半端者二人
斎藤 道三殿との面会も終えてようやく一息ついた一月下旬、待望の家臣達が
「お待たせしました。この
やって来たのは八名。秋山 光継、
傅役となる秋山
「頼りにしているぞ。山のように書類が溜まっているからな。俺と
今回やって来た家臣団には面白い特徴がある。それは八名の内半数の四名が政務に長けている点だ。中でも筆頭は、秋山 紀伊の息子の秋山 光継となる。年齢も三〇代前半と働き盛りだ。
甲斐武田家は貧しい。そのため外から見れば、略奪上等の蛮族集団に感じるだろう。事実
だがこれが内に入ればまた印象が違う。実は事務処理能力に秀でた者が多いのが特徴だ。父 武田 晴信様が常日頃から学問の重要性を説いているのもあり、家臣達に浸透している成果であろう。これを知ると、甲斐国では長く内戦が続いていたとはとても思えない。
貧しい甲斐武田家がここまで大きくなれた理由の一つに家臣達の優秀さにあったのは、この点だけを見ても分かる。貴重な文官が山のようにザクザクいるのが恐ろしい所だ。
そうでありながら武芸も軽視しない点がまた興味深い。
俺の家臣となった安倍 宗貞は、武芸の腕一つで成り上がった者だ。特に弓の扱いに長けている。実家は貧しく身分が低いにも関わらず、父 武田 晴信様の目に留まり側近に抜擢された。有名な百足衆である。そんな安倍 宗貞が今回高山城へと派遣されたのは、俺の武芸の指南役兼護衛の意味合いが強い。
今や重臣となった
ただこの実力主義的な面が弊害を生む時もある。俺の家臣となった真田 昌輝がその一人だ。兄は嫡男として家を継ぐ身であり、弟は奥近習衆という武田 晴信様の側近中の側近に抜擢されている。そのためか間に挟まれた真田 昌輝は、肩身の狭さに深く悩んでいた。当の本人も百足衆という武田 晴信様の側近であり、他の者からは羨ましがられる立場である筈なのに。
だからなのかもしれない。俺と真田 昌輝は妙に気が合った。年齢が三歳離れているからか、友と言うよりは兄弟の感覚に近い。片やできない兄として。片や庶子の弟として。いつか大人達を見返してやると誓い合った仲でもある。
「要望を出した俺が言うのも変だが、まさか昌輝が来てくれるとは思わなかった。武田 晴信様の側近という立場を捨ててまで、ここ東濃にやって来る理由があったのか?」
「四郎……様とした方が良いんだろうな。甲斐から遠く離れた地に飛ばされても腐らず初陣で活躍したのを知って、これまでとは違う別の道もあると教えられたよ。そして俺の生きる道もこれだと感じた。そんな時丁度、四郎様より俺を家臣に欲しいと要望が来ていると知ってな。御屋形様には無理を言って、派遣する家臣団に加えてもらった」
「そうか……心境の変化があったのか。なら、結果を出さないとな。俺達は半端者じゃないと、東濃の地から名を轟かせるぞ!」
真田 昌輝は決して無能な者ではない。むしろ世間から見れば相当優秀な部類だ。しかも年齢も一四歳と若く、まだ将来を悲観するには早い。それでも更にできる弟 源五郎がいたがために自信を喪失する。こうした姿を見ると実力主義は、一つの成功と数多くの影ができる残酷な世界でもあると言わざるを得ない。
だからこそ俺は、この真田 昌輝の決断を逃げにさせるつもりはない。俺と共に新たな道を歩む相棒にしてみせる。
「四郎様、盛り上がっている最中申し訳ないですが、手前を忘れてもらっては困りますぞ」
「
「手前は四郎様の家臣としてではなく、一時期的な手伝いとして派遣されただけですがね。それはお隣にいる
「おおっ、実了 師慶様まで」
「久しいな。四郎殿が拙僧を呼んだ意図は大体理解しておる。お手柔らかに頼むぞ」
「ははは……善処します」
真田 昌輝、
本当は他にも
今回は半分叶っただけでも良しとしよう。
その中でも実了 師慶様と諏訪 春芳殿の二人は、今後の領地経営を行う上で欠かせない存在だ。
一向宗は北陸地方で一大勢力を築いているだけでなく、
尾張国の重要拠点は、長島一向一揆で有名な
三河国は三河三ヶ寺と
そして北陸地方の一向宗と東海地方の一向宗が協力関係にあるとなれば、隙間を埋める美濃国と飛騨国が重要な地と認識されるのは当然の流れと言えよう。事実両地方の一向門徒は、美濃国や飛騨国を通って人や物のやり取りを頻繁に行っている。
つまり美濃国と飛騨国は、一向宗の物流の中継地点と言って良い。東濃にいると分かり辛いが、西美濃や中美濃には一向宗の末寺が結構な数あるのがその証拠だ。よって一向宗と良い関係を築けば、安定した商いが可能だと分かる。上手くすれば上客にもなってくれるだろう。
ここで実了 師慶様と諏訪 春芳殿の二人が生きてくる。
まず実了 師慶様は、一向宗の高僧だ。更には出自が関東管領
元々は相模国の寺の住職であったが、
次に諏訪 春芳殿は諏訪地方の豪商である。その名の通り諏訪本家との繋がりを持つだけではなく、京にいる室町幕府奉公衆の京諏訪家との連絡役も担っている人物だ。京に販路を持つ貴重な存在でもある。現在は甲斐武田家の御蔵前衆の肩書も持つ。
この二人の経歴を知るだけで、一向門徒との良好な関係が築けるのは確定していると言って良い。産物を作れば間違いなく売れるし、産物製造のための原材料仕入れに困る事態も起きないであろう。
「とは言え、二人の活躍はもう少し先でしょうけどね。今はまだ売る産物がありませんので」
「何を仰いますか四郎様! お二方には明日から励んでもらわなければなりませんぞ!」
「光継、突然大声を上げてどうした?」
「これを見れば、四郎様ならすぐに『売ってこい』と言うに違いありませぬ。おいっ、出番だ。入って良いぞ」
秋山 光継の一言で奥の襖がすっと開き、一人の老人が部屋へと入ってくる。
「えっ、長まで駆け付けて来てくれたのか」
「二月ぶりですな。四郎様が東濃行きとなったと聞いて、居ても立っても居られず秋山様と共に駆け付けて参りました。儂だけではなく、村の者総勢五〇名でやって来ております。後は……」
「後は?」
「四郎様の指示で作った梅酒も無事完成し、この高山城までお持ちさせて頂きました」
「あっ、そう言えば半年前に作ってそのままだったな。すっかり忘れていたよ」
部屋に入ってきた老人は、傅役 秋山 紀伊の所領にある小さな村の村長である。数年前から俺の実験に付き合ってもらっていた仲であり、今では俺の理解者とも言える存在だ。いずれ呼び寄せる予定ではあったものの、まさか村人全員で追いかけて来てくれるとは思いもしなかった。
そんな村長が持ち込んでくれたのが、実験品の一つ梅酒となる。現代日本なら梅酒は簡単に作れるが、戦国時代で作るのは難しい。何より氷砂糖やホワイトリカーが手に入らないのが難点であった。
だからこそ俺は工夫をする。
ホワイトリカーは稗酒の蒸留酒で代用した。要は稗焼酎である。果実酒は焼酎を使用して作るのが定番であり、それもクセの無い味わいが望ましい。そういった面で考えれば代用に稗酒を使用するのは間違っていないだろう。しかも稗は山間地でも栽培可能な雑穀のため、山の多い甲斐国に適した作物だというのが大きい。
次に氷砂糖に付いては、水飴で代用する形とした。梅酒を作る上で氷砂糖を使用するのは、浸透圧を利用して梅のエキスを抽出するためと言われている。だからこそ水飴を混ぜるのでは意味が無いのだが、ここに一つの抜け道があった。
アルコール度数が四〇度より高ければ、氷砂糖が無くとも果実酒は製作可能である。現代の焼酎は多くがアルコール度数が二五度となっているため、この点が盲点となっているのだ。
戦国時代に酒税法は無い。ご家庭で酒が造り放題の時代だ。そのため、蒸溜回数を増やしてアルコール度数を増やした酒を造った所で誰からも咎められない。結果としてアルコール度数が四〇度を超える稗酒を作り、それを梅酒づくりの元とした。
水飴を混ぜたのはあくまで飲み易さを意識した味付けである。
他にも青梅を一度凍らせれば砂糖無しでも梅酒が作れるのだが、この方法は収穫時期の問題で断念せざるを得なかった。氷室を作るまではお預けである。
こうして約半年前に梅酒を五樽程仕込んでおいたのだが、如何せん昨年末からの慌ただしさですっかりその存在を忘れていた。秋山 光継がここまで言うからには、きっと既に味見をしている。その時、売れると感じる美味さだったのだろう。
「光継の言う通りだ。梅酒が完成していたとなれば話は別だな。実了 師慶様に春芳殿、早速で申し訳ないのですが、西美濃や中美濃の一向宗の末寺を中心にここにある梅酒を売ってきてくれないでしょうか?」
「やれやれ、相変わらず四郎殿は坊主に対する敬意が無いな」
「お任せくだされ四郎様。五樽程度、手前に掛かれば朝飯前ですぞ」
村長が言うには梅酒だけではなく、他にも俺が試行錯誤した様々な実験品を持ってきたそうだ。産物開発はもう少し落ち着いてから始めようと思っていたが、この分なら明日からでも新たな銭稼ぎの元を作り始められる。
これまでしてきた事が報われたようで、何だか気分が良いな。
今日のこの日が、きっと俺の逆転の第一歩となる。
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補足
秋山 光継 ─ 二代目秋山 紀伊。1562年に武田 勝頼が高遠城城主に任命された際の八名の付き家臣の一人。武田 信玄に「武道以外の事、小原兄弟と秋山紀伊守に相談いたせ」と言わせた人物。政務に長けていた。武田 勝頼に最後まで付き従った事でも知られている。なお、同じ秋山でも秋山 虎繁とは別系統の秋山。
真田 昌輝 ─ 真田 昌幸の一つ上の兄。武田24将の一人。「兵部は我が両眼なり」と武田 信玄が評したという逸話が残る。エリート部隊百足衆への抜擢や別家を立てて独立する許しを得たりと相当な出世をしたが、如何せん兄 真田 信綱や弟 真田 昌幸の間に挟まれて影が薄い。長篠の戦いで兄と共に討ち死にする。
諏訪 春芳 ─ 甲斐武田家御蔵前の頭四人の内の一人。足軽70人を率いる大将でもあった。1578年の諏訪大社の御柱祭の際には、大鳥居や御宝殿の造営に関わっている。武田 勝頼と最も縁の深い商人。
実了 師慶 ─ 本願寺派の僧侶。1547年に甲斐に移り住み、長延寺の住職となった。三条の方から絶大な信頼を受けており、海野 信親の師兼養育係となる。また外交僧としても活躍し、北陸の一向宗との同盟締結に尽力した。
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