妹や家族に虐げられてきた「襤褸切れ令嬢」は白い結婚だったはずなのに嫁ぎ先で真実の愛を手に入れる
守次 奏
本編
「すまない、エリーシャ。私は君を愛することができない」
湯浴みを終えてバスローブ姿になったわたし──エリーシャ・シェスティーナの前で、心から残念そうに、旦那様ことアレス・アイゼンブルク辺境伯は頭を下げて、不誠実をどこまでも誠実に告げた。
かつてこの国を脅かした邪竜ファーヴニルを退けた勇者としての功を讃えられ、辺境伯として迎えられたアレス様は、大層変わり者だというお噂は嫁ぐ前から聞いていたけれど、彼は別に悪くない。
そもそも、この結婚は、貴族界では半ば煙たがられているアレス様に対して、わたしの実家であるシェスティーナ伯爵家が玉の輿を狙って無理やり組んだ縁談だからだ。
勇者様に気に入られれば、家のためになる。
気に入られなければ、厄介者のわたしを伯爵家から追放する口実になる。
実家が狙っているのは、間違いなく後者の方だ。
アレス様は気難しいお方で、今まで嫁いだ令嬢たちと一年さえもたずに離縁してきたのだと、嫁ぐ前にお父様から直々に聞かされていたから。
そんなお方の妻を、みそっかすなわたしが務められるはずもない。
シェスティーナ家は、それを承知で縁談を無理やり組んだのだから、むしろ謝りたいのはわたしの方だった。
「いいのです、アレス様。わたしは……英雄の妻としては至らない女だと、承知しておりますから」
「……英雄の妻、か」
「お気に障ったのであれば申し訳ありません。ですが、わたしのような不束者ではやはり妻としての品格が足りないのではないかと」
「いや……あまり自分を卑下するものではない。困ったな……君のような女性は初めてだ」
アレス様は眉間に指を遣って、考え込むような仕草を見せる。
気遣っていただいているのだろうか。
だとしたら、余計に申し訳ない。
『「襤褸切れ令嬢」のお姉様に勇者様の妻なんて務まるはずがないじゃない。どうせすぐに捨てられるわ』
結婚前夜、着古されたそれを修繕しただけのウェディングドレスに身を包んだわたしに、妹のマリーエルが言ったことを思い出す。
可哀想なお姉様、と嘯いてはいたけれど、妹が微塵もそう思っていないことは、部屋を出ていくときのご機嫌そうな足取りから伺えた。
でも、それも仕方ない。いつものことなのだから。
そう、いつも。
いつも、欲しいものを手に入れるのはマリーエルで、いつだってその余り物を押し付けられてきたのがわたしという、いらない子なのだから。
お父様とわたしのお母様は、政略結婚で夫婦になったのだと聞いていた。
だから、お父様は前妻にあたるわたしのお母様も、仕方なしに設けた子である私のことも愛してなどいなかったのだ。
その代わりに、お母様が病に倒れて亡くなったのちに、恋愛を経て再婚した後妻であるお義母様のことは、目に入れても痛くないぐらい愛していた。
もちろん、その娘であるマリーエルのことも。
屋敷ではいつも襤褸切れのようなドレスを着て、使用人の真似事をして、なんとかその日その日を生き延びることで必死だった。
だって、使用人たちでさえもわたしの面倒なんて見てくれないから。
食事も粗末で、残飯のような──と、いうより残飯そのものを与えられてきたから、体つきだって十六歳にしては貧相な方だ。
一年単位でドレスを変えなければいけないぐらい、胸周りの成長が著しかった妹に対してわたしは何年前に誂えられたかわからない襤褸切れを着回し続けられるくらいにはちんちくりんだ。
そんなわたしが、アレス様に女性として見てもらえないのは当然のことだろう。
嫁ぐなら、マリーエルの方が適任だったんじゃないかと、今でもそう思っている。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。一応とはいえ、妻として迎えていただいたのですから、わたしはそれだけで幸せです。ただお傍にいられるだけで、よいのです」
「……やはり君は不思議な女性だ」
アレス様は困ったように溜息をつく。
その眼差しはどこか遠くを見ているようで、彼の心がここにはないのだと改めて思い知る。
ただ、そこから見て取れる微かな憂いは、なにかを懐かしんでいるようだと、そう思った。
「君を愛することはできないと言ったが、君の面子を潰すつもりはない」
「では、妻として表向きは扱っていただけるのでしょうか」
「表向き……そうなるな。君もこんな偏屈に嫁がされて大変だろう。三年だ。三年もすれば、窮屈な思いをすることもなくなるはずだ」
「……承知いたしました。三年の間、エリーシャは妻としての役目を果たさせていただきます」
「よろしく頼む」
恭しく一礼して、わたしはアレス様の申し出を受け入れる。
誠実な人だ。今までたった一年すらもたないで離縁を重ねてきたお方とは思えないぐらいに。
だからこそ、わたしのような黒髪のみそっかすと三年間も一緒に過ごさなければいけないことが尚更申し訳ない。
愛されようだなんて、微塵も思わなかった。
だって、愛されないのがわたしにとってはいつものことで、普通なのだから。
せめてこの髪が妹のように美しい金糸のようであったのなら、この胸が妹のように豊かであったのなら、少しはお飾りの妻としても箔がついたのだろうけれど。
溜息を噛み殺してベッドに入る。
……信じられないぐらいに、ふかふかだった。
シェスティーナ家では藁にシーツを被せたもので寝ていたから、あまりの感動に涙が滲んでくる。
「……やはり、実家が恋しいか?」
「い、いえ……申し訳ありません。ベッドがとてもふかふかで、このような幸せをいただいてもいいのかと」
「……そ、そうか……ならば君が安らいで眠れるように私も努めよう」
おやすみ、と、アレス様が囁く。
そう言ってもらえたのも、いつ以来だろう。
その言葉は、離縁の噂や偏屈だというお話が信じられないくらいに優しくて、誠実で、わたしはつい涙をこぼしてしまった。
◇
それからわたしたちは、概ね穏やかな新婚生活を過ごしていた。
女として愛することはできない、というスタンスこそ変わらないけれど、アレス様は私のことをそこそこ気にかけてくれていたようで、新しいドレスや髪飾りを買い与えていただいたこともある。
もちろん、着飾ることが妻としての仕事だからという話だからだとはわかっているけど。
でも、誰かにプレゼントをいただけたなんて、お母様が生きていた頃以来だから、柄にもなくはしゃいでしまいたくなって。
「……それで君は、使用人の真似事をしていたのか?」
「はい。少しでもアレス様に恩返しをしたくて。いけませんか?」
「君は伯爵家の令嬢だろう。なのに自ら水仕事で手を荒らすような真似を……」
「そう言われましても、実家ではこれが日常茶飯事でしたので……」
わたしが屋敷の掃除をしているところを呼び止めたアレス様は、信じられないものを見たとばかりに目を丸くしていた。
お掃除にお洗濯にお料理とその他諸々。
全部自分でやらないとお父様とお義母様にひどく怒られるから、時々使用人から水の入った桶をひっくり返されたりする意地悪をされても、毎日続けてきたことだ。
「君の実家は令嬢に使用人の真似事をさせるのか? とてもではないが信じがたいな……」
「わたしは、いらない子でしたので」
家にいられるだけよかったんです、と説明すると、アレス様は訝るように首を捻った。
「いらない子、とは?」
「ええ、と。わたしはお父様とは前妻に当たる女性の娘でしたから。お母様とは政略結婚だったと聞いています。だから、可愛くなかったんでしょう」
「そうか……やはり貴族社会というものは度し難いな」
呆れて溜息をつくアレス様の気持ちもちょっとわかる。
お父様も、見方によっては被害者だもの。
家のためだからと望まない結婚を強制させるようなことが当たり前な世界だから、お母様との結婚はお父様にとっても、お母様にとっても不幸しか生まなかったのだ。
「だが、妻が使用人紛いのことをしているとあってはその、だな……俺、じゃなかった。私が君を虐めているように見えてしまうのではないか」
「はっ……! も、申し訳ありません! それは盲点でした!」
「そう頭を下げなくてもいい。君の気遣いは本当に嬉しいんだ。だが、そのだな。全ては我がアイゼンブルク領が娯楽に乏しいことが全ての悪因なのだが……もう少し貴族らしく振る舞ってもよいのだぞ、エリーシャ?」
それは遠回しにわがままを言ってもいい、という示唆だった。
アレス様がわたしを気遣ってくれているのはわかるけれど、救国の英雄を前にわがままを言えるほど肝が太くはない。
強いていうならこのお掃除やお洗濯、お料理を続けさせてほしい気持ちはあるけど、それだとさっきも言われたように、「妻を使用人のようにこき使っている」という噂が立ちかねないから困りものだ。
「……本当にエリーゼとそっくりだな」
「? なにか仰られましたか?」
「いや、なんでもない。とにかく……欲しいものや足りないものがあれば言ってくれ。君はあまりにも主張が少なすぎる」
今まで嫁いできた女たちは金銀宝石に社交界へ連れていけだのと常にうるさかったのだが、と、アレス様は溜息をつく。
社交界はともかくとして、金銀宝石を救国の英雄にねだるだなんて、なんて豪胆なのだろう。
わたしにはとてもできそうもない。
「ならばせめて、お料理を作らせてはいただけないでしょうか?」
「……料理長の腕に不満でもあるのか?」
「いえ、いつもしていたことをしていないと落ち着きませんから……これがわたしに言える、精一杯のわがままです」
愛想よく笑みを浮かべて、首を傾げる。
「……わかった。ただし週に一度だ。料理長にも料理長の面子があるからな」
「ありがとうございます、アレス様。では今日はわたしが腕を振るわせていただきますね」
「……そうか、では料理長には私から伝えておこう」
確か今日は、アレス様が狩ってきた鹿が運ばれていたはずだ。
せっかくだから、部位を余すことなく使えるシチューにしよう。
掃除用具を片付けながら、わたしはそんなことを呑気に考えていた。
最初はどうなることかと思っていたけれど、噂なんてものは当てにならないから噂なのだ。
アレス様は確かに一度もわたしを抱いてくださらないし、それが白い結婚を表向き円満に見せかけるためだとしても、いつだって優しくしてくださる。
それだけで私は十分だ。そこに愛まで望んだら、きっとバチが当たってしまうだろうから。
◇
「……驚いたな、君がここまでの腕前だったとは」
わたしが作ったシチューを銀の匙で一口掬って口に運んだアレス様が、目を白黒させながら呟く。
「お口に合ったようでなによりです」
「これを君はいつも実家でやっていたのか」
「はい。お掃除やお洗濯は大変でしたけど、お料理を作るのは楽しかったです」
全員の口に運ばれるから、使用人にもマリーエルにも、お義母様にも邪魔されることはなかったし、出来上がったものは残飯とはいえ私にも還元されるから、料理は嫌いじゃなかった。
肉の切れ端を浮かべただけのシチューを私も銀の匙で一口掬って口をつける。
うん。自画自賛するみたいだけど、我ながら会心の出来だったといえるんじゃないだろうか。
「……これは、予想以上だな」
「お気に召していただけたようで、嬉しいです」
パンを浸してシチューを食べ進めていくアレス様の様子を見ていると、わたしもなんだか胸の奥をくすぐられているような心地だった。
少しでも妻として、アレス様に恩義を返せているのなら私もここに嫁いできた意味があるというものだろう。
鹿の大きさが大きさだったからおかわりもたくさんある。わたしはこの一皿だけで十分だけど、普段は鍛錬や狩りでお腹を空かせているであろうアレス様には、いっぱい食べていただきたかった。
「エリーシャ、君は」
「どうかなされましたか、アレス様?」
「……いや、なんでもない。少し私も舞い上がっていただけだ」
「左様でございましたか。おかわりもたくさんございますので、よろしければ是非」
「それを言うなら、君ももう少し食べた方がいい」
わたしの食卓に並んでいるパンとシチューを指して、アレス様は真剣な眼差しで言った。
これでも私としては結構贅沢をしている方で、食べている方なつもりなんだけれども。
「せっかく狩ってきた鹿だ、妻に味わってもらわなければ奴も無念だろう。それにだな、君はただでさえ細いというのに食まで細いのだから見ていて心配になる。もう少しと言わずたくさん食べた方が良い」
「そ、そこまで仰られるのでしたら……少しだけ……」
アレス様は口元をナプキンで拭うと、一息にそう捲し立てる。
あまりの圧に思わず後ずさってしまうけれど、気遣われていること自体は嬉しかった。
柔らかくなるまで徹底的に煮込んだ脛肉……だと思う部分の塊を給仕に取り分けてもらって、わたしは啄むように歯を立てた。
「……おいしい」
こんな大きな塊肉を食べたのなんて、初めてのことだ。
思わず、感嘆の息が漏れる。
自ら作った料理にこんなことを思うのもおかしいのだろうけど、柔らかくも歯応えのある鹿肉はあまりにも美味しくて、感動的で、今まで自分が食べてきたお肉はなんだったのだろう、とさえ思えるほどだった。
「本当に、こんなに美味しいお肉をわたしなんかがいただいてもいいのでしょうか」
「構わない。君は私の妻だろう、エリーシャ」
「……つ、妻……」
「少なくとも、三年間は」
「……そう、ですね。ありがとうございます」
三年間、という言葉を聞いたとき、少しだけ胸の奥を針で突かれたような痛みが走ったのは多分気のせいだろう。
元からそういう約束でここにいる。
元からそういう約束で、ここにいさせてもらっている。
それが、わたし。
あくまでもこの結婚は愛情なんてない白い結婚。
三年間、幸せに暮らしたけど価値観の相違で離縁したという建前を作るためだけの関係なのだから。
だから、胸を痛める方がお門違いなのだ。
すぐに笑顔を取り繕って、わたしはアレス様の厚意に与る形で、シチューとパンを食べ進めていく。
いっぱい食べないと、心配させてしまうから。妻としての、お飾りとしての役割を果たせないから。
だからこれは義務だ。
仕事なのだ。
つい、忘れそうになっていただけで。
──わたしは、最初から愛される資格なんてものは持ち合わせていないのだから。
◇
アイゼンブルク領に冬が訪れた。
春に嫁いでそろそろ一年が経とうとしているのだと、冷え込む空気が、降り積もる雪がそう歌っている。
辺境に巣食う屈強な魔物であったとしてもこの冬という季節の前には屈する他になく、再び季節が巡って春がやってくるまでの間、アイゼンブルク領は束の間の平穏を享受していた。
ただ、わたしとアレス様は、平穏じゃなかったのかもしれない。
最近になって気づいたことだ。
アレス様はいつも夜中になるとベッドを抜け出して、どこかに行っている。
そして、夜が明ける頃に戻ってきて、何事もなかったかのようにわたしの隣で寝たふりをしているのだ。
ようやく、布団のふかふかとあたたかさに慣れてきたことでわかったその秘密が気にならないかと聞かれて、首を横に振ればそれは嘘になる。
ただ、わたしにも黙って寝床を抜け出しているということは、間違いなく知られたくないことなのだろう。
もしかしたら、密会だろうか。
元々お飾りとして迎えられた妻であるわたしがそれを心配してどうなるんだ、という話ではある。
お父様がそうであったように、アレス様にも想い人の一人や二人、いたってなにもおかしくはないのだ。
だけど、それを想像するとなんだか心の裏側へ乱暴に手を突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き回されているような感じがして、嫌だった。
不貞をもしもアレス様が働いていたとして、それを責める権利はわたしにはない。
わたしは丸一年経とうとしているのに一晩たりとも抱いてもらえない、お飾りの妻でしかないのだから。
だけど、知る権利ぐらいはあるはずだ。
本当のことがわかれば、諦めだってつく。
なにも知らないまま、ただ生殺しのような日々を送っていることこそが本当に嫌で、怖くて、不安で仕方がない。
だから──わたしは、アレス様の後をつけてみることにしたのだ。
手慰みに読んでいた書庫の魔導書から学んだ、気配を消す魔法。
それを使って、アレス様が寝床を抜け出して部屋の扉を閉めたところから追跡を開始する。
雪が降りしきる夜だというのに、アレス様は背中に大剣を負っている以外は寝巻きのままで、お屋敷の裏口に回っていく。
ネグリジェ姿のわたしは思わず寒さに震えて、声を漏らしてしまいそうになるけど、きつく歯を食いしばって我慢する。
一体、アレス様はどこでなにをしているのか。誰と会ってなにを話しているのか。
知りたい。
だけど、知るのが怖い。
それでも、知らなくちゃならない。
だからわたしは、アレス様がお屋敷の裏口に明かりを灯して外に出ていく、後ろ姿を追いかけたのだ。
「シファル、ゴードン、エリーゼ……今日は一段と冷え込むな。雪降ってるから当たり前だけどさ」
裏口の扉を半分だけ開けて顔を覗かせると、そこに見えたのは、小さな墓石だった。
誰のお墓なのかはわからないけれど、そこに向かってアレス様が呼びかけている以上、ゆかりのある人のお墓に違いはないはずだ。
シファル、ゴードン、エリーゼ。知らない名前だったけど、どこかで聞いたような気もして。
「もうすぐファーヴニルの野郎を討伐して五年か……たった五年なのにさ、お前たちのことを覚えてるやつは、俺しかいなくなっちまったみたいだ」
心から寂しげに、アレス様がぽつりと呟く。
そして、墓石の前に蔵から取り出してきたのであろう葡萄酒を供えて、雪を払った。
思い出す。勇者アレスの冒険譚に語られる、三人の仲間。それが魔法使いのシファル、戦士のゴードン、そしてプリーストのエリーゼ。
わたしもそうであったように、人々はいつしか勇者ばかりを讃えるようになって、邪竜ファーヴニルに挑んで命を落としてしまった仲間たちのことを、忘れていった。
平民の出だからと、貴族たちの間ではアレス様をすら疎む空気ができあがっているほどだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはいうけれど、あまりにも。あまりにも、救いがなさすぎる。
「……なあ、エリーゼ。俺さ、あのときお前の告白に答えてやれなかったの、本当に今でも後悔してるんだ。それなのに……ごめんよ。同じ話ばっかりしてさ。だけど、わからないんだ。どうすればいいのか。俺は……君に好きだって言えなかったのに、君のことだけを好きだったはずなのに、今……っ!」
拳を震わせ、握り締めるアレス様を、わたしはただ見ていることしかできなかった。
好奇心は猫をも殺すとはよくいったものだ。
人の心に踏み入るのには資格がいる。人の秘密を知ろうとするのなら、相応の代価と覚悟を必要とする。
叶わなかった願い。叶えたかった願い。
色褪せた彼岸に流れ着いてしまったその欠片を手繰り寄せる術がもうないのは、誰よりもわたし自身がよくわかっていた。
だって、お母様はもう帰ってこないから。それと同じで、アレス様の仲間たちも、きっと、彼が想いを寄せていらっしゃったエリーゼ様も。
「……っ……!」
だから、泣いてしまう。
時の流れが無情にも記憶を風化させていくことの残酷さに、そして自分も間違いなくその一部であったことの愚かしさに。
やっぱりわたしには、例えお飾りであったとしても、アレス様の妻である資格なんてどこにもないんだ。
膝から崩れ落ちた。
物音に、アレス様が気づいてしまう。
「エリーゼ……? いや、エリーシャ……?」
「も、申し訳ありません! わたし、いつもアレス様がベッドから抜け出してしまわれるのが、つい気になって……!」
「……そうか。君にも迷惑をかけてしまって……俺は本当にダメなやつだな」
「違います! 悪いのは、わたしで!」
「ありがとう、仲間のために泣いてくれて。心配をかけて、ごめん」
きっとこの飾り気のない口調こそが、本当のアレス様なんだろうと思った。
国を救って、貴族として迎えられて、国防の要である辺境を任せられて──まだわたしより九つ上なだけなのに、アレス様は色々なものを背負い込みすぎている。
それなのに仲間を失ったことや、仲間が忘れられていく悲しみや、墓前のエリーゼ様に捧げようとした言葉の続きまでも背負って進もうとしているんだから、このままではいつか潰れてしまう。
「ごめんなさい……」
「……君は」
「……やっぱりわたしには、アレス様の妻である資格がないみたいです」
主人を悲しませることしかできない妻なんて、お飾りであったとしてもお断りだろう。
だから、この場を立ち去ってそのまま冬の中に消えてしまおうと、わたしは踵を返した。
──でも。
「エリーシャ!」
立ち去ろうとしたわたしの手を引いて、アレス様が叫ぶ。
ぐい、と強引な力で引き寄せられる。
そしてわたしはその力に流されるまま、アレス様の逞しい胸板に顔を埋めていた。
「……すまない、私は。私が君を愛せないと言ったのは」
「……わたしが、エリーゼ様と似ているからですね」
「最初に縁談の話が来たとき、エリーゼが生き返ったのかと思った。だが……そんなことはないのはわかっていた。わかっていた上で私は、君にエリーゼの姿を重ねて……それなのに、エリーゼへの愛を諦められず……!」
これが勇者と呼ばれた男の本当の姿だ、笑ってくれ。
アレス様は自嘲する。
だけど、誰がそれを笑うことができるだろう。大事な人に想いを届けられなかった無念は、届いていたとしてもつらいのに、届かないまま迎えてしまった別れは、たった一人で背負うのにはあまりにも重すぎるから。
「ごめんなさい、アレス様。わたしはエリーゼ様にはなれません」
「……わかっている。君は君だ」
「……あなたの妻にも、なれません」
こんな話を聞いてしまって、元通りの夫婦生活なんて送れるはずもないだろう。
元から破談するのが前提の白い結婚なのだから、三年が一年に縮まっただけだ。
あとは荷物をまとめて、当てもなく彷徨い続けることが、わたしが受けるべき罰になる。
──そのはず、だった。
「行かないでくれ、エリーシャ!」
がっしりと強く抱きしめられて、わたしは逃げ場がないことに気づく。
男の人の力って、こんなに強いんだ。
痩せっぽちのわたしじゃ、敵いそうもない。
「離してください、アレス様……! わたしは……!」
「君まで失ったら、俺は……俺はどうすればいいんだ!?」
「アレス、様……?」
「……確かに俺は、エリーゼのことが好きで……君にエリーゼを重ねていて……! だけど! 君はエリーゼじゃない! エリーシャなんだ!」
「……っ!」
「……君が作ってくれた料理が、嬉しかった。美味しかった。久しぶりに、人の愛を感じることができた」
わたしを抱き寄せて、耳元でアレス様が囁く。
「……俺は、君のことが好きだ。君のことを愛したいんだ、エリーシャ。だけど、エリーゼがそれを許してくれるか、わからないんだ」
「それ、なら」
ごくり、と息を呑む。
「いつか一緒にエリーゼ様からの罰を受けましょう、アレス様。なんの取り柄もないわたしですが、それぐらいは、できますから」
「……いいのか、いい、のか……俺は……君を、愛して……」
「……はい。アレス様が愛してくださるのなら。わたしはこの命に代えてもあなたを愛し、尽くします。だから……もう一度わたしを、妻と呼んでくれますか」
「もちろんだ、我が妻エリーシャ。俺は……君に、生涯君にだけこの愛を捧ぐことを誓おう」
ひどく冷え切った唇同士が、ぬくもりを求めて惹きつけ合い、結び目を作るようにベーゼとなる。
それは、誓い。
あるいは、呪い。
いつか贖う日が来るのだとしても、いつか彼岸に流れ着いたとき、その岸辺でエリーゼ様に怒られるのだとしても。
この愛だけは、手放したくなかった。
アレス様が今くださった愛は、エリーゼ様ではなく、わたしだけの、エリーシャだけのものだと刻みつけるような痛みと、甘美な喪失と共に、わたしは一年越しの初夜を迎えるのだった。
◇
それから八つ、季節が巡った。
そして今、中庭で椅子に腰掛けてお茶を嗜んでいるわたしの目の前には、アレス様から突きつけられた絶縁状を手に持って顔を青ざめさせているお父様と、ぎりぎりと歯を食いしばって青筋を立てているマリーエルがいる。
納得がいかないとばかりにお義母様も地団駄を踏んでいたけど、それらが全てわたしには他人事に見えて仕方がない。
「あ、アイゼンブルク辺境伯。あなたは王命により次の国王となられるほどのお方。なぜ今このタイミングで我らシェスティーナ家に絶縁状を……?」
「強いて言うのであれば、愛する妻を傷つけた報いといったところだ。君たちの悪行は全て、エリーシャから聞かされているよ」
「そんな! 納得がいきませんわ! そうですわ、アレス様! あんなみそっかすなお姉様などよりこのわたくしを、マリーエルを妻としてくださいまし!」
自分は愛されて当然の存在だとばかりに、マリーエルはアレス様にそう嘆願する。
だけど、返ってきたものは溜息だけだった。
わたしは、呆れてなにも言えなかったし溜息すら出なかったけど。
「まだわからないのか。わからないならそれでいいが、ともかく君たちシェスティーナ家との家族としての縁は今日までだ。我が妻エリーシャを一家揃って傷つけた罪は断じて許されることではない」
「え、エリーシャ! 違うでしょ? あなたがアイゼンブルク辺境伯に嘘を言っていたのよね? そうでしょ? 今なら許してあげるわ、だから」
お義母様──だった女の人がなにかを喚き立てているけれど、わたしは特に意に介することもなく紅茶を一口飲む。
「エリーシャ! そうだと言え!」
「襤褸切れのお姉様なんかにこのお方は相応しくないわ!」
「そうよ! マリーエルの方が次期王妃に……!」
「摘み出せ、その後は官憲にでも引き渡しておけ」
『はっ!』
アレス様は駐屯している騎士たちに命じて、かつてわたしを虐げていた、家族だっただけの三人を屋敷から摘み出した。
叩けば埃は大量に出てくるだろうし、アレス様が次の国王となることが決まっている以上、裏取引の類も通用しない。
完全に詰みだった。
「ありがとうございます、アレス様」
「性格が悪いだろう、君の夫は」
「それを言うならあなたの妻もです」
「だから愛している、エリーシャ」
「はい。だから愛しています、アレス様。なので」
──いつかは地獄に堕ちましょう、二人で一緒に。
わたしたちは、小さな乾杯と共に、春の梢で愛と呪いのベーゼを交わした。
妹や家族に虐げられてきた「襤褸切れ令嬢」は白い結婚だったはずなのに嫁ぎ先で真実の愛を手に入れる 守次 奏 @kanade_mrtg
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