3日目③

 

「記録を消しても、記憶は、消えない。違うか?」


「・・・えっ?」


目の前の玄関は、開け放たれていた。灯火は扉に寄りかかりながら、部屋の中の沖野春奈に言葉を投げる。弦は灯火の肩越しに部屋を覗き込んだ。部屋の奥には、テーブルの前で座っている沖野春奈が唖然とした表情で灯火を見上げている。見開かれた瞳は、目の前の光景が信じられないという色を秘めていた。


「・・・ど、どう、して?」


「君の後を尾行した」春奈の問いに、灯火は首を傾げる。「それ以外に、方法は無いだろう?」


部屋に入る陽射しのせいか、沖野春奈の表情は、二日前に初めて会った時より更にやつれていた。それは病的と言っても過言ではない。その痛々しいまでの憔悴ぶりに、弦は一瞬目を逸らす。


「・・・手が、空かないって」


「あれは嘘だ」灯火は首を傾げたまま、悪びれもせず質問に答える。「昼まで、という時間制限を設ければ、君の行動パターンを望み通りに出来るからね。案の定、君は、すぐに動いたわけだが・・・」


「・・・だ、騙したの?」


「そんなことはどうでもいい。その問答をする気もない。私はただ質問したいだけだ。君は・・・」


そこで灯火は言葉に間を置き、腕を組みながら啞然と見つめている沖野春奈を見下ろした。


「・・・自殺の前、沖野秋奈と、何を、話した?」


鈍い音が、部屋に響いた。その音源は、狭いフローリングの室内に落ちた、沖野秋奈の携帯だった。


「・・・・・・ち、違う」


空になった手で、沖野春奈は頭を抱えた。唇はわなわなと震え、焦点が、定まっていない。まるで何かに怯えるように、彼女は体を丸くした。


「・・・ち、違う。わ、私、そんな、つもりじゃ。・・・そ、そこまで、お、追い詰める、つもり、なんて・・・違う。ほ、本当に・・・」


「・・・やはり、そうか」


小さな溜め息を零し、灯火は呟いた。その声に、沖野春奈は顔を上げる。頬には大粒の涙が伝い、唇の震えは、残ったままだった。


「・・・えっ?」


「今の反応で、理解した。少し早いが、結論を言わせてもらう」取り乱し呆然とする沖野春奈を尻目に、灯火は淡々と言葉を続ける。「今回の依頼だが、断らせてもらう」


「灯火?」


咄嗟の弦の言葉に、灯火は鋭い視線を向ける。その視線の意味をすぐ理解した弦は、口を噤んだ。その瞳の色は、喋るなという無言の圧力だったからだ。


「・・・ど、どうして?」


沖野春奈の涙で歪んだ瞳が、縋るように灯火に向けられる。しかしそれを突き放すかのように、灯火の瞳と声音は冷徹だった。


「これは君達姉妹の問題だ。我々が干渉する問題ではない。君の精神を侵す悪夢も、君の選択の結果だ。その結果から逃げるために手を貸す義理も、我々にはない」


「・・・じ、じゃあ。・・・私は、どうすれば?」


「私に、答える義務はない。それは君自身が、解決するべき問題だ」灯火は扉から体を離すと、姿勢良く踵を返した。「さよなら」


「ちょ、灯火!」


弦が呼び止めようとするが、灯火は振り返ることもなく歩を進めている。


「・・・嘘。・・・い、嫌。ま、待って。・・・助けて。・・・お、お願い」


縋るような瞳が、その場から去った灯火から弦へと移される。震える手が、弦に伸びる。痛々しい表情に、懇願する瞳に、しかし弦は強く拳を握った。昨日、灯火に投げかけそうになった疑問が、頭を過る。


ここで彼女に手を貸せば、結果的に、彼女の行為を、肯定する事になる。


「・・・ごめん」


「・・・・・・ぁ」


弦は歯を食いしばり、そう、答えるしかなかった。瞬間、沖野春奈の瞳が、光を失う。力を失うように、伸ばされた手が、落ちる。その光景が見ていられなくなって、弦は逃げるように視線を逸らして、歩きだした。


足早に大通りに出ると、そこで灯火の姿を見付けた。タクシーを探しているのだろうか、彼女は目の前を行き交う車に視線を這わせている。


「灯火。・・・これで、良かったの?」


弦の言葉に、灯火は振り返る。困惑の表情を浮かべる弦を瞳のレンズに移して、彼女は口元を歪めた。


「良いとか、悪いとかでは、ないんだよ。君はまだ、この出来事の本質を、理解していない」


「・・・本質?」


「そうだ。言っただろう?最悪の結末だと。まだ、何も終わってはいないし、我々には、何も出来ないんだよ」


そう言って灯火は、弦を視界に収めたまま、少し不機嫌そうに目を細めた。






翌日、沖野春奈が警察署に出頭した事を、二人は藤堂から告げられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る