空色ワンピース

飴傘

空色ワンピース


 どこまでも続いているかのような、そんな青空だった。


 屋上の鍵を手に入れるのは、簡単だった。「部室に、取りに行きたいものがあって」と言えば、顧問の先生は簡単に各所の鍵の入ったキーボックスを開けてくれた。先生達は忙しいから、目を盗んで屋上の鍵をポケットにしまうのは造作もなかった。

「じゃあ、三十分くらいでまた返しに来ます」「おう」なんて言葉を交わして、僕は職員室から出た。これが最後の言葉なのか、あっけないものなんだな、なんて無感動に思いながら。


 普段は使われていない、屋上への階段。埃っぽいにおい。後ろから聞こえる吹奏楽部の練習の音になんだか咎められているように思えて、歩くスピードが速まった。

やや新しめの鍵を回す。天文部が屋上で観測するようになって、新しくなった鍵。鍵を新しくしたって、鍵の数を増やさなきゃ、あんまり意味ないのにね。


 がちゃり、と扉が開いた。埃っぽさが霧散して、夏の匂いがする。

 まず目に入ったのは、青空。夏の、どこまでも続いているような、青空。


 それから、僕はきっちり扉を閉めて鍵をかける。そして、フェンス際まで歩いた。フェンスは、思っていたより低い。僕は、フェンスの上に頬杖をついて、屋上から下を見下ろした。

 部活中の生徒が、声を張りながら動いている。やや離れたところで、野球部がゲーム形式の練習をしていた。テニス部は、ダブルスの練習かな。すぐ下ではサッカー部が必死にボールを追っていて、おもちゃの人形みたいで少し滑稽だった。

部活の終了時刻まで、あと三十分。冬だったらこの時間にはもう日が落ちているけれど、夏だから、まだ青空が見える。

 「死んじゃおっかな」

ぽつり、と口から零れた。別に、死ななくても良いんだけど。死んじゃおっかな。特に、みんなを納得させられる理由があるわけじゃないけど。死んじゃおっかな。

夏の日差しが眩しくて、視界が滲んだ。


 「それは、辛かったでしょう」


 不意に隣から声がして、はっとする。気付いたら僕は、フェンスの上に身を乗り出していた。不安定な姿勢。夏風が、フェンスの隙間を吹き抜けていく。

僕は、とりあえず体勢を整えて、隣を見た。


 女がいた。


 肩くらいまでの茶髪を風になびかせて、麦わら帽子を被っている女。シンプルな茶色のサンダルを履いている女。

それよりも特徴的なのは、女の着ているワンピースの色だった。

 それは、まるで大空をスクリーンに映したかのような色。まるで、どこまでも続いているかのような青色。

ワンピースの裾の方には、もくもくとした入道雲が並んで、腰の辺りには白い太陽があった。


「お辛いでしょう」

そう言って、女は僕の方を見る。これと言って特徴の無い顔。すれ違ったら三秒後には忘れていそうな顔。けれどその目は、ワンピースと同じ、空を写し取ったかのような色で。抜けるような青空の色で、僕をじっと見つめていた。


 僕は、これが「アレ」か、と思った。自分でも信じられないくらい、動揺はなかった。


 学校では、怪談が流行る。こっくりさんとか、口裂け女とか。うちの中学でも例外なく噂になる。でもこの辺の地域では、噂されるメジャーな怪談の中にひとつ、余所では聞かないものがあった。

それは、「空色ワンピースの女」。

休み時間、寝たふりをして机に突っ伏していたときに、隣の女子が騒いでいたのを思い出す。


『ねぇ、聞いた? 空色ワンピースの女の話』

『聞いた聞いた! でも本当にいるのかな? 空の色のワンピースを着た、女。生きるのが辛い人のところに、現れるんでしょ?』


僕は、もう一度女を上から下まで見た。なるほど、確かにこれを言い表すとすれば、「空色ワンピースの女」だろう。ワンピースの青の中を、鳥が二羽横切っていった。


 「よろしければ、お辛いこと、話してみませんか」


 女は微笑んだまま、そんなことを言う。ふわふわとした声なのに、下の運動部のかけ声にかき消されることなく、すっと耳に届く。

「別に、辛いことなんてないですよ」

「嘘。お顔を見れば分かりますよ」

目をそらせば、顔をのぞき込まれた。雰囲気が純朴すぎて、無碍にするのもなんだか申し訳なくなる。「話してくださらない? ほら、時間つぶしだと思って」女が、じっとこちらを見つめた。

空色の目。・・・・・・まぁ、確かに時間はあるし。話すのだって、最後になるかもしれないし。


「聞いても、面白いことなんてないですよ」

言えば、女はぱっと顔を明るくして、いそいそと聞く体勢になった。

 僕は、思わずため息をついた。そして、深呼吸して。ゆっくり、話し始めた。


 「僕、うっすら、いじめられているんです」

 言葉にするのに、喉に引っかかる感じがあった。

 女が眉をひそめる。空色のワンピースが、夏風にひらめく。

「うっすら、っていうのは、よくニュースになるような陰湿でヤバいいじめじゃないから。僕がされているのは、せいぜい陰口を聞こえるように言われるとか、貸した教科書をなかなか返さないとか、二人組で余るとか、そんな感じのです」

七月。いくら夕方だと言っても、暑いものは暑い。屋上のアスファルトの熱気やフェンスの熱さが、全力で夏だと伝えてくる。


「僕、推薦組で。もう進む高校は決まっているんですけど。推薦って、推薦枠を争うじゃないですか。僕の行きたい学校には二枠しかなくて、でも行きたい人は三人いたんです。クラスの人気者の野球部の子と、イケメンのサッカー部の子と、僕」

空色に、オレンジ色が混じる。夕方のなりかけ。女のワンピースも、一滴オレンジ色を垂らしたような、幻想的な青になった。


「結局受かったのは、野球部の子と僕でした。で、落ちたサッカー部の子はとても悔しかったらしくて。発表の次の日から、僕に冷たくあたるようになったんです」

 悔しいの、分かる。八つ当たりしたくなるの、分かる。僕だって、一生懸命勉強してたし、文化部だけど部活も頑張ってた。だから、サッカー部の子の気持ちも分かったから、しばらくそのままにしていた。


「そのうち、サッカー部の子の当たりがどんどん強くなってきて。周りも空気を読んで僕に近づかなくなって。陰口も隣で言われるし、教科書に変な落書きされて戻ってくるし、いつも二人組で余るし」

声が震えているのには、気付かないふりをした。言葉にしてみると大したことなさそうで、実際僕もそのくらいなら平気だと思う。でも、冷静な部分を除いたら、ぐちゃぐちゃで行き場のない感情しか残らない。


「その子、来月サッカー部を引退するんです。その子は、この前の面談で、これから頑張れば一般入試で受かりそうだって担任に言われたって、教室中に聞こえる声で話してました。それで思ったんです。これ、高校に入ってからも続くのかな」

野球部の子は人気者だから、誰もいじめようとは思わない。

 クラスメイトは陰気な天文部より、陽気なサッカー部の方に感情移入する。

 受験指導で忙しい先生方は、他に手が回らない。


 じゃあ、どうすればいい?

 「死んじゃおっかな」


 また、零れた。はっとして女の方を見れば、女は慈愛に満ちた瞳でこちらを見ていた。

「あなたは、ご立派ですね。そんなに辛い思いを抱えてなお、生きていらして」

「だから、辛くないですよ」

「嘘おっしゃい」と、女は僕の肩に触れた。夏空の色のワンピースを着ているのに、手は氷のように冷たかった。


「ねぇ、辛くないの」

「辛くないです」

「だって、親しかったお友達からも無視されているのでしょう」

「・・・・・・それは、そうだけど」

「これからも続くかもしれないのが、不安なのでしょう」

「・・・・・・不安、だけど」


 それでも、僕より辛い人は、たくさんいる。聞いたことある、靴を捨てられたりとか、教師ぐるみのいじめとか。パワハラとか、セクハラとか。遠い国では、満足にご飯が食べられない子がいるとか、兵士になる子がいるとか。

「そんなの、あなたに関係ないでしょう」

 女は、まるで僕の心を読んでいるかのようだ。手が、僕の頬に触れる。女の目に、僕が映る。手は冷たいのに、夏風に吹かれて当たるワンピースは、夏空の熱さを秘めていた。


「他の人の方が辛いからといって、あなたが、辛さを我慢することがありますか」


 辛い。

 つらい。

 あれ、つらいって、何だっけ?


「天文部は、他の部活より引退時期が早くて、悲しかったのでしょう」

「うん」

「でも、推薦がとれるように、毎日努力したのでしょう」

「うん」

「けれど、推薦を巡って、クラスメイトに避けられるようになって、悲しかったのでしょう」

「そう」

「クラスメイトは強い方に追従するし、先生方は忙しいし、ご家族には心配をかけたくなかった。そのうち、皆様の話す言葉全てがご自分を責めているように感じられて、苦しかったのでしょう」

「うん」

「気付いてほしくて、気付いてもらえなくて、遣り切れなかったでしょう。これからもずっと続くのかと察して、絶望したでしょう」


「それを、辛い、と言うんですよ」


 女は、そっと僕から離れて、両手を広げた。

オレンジ色の割合が多くなった夏空が、こちらに両手を広げて待っている。

「おいで、ぎゅっとして差し上げます」

 女の空色の目は、慈愛を持ってこちらを見ている。


 そうだ、僕は。

 誰かに助けて欲しかったんだ。



 『空色のワンピースの女は絶対いるよ! だって、あの先輩も転落死したんでしょ?』

 『そっか、空色のワンピースの女って、辛い人の隣に現れて、』


 『最後には、空に飛び込みたくなっちゃうんだっけ』


 

 僕は、足を止めた。

僕と女の間を、夏風が吹き抜ける。

女は、小首をかしげてこちらを見た。


 「ぎゅっと、しないんですか?」

 「・・・・・・しない」

女は、訳が分からない、といったように両手を広げたまま、突っ立っている。

「でも皆さん、幸せそうな顔をして落ちていきましたよ?」

「そうなんだ」


 僕だって、ワンピースに飛び込んでいきたくなる。僕は手を伸ばして、近くのフェンスをぎゅっと握った。


 夏色が、ひらめく。

 半分くらいオレンジに染まったワンピースが、辛いなら抱きしめてあげると、僕を誘っている。


 そりゃあ、幸せそうな顔をするだろう。

 辛いときに、全部肯定してくれて、慮ってくれて、許してくれるんだから。抱きしめてくれるんだから。


「これが一番、幸せなのではないですか?」


「そんなこと、ないよ」


 ワンピースの肩辺りに、きらりと何かが光っていた。

 僕は、空を見上げる。

 思った通り、一番星だった。


「ねぇ、あの星、知ってる?」

「・・・・・・知りません」

「多分、金星。宵の明星かな」


 天文部は、部活の時間帯は適当に過ごして、夜に個人で活動することが多い。でも金星だけは、部活の時間が終わる前に観測できるので、よくみんなでわいわいしながら観測会をやっていた。


「あのね。星は、昼に太陽が輝いていても、雲が地球を覆っていても。見えなくても、ずっと、そこにあるんだ」

ちらりと見れば、女も空を見上げていた。太陽が隠れることで、初めて僕たちに見える星々。これから夜になるとたくさん増えていくし、僕たちに見えないだけで他にもいっぱいの星が輝いていることは、天文部で観測して分かった。

「幸せも、同じだよって。辛いときは僕たちに見えないだけで、絶対そこにあるんだよ、って先輩がいってた」

天文部の先輩は少なかったけど、ロマンチストな人も多くて。夜の観測会の時にポエミーなことを言ってて、みんなで笑ったりしたっけ。

 ああ、なんで忘れてたんだろう。仕舞われていた箱の鍵を開けたように、星屑のような思い出が心に蘇ってきた。


 そうだ、飛び込んではいけない。空色ワンピースの女に、抱きしめられてはいけない。


 ふと、部活のかけ声がやんでいることに気付いた。下を見ればグラウンドには誰もいなくて、思わず笑ってしまう。なぁんだ、サッカー部と野球部の目の前で落ちてやろうと思ったのに。部活終わりにはみんな、ここのすぐ下に集まってミーティングするから、その時に。


 「それは、辛くないのですか」

女の声が耳に届いた。ワンピースは藍色とオレンジのグラデーションで、腰のあたりにもう一つ、星が光っているのが見えた。

 「辛いのと、幸せなのは、両立できるんだよ」

思い返せば、僕は何もしてなかった。みんなに嫌だとも、やめてとも言ってないし、大人や先輩に助けてとも言ってない。何もしないで諦めるには、まだ希望が残りすぎている。


「人間ってね、この先の幸せを信じて、歩き続けられる生き物なんだよ」


 先輩の受け売りだけど。思い出した少しの心残りが、僕の足をしっかりと地面に繋いでいる。



 気づけば、女はいなかった。夏風がフェンスの間を吹き抜ける。良く晴れた空は藍色で、絶好の星見日和だった。

「あ、せんせーに鍵、返しに行かなきゃ」

僕はふと思い出して、ポケットから鍵を取り出した。

 屋上のドアノブは、まだ夏の温さを残している。


 見なくても分かる、満天の星空を背景に、僕は階段を下っていった。


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