3日目②
規則的な電子音が鼓膜を揺らす。すぐに携帯をテーブルに置いた沖野春奈は立ち上がった。まるで誰かに急かされるように、慌てて身支度を整える。最後にポケットにテーブルの携帯と季節外れの革の手袋をねじ込み、アパートを後にした。
時間の猶予は、およそ二時間。逸る鼓動を抑えながら、春奈は足早に目的地へと向かう。徒歩でも、片道は二十分程度だ。道中タクシーを拾えれば、より短縮が可能になる。
しかし、最短距離を選んだ春奈の前に、タクシーは現れなかった。大通りに出れば可能性はあるが、道中大回りになってしまうため、どうしても入り組んだ住宅街の中を歩いてしまう。視線をキョロキョロと巡らせてみるものの、普通の乗用車すらあまり見かけない。淡い期待を裏切られたせいか、彼女は小さく舌打ちをする。
しかし、時間の余裕は十分だった。春奈は呼吸を整えながら歩を進める。足を動かしながら、必死に時間の計算を試みる。
アパートから駅への往復はおよそ四十分。明里灯火の言葉を信じるならば、目的の駅構内のロッカー内に、それはあるはずだ。それを持ち帰り、端末内のデータを確認、消去して再び元のロッカーに戻す。確認と消去を簡単に見積もって十分。再び駅への片道で二十分。全てを合算すれば、およそ七十分。何もなければ、お釣りが来るほどの余裕だ。
汗がじわりと額に浮かぶ。嫌な汗だった。ようやく駅を視認した春奈は、少しだけ歩幅を緩ませて息を整えた。携帯の画面で時間を確認し、計算通りの時間に小さく頷く。駅の構内に入り、エスカレータに乗った。
その遅さが、苛立ちに変わる。すぐに春奈は左の規則的な列から脱出し、右側を階段のように登っていった。焦っている自覚はあったが、その感情を止められない。
登りきった春奈は足早にロッカーを目指した。東口側に備え付けられているそれは、全く同じ箱上の物が壁に埋められているので、かえって不気味にも見えた。
足を止め、僅かに乱れた呼吸を整える。視線だけで番号を探し、目当てのロッカーの前に歩を進めた。
一抹の不安が過る。本当は鍵がかかっているのではないか。あの情報は嘘ではないだろうか。既に中身は、空ではないだろうか。数々の後ろ向きな想像を、春奈は振り払うように一度大きく深呼吸をして、取っ手に手を伸ばした。
軽い力で、それは口を開いた。
「!!!」
無機質で小さな空間の中、確かにそれはあった。鼓動が、跳ねる。
春奈は警戒のため周囲を見渡したくなったが、ぐっと堪えて自然な動作で手袋をはめる。不審な動きをすれば、かえって誰かの記憶に残ってしまうからだ。春奈は不自然なほど意識的に、自然な動作を心掛けた。携帯を取り出して、その扉をそっと閉める。彼女は今にも走り出したかったが、何事もなかったかのように歩き出した。
上がってきたエスカレータから反対側の階段を降りる。眼の前には馬の蹄鉄に似たバスターミナルが広がっていた。辺りを見渡すと、バスと同じようにタクシーも乗客を待つように何台か停車している。春奈は足早にそこへ向かった。
自動で開いた後部座席に、春奈は行き先を告げて身を投げる。タクシーは静かに発進した。車内でようやく一呼吸ついた春奈は、シートに深く体を預けた。
今すぐにでも、携帯の中身を確認したい。その衝動を、必死に押し殺す。最近のタクシーにはドライブレコーダーが標準装備されているため、その記録が残ってしまうからだ。一つの油断も許されない。春奈は携帯を強く握り締めながら、窓から覗く風景を視界に映した。何もしないのが、最善策。
十分程でタクシーはアパートに辿り着き、春奈は素早く代金を払って車内を後にした。タクシーが発進するまでは、わざとらしい緩慢な動作で部屋を目指す。
部屋へ辿り着くと、春奈は靴を投げ出した。すぐに手袋を外して急いで窓際にあるテーブルの元で肘をつく。少し汗ばんだ両の手で、携帯を握った。
今まではなんの問題もない。時間的なトラブルもない。微かな達成感が身を包む。春奈はすぐに携帯を起動した。
幸い、ロックはかかっていなかった。春奈は汗で滑らない指先で強引に画面を動かし、目当てのものを見付ける。
『あんた、本当に許さないから』
削除。
『ウザい。あんたなんか姉と思ってないから』
削除。
『マジ調子のんなよ?○○が』
削除。
『早く○ねよ。クソ○○○が』
削除。
「・・・・はぁっ、・・・はぁっ」
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
削除。
「記録を消しても、記憶は、消えない。違うか?」
「・・・えっ?」
春奈はその声で振り向いた。視線の先、開け放たれた部屋の入口には、明里灯火が、立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます