終わる、悪夢。

 

それは、沖野春奈の出頭から二日後の事だった。灯火はソファで寛ぎながら端末の操作をしていて、弦は人数分のカップをキッチンで揃えている。一葉はディスプレイと睨み合いをしながら、何かの作業に従事していた。時刻は短針が頂点を刻み、太陽が真上に昇った事を示している。


その時、来訪者を知らせるブザーが部屋に響き渡った。灯火はソファから腰を上げ、端末だけ操作して元の位置に戻る。それを合図に、弦は五つのカップにコーヒーを注ぎ始めた。


「悪いな。急に」


書棚の隙間から姿を現したのは、藤堂と新見だった。彼らは家主に軽く挨拶をすると、灯火の向かいのソファに腰を下ろした。弦は一葉のデスクにカップを置いてから、テーブルへと向かい次々にカップを並べていく。その所作に、藤堂の隣に腰を下ろしていた新見が小さく会釈をした。


「お気遣い、ありがとうございます」


「いえ、市販のものですいません」


「バッドニュースだろう?」


社交辞令の応酬を斬り伏せたのは灯火だった。彼女は目の前に置かれたカップに口を付けながら、藤堂に視線を送っている。空気は一瞬にして、触れれば砕ける薄氷の様な危うさを秘めた。


「・・・お前は、どこまで知っていた?」


倣うようにカップに口を付けてそれをテーブルに戻した藤堂は、睨むような視線を灯火に向ける。しかしその対象である彼女は、怯む様子も見せず、口元だけに笑みを浮かべた。


「私は、何も知らないよ。それを信じるかも、知らないがな」


言葉遊びのような揶揄する返答に、藤堂は長い鼻息を漏らして新見に視線を送った。新見はそれを受け止めると、すぐに鞄を開く。


「・・・昨日、沖野春奈が、自殺した」


「・・・えっ?」


その言葉に反応したのは弦だった。藤堂は一瞥したあと、再び灯火に視線を戻す。


「これが普通の反応だ。何のリアクションも見せないということは、こうなることは予想していたんだな」


「・・・わざわざ糾弾しに来たわけではないだろう?続けてくれ」


灯火の態度に、藤堂は再び鼻息を漏らす。


「今回の件は我々にも非があるのは確かだ。突然の出頭に、万全とした態勢で臨まなかったのは、まぁ、・・・ただの言い訳だな。どこに隠していたかは分からないが、彼女は留置所に刃物を持ち込んでいた。死因は失血死だ。関わった以上は、知らせるべきだと思ってな。気のいいものではないから、心して見てくれ」


藤堂の言葉に反応して、新見は鞄から取り出した端末をテーブルに置いた。指先で操作し、画面を明るくする。その瞬間、彼女は視線を逸らした。


狭い、無機質な空間。そこには壁一面に、おびただしく、紅い文字で書かれていた。






































『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』



「灯火!」


声を上げたのは、弦だった。彼は気持ち悪そうに口元を押さえ、彼女を睨み付ける。しかし灯火の表情は、その画像を見ても、彼の鋭い双眸を見ても、眉一つ動かなかった。


「どうした?」


「・・・予想していたなら、何か出来たんじゃないのか。これで本当に、・・・正しかったのか?」


「俺も同感だ。何かとまでは分からないが、この事態を回避する方法はあったんじゃないか?」


弦と藤堂の問いに、ようやく灯火は表情を崩した。眉を寄せ、溜め息を吐きながら二人に視線を送る。


「二人共、履き違えるなよ。始めから選択肢なんてなかったんだ。目の前で起こる現象を、我々はただ観察してただけなんだよ。そこに、正誤という判断なんて、存在しない」


「どういう、意味ですか?」


張り詰めた空気に、新見は恐る恐る割って入った。純粋に、首を傾げている。


「簡単だよ。例えば、テレビドラマを見ていて、我々に何か出来るか?画面の中の出来事に何かを思っても、それに対して何かを選択し、影響を与える事が出来るか?」


「・・・こうなることは、決められていた、と言う事ですか?」


「そうだ。それに、ここに居る全員、気付いていないようだが・・・」灯火はゆっくりと視線を這わせる。新見、灯火、弦へと。「沖野春奈は自殺じゃない。殺されたんだ」


「何を言ってる?」言葉を返したのは、藤堂だった。「現場の状況からして、それはあり得ないぞ」


「状況証拠、ならね。・・・犯人も、凶器も、この世には居ない」


その灯火の言葉によって、まるで時が止まったかのように三人が動きを止めた。その三人共が、灯火に視線を注いだままで。


犯人も、凶器も。


この世に、居ない?


「・・・理解していないな?三人共。・・・はぁ」灯火はあからさまに落胆したという溜め息を吐いた。「順を追って、説明する。少しは頭を使ってくれ」


「まず第一に、様々な視点で考えた時、そこには沖野秋奈も含まれる。もう亡くなっているとはいえ、除外をする或いはしなければならない理由はない。その時点で、君達は結論に達する事が出来ないんだよ。そう考えた時、まだ説明されていない部分が自然と解明されるんだ。それは追って説明しよう。


まず、沖野春奈の姉妹ということならば、彼女のように何かに対しての執念というものは凄いだろう。同じ遺伝子を分けた姉妹で、同じ境遇で共に育ってきたんだ。もしかすると沖野春奈のあの嫉妬と復讐への執念も、逆に言えば沖野秋奈の性格に起因するものなのかもしれないな。今になってしまえば、それを調べる術などないが。


そう考えた時、精神的に追い詰められた沖野秋奈は、何を思う?自殺するほど、悲しむだけか?答えは、ノーだ。その前に必ず、復讐に思い至る。


ではなぜ、彼女は直接的な手段に出なかったのか?そこまで追い詰められて、妹自身に手は出さなかったのか?


それは、ギリギリまで妹からの精神的苦痛に耐えた彼女自身が、証明している。憎いと同時に、愛しているからだ。妹として、家族として、どんな状況になろうと、想っているからだ。だからこそ、彼女の感情は、歪んだんだ。相反する感情が、彼女の許容量を超えたんだよ。


殺したい。でも、殺せない。辿り着いた先が、自分を殺すことで、追い詰めようという、結論だ。


そうすれば、自分は彼女を殺さなくて済む。それでも、充分に復讐は為せる。自分を殺す事で、相手に死にたいと思えるほどの傷痕を残せる。そしてその結末を、自分は見なくて済む。自分の復讐で苦しんでいる彼女を見て、罪悪感に苛まれずに済む。


・・・正直、狂っているとしか思えないが、現に計画としては完璧だ。私ですら、手を出せなかったんだからな。


その推測に辿り着いたのは、恋人と、携帯の、違和感だ。その二つだけが、目の前にある視点だけでは説明出来ないものなんだ。その二つからようやく、沖野秋奈の視点を考慮し、推測し、裏付けが生まれた。


なぜ、恋人の前でわざわざ自殺したのか。なぜ、携帯を隠したはずのロッカーに、鍵を掛けなかったのか。


これらは一種の時限装置の役割になっている。もし、妹が姉の自殺の罪悪感を克服しようとした時の為の、な。


もし罪悪感から立ち直ろうとしても、恋人が、携帯が、その克服を邪魔するんだ。恋人が何かを聞いていたら、その事で詰め寄ってきたら。携帯が誰かに見付かって履歴を見られたら、まるで底のない疑心暗鬼だな。恐らく日を追うごとに、その感情は増していく事だろう。


そうして彼女は、妹の精神の退路を無くしたんだ。今克服出来たとしても、その不確定な要素が永遠にしこりを与え続ける。いつか自分のした事が明るみに出てしまうかもしれない。今この瞬間にも、恋人が誰かに話をしてしまったら、好きな人に、事実を責められたら、携帯が見付かってしまったら。そういった不安を生み出す意味を、あの二つは内包していたんだ。


そして最後の着信履歴だ。恐らくだが、沖野春奈の反応を見た限りでは、その通話で、言われたんだろうな。彼女が送ったメッセージに引けも劣らずな、罵詈雑言を、さ。そうして彼女に罪悪感の芽を芽吹かせて、時限装置を設置し、自分が飛び降りて、復讐は、完成だ。


更に、沖野春奈からのメッセージが残されているという事実が、他の干渉を遮断する役目を持っている。我々と同じように、この事態に手を出せなくなるんだ。手を出せば、もれなく姉を死に追い込んだ沖野春奈の殺人幇助になる。だから、観測するしか出来なかったんだ。


以上が、事の顛末だ。分かったかい?」


「・・・遣る瀬、無いな」


重い空気が、部屋全体を覆い尽くす。大きな溜め息と共に、藤堂はそう呟くとソファに深く体を預けた。


「・・・最悪の結末って」テーブルに置かれたブラックアウトした端末の画面を見つめながら、弦は零した。「こういう事、だったのか」


「許しを乞うのは相手の為じゃなく、自分の為の行為だ。許されて安堵することで、自分が救われたいだけなんだ。だが、許しをくれる相手はもう、居ない。だったら、彼女は、どうすれば、救われる?どうすれば、助けられる?答えは、簡単だ。我々には、救えない。彼女を助けられない。ただ、それだけの話だ」灯火は誰に言うでもなくそう呟くと、重苦しい空気など意に介さない様子で、カップを手に立ち上がった。「コーヒーが冷めてしまったな。淹れ直そう」


「しかし、感情が自身の生命活動すらも凌駕するとは、実に興味深い。生存本能の自己保全すら、感情の臨界点は超えるという事か?脳の命令の優先順位を入れ替えられる?試しようがないな。いや、しかし・・・」


ぶつぶつと呟きながら軽い足取りでキッチンへと向かう灯火を、三人は目で追うのが精一杯だった。沈殿した空気は、三人の足を地へと絡み付かせる。追い付かない理解と、遣る瀬無い葛藤が、三人の動きを鈍らせる。


割り切れない、目の前の、凄惨な現実。


冷え切ったコーヒーの僅かな残り香だけが、停滞するように、その場に漂っていた。

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灯火〜ともしび〜の唄【Ⅰ】【完】 四季 @shiki-tomoshibi-

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