだ膿を吐きだし始めたのである。

 反乱によって大量の流民が世界に溢れた。土地を失い、今日食う物さえもない困窮の民である。彼らは集団で都市部に流入し、山賊行為や盗賊行為を繰り返し、財ある者たちの脅威となった。

 それに対して、政府はさらに腐敗していた。諸侯は我先にと形骸化した皇帝を擁立して、王朝の実権を握ろうと醜い戦いを繰り返す。もはや統治などに構っていられない。地方は完全な無政府状態と化していた。

 亮は、ふと道端に転がるシャレコウベを思い出していた。犬にしゃぶられ、埋葬されることもなく骸を晒す無縁仏。しかも一つや二つではない。亮がいつも歩く畦道には、幾つもの死体が日常茶飯事に転がっていた。しかし亮はその白骨死体に対し、憐れだとか、可哀そうだとか思ったことは一度もない。まるで犬のフンと同じもののように、それは何の変哲もない風景となってそこに落ちているものだと思っていた。亮が育った世界は、そういう世界だったのだ。

「黄巾賊か――間違いあるまい。しかもかなり統率力のある集団だ」

 皆が頷く。反乱鎮圧から八年たった今も尚、黄巾の残党は広範な地域に跋扈していた。彼らが流民と違うのは、大規模に組織されている点だ。かつて官軍と互角に渡り合った彼らは、平民でありながら、高い組織力と豊富な集団戦術のノウハウを持っていた。本気になれば、小さな城邑を守る衛兵など一蹴できる力を持っている。

「と、とにかく、出来る限りのことをせねばなるまい。警備兵を増員して、街のチョウ(石周)楼を補修する……。村の若者たちに自警団を結成してもらう必要もあるだろう」

 魏斉が矢継ぎ早に提案をする。皆はウンウンと頷いて聞いている。

「無駄だな!」

 そのとき、室内に大声が響いた。野太く、腹に響くような怒声だった。

 皆が一斉に声の方を向く。

 すると入口からドヤドヤと五、六人の男たちが室内へと登場した。皆、物々しい甲冑に身を包んでいる。まるで合戦に赴くような格好だった。地元の兵ではない。

「こ、これはこれは……都伯殿」

 魏斉が言葉を詰まらせる。

「ナマっちょろい田舎の役人連中が、雁首揃えて何を話していると思ったら――」

 都伯と呼ばれた武装集団の先頭の男が、フンと鼻を鳴らして一同を見渡す。

「逃げ出す算段じゃないだけマシか」

 都伯は、そう言って闊達に笑う。

「何だ!? お前らはッ!?」

 にわかに声を張り上げ、一人の男が都伯に詰め寄った。男は県尉を務める郭栄という者だった。県尉は地方軍を束ねる県の軍団長であり警察長官のような役職である。ちなみに都伯は官軍の下士官で、三十人ばかりを束ねる中隊長だ。

「陽都県令殿に向かって無礼であろう!」

 郭栄は口泡を飛ばして男に食ってかかる。

「ハッ! 呼ばれて来てみれば、随分な歓待だな。客人に無礼を尽くすのが琅邪のしきたりか?」

「誰も貴様など呼んではおらんわ! 厄病神めッ!」

 一触即発の雰囲気だった。郭栄も都伯も、お互い熊のような体躯をしており、怒鳴り合う二人に一同は縮みあがる。

「都伯。口が過ぎるぞ!」

 そのとき突然、凛とした声が響いた。皆が一斉に振り返る。声の主は都伯の連れてきた兵士のさらに後ろにいた。

「我らは都におわす天子様より遣わされた正義の使者。粗暴な態度許されん」

 そこにいたのは背の高い男だった。男の叱咤に、都伯がビクッと背筋を正す。

 男は武装ではなく、ゆったりとした官服を着ている。そこにいた誰もが一目で貴人だと分かるほど、男は立派な風貌をしていた。白く血色のいい肌に意志の強さを体現した太い眉。生気に満ちた大きな目。漂う都会的な洗練された物腰は、琅邪には絶対にいない人種だ。眉目秀麗という言葉がまさにピタリと言い得る、貴公子然とした男だった。

「これはこれは、軍祭酒殿……」

 魏斉が言葉を詰まらせながら男の名前を呼び、慇懃に礼をした。男も律儀にそれに応じる。

「ご紹介が遅れました。私の名は陳宮、字は公臺。この度、東郡太守・曹操殿の名代として、この一席を設けさせて頂いた者でございます」

 陳宮の言葉に、恐縮して矛先を収める都伯と郭栄。そう、突然あらわれた陳宮と都伯、そしてその部下である武装集団は、先日、この土地へとやってきた使者だったのだ。しかしそれは琅邪に棲む者にとって、決して歓迎すべからざる客人だった。

 自らに向けられた場の空気を察し、陳宮の表情が温和に崩れる。

「今はいがみ合っている場合ではありません。我々、力を合わせ、夜盗や黄巾の類の蹂躙をなんとしても防がねばなりません。我ら官軍と地方軍、その出自は違えど、志は同じ。そのためには皆さんの力、是非ともこの陳宮の為に役立てて頂きたい」

 そう言って陳宮は深々と礼をする。丁重で誠意に満ちた態度だった。その態度は琅邪の士大夫たちの意固地になっていた心を氷解させた。皆、都から来た官吏は、偉そうで田舎者を馬鹿にする、と先入観を持っていたからだ。皆は陳宮という男に強い魅力を感じ始めていた。

「……これは予兆なのです」

 陳宮が皆を見渡し、小さく呟いた。

「相手はすでに皆さんの手の付けられない規模となっています」

 断定的な口調だった。不思議と説得力のある、静かながら情熱的な声。

「そ、それはどういう意味ですかな?」

 魏斉が言葉を詰まらせながら返答する。陳宮がコクリと頷いた。

「言葉の通りです。徐州に潜伏している黄巾の残党は、もはや貴君たちの動員できる地方軍をもってしても対抗できぬ規模になっています。奴らが事を起こせば、陽県の地方軍など、一瞬にして全滅してしまうでしょう」

「全滅? 我々がですか?」

 郭栄が鼻白んで言う。

「我ら琅邪の兵は、度重なる乱にも負けず、領民を守った精鋭中の精鋭。黄巾の残党の百や二百、恐れるに足りません!」

 郭栄は熊のような体躯の迫力ある偉丈夫で、その怒声はかなりの迫力だった。

「こら、郭栄!」

 魏斉が咄嗟に気色ばむ郭栄を宥める。そして陳宮に話の先を促した。

「非礼な物言いがあれば謝ります。しかし今は無駄な説明に手を拱いている場合ではありませんので……」

 陳宮は別段気にする様子もなく、温和な態度を崩さずに笑った。魏斉は答えて言う。

「我らは皆、長く琅邪に住まい、天下の情勢に疎い者たちばかりです。そこは英才と名高き軍師、陳宮殿のこと、さぞかし広く御見聞をお持ちでしょう。是非ともご教授をお願いしたい」

『軍師……?』

 魏斉の言葉に交った単語に反応して、部屋の隅で事の成り行きを聞いていた亮が、人知れずピクリと反応した。

 軍師――とりもなおさず、戦において、将軍を補佐して策を立て、智謀を尽くして神機軍略を駆使する戦術のエキスパート。

 幼かった亮は、酔った父親に数多くの寝物語を聞かされて育った。その物語に登場する人物の中で、彼が最も興味を惹かれた存在こそ〝軍師〟であった。

 周の文王に仕えた太公望・呂尚や、漢帝国の高祖劉邦に従った張良など。軍師と呼ばれる者は自ら軍を指揮することなく、口から発する言葉と脳味噌だけで何千何万の兵を動かし、戦を勝利に導く。時に目の覚める機転で、時に関心するほどの胆力で、彼ら軍師はまるで何か魔術を唱えるがごとく、何倍もの大軍勢を軽々と撃破していくのだ。その話は何度聞いてもとても痛快であった。亮にとって軍師とは、まるで仙人や天女にも似た、人知を超えた特別な力を備えた超人のような存在であった。そしてその存在は、亮の中で不思議な憧れとなっていたのである。

 軍師――聞いたことはあっても、実際にその役職を者を見たのは初めてだ。

 この陳宮という男は、軍師なのだろうか……?

「この春、我が主君である東郡太守曹操閣下が、冀州常山を根城にする大規模な反乱勢力を撃破致しました」

「常山――黒山賊か!?」

「その通りです」

 場内がザワザワと騒然となる。黒山賊――その名は田舎である琅邪にも轟いていた。泣く子も黙る中原最強の盗賊団の名前。いや、その規模はもはや盗賊団などというレベルではない。その数およそ十万。もはや立派な一軍として、天下を狙える群雄の一端に食い込むことも可能な勢力となっている。

 黒山賊は元々、冀州常山県一帯で蜂起した黄巾賊の集団であった。頭目の名は張牛角。インチキ臭い名前なのは、出自が低い身分だからだ。きっと牛のような荒くれた粗暴な男だったのだろう。元々山谷の多い地形であった常山において、賊はその地形を生かしたゲリラ戦法によって、度重なる討伐軍をことごとく撃滅し、近隣の黄巾賊を糾合してたちまちその勢力を拡大していった。

 そして黒山賊が大勢力となった理由がもう一つある。

 頭目である張牛角が乱の途中で戦死した後、その跡目を継いだ男の存在だ。

 その男は〝飛燕ヒエン〟といった。

 無論偽名である。その本名、出自、経歴は不明。しかしその卓越した統率力によって、彼は黒山賊の力を一気に倍増させた。また〝飛燕〟は信じられないほど戦が強かった。想像を絶する神速の用兵に官軍たちは舌を巻き、ついた渾名が〝飛燕〟である。そして彼は頭も抜群に良かった。〝飛燕〟は官軍上がりの将軍のような手腕で、烏合の衆だった賊軍の内規を正し、兵士を修練し、組織の軍制を整えた。また先見の明もあり政治的手腕にも長けていた。終息しつつある黄巾の乱からいち早く脱却し、手練手管を使って朝廷に帰順し、なんと平難中朗将の官位を受けるまでになったである。そして反董卓連合軍が結成されるころになると、もはや黒山賊は粗暴な荒くれ者の反乱軍ではなくなっていた。禁軍も驚く統制された大軍団へと生まれ変わっていたのだ。

 だが、そんな河北最強と恐れられた〝飛燕〟にも、ついに敗北の二文字が突きつけられる時が来た。彼を下した男こそ、東郡太守となった若き俊英――

「我が主、曹操殿は魏郡にて黒山賊を迎え討ちました。黒山賊は密かに北の公孫サンと通じ、冀州牧袁紹殿と敵対し、その領土を脅かしていました。なので袁紹殿の知己である我が主君、曹操殿にその討伐の御鉢が回ってきたというわけです」

「な、なんと、あの黒山賊を討ったというのですか? 貴方が?」

 感嘆に静まる一同の中、魏斉の質問に静かに頷く陳宮。

「いや、私は殿の横で助言を行っただけです」

 陳宮が謙遜して笑う。

「信じられん……あの〝飛燕〟に勝つとは……」

 ザワザワと場がざわめく。郭栄が感嘆のため息をついた。〝飛燕〟の噂は嫌というほど聞いていた。巷では、その名声が独り歩きし、弱気を助け強きを挫く義賊だという評判もある。平民出身の〝飛燕〟は、悪徳貴族に搾取され、心の荒んだ被支配階層の希望の星でもあったのだ。

 しかし、それにしても――〝飛燕〟が負けるとは驚きだ。と郭栄は思った。〝飛燕〟に勝つというなら、曹操という男も相当の戦上手に違いない。そしてその曹操を補佐した、この陳宮という軍師もまた――。

「しかし、戦はまだ終わっていません」

 陳宮が言葉を続ける。

「白繞、于毒、スイ(目圭)固、黒山賊の主だった将はあらかた討ち取りましたが、残念ながら奴らを完全に殲滅するには至りませんでした。しかも肝心の総大将である〝飛燕〟には逃げられる始末。曹操閣下の所望する完全な勝利には程遠い結果です」

 自嘲気味に口を曲げる陳宮。そのとき――。

「で、その黒山賊と今回の事件と、どう関係があるんだ?」

 若々しい声が響いた。それは部屋の端にいる亮だった。皆の視線が齢十二の少年に注がれる。

「アンタの自慢話を聞きに来たわけじゃねェ。早く本題を聞かせてくれよ。軍師さん」

 亮は物怖じしない態度で腕組みして、陳宮を睨んだ。

(お、おい! やめろよ。リョーちゃん!)

 隣で魏子世が焦った様子で亮の袖をひっぱる。しかし亮は動じなかった。

「琅邪の男は子供も勇敢ですね。頼もしい限りです」

 挑発してきた大柄の少年の態度に、人格者の軍師が微笑む。別段気を悪くした風もない。

「ご存知の通り、黒山賊は一度は官軍へと帰順したものの、その母体は黄巾党。各地にはびこる黄巾の残党とは、未だ深い繋がりがあると見ています」

 陳宮はまるで詩を詠むように、朗々と説明を続ける。

「主力である黒山賊軍は全滅したものの、一早く離脱した兵たちは、まるで蜘蛛の子を散らすように各地へと潜伏しています。冀州、豫州、青州、もちろんここ徐州にも。その潜伏先は広く、そしてその繋がりは、我々が想像する以上に強固で綿密です」

 亮はその説明の意味することを、なんとなく理解してきた。陳宮がなおも説明を続ける。

「黄巾の残党は、この中原にばら撒かれた無数の火種です。それ一つ一つは踏めばすぐに揉み消せる小さな火――しかしその火種が、今、黒山賊という導火線によって繋がりつつあります。点を繋ぐ無数の線は、やがて〝網〟となるでしょう。中華を覆い尽くし、全てを捕えて焼き尽くす広大な炎の〝網〟へと」

「つまり、再び黄巾党が息を吹き返す……つーことか?」

 亮の言葉に、陳宮がコクリと頷いた。

「中々呑み込みの早い子供ですね」

 陳宮がニコリと笑う。

「連日、この地で頻発する夜盗の行動。その手口は明らかに統率された何者かによって指揮されています。恐らくは……」

「黒山党の仕業だと?」

「その通りです。しかも夜盗の目的は金と食糧。その量は自らの食い扶持をはるかに超えています。その意味するものはたったひとつ――戦の準備に違いありません」

 陳宮の言葉に、さしもの郭栄も、震えた口調で問い詰める。

「この徐州で、大規模な黄巾の乱が起こると言うか!?」

「可能性は高いでしょうね」

「しかし〝飛燕〟は庶民の味方なんじゃないのですか!?」

 亮の隣の魏子世が叫んだ。泣きそうな顔だ。

「相手は所詮、残虐非道の黄巾賊。かつては庶民の味方をしたような輩であろうと、乱世にその法を守る道理はありません。風評を信じ、淡い期待に縋るなど、愚の骨頂――」

 子供に対し、まるで教師のような口調で優しく諭す陳宮。魏子世は悔しそうに唇を噛んだ。

「な、な、なんとかならんのですか!?」

 今度は父親の魏斉が陳宮にすがりつく。狼狽した様子だった。しかし陳宮は相変わらずの冷静な顔で、それを受け流す。

「その為に私はここに来たのです」

 こともなげにそう言い放つと、陳宮はツカツカと上手へと歩きだし、一同を見渡して目を細めた。そして両手を掲げ、アジテーションをする。

「ここにいる都伯以下、兵士三十余名は曹操殿率いる主力部隊五千に所属する斥候です。是非とも、ここ琅邪に我が全軍の駐留を許可して頂きたい」

 一瞬、ギラリと、亮は陳宮の目が光ったように思った。

 それは核心だった。

 陳宮と都伯の中隊は、この目的ために、この席へと来たのだ。

「既に曹操殿はエン?州済北国の鮑信将軍率いる兵二万とも同調し、連合して軍を南進する準備を済ませております。もはや地方の兵力でどうにもならぬ以上、反乱を未然に防ぐため、軍を呼び込むは必定です」

 場にいる全員が沈黙した。皆、その顔に苦汁の表情を浮かべている。

 陳宮の言葉に深淵な意味が込められていることは、亮にもよく分かった。

 自らの領土に他の軍の駐留させることは、底知れぬリスクを伴う。駐留というと聞こえがいいが、それは要するに琅邪国の事実上の武力制圧であった。

 しかも軍の駐留にかかる費用――兵士たちの糧秣は、すべて地元民が提供することになるのだ。自分たちの食い扶持でさえ困窮しているこのご時世、その予算はどこの米蔵の漁っても捻りだせそうにない。

 しかも、駐留するのは軍である。いかに統率された官軍であろうと、相手は戦を目的とした粗暴な兵士。聞き分け良く留まり、地元民と仲良く同居することなど出来るはずもない。猛る兵士たちは、飯が食えなくなれば民家を襲い、女を抱きたくなれば町娘を犯すことに何の躊躇もないだろう。下手をすると黄巾賊に襲われるより悪い結果になる可能性もある。結局のところ、良くて搾取、悪くて蹂躙。それは茨の道だった。

「し、しかし……」

 魏斉が脂汗を浮かべて呟く。言い訳をするような狼狽した声だ。

「そ、それは私の判断では承伏しかねる。まずは徐州刺史の陶謙殿に伺いを立てるのが筋というものでは……?」

 しかし、それに対して陳宮は、残念そうに首を振った

「陶謙殿には既に話を通しております。しかし相変わらずの玉虫色の対応。あのお方は噂どおりの御仁のようです」

 陶謙というのは、徐州一帯を治める刺史である。つまり陽都県令魏斉の上役だ。徐州という中原最大の要地を支配するだけあって、陶謙もまた、乱世の群雄の一人としてその名を世に轟かせていた。

 しかし陶謙本人は堅実だが日和見なところがある男だと専らの評判だった。先の反董卓連合においても、連合に参加せず、静観する態度を見せている。陳宮曰く玉虫色の対応も、さもありなん、という感じである。

「曹操殿には、やがて袁紹殿を通じ天子様から直々に黒山賊討伐の勅令と、然るべき官位が賜われるでしょう。しかしそれを待っていては遅いのです。先手を売って、軍事的要所であるこの徐州に軍を進める必要があります」

「断ることは……できそうにないですな……」

 魏斉がはぁとため息をついた。皆の意見を聞くまでもなく、その場にいた全員が魏斉と同じ表情であった。あの威勢のいい郭栄でさえ、同じであった。

「安心してください。私が主と仰ぐ、東郡太守曹操殿はかつて公明正大なる孝廉として名を馳せ、その性、清廉にして高潔、寛容を以て知られる人望篤きお方です。それに、この陳宮の命に掛けて、我が軍の者どもに琅邪の民の不利益になることは一切、行わせぬ事をお誓い致します……と言ってもこの荒んだ乱世、なかなか信頼して頂くことは難しいでしょうが――」

 そう言って陳宮は深々と頭を下げた。その姿は皆の心を打った。予断を許さぬ状況で、この若く正義感溢れる軍師の誠意だけが、まるで一同の唯一の希望であるかの如く。

「信頼して……よろしいのですな?」

 魏斉が代表して陳宮の手をとった。二人は視線を合わせ、お互いに頷きあう。

「県令殿の深慮、この陳宮、深く感服いたします」

 陳宮たちが去り、長い会合が終わった。場は疲労感と絶望感で満たされていた。

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