第3話 ISDEジャケット
「ありがとうございました。貴重な体験ができました。」
銃をレザーケースにしまった彼に、僕はコーヒーを勧めた。
インスタントではなく、豆から煎ったものだ
「ありがとう。うん、うまいな・・・。」
彼は僕から受け取ったマグカップから、コーヒーをすすり、呟いた。
その所作には、なんとなく上品な仕草が見て取れ、野山を駆け巡る仕事をしているようには見えない。
僕はさっきの引き金の重さに軽く汗をかいていた。
コーヒーを一口飲んで興奮を抑える。
そして、もうひとつ気になっていたことを彼に話す。
「そのジャケット・・・。それは猟師さん用のものなんですか?」
彼の着ているジャケットは上部が赤で、肩から下の部分が青。ウェスト部分は、回転させて固定するような金具がついた布製のベルトが付いており、ウェスト部分が締まっていて、長身の彼にとても良く似合っていた。
ポケットも胸と腰のあたりに2つづつついており、生地も結構厚い
「林道ツーリング」のライダーの派手なモトクロスウェアとも、登山用の薄手のウィンドブレーカーとも違う
「これかい?」
彼はそう言うと、ジャケットを脱いで、僕に渡してくれた。
当時の僕には、見ればみるほど不思議なジャケットだった。
生地は厚く、しっかりとした作りだ。ジャケットの肩のあたりとその下のあたりは分離した作りになっており、ジャケットの肩から下の背中部分には、横にファスナーがついている
「そのファスナーはベンチレーションなんだ。」
「ベンチレーション?」
「そう、今日みたいにちょっと暑い日でも、そのベンチレーションを開けて走ると、ジャケットのなかに風が入って涼しい。で、ファスナーの上にも生地が被っているだろ?雨の日でも、ベンチレーションを開けてれば、蒸れないし、濡れない。」
雨の日?
僕は改めてジャケットの正面に縫い付けられているステッカーを見て驚く。
「このジャケット、ゴアテックスなんですか!?」
ジャケットには、ゴアテックス製を示す、共通のワッペンが縫い付けられていた。
「おお、よく知ってるね。そう、このジャケットはゴアテックス製だから、雨の日でもこのまま雨具を着ないで走れる。だから、雨具を持ってなくてもいいのさ。」
当時、ゴアテックスは雨具やアウトドアジャケットに使用される生地として最高峰のものだった。
ゴアテックスと言う素材は、雨の粒子は通さないが、湿気の小さい水の粒子は通す。という性質をもっており、雨の日は雨には濡れず、安いナイロン製の雨具によくあるように、蒸れで濡れることもない。
ただし、その性能に比例して高価で、ゴアテックス性の雨具は当時かなり高価だった。
それが使われているジャケットとは・・・。
「すごいですねえ。さすが、猟師さんの使うツールは違う。」
僕はいいですか?と彼に目で合図をして、ジャケットを羽織る。さっきの火薬の匂いがした。
ちょっと大きめではあるが、肩の部分がかなり動きやすい。
「袖の部分はネオプレーン製だ。ベルクロで閉めれば、袖からも雨は入ってこない。」
随所にいろいろな工夫がされているジャケットだ。
「それから、これは猟師用でもないし、登山用でもない。」
ポケットに付いているベルクロを剥がしながら、僕は彼の説明を聞いた。
なるほど、これならポケットの中も濡れない。
_____________
「このジャケットを作った会社のオーナー。マルコム・スミスって言うんだが、彼はライダーでね、世界中の砂漠やオフロードのレースを走っている人なんだ。」
「マルコム・スミスですか。」
僕は初めて聞く、その名前を反芻する。
インターネットのない当時は、その場で調べることはできず、アウトドア系の雑誌でもみたことのないその名前を繰り返した。
「マルコム・スミス・・・。えーっと、カナダ出身のアメリカ人だったかな?」
ちょっと薄暗くなってきたので、僕はランタンを取り出し。燃料を入れ、燃料を燃焼口に送る作業・・。ポンピングを行いながら彼の話を聞く。
「彼はISDEっていうオフロードレースの世界大会に何度も出場していてね、このレースは6日間、ここみたいな山の中をオートバイで走り続ける競技なんだが、それのアメリカ代表として、何度も出場したんだな。」
ようやく、ポンピングが終わり、僕はランタンに火をつけ、ガラス製のフードをかける。
ちょっと肌寒くなってきたので、ISDEジャケットを彼に返し、僕は当時、気に入っていた米軍払下げの
「で、6日間も走るとなると、天候はしょっちゅう変わる。暑い日もあれば、寒い日も、なにより辛いのは雨の日だ。最初のころははオイルを染み込ませたジャケットを着て走ってたらしいんだが、重いし、汚れる。軽いナイロン製のものだと、寒い日は辛いし、雨具も持っていかなきゃならない。」
話が面白くなってきたので、僕はもう一杯コーヒーを入れ、彼に手渡す。
彼は嬉しそうに一口飲む
「そこで、マルコムさんは考えた。雨の日も晴れの日もずーーと着たまんま走れるウェアはないかってね。」
なるほど。マルコム・スミスさんだから、MSなんだな。
僕はジャケットのポケットの下に2つ縫い付けられているMSという、星条旗をベースにした飾り文字の意味を理解する。
「彼はこのジャケットを作って、自分で着て、ISDEレースに出た。で、具合がいいんで、会社を作って、量産販売したら大反響さ。それで現代に至ってるってわけだね。」
「俺は山ではバイクに乗るし、歩くときにも具合がいいので、このジャケットは重宝してる。赤と青だから、仲間に誤射されることもないしね。」
そういって、彼は自分の肩の赤い部分を叩いてみせた。
「へー、そうなんですね、僕もこのジャケット欲しくなってきました。これって、どこで買えるんですか?」
僕がそう言うと、ちょっと彼の表情が曇った。
「うーん、俺のはアメリカで仕事をしてたときに、サンディエゴのマルコムさんの店で買ったんだが、ドルと円のレートの関係と値引きでかなり安く買えた。日本円だと3万円ぐらいだったかな?日本だとそもそも売ってるとこが少ないし、たしか5万〜7万ぐらいするらしいし・・・。」
さすが、ゴアテックスのジャケットだ。ちょっと気軽に手が出せる金額ではないなあ・・・。
「ワン!ワン!」
僕が苦笑いしていると、薄闇の中から、茶色い中型犬が飛び出してきて、彼に飛びついた。
「おー!このやろう!心配かけやがって。」
主人に会えた嬉しさからか、若い猟犬はぶんぶんしっぽを振って、彼の顔を舐めまくっていた。
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