冬篭り

宵町いつか

第1話

 鳥が飛び立つ。羽を開き、ぱたぱたと小さな音を立てながら、三時の夕暮れ前の陽にその羽を透かす。毛の細部まで冷たい冬の風に濡れて細かく震えるまでが鮮明に見える。

 少女はそんな鳥になりたかった。


 温かな石油ファンヒーターの風にあたる。麗らかな休日、夕方三時。少女は冷えて赤くなった指先をファンヒーターの小さな吹出口にあてがい、何かを待っていた。冬の終わりか春の始まりか。もしくは金木犀が咲くころを待っていた。

 少女の住んでいる家の周囲には金木犀が埋まっていた。それは今年も秋らしい香りを放ち、つい数日前に枯れた。

 少女は秋のことが好きだった。夏の暑さを孕み、同時に冬の寒さを孕んでいる曖昧な季節のことが好きだった。退廃的に近い感覚をもたらしてくれるからだろう。少女は終わることに恐怖を感じない性分だった。自らの変化を感じることができるからだった。自らが落ちぶれたところも、反対に成長したところも、それはいつか自らを傷つける要因になるだろう。しかし、少女はその傷は愛おしいもののように思えるのだ。少女は自らのことを強いとは思ってはいない。誰かが傷つくのなら少女自身が傷ついたほうがましだと思っている。だからだろう。少女は終わりが好きだった。

 少女はぐっと伸びをした。かけていた眼鏡がずれる。視界の端に写った窓から枯れた金木犀の花とくすんだ色の葉が見えた。もうじき、冬になる。今は秋と冬の境目だった。

 少女はふっと息を吐いた。室内に解き放たれた息は透明なまま部屋を満たす。意味のない感傷がやってきた。

 少女は冬が好きだった。冬の冷たい空気は歩いていると気持ちが良かった。春も好きだった。さわやかな日差しが気持ち良かった。ただ夏だけは好きになれなかった。夏の暑さは好きになれなかった。少女には暑すぎるように感じられたからだ。

 少女は歩くことが好きだった。歩けば足音が鳴る。風を切る。景色が変わる。そんな当たり前が好きだった。景色の変化、風の温度、石ころの転がり方、鳥の泣き声。散歩をすることで何となく自分が変わる感覚があった。歩幅はわずかに変化していつの間にかスキップに似たものへ。リズムよく、飛ぶように。いつか鳥になれるように、少女は散歩をしていた。ただここ最近は散歩すらしていなかった。理由はなかった。外に出る理由を見いだせなかったからかもしれない。元々、理由なんてものはなかったのだ。大抵の人間がそうであるように少女もはじめはそうだった。いつの間にか理由を求めてしまっていただけて、本当は理由なんて大仰なものは必要さえなかったのかもしれない。

 少女は動けずにファンヒータ―の風に当たる。切り裂く感覚はなく、風が別れていく感覚ばかりがした。それが妙に悲しいもののように思えた。

 外に出なければいけないといったことはなかった。ただ、家にいなければいけないという理由もなかった。家にいるのはなんとなくで、休日という限りあるときに外へ出ていやな気持になりやしないか、といったことからくるもので、外に出るとせっかくの休日に外に出てしまってもったいなく感じてしまう。それを防ぐためじっとファンヒーターの風に当たっていた。そこまで強い感情からくるものではなかった。

 外で風が吹いた。金切声に似た音が窓からする。冬の叫び声のようだ。大げさにあふれた季節の感情だろうか。

 少女は窓を見つめる。そこから見えるのは金木犀の葉と枯れた花。少女の親がこの家を建てたときに植えた金木犀は毎年季節の訪れを知らせた。秋の本番、冬の始まり。執拗な香りとともに、花を散らせて、ああ、秋だななんて思わせる。今年も確かそうだった。

 室内に一瞬音があふれる。母親がコードレス掃除機を持ってリビングに入ってきた。少女はそれを意に介せず、ぼんやり温もりを享受する。

 音が広がる。

 「あんた、邪魔」と母親の声を聞いて少女は一瞬立ち上がる。糸が張られたように足が地面にひっつく。温もりが遠ざかる。足はしびれていた。さむい、と独りごちる。母親は「運動しないからよ」とすこし的外れなことを言った。運動しないからではなく、ろくに動いていないからだろうと心の中で訂正する。少女の中で運動と動くことには大きな差があった。鳥だって羽を膨らませて暖かい空気を羽の内にためる。少女の行っているものはそれと似ていた。これらは飛ぶための準備。飛べないのは翼に温もりが足りないから。散歩をしなくなったのは、できなくなったのはきっと、翼に温もりが足りないから。飛べないのは私のせいじゃない。少女は心のどこかでつぶやいた。

 母親がキッチンに掃除機をかけ始めた。少女はまたファンヒーターの前に座る。変わらない景色がそこにあった。

 急に目の前にオレンジ色のものが置かれた。よく見るとそれは蜜柑だった。よく色づいたオレンジ色の蜜柑。母親が「昨日買ってきたのよ」とつぶやくように言った。少女は「へぇー」と息を吐くように言った。大きさは少女の手のひらに収まる程度の小ぶりなものだった。少女は蜜柑のお尻の方から皮を剥く。少しへこんだ部分に親指で穴を開け、そこから放射線状に皮を剥く。少女は久しぶりに蜜柑を剥いたことを思い出した。皮をファンヒーターの上に置き、一房食べると、酸味が程よく広がり、続くように甘味が口の中に広がった。鼻に抜けるさわやかな感覚は妙な温もりを少女に与えた。それがひどく切ないものに思えてしまって少女は思わず目をつむった。感じたものを忘れないようにした結果だった。

 少女は忘れることに恐怖を感じる人間だった。誰かとの会話、天気、人の温度、季節、モノを動かしたときに発生するほこりの舞い方。そのどれもが大切に思えてしまって苦しくなる人間だった。忘れたところで苦にならないだろうことにさえ苦しさを覚える。それはきっと少女自身が与えられた印象を否定したくないからなのだろう。少女自身にすらわかないことだが。少なくとも、少女は少女を肯定したこと、してくれたことを否定したくないのだ。否定してしまったらひどく申し訳ないことのように思えてしまって、切なくなるくらい苦しくなるのだ。

 ただ、少女は停滞を望んでいるわけではない。不変を求めているわけではない。記憶が風化してしまうということに恐怖を感じているだけなのだ。だがしかし、少女のその他人を否定したくはないといういびつな考えこそが少女の少女たらしめる少女的思考回路なだった。

 目を開けて爪と皮膚の間に挟まった白い筋を見つめる。それは少女が他人を忘れまいとして忘れてしまった物事のように思えて仕方がなかった。少女はその存在したかわからないことに思いを馳せる。いつか、あんなことがあった。そう言いたいだけなのだ。そうして笑い合いたいだけなのだ。それは例えるのならば金木犀が秋に咲き、冬になると枯れることと同じだった。きゅっとこぼさないように握りしめた手のひらは空気を固める。

 ファンヒーターが小さな音を立て、延長と書かれたボタンが薄い光で点滅する。保ってあと数分だった。その点滅に少女は急かされたように感じた。焦燥感が襲った。行き先は分からずじまいだった。例えるなら木造アパートの部屋の一室、流れてくるすき間風に当てられてこの先の人生に思いを馳せるような、些細で尊大なものだ。

 少女は悩んだ。延長のボタンを押すことは簡単だった。簡単だったからこそ、押すのを躊躇った。くすんだ気力はどこかへ吸い込まれていったように思えた。くすんだまま澄んでいったのかもしれない。傷ついた感触と傷つけられた感触を残してしまって、やるせない感覚ばかり残ってしまう。空気をつかんだ手がそっと緩められた。

 点滅が早まる。心なしか、少女の心音が早まった。

 早く出なければ。そう少女思った。冬の焦燥に当てられた結果だった。例えば冷水に触れて全身に寒気が走るような、受験で未来がより不確かになってしまった時の感覚に似ている。少女は常に不安に苛まれていた。

 無責任で無関係、無目的。少女はそのような少女的思考回路に囚われていた。行く末の知らぬ少女的思考回路だった。

 堪らなくなって立ち上がった。縫い付けられていた感覚のあった足が熱を持った。熱で糸が溶けていく。何が堪らなくなったのか、少女はよく分からなかった。ただ、そのよく分からないという感情に酷く怒りを覚えた。自分のことのはずなのに全く理解できないことが嫌だった。酷く許せないことのように思えた。少女がその感情を、怒りの原因を完全に理解する頃には少女は少女ではなくなるだろう。

 みかんの皮をごみ箱に捨てる。わずかに質量の伴った音がごみ箱の中にこだました。少女にはそれが冬の温かさの一部分がごみ箱の中にこだましたように思えて仕方がなかった。それが悲しいほどにさみしく思えた。

 一度、少女は二階にある自室に行く。少女の自室は至って簡素なものだった。ウォールナットの机に椅子が太陽の光から逃げるように配置されており、地面は灰色の絨毯で覆われている。机のおいてある反対の壁には薄桃色のベッドが配置されており、その上には少女が小学生時代から愛用している白いうさぎのぬいぐるみが座っている。縫われた黒い瞳がじっと少女を見つめている。姿見で反射したそのうさぎのぬいぐるみを見ながら少女はふとため息をついた。

 姿見の中では中学時代の長袖の体操ズボンと半そでの体操服を着ている高校生の少女が立っていた。じっと自分の姿を見つめている。中学時代、運動部だったため動きやすいように髪を短くしていたが、最近は運動もめっきりしなくなってしまった。そのため、少女の髪は少しずつ着実に伸びていた。一年前はベリーショートだった髪も今や肩あたりまで伸びていた。やや自信なさげになっている垂れ目も、少し面長な輪郭も中学時代から何も変わっていないように思えた。ただ、髪の長さだけの変化だ。それ以上もそれ以下もない。赤く染まった唇からそっと息だけが漏れた。その息が空気に溶けて、少女の耳裏にあるほくろを濡らした。わずかながらの少女性の残ったその服装は究極の処女性を表しているように思えた。少女はかけていた眼鏡をはずす。途端、視界がにじむ。輪郭が曖昧になり、自身の体つきのことさえ忘れる。鏡の中に映っている姿さえ別人だ。

 少女は手で髪の毛を梳いた。指の間を通っていった髪はゆったりと元に戻る。空気を含んでか、わずかに盛り上がった髪は少女の気持ちをわずかばかりすくいあげた。熱を込めたように感じられた。

 外に出るにはあまりにも薄着な気がして、少女は上に黒のコートを羽織る。下の体操ズボンはそのままにしておいた。理由は特になかった。

 階段を降り、ファンヒーターの電源を止めようとボタンに手を伸ばす。しかし、少女が電源を落とす前にファンヒーターはこと切れたようだった。それが驚くほど切なく思えた。知らないうちに時間は進んだ。それがたまらなく悲しく思えた。大切な人を思い出すとき、その人の嫌いな部分ばかり目につくのと感覚が似ていた。

 少女は迷わず家を出た。冷たい風が少女を包んだ。それはすぐに鼻先を赤く染め、手を悴みさせ、唇を乾燥させた。うっすらと首の血管が浮き出た。髪から熱が奪われていった。

 道を歩く。ひび割れたコンクリート、香りの失った金木犀、澄んだ空気に、妙に色彩の薄い青空。少女は冬の緩やかな感傷に浸されながら視線を動かした。冷たい空気に刺激され、皮膚に痛みに似た感覚が走る。産毛が逆立ち、皮膚は突っ張る。少女は停滞した空気を切り開いて歩みを進める。

 どこか後ろ髪を引かれる感覚を覚えながら少女は歩く。数年前つぶれた個人経営のクリーニング店。その駐車場だった小さなスペースにずっと置かれている自動販売機。通り過ぎる小学生時代の通学路。そのどれも、今の少女には関係のないもので、今の少女を少女たらしめているものだった。少女は土地に縛られていた。

 少女は冷たい空気の中で体を震わせる、記憶が揺れる。誰かの記憶だ。少女の記憶に似た、誰かの記憶。少女に似た人間が感じた感傷、もう戻らない日々。思い出される記憶はすべて偽物と変わらない。あの時感じた苦しみさえも、もう偽物になってしまっただろう。もう、少女はその感情を感じられない。思い出せるのはそれに似た感覚だけ。ただ、この場所にとらわれた感情だけ。感傷に呼び出されるあまりよくない記憶だけ。自分が感じたいがために作られた傷。それを少女は常に甘受していた。

 大通りに出る。道は誰も歩いていない。車通りは少ない。少女の足音はたまにやってくる車の走行音に潰された。

 大通りには銀杏の木が等間隔に植えられている。それらはすべて黄色に色付き、少しずつ散らしていく。ここ数年は紅葉さえ秋には生まれないらしい。それが少女には悲しいことに思えた。少女はもう季節さえ正確に感じられていなかった。

 視線の先に歩道橋が映る。なにかを迎える門のようにそれは太陽に照らされ、道路に影を落としている。少女は何も考えずに落とされた歩道橋の影を踏んだ。強い風が吹いた。髪の毛が揺れた。うなじが冷えた。それがひどく切なかった。悲しいほど、切なかった。

 歩道橋をのぼる。階段を一段ずつ踏んでいく。一段ずつ気温が下がっていく。空気は薄く白く、一段ごとに国を超えている。そんな錯覚に陥る。少女の吐いた息は白み、雪渓にたちまち変化する。

 白んだ息が空気に伸びる。息が伸びる。色付いたそれが、まるであの頃感じた苦しみのように思えた。それが遠く溶けていった。自身の否定さえ、少女はできなくなった。そうすることで、少女はわずかに少女ではなくなった。それがなぜかうれしく思えて、少女はつま先を立てて歩いた。背伸びをした。バレエのような軽い足取りだった。

 少女は笑った。軽い声で笑った。トイレで泣いたときのような声で笑った。あの人に告白した時のように笑った。あの人と別れたときのように泣くように笑って、意味なく息を吐いた。ふっと吐いた。少女は風を待っていた。ここから飛び立つために必要な風を。

 少女は目を閉じる。途端、鳥が飛び立つ。羽を開き、ぱたぱたと小さな音を立てながら、三時の夕暮れ前の陽にその羽を透かす。毛の細部まで冷たい冬の風に濡れて細かく震えるまでが鮮明に見える。家々の上空を通り過ぎ、木に影を落とし、時には木漏れ日に体を浸す。どこまでも飛んでいきそうな金糸雀カナリア。海を越え、少女さえ知らない場所に行きそっと意識は途切れる。

 少女はそんな鳥になりたかった。

 



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