愛玩惑星《地球》
すめらぎ ひよこ
愛玩惑星《地球》
『にゃー』
手元のスマホが鳴いた。
動画サイトによく転がっている動画だ。
映っているのは撮影者の足、そしてそれにゴロゴロと群がる数匹の野良猫。エサでもやったのだろう。食べ物のカスが落ちている。
「こんな動画、何がいいんだか……」
僕はぼやいた。
ハンバーガーを食べながら、暇つぶしに動画サイトを開いたらこれだ。
撮影者は、野良猫にエサをやっておきながら、半笑いで「うわ、めっちゃ懐かれてるんだけど」とほざいている。
浅ましい。
だけど、こういうのが求められているんだろう。動画の再生数は、百万回を超えている。
「いや、浅ましいのは僕もか……」
僕はまたぼやいた。
人間には、抗えないものがある。僕がハンバーガーを食べてしまっているように。
僕は今日、ちょっとした用事があって街に出た。
街で何か食べるつもりはなかったけど、健康を度外視した刺激的なにおいに、僕の足は逆らえなかった。
人間の快楽を満たすために作られたジャンクフード。
猫がゴロゴロしてる動画は、きっとそれと同じなんだろう。可愛ければいい。
窓際のカウンター席からは、外がよく見える。
街を行き交う人たちはもう、空に浮かぶあれを見ない。
一年前、地球に飛来した宇宙人。いや、地球外生命体と呼んだ方がいいかもしれない。宇宙「人」と呼ぶには、人の姿からかけ離れている。
いつ見ても「空飛ぶ水餃子」にしか見えない。
白くて、モチモチしていて、ウネウネした肉厚な翼がついている。大きさは、電車の一車両ほど。
それが地球の空に何万体と飛んでいるらしい。
僕はこいつらのことを、心の中で「白モチモチ」と呼んでいる。同じように呼んでいる人は多いと思う。
白モチモチは
いつも空から眺めているだけ。
でも、ときおり地上に降りてきて――
「あ、降りてきた」
ちょうど降りてくる個体が空に見えた。
同時に、空を見ていないように思えた人たちが、唐突に早歩きになった。
「気にしてなかったんじゃなくて、気にしすぎてたのか」
白モチモチが地上に降りてくる意味を知っているからこそ、やつらを意識の外に追いやろうと必死だったのか。
そう思う僕も、本当は見たくない。そして、屋内にいることに安心してしまっている。
白モチモチは地上10mほどの位置に滞空し、胴体……と思う部位から管を地上に向けて伸ばしていく。
管は地上付近まで伸びると、根元がもこりと膨れ上がった。
その膨らみはみるみるうちに、もこもこと先端に移動していく。
そして、管はペッっとあるものを吐き出した。
僕はハンバーガーを食べるのをやめ、念のためにマスクを着ける。
吐き出されたのは、どろりとした黄色い半透明な粘液だ。
「うあ、あぁ……!」
ガラスの向こうで、粘液のにおいを嗅いでしまった人が見える。身を悶え、歓喜の鳴き声を漏らしている。
それとなく逃げていたが、逃げ切れなかったようだ。
逃げきれなかった数人が、粘液に飛びついていく。
地面にぶちまけられた粘液を、必死に舐め回しはじめた。
あの粘液は、摂取すると多幸感が脳内に溢れ出るらしい。それも、そこらの違法薬物とは比べものにならないほどに。
ひとたび粘液の発する刺激的なにおいを嗅げば、人間の足は逆らえなくなる。
「ああはなりたくないな……」
人間としての尊厳などどこかに置き忘れ、粘液を舐め回す。多幸感で脳を焼かれ、
「モッ……モッ……モッ……!」
その様子を楽しんでいるらしい。白モチモチは、奇妙な鳴き声を上げている。
まるで人間が野良猫にエサを与えるように、白モチモチは人間に粘液を与える。やつらにとって、人間は愛玩動物なのだ。
白モチモチは、害を及ぼすことはほとんどない。
でも、尊厳は踏みにじってくる。
ギリッと、僕の奥歯が鳴った。
白モチモチが地球に飛来してすぐ、やつらに抗った大きな国があったらしい。
今では、その国のことを思い出せる人間はいない。
その国がどうしたのかは知らないし、白モチモチがどうしたのかは分からない。でも、地球から■■■■という国が消えた。
地球上からも地図上からも消え、記録からも記憶からも消えた。
ただ、ハンバーガーを食べていると、口の中にあるそれが、なんとなく■■■■と関係があるような気がしてくる。もしかすると、ハンバーガーの本場なのかもしれない。
人間は、上位存在の機嫌を損ねることを恐れ、大っぴらに逃げなくなった。逃げられなくなった。
逃げられなかったら、無様に粘液を啜るしかない。
ただ、悪いことだけではない。
白モチモチは、地球の環境問題のいくつかを解決したらしい。
そこだけは感謝している。
……が、結局は愛でる対象が死に絶えないよう保護活動をしているだけなのだ。
「うわ、きったねえ! マジウケるわ!」
空席を挟んだ隣の男が、粘液を啜る人たちをスマホで撮影している。
浅ましい。
そう言ってやりたいが、彼の心中を考えればそんな厳しいことも言えない。
貧乏揺すりはカウンター席を揺らし、笑顔は引きつっている。
チグハグな言動がいたたまれない。
あれは画面の向こうの出来事だ。あれを笑えるのは他人事だからだ。
そう思って、あれが自分と地続きでないと思い込みたいんだろう。
動画や写真を撮影するのも、「誰かと共有できる手段」が欲しいからなのかもしれない。
この現実は、一人で抱えるには辛すぎる。
隣の男だけじゃない。そこかしこで眼前の粘液啜りを撮影している。
みんな心を守ってる。
「早く終わらないかな……」
そうぼやく僕の言葉は、神様には届かなかった。
白モチモチが吐き出す黄色い粘液に、赤色が混じった。
「あッ――!」
僕は叫びそうになり、そして急いで口を手で塞いだ。
逃げろ。
そう叫びたかった。
赤色に気づいていないのか、気づいていても無視できないのか、一人が赤粘液を口に含んだ。
一瞬のこと。
赤粘液を啜った人は、途端に身体中から血が噴き出して死んだ。
隣から伝わってくる揺れが、一段と強くなった。
実際に見るのは初めてだけど、人間に害をなす個体もいる。猫を虐待して楽しむ人間がいるように。
「ムーッ! ムーッ! ムーッ!」
白モチモチが興奮している。
その昂ぶりを、張り上げる奇声と身体のうねりでこれでもかと表現している。
だけど、その個体は余韻に浸るわけでもなく、急いで空中に戻っていった。
そして入れ替わるように、別の個体が空から降ってきた。
他の個体と違い、角のような突起がある。
白モチモチの社会にも法があるようで、人間に害をなす個体は取り締まられる。今降りてきた個体は、いわば「警察」なのだ。
「警察」は犯人を取り締まる前に、粘液を回収していく。
管を伸ばし、あっという間に粘液が吸い込まれていった。
粘液はきれいさっぱり回収され、それが発するにおいも消えた。
抗えないものが消え、粘液を啜っていた人たちも、次第に正気に戻っていく。
「あーあ、やっちゃったなぁ……」
「いやぁ、災難でしたねぇ」
今のいままで涎と小便を垂れ流していた人たちが、ヘラヘラと言葉を交わしている。
「でも、案外悪くないですよね?」
「クセになりそうで怖いなー」
何ともないと、自分に言い聞かせるように。
すぐそばで、真っ赤になって死んでいる人がいるというのに。
それを見ていると、悔しさがこみあげてくる。
でも、僕にできることは何もない。
できるだけ早く日常に戻るよう、願うしかない。
僕は再び、手元のスマホに視線を落とした。
いつの間にか猫がゴロゴロする動画は終わっており、次の動画が再生されている。
感染症に侵されたペットショップの動物たちが、殺処分されたというニュースだ。
「次から次へと、気が滅入るなぁ……」
かわいそうとは思うけど、仕方がない。感染症をこれ以上広めないためだ。
そう思っていると、空が急に赤くなった。
見上げると、「警察」が空に向かって角をピカピカと光らせている。それに呼応するように、辺り一帯がどんどん赤くなっていった。
噂を聞いたことがある。
何かを検知した白モチモチは、一定区画を「処分」するらしい。空から降ってくる赤い光は、処分する区画をマーキングしているらしい。赤い光でマークされれば、逃げられないらしい。
らしい、らしい、らしい。「らしい」ばっかりだ。
検知している何かは、同胞が起こした不祥事だとか、反逆の意思がある人間だとか、何らかの感染症だとか言われているが、定かじゃない。
何もかも定かじゃないのは、知ろうにも、やつらと意思疎通ができないので分かるはずがないからだ。
確かなのは、「処分」の生存者がゼロだということだけ。
いったい何を考え、僕らを処分するのか。
「あはッ、あははッ!」
気づけば、喉の奥から笑い声が出ていた。
嬉しいわけでも、面白いわけでもないのに。
店内は笑顔で溢れた。
笑うだけじゃない。
誰彼構わず握手する人がいたり、誰に言うでもなく「いい人生でしたね?」と叫んでいる人がいる。隣の男は、今度は自分を撮影していた。
何をしているのかも、なぜしているのかも分からないまま。
ただ、みんな心を守ってる。
娯楽として消費され、不要として処分される。
弄ばれても心から楽しいと思えれば、どれだけ気が楽だろうか。
殺されても仕方ないと割り切れれば、どれだけ気が楽だろうか。
僕はハンバーガーの残りを食べ始めた。もう意味なんてないのに。笑顔で。
愛玩惑星《地球》 すめらぎ ひよこ @sumeragihiyoko
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