第2話

 私はもう助からないな。


 『魔素に侵された者の脳が常世ではないどこかに繋がる』という症状の意味を、私はこの時はじめて理解した。

 本来人間には竜の咆哮など意味を成さない音にしか聞き取れない。

 しかし今はそれが持つ意味を理解出来てしまうのだ。

 脳の構造が何かに書き換えられたのだな。そう降りかかった現状を他人事のように受け入れることしか私にはできなかった。

 天から落ちてきた黒竜には目もくれず、雨の降りしきる空を仰ぐ。

 無意識に口端はつり上がり、己の命が死へと滑落していくのを感じながら哄笑する。


「はっ……それはこちらの台詞だ。竜。私には君の声が聞こえてしまっている」


 竜には言葉の意味を理解できたのだろう。

 微かに目を剝いたような素振りを見せてから竜が言う。

 それは本来人間には聞こえぬ言霊。星の精霊たる竜に授けられた魂魄に語りかける神が編んだ完全言語だった。


『聞き取れるのか。俺の言葉が』


 竜は困惑している様子だ。

 頷いて見せると、脱力した竜の影が視界の端で動いた。魔素に侵され脱色した皮膚や頭髪を覗き見た竜は、ややあって静かに口を開いた。


『天使の席に呼ばれたのか』


 竜の口から予期せぬ言葉が紡がれた。


『案ずることはない。体に満ちる祝福を受け入れろ。そうすれば、神はお前をお救いになる。……俺とは違って、神はお前を楽園にお呼びになったのだからな』


 天使。祝福。神。楽園。

 どれも邪悪の象徴とされる竜からは想像できない言葉ばかりだ。結びつきをまるで読み取れなかった。


「君は何を言ってるんだ。神なんてこの世にはいないぞ。……楽園も、天使も。全て人間が創り出した妄想だ。君は人間のような事を言うな。聖職者にでもなりたいのかい?」


『神はいる。天使も楽園も。全て存在する』


「何を言って——」


『これがその証だ』


 竜が翼を広げて、抉れた傷を見つめて言った。

 翼は穴が開いて引き裂かれ、傷は深く臓器にまで達しているようだった。

 だがその程度の傷、竜の身であればどうということはない。星の精霊と呼ばれる竜にとって自然に満ちる魔素は生きるのに不可欠な栄養素だ。魔素がある限り竜はあらゆる傷を瞬く間に完治する。

 竜を傷つけることができるのは魔素による攻撃か。竜殺しの聖遺物による攻撃だけ。

 それがこの世の——人間の世界の絶対法則だった。


 竜の翼が傷ついているのも。肉が抉られているのも。争いの止んだこの戦場においては説明がつかない。

 負傷して空に免れていた竜が力尽きて降ってきた可能性もある。だが、人類は竜と争いをはじめて二〇〇年経った今でも、空において竜を相手に勝利を収めることができていない。

 空は人間には手出しできない竜の領域だ。

 そこから竜を引きずり降ろすことが出来るものなど、この世には存在しない。

 

 それ故に竜が見せた深く凄惨な傷は、信じるに値しない戯言を可能性のひとつとして考慮させるには十分な代物だった。


『神の寝首を搔こうとしたのが間違いだった』


 竜が瞼を下ろして身を丸めた。

 先刻の憎悪はどこへやら、黒竜はこれまで見てきたどんな竜よりも覇気がなかった。

 竜の傷が癒える様子はない。血はとめどなく大地に流れ出ていて、竜の心臓が脈打つ度に広がっている。

 もう先は長くないだろう。とはいえ人間よりも遥かに長い時を生きる竜のことだ。あと一〇〇年はこの出血でも生きているのだろう。

 竜の傷口を見つめながら、足を引き摺って塹壕のなかに立ち上がった。

 壁に体重を預けながら移動し塹壕に垂れた竜の尾に手を添えた。


「なら君と私は同類だな。お互い死を待つだけということだ。仲良くしようじゃないか」


 そっと腰を降ろす。

 竜の尾が頬を殴ってきた。不服だ。お前と同じにするな。とでも言いたかったのだろうか。


「傷のせいでどこにも行けないのはお互い様だろう? いいじゃないか。君はあと一〇〇年生きていられる。私はきっとその頃には骨になっているさ」


『それよりも先に貴様は楽園に呼ばれる。……神の子となる人間を看取るなど俺は御免だ。虫唾が走る』


「君、神が嫌いなのか。なかなか気が合うね。私もだ。教会なんざもう数一〇年行っていない」


『馴れ馴れしいぞ。女。近寄るな』


「無茶を言うな。さっき少し歩いただけでへとへとだ。私はか弱い人間で、しかも乙女だぞ。雨が上がるまではここで休ませてもらう。ついでに君の巨体で雨を遮ってくれると助かるな」


『おい、いい加減に——』


「せいぜい数日の付き合いだ。君にとっては些細なものだろう」


 言うと竜は食い下がるのを止めた。脱力していた竜の尾を枕にして横になる。


 雨はまだ降り続いていた。

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黒竜と竜殺しの墓標 泉田聖 @till0329

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