黒竜と竜殺しの墓標
泉田聖
第1話
神さまなんてこの世にはいない。
そう信じて生きてきた。
そうでなければ、この世の理不尽に説明がつかないから。
仮に神さまが居るのなら、何故男だとか女だとか区別をつけるようにしたのだろう。何故皆の顔を違うように創ったのだろう。何故背丈に差があるように創ったのだろう。
何故種族なんてものを創ったのだろう。
☩ ☩ ☩
遠雷が聞こえた。
微睡みから意識が急浮上する感覚が全身を駆け抜けて、私は閉じていた瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んだのは空に渦巻く遥かな鈍色。
そして、頬を濡らす冷たい雨。
「雨か……」
腹の底からこみ上げてきた倦怠感を、吐き出すように声にした。
鼓膜に響いた自分の声は相変わらず女らしくはない低さだ。けれど二〇年も連れ添うと否が応でも受け入れるしかない。思春期真っ只中だった頃は周りの女子の愛くるしい声に憧れ妬んだものだが、今となっては些細なことだった。
むしろ二〇歳にもなって猫撫で声で男と話している女を見ると虫唾が走る。
同じ部隊にそんな女が居た。
そういえばあの女は目の前で死んでいたな。ざまぁない。
助けを乞えば男は誰でも手を差し伸べてくれると思っていたのだろう。最後まで甘ったれた女だった。……目の前で炎に飲まれて消し炭になるとは予想だにしなかったが。
辺りを見回した。
塹壕には無数の死体が転がっている。
下半身を失くした者。全身を黒く焼かれた者。頭部を潰され、身に着けていた武器を剝がされた者。救援がないことに絶望し自ら命を絶った者。
夥しい数の死が、塹壕の底には蔓延している。
塹壕は深淵から浮上した地獄の光景そのものだった。
「……終わったのか」
降りしきる雨のなかに、銃声がないか耳を傾ける。砲声を探し、生き残りの声を探して。瞼をそっと閉じて聴覚の感覚を研ぎ澄ます。
しかし人の気配はどこからも感じられない。
また自分だけが生き残ってしまった。
『竜』との戦いで生き残ってしまうのはこれで七度目だった。
静まり返った戦場で生き残る術は心得ている。
近場にある死体から使える装備品を拝借して。携帯食があればそれも漁る。竜との激しい魔法戦で戦場に満ちた魔素による電波障害は二日もあれば回復するから、無線機が回復するまではひたすら待ちだ。寒さと飢え、死体に湧く蛆虫や菌にさえ気をつければ二日の辛抱などどうということはない。
殺すつもりで戦場に送り出した竜殺しの戦鬼の生存報告に軍の上層部がどんな反応を見せるのか。想像するだけでも愉快だ。
「さて——」
意識を失ってから随分と時間が経っていたようで、若干の空腹感と共に胃が鳴いた。吞気な奴だ。辺りには数百を超える死体が転がっているのに。
幸い近場に補給物資を詰め込んだ木箱が置かれていた。中身は薬莢と食料の類いだろう。戦況が悪化したのを察して塹壕に身を潜めていて正解だった。おかげで補給物資を独占できる。
期待と共に下ろしていた腰を持ち上げる。
すると突然、身体は浮遊感に弄ばれて。
私は数一〇年ぶりに、顔面から地面につんのめって倒れた。
「は……?」
何が起きたのか理解できないまま、違和感の正体を探った。
どくん。足の内側で何かが胎動する痛みが走った。
意識すると胎動は大きくなり、徐々に痛みも長く重たくなる。
恐る恐るうつ伏せだった体を回して、自分の体の現状を目の当たりにした。
左足の皮膚が白く脱色を始めていた。
「ッ……!!」
魔素侵化症候群。
魔素に耐性を持たない人間が長く魔素を取り込むことで発症する不治の病。手足の色素が白く脱色するのは、その典型的な初期症状だ。
やがて全身を蝕む強烈な痛みと常世ではないどこかと脳が繋がる奇病は『発症したらすぐに死んだ方がマシ』だとさえ言われていた。
「くそッ‼ どしてこんな時に……ッ」
歯軋りして左足を殴って喝を入れると、白く染まった自分の髪が視界の端に飛び込んだ。生まれながらの赤い長髪さえ稀代の奇病は漂白してしまうらしい。右房の髪は紅蓮を保っているのに、左房の垂れた髪は老婆の髪のように白かった。
雨音が意識を混濁させる。
思考がまとまりを失っていく。心なしか手足が冷たくなってきた。
やがて鈍色の空が激しく閃光して、雷が大地に穿たれた轟音が聞こえた。
直後。
頭上から黒い影が降り注いだ。
影は慣性に従ったまま大地に叩きつけられて、力なく頽れた。
塹壕からでも見えるほどの巨躯。そんな巨体を持つものなど、この星において『それ』以外に有り得なかった。
馬のように鋭い頭に、金色の牡牛の角。赤い宝石の瞳。
蝙蝠を思わせる翼は、何かに引き裂かれて翼の向こう側が見えている。
黒金を彷彿とさせる鱗は哀れにも砕けて、露出した皮膚は焼け爛れ、抉れた赤黒い肉からは赤い液が流れ出ていた。
地上に失墜した黒竜と、目がかち合った。
『……俺を嗤うか。女』
落雷と共に天空から堕ちてきた竜は、まるで天から墜とされた堕天使のように。
その眼の奥には世界すべてを憎悪する黒い炎を湛えていた。
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