土作りの意味
「四郎様、市で新鮮な川魚が売っておりました。早速魚醤の仕込みを始めます」
「四郎様、どんぐり味噌の仕込みを終えました」
「長、ウサギ小屋の方はどうだ?」
「無事完成しました。後は兎を番で捕まえてくるだけです」
村の民達がやって来てから、俺の周りは一気に慌ただしくなる。これまで人手不足で手を付けられなかった銭儲けのための商品作りが始まったのだから、当然とも言えよう。
大きく製造を始めたのは三商品。臭みの無い米麹入りの魚醤、味噌と醤油の両方の風味のある万能調味料どんぐり味噌、肉や皮が商品となる兎の飼育と小資本で始められながらも確実に利益を出せるものを選んだ。梅酒は稗の種まきが四月下旬となるため、しばらくお預けである。
それに加えて城の外では麻の栽培やクヌギ、ヤマハゼの苗木の植樹も行う。
「それにしてもなあ、少し急ぎ過ぎじゃないか? 先に住む家を建ててからでも遅くはないと思うんだがな。城の板間で雑魚寝だと皆が病に侵されないか心配になる」
「ご心配には及びません。この程度、昔に比べれば大した事はないですな。むしろ四郎様が手配してくださった藁のお陰で、皆暖かくして寝ておりますれば」
「無理だけはするなよ」
こうして急ピッチで製造が進む理由が、村の民全員が家は後回しで良いと城で寝泊まりをしてるからに他ならない。食事も城で食べている有様で、村一つが城の中で共同生活を送っている状況である。
城には籠城戦を想定した空き空間が多くあったとは言え、生活環境は決して良くはない。長は俺と出会うまではもっと厳しい生活を送っていたと昔を懐かしむが、それとこれとは別問題だ。このような環境でも積極的に仕事をしてくれるのだから、頭が下がる思いである。
半年後には成果も出るだろうから、その時には何らかの形で報いるつもりだ。
「なら俺は土づくりの方を見てくれるよ。長、後は頼むぞ」
「お任せください」
もう一つ、俺には最優先で作らなければならない物があった。それは作物を元気に育てるための土である。堆肥とした方が正しい表現と言えるだろう。
意外に混同する者が多いが、堆肥と肥料はその役割自体がはっきりと違う。ざっくり分けるなら、肥料は栄養分。堆肥は土そのものだ。但し堆肥には栄養分も含まれる場合が多いため、これが混乱の元だと考えている。
なら何故土作りが最優先となるのか?
四国を除き日ノ本の国土は火山が多い。そうなると土そのものが火山灰に侵されている地が結構ある。甲斐国はその典型だろう。富士山が近くにあるためか、甲斐国の平地は大体が火山灰土だ。実はお隣の駿河国も似た状況にある。静岡でお茶の栽培が盛んなのは、土が穀物栽培に向いていないのがその背景だ。また関東も程度の差こそあれ、そう状況は変わらない。
火山灰土が厄介なのは、土が酸性に傾きやすい点にある。そうなると肥料を投入しても効果が薄い。これは土そのものに微生物が少ないのが原因であり、肥料は土の中に多くの微生物がいてこそより効果が発揮されるものだ。
だからこそ作物をしっかりと育てるには微生物を多く含んだ土、即ち堆肥が必要となる。堆肥はアルカリ性でもあるため、酸性に傾いた土を中和する役割も持つ。この基本を疎かにして小手先の技術に走った所で、結局は収穫量が頭打ちとなるのは見えている。灌漑も大事な部分ではあるものの、そもそも土自体が悪ければ効果が薄いのが実情と言えよう。何事においても基礎は大事。そんな当たり前の話であった。
「ああ、今回も人糞か。贅沢は言ってられないが、堆肥作りは牛糞で行いたい所だな」
「いえ、今回は馬糞も一部混じっているという話です」
城の外にある粗末な掘っ立て小屋の中に人糞がうずたかく積み上がっている。城の各所の厠に溜まっていた糞尿を全て纏めさせた物だ。人数がいる分、結構な量となっている。加えて厩舎に残っていた馬糞も少量混ざっている。
但し臭いはほぼ感じない。俺が高山城に赴任したその日に、城の厠にはオガクズを敷き詰め臭いを感じないようにさせた。バイオトイレ化である。
基本的に人糞を作物の肥料や堆肥に使用するのはよろしくない。これ等を使用して作られた作物を食べると、寄生虫感染の危険性があるからだ。その上人糞にはガスが混じっているため、きちんとガス抜きをしなければ逆に作物の成長を阻害する面倒な面もある。
だというのに日ノ本では、長年人糞肥料が使われ続けていた。これは農業技術が発展して二毛作等が行われるようになったため、低下した地力を補う必要があったからだと言われている。
肥料や堆肥として優れている馬糞や牛糞に手を出したくとも、馬や牛は高価だ。人糞肥料に手を出していたのは、苦肉の策と言わざるを得ない。
それは今の俺の境遇も似ている。
城の厠をバイオトイレ化したのは、止められない人糞肥料の使用を何とかするためだ。勿論厠から悪臭が無くなるのは恩恵として大きい。ただそれよりも、肥溜めのような病原菌の温床となる施設を駆逐する。排泄した糞尿から寄生虫を死滅させる。卵も含めて。こうした思いがあった。
こうすれば人糞肥料の危険性が下げられるとして。
肥溜めは俺の敵である。いずれは領内から全て無くすつもりだ。
「どこまで進んだ?」
「藁と米糠、草木灰を混ぜ馴染ませる所までは終わりました」
「早いな。もうそこまで進んだのか?」
「後は四郎様が持ってこられた培養液を振りかけるだけです」
そして名目は堆肥作りであるものの、面倒なので肥料作りも兼ねている。
良く言われる通り、作物の栄養素は窒素・リン・カリウムの三つが主であるため、米糠によってリンを、草木灰によってカリウムを加えさせた。窒素成分は人糞に混じっている尿素で補う。既にオガクズが混じっている以上必要無いと思われるが、念のため微生物の追加として藁を混ぜ込ませてもいる。
ここに最後の仕上げとして、培養液を振り掛ける。
中身は納豆菌だ。納豆を水の中に二粒入れて、菌そのものを繁殖させておいた。
役割は発酵の促進……と言うよりは、堆肥化するまでの時間を短縮する促進剤とした方が分かり易い。納豆菌の培養液を使うと、微生物の働きが活発化する。通常は堆肥化までに六ヶ月程度必要となる所を、二ヶ月短縮して四ヶ月で完成させる運びだ。効果は地味ではあるものの、この二ヶ月がかなり大きい。
また納豆菌培養液は、農薬としても使える。これを植物に掛けるだけで虫が寄ってこない。元現代人の俺だからこそ知っている裏技である。
納豆、いや糸引き納豆はこの時代既に一般化しており、甲斐でも日常の食卓に出る程だったのが幸いした。もし高級食品であったなら、この培養液は作れなかった可能性が高い。
なおこの納豆菌培養液に関しては、
いずれ堆肥化の期間短縮方法を尋ねられたら、その時は話しても良いとは考えている。
さてここまで堆肥や肥料への理解が進むと、とある物との共通性が見えてくるだろう。そう、堆肥化は発酵であり、微生物の働きによって起こる。また作物の三大栄養素が窒素・リン・カリウムだとすれば、硝石丘と類似性があるに気付く。
硝石は硝酸カリウムの俗称である。そして自然界の至る所には「硝化菌」と呼ばれる微生物が存在する。この「硝化菌」は、アンモニアを酸化して硝酸にする働きを持つ。
今回俺は、人糞の堆肥化・肥料化に窒素化合物として尿を選んだ。尿はアンモニアであり、「硝化菌」によって硝酸に置き換えられる。更にはカリウムを追加するべく草木灰も混入している。
もうここまで来れば分かる筈だ。硝石丘は堆肥の延長線上にあると。つまり俺が土作りをしていたのは、黒色火薬の主成分である硝石の確保を第一としている。勿論土作りの言葉に嘘は無い。戦国時代での農業改革の基本は土作りだ。甲斐国であろうとここ東濃であろうと、作物の収穫量を上げるには土作りは欠かせない。
要は土作りも行いつつ、硝石も作る。その原資となるのが人糞だとすれば、途切れる事無く生産が続けられるというもの。
ただ惜しむらくは、この「硝化菌」が納豆菌培養液の影響を全く受けない点だ。マイペースな性格のため、期間短縮が一切できない。
なら硝石完成までにはどの程度の期間が必要かと言うと、大体一年半から二年を見ておいた方が良い。歴史的には最短八ヶ月から一〇ヶ月で硝石を抽出できるようになった国があったとは聞くが、今の俺達がそこまでできるかは分からない。ここから更にできるのは「硝化菌」の活動を促すために、尿の追加を行うのと人糞の攪拌をする程度なのだから。
幸いなのが人糞でありながらも、オガクズの効果によって悪臭が無い点である。お陰で作業は子供や老人でもできる。もしこれが悪臭の中での作業であったなら、それは地獄となっていただろう。
兎に角これで硝石製造の環境は整った。後は二年後を楽しみに待てば良い。それまでは甲斐国時代に作った硝石のみで何とかするつもりだ。
「良し、培養液の散布も終わった。後は全体に馴染ませておいてくれ」
「へい、かしこまりました」
「それが終わったら、大きな作業は無い。手が空いている者に引継ぎをしておいてくれ。頼むぞ。それと、きちんと体を拭いておけよ。手足も洗っておけ。臭いが無いとは言え、伝助が触っていたのは人糞だからな」
当然ながらこの硝石丘の話も北条 幻庵様には話していない。「硝化菌」やアンモニア、酸化等々をこの時代の者に理解できる形で説明できる能力が俺には無い以上、説明するだけ無駄である。
村の民達は俺の指示にただ従ってくれているだけだ。誰もが原理は理解していない。こういった時、俺が武田 晴信様の息子で良かったと思う。虎の威を借りる狐の素晴らしさよ。
こうして順調な日々を送っていた三月の初旬に一枚の書状が
「やはりこうなったか」
「それで四郎様、どうされるのですか?」
「勿論要請に応えて兵を出すさ。出費は痛いが断れないしな。とは言え、数を揃える必要はない。高山城からは兵一五〇、
「それでは当家が舐められはしませんか?」
「気にするな
「確かに……四郎様の言う通りです」
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