長良川の戦い後方にて

 弘治こうじ二年 (一五五六年) 四月、斎藤 道三さいとう どうざん殿は軍勢を率いて大桑おおが城を出立。南下して一八日に、美濃斎藤みのさいとう家本拠地 稲葉山いなばやま城の北に位置する鶴山つるやまに布陣した。


「良い感じで鍋の具材が煮えてきたようです。揖斐いび様、食べ頃ですよ。冷めない内に頂きましょう」


 それに呼応するように斎藤 高政さいとう たかまさ殿は城を出て、鶴山との間に流れる長良川ながらがわ南岸へと布陣をする。


 斎藤 道三殿の率いる軍勢の数は思った以上に少ない。ならば初手から籠城をするよりも、長良川渡河を阻止する水際作戦の方が効果的である。斎藤 高政殿の判断は、理に適っていると言えるだろう。


「何を暢気にしておる。我等は木曽川きそがわを超えて大良おおらの地に布陣した織田弾正忠おだだんじょうのじょう家の軍勢に備えねばならぬのだ。のんびりと鍋を食っておる余裕など……」


「大丈夫でしょう。多分我等の出番はありませんので。これだけ兵力差があれば敵の襲来を待つよりも、逆に川を超えて攻め込んだ方が勝ちを得やすくなりますよ」


「それでは何のために我等はここに来たのか分からぬではないか」 


「きっと斎藤 道三殿の軍勢の数がここまで少なくなるとは予想してなかったのかと」


 鶴山に布陣した斎藤 道三軍の実数は三〇〇〇にも届かない。後詰の気配は無いそうだ。それに対して、斎藤 高政軍は一万五〇〇〇を超えている。ここまでの差が開いていれば、相手に主導権を渡して待ちの姿勢を続ける必要は無い。更に一歩進めて積極的に前に出た方が戦の流れを支配できる。きっと数日中にも、川を越えて逆に鶴山へと攻め込む短期決戦を行うであろう。


 そうなれば、援軍としてやって来た織田弾正忠家の軍勢は意味を成さなくなる。後は撤退へと追い込まれる未来が待っているだけだ。


 せめて織田弾正忠家の軍勢が鶴山にもっと近い距離で布陣をしていたなら、救援も間に合うだろう。だが、一〇キロメートルを超える距離が離れていれば、救援に駆け付けられない。というより、俺が所属する後方部隊が睨みを利かせているため、動くに動けないのが正しい表現であった。


 救援が可能となるのは、斎藤 道三殿が脅威の粘り腰を見せた場合のみとなる。即ち後方部隊が、後詰として戦闘に参加する場合だ。その時は奇跡の逆転満塁ホームランとして、斎藤 道三側が勝利を手にするだろう。


 まず起こり得ないとは思うが。


「口惜しいな。折角越前えちぜん国から出てきたというに、斎藤 道三へ一太刀浴びせるどころか手柄の一つも上げられぬとは」


「揖斐様そう落ち込まずに、これでも食べて元気を出してください。そこの方もどうですか? 美味しいですよ」


「斎藤 道三をめった刺しにし、両手両足をもぎ取り、眼球を抜き取る事だけを考えて生きてきた私の九年間が……。殺された頼純よりずみ様の復讐が……」


「まずは食べましょう。それで気持ちを切り替えましょう。斎藤 道三殿はこの争いで討ち死にする。我等はそれを見届けるために参戦したと思うようにするしかないでしょうね」


「諏訪殿はそれで良いのか?」


「私は斎藤 道三殿との因縁がありませんので、手柄を立てられない後方へと配置された現状に不満はありませんよ。ただ、ここまでぞんざいな扱いをされるとは思っていなかったので、来なかった方が良かったと後悔はしてます」


「元守護の弟である儂ですらこの扱いだからな。思う所は同じか」


 結果として、後方に配置された俺達に出番は無い。現在は暇を持て余して揖斐 光親いび みつちか様の陣で、どんぐり味噌で味付けした具沢山の鍋を食べながら盛大な愚痴大会を開催中である。こうした状況は皆似たり寄ったりで、一応は織田弾正忠家軍の動きに警戒をする姿勢は見せているものの、その中身は伴っていない。


 今も昔も、数合わせに呼ばれた者はやる気がないのが基本である。


 そんな中でも揖斐 光親様の率いる軍勢の士気は高い。斎藤 道三殿に城を攻められ流浪した恨みを晴らそうと、お隣の 越前えちぜん国から参戦した程だ。俺とは熱意が違う。


 ここで面白いのが今の揖斐 光親様の立ち位置である。美濃国は、周辺国を巻き込んで長年土岐 頼芸とき よりのり様と土岐 頼武とき よりたけ様の二人が守護職を争っていた。その争いで揖斐 光親様は土岐 頼芸派閥であったという。


 最終的には土岐 頼武様の嫡子 頼純様と土岐 頼芸様が和睦したのだが、それが最悪の事態を招く。斎藤 道三殿によって土岐 頼純様は殺され、土岐 頼芸様は美濃国から追い出され、揖斐 光親様は城を落とされ逃げ出す羽目になった。


 また追放された土岐 頼芸様は、一時期近江六角おうみろっかく家に保護されるも、居場所を無くして今では関東にまで逃げている始末である。


 つまり美濃土岐家は、最早影も形も残っていない。残っているのは土岐 頼芸様とそのご家族のみという有様だ。それなのに揖斐 光親様は越前国から軍勢を率いてこの戦に参戦した。しかも越前国を治める越前朝倉えちぜんあさくら家は、土岐 頼武派閥であったにも関わらずだ。


 ここから考えるに越前国は、今や斎藤 道三殿に反発する美濃土岐家家臣の残党の集まる国となっているのだろう。それも土岐 頼武派閥と土岐 頼芸派閥が手を取り合う形として。揖斐 光親様は両派閥の纏め役と見るべきだ。多くの美濃土岐家家臣が美濃斎藤家に鞍替えしたため、両派閥の残党がいがみ合っている場合ではなくなったのではないかと思われる。


 とは言え、問題はここからだ。


「揖斐様、一つお伺いしたいのですが、この戦を終えた後はどうするかお考えでしょうか?」


「諏訪殿、どうしたんだ突然?」


「よろしければしばらくの間、高遠諏訪家に身を寄せませんか? 揖斐様達なら歓迎致しますよ」


「そう言えば、そこまでは考えていなかったな。何せ我等は、憎き斎藤 道三を討つ事しか考えていなかったゆえ」


「失礼を承知で言いますが、揖斐様も斎藤 高政殿に歓迎されているようには見えません。私と同じぞんざいな扱いをされたように見受けます。この扱いなら、戦が終わっても美濃斎藤家に迎え入れてもらえないのではないでしょうか?」


 これでも俺は甲斐武田家当主 武田 晴信たけだ はるのぶ様の子である。また甲斐武田家は、斎藤 高政殿を陰ながら支援していた。だからこそこの戦いにも参加したのだが、いざ駆け付けてみれば十把一からげの扱いである。斎藤 高政殿からの挨拶さえもない。


 戦で後方に配置されるのは予想していたとしても、この扱いはさすがに違うのではないかと思う。特別扱いしろと言うつもりはないにしろ、せめて兵を率いて駆け付けた事に対してのお礼は欲しかった。


 俺でさえこの扱いである。なら同じく後方に配置された揖斐 光親様の扱いもそう変わらないと考えた方が良い。それはつまり、戦が終わった後に美濃土岐家残党を受け入れる気が無いと言っているのと同じだ。むしろこれからの美濃国統治のためには、邪魔とさえ考えているのではないだろうか。


 こうなれば揖斐 光親様を始めとした美濃土岐家残党は、このまま越前国へと戻るしかない。


 そんな状況だからこそ、この機会に俺は揖斐 光親様に近付いた。当家が美濃土岐家残党の受け皿になろうと考えて。


 新生高遠諏訪家は未だ人手不足である。また俺が甲斐武田家とは縁の無い家臣が欲しいという思いがある。そこから考えるに美濃土岐家残党は、まさに条件に当て嵌まる存在と言えるだろう。


 加えて土岐の血を引く一向門徒が俺の手元にいれば、大きな力となるのは間違いない。

 

「待て待て。儂はもう年ぞ。齢五〇を超えた今では、諏訪殿の力になるのは難しかろうて」


「私にとっては、揖斐様を迎え入れるのが名誉です。ご自身を卑下されるのは良くないですよ。もっと自信をお持ちください」


 ただ、そうは言っても長年越前国で逼迫した暮らしを続けていれば、自信を失うのも分かる。自分達の存在が当家の負担になると考えているのだろう。


 こういう時、強引に話を進めると逆に不信感を買う。今回は縁が無かったと諦めて、考えが変わるのを待つのが正しいかもしれない。そう考えていた時であった。


「揖斐様、諏訪殿がここまで申されておるのです。一度訪れる位はしても良いのではないでしょうか?」


明智あけち殿、その言い分は尤もだが、我等が訪れて諏訪殿の迷惑になりはしないだろうかと思ってな。何せ儂は土岐の血を引いておるでな」


「きっと揖斐様のお考えは、斎藤 高政殿が斎藤 道三を討った後に美濃国から完全に土岐色を消そうと動き出さないかとの危惧かと愚考します。そうなった時諏訪殿が揖斐様を受け入れていれば、高遠諏訪家を攻める口実となるのではないか。そうお考えになられているのではないでしょうか?」


「……」


「ですがその危惧は実現しませんのでご安心くだされ」


「何ゆえだ?」


「それをすれば東濃全体が反美濃斎藤家となるだけではなく、織田弾正忠家との誼を深める恐れがあるためです。それに万が一斎藤 高政殿が攻め込んできても、この明智 光秀あけち みつひでが美濃斎藤軍など蹴散らしてくれましょうぞ。ですので何の不安もございませぬ」


「そうなった時は、甲斐武田家もいますので大丈夫ですよ」


 なるほどね。事態は俺が考えていた以上に深刻だったらしい。今の会話を聞く限り、揖斐 光親様は要請を受けてこの戦へ参加した訳ではなく、自主的な参戦だと考えた方が良さそうだ。


 つまりは斎藤 高政殿にとって揖斐 光親様以下の美濃土岐家残党は、邪魔な存在でしかない。美濃国にいてもらっては困るといった所か。


 理由は戦後土岐の権威を利用せず、美濃斎藤家単独で国を治めようとしているからであろう。できるかどうかお手並み拝見だな。個人的には幕府や朝廷から別の権威を得られなければ、かなり難しいと考える。


 それはさて置き今明智 光秀と名乗った者は、先程随分と物騒な発言をしていた。これは戦が日常茶飯事の時代では、人の心が歪んでもおかしくはないと見るべきなのだろうか。


 ……よく考えれば、甲斐武田家も領土拡大の過程で、略奪や人攫いを平気で行っている。行儀は良い方ではない。


 そう考えると、人格と能力は別物。こう割り切る位でなければやっていけないのだろう。


「明智殿、今の発言は中々興味深いですね。今我等は織田弾正忠家と敵対していますが、それでも誼を深められるとお考えでしょうか?」 


「敵の敵は味方、そう考えるのが妥当かと。それに織田弾正忠家と敵対しているのは斎藤 高政殿であって、我等ではありませぬ」 


「確かに。まさに仰る通りです。後一つお聞きしますが、美濃斎藤家と織田弾正忠家が和睦する可能性は無いと言い切れますでしょうか? 織田弾正忠家当主 織田 信長おだ のぶなが殿の正室は、斎藤 高政殿の妹ですよ」


「それはもう。両者が和睦するのはまず考えられませぬ。むしろこれを機に、織田弾正忠家は美濃国へと進出するようになるかと……」


 人格と能力は別物。このやり取りを聞くと、やはりそう感じざるを得ない。


 さすがは織田弾正忠家で重臣にまでのし上がった男。その名は伊達ではないと分かる。



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補足


揖斐 光親 ─ 土岐 頼武、土岐 頼芸の弟。揖斐家に養子として入った。斎藤 道三に対抗するため、一向宗に帰依する。土岐 頼芸が二度目の追放となった際、ついでとばかりに揖斐城も攻められて落城。脱出して流浪の身となった。斎藤 道三が一向宗を嫌っていたため、それが逆に仇となって揖斐城を攻められた可能性もある。長良川の戦いでは、越前国から軍勢を率いて斎藤 高政陣営に参戦。長良川の戦い後、越前国へと戻った。その後の消息は知れず。


明智 光秀 ─ 本能寺の変を起こした人物。補足が必要とは思えない超有名人。土岐 頼純家臣。斎藤 道三は主君の仇となる。そのため、長良川の戦いでは斎藤 高政陣営として参戦。揖斐 光親の麾下であった。長良川の戦い後は、揖斐 光親と共に越前国へと赴く。足利 義昭の元に出向するまでは越前国で過ごしていた。


織田 信長の比叡山焼き討ちでは、率先して行動していたのは有名な話。


なお、明智 光秀は美濃明智家出身ではない。同族ではあるが、途中で枝分かれした。

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四郎勝頼の天下取りは東濃より始まる カバタ山 @kabatayama

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