3. 遅効性の愛



「……て……華……」

「………起き…華…………」

 真夜中、急に目が覚めて飛び起きる。荒い呼吸で、背中に汗をびっしりかいていた。

「華……悪夢でも見た?」

 真白がくすくすと笑って、あたしをひたと見つめていた。

 天井が急に遠くなった気がする。

 あたしは困ったような笑みを浮かべると、うつむいたまま黙りこんだ。うつむいた顔が燃えるように熱い。真白の貫くような視線を隣に感じる。

 やめて、見ないで。今のあたしを視界から外してほしい。

 起きた時からずっと、真白からどこかで崩れてしまいそうな危うい雰囲気を感じている。

「どうしたの? そんなに見つめて」

 どうか勘違いであってほしいと、思わずつぶやいた。

「もっと強い刺激がないと、生きていられない。心の渇きが満たされないの」

 あたしはゆっくりと顔を上げて真白を見た。それは、今までの生活を否定するような残酷な響きだった。

「ねえ、私を満たしてよ」

 あたしは真白を心のよりどころにしている。

「華、あなた気づいていたでしょう?」

 雪が降っている。

「……何を?」

 真白の大きな瞳が空虚に空いている。

「お互いが、なくてはならない存在だって」

 雪が降っていた。

 子供のようにあどけない表情で、どこか淫靡な息づかいだった。空気を揺らす笑い声に酔いそうになる。

 真白を思う気持ちが胸の奥からせりあがってきて、泡のように弾けた。

 ──ああ、これが愛なのかもしれない。

 涙がせりあがってきて、天井を見上げる。

「……ねぇ、華」

 目を閉じて、聞こえないふりをする。心が寄せては返す波のように揺れ始めた。

「どんな夢見てたの?」

「真白には教えられない」

「ふーん、あっそ……」

 真白の顔は歪んでいた。目の前で、あたしによって傷ついたような気配がした。

 肩をすくめて、ふてくされたように壁を向いた真白を後ろから抱きしめる。

「何よ」

「真白……あのね、あたし……真白のことだいすきだよ」

 額をぐりぐりと押しながら気持ちを吐露すると、真白は背中越しにかすかに笑った。

 涙が流れ始める。

 脳裏に蘇る懐かしさと悲しさに、胸がふさがれる思いだった。

 真白の背中もじんわりと濡れていった。鼻をずるずるとすすっていると、驚いたように振り向いた真白が、なぜか面白くてはにかんだ。






◾︎◾︎◾︎






 換気のために窓を開けると、肌を刺すような冷たい空気が入りこんできた。

 十二月の四週目、大学は冬季休暇に入っている。

 真冬の夜風にカーテンがかすかに揺れ、煙草の残り香が宙を漂っていた。

「これで鼻かみなよ」

 頬を涙で濡らしている華にボックスティッシュを渡す。

 アパートの庭には真っ赤な椿が咲いていて、降り注ぐ雪も相まって綺麗だった。

 重ね着してベランダに出て煙草をふかしていると、華が目と鼻先を真っ赤に染めながら、「ありがとう」とお礼を言ってきた。後ろから抱きしめてきた華から、いい匂いがした。

「……今何時?」

「今? えーっと、一時」

「そっか。じゃあ十分かな」

「……?」

 疑問符を浮かべている華にありったけの防寒具を身につけさせる。

「なんで着替えるの?」

「んープチ旅行」

 そうつぶやくと、華の顔がパッと華やいだ。

「ええっ! どこいくの!」

「ふふ、海。朝日、二人で見に行こうと思って」

 にこりと微笑んで告げる。

「朝日! 超いいね」

「うん、絶対エモいよ」

「でも真白大丈夫? もう電車動いてないけど」

 華が心配そうな顔でつぶやいた。

「大丈夫」

 レンタカーの鍵をくるくると回して見せる。

「ちゃあんと借りてきてるから!」

「凄いよ真白」

 華の賛辞を背中で聞きながら、ペットボトルの水二本に、充電器とスマホをバッグにつめる。

「華、カイロ貼った?」

「うん貼った。真白は?」

「まだ」

 そう言うと、華が貼るカイロを持ってきてお腹と背中に貼ってくれた。

「ありがとう」

「……いってきます」

 施錠して毛布を車に積み終えると、真っ先に助手席に座って、シートベルトを装着した。

「じゃあ華、運転おねがいします」

「免許取ったんじゃないのね」

 お腹を抱えて笑う華に、唇を突き出す。

「私が運転なんかしたら、確実に事故るでしょ」

「それも、そっか」

「コンビニ寄って。あったかいコーヒーおごる」

「ほんと? やったね」

 アパートの駐車場から、三十分くらい走行して、あったかいコーヒーとホワイトチョコレートを買った後、車のスピードを上げて走り続けた。

 華と話しているうちにだんだんと眠くなって、助手席のくぼみに頭を預けていつの間にか眠ってしまった。音がして目を開けると、窓の外は真っ暗で、車のライトだけが明るく周りを照らしていた。隣に視線をずらす。華は人差し指と中指のあいだに煙草をはさんで、煙を吸いこんでいた。

「今どこらへん?」

 華がハンドルを操作しながらゆっくりと唇を開いた。煙草の煙がほそく揺れる。

「もう近くだよ」

 煙草を指に挟みながらマップを操作している。

「ほんとだ。ありがとう。もう四時かぁ」

「真白ったらすぐ爆睡するんだから。あっ、真白の分のコーヒー頂いちゃった」

 ウインクして悪戯な目で私を見つめて笑う華に、くすくすと肩を震わせる。次第に笑い声が伝染して二人笑い声を上げながら、窓を開けて自然と夜空を見上げた。

 冬の乾燥した空気でオリオン座はきらきらと輝き、私は魅せられたようにじっと目を凝らした。

「すっごく綺麗……ねえ! 華も見て」

 華は減速して窓から空を見上げた。

「……綺麗。都会にいて、あたしたちも汚れてたのかも」

 煙草の灰を窓の外に落としながら、華がへらりと笑う。

「そうだね…………」

 私はひっそりとつぶやくと、華の横顔を見つめ続けた。

 華は居心地悪そうに、顔を歪めると、煙草を窓から投げ捨てた。私の口角が吊り上がっていく。

 静寂な暗闇が車を覆う。

「あ、見えてきた」

 華の視線の先を追う。

「わぁー、すごい……」

「ほんとに……すごい」

「もう、語彙力死んでるよ」

「分かるよ。だって、綺麗すぎるもん」

 車が海の横を走る。

 群青色の空に真っ黒な海、穏やかで細い白い波。暗闇の中をぼんやりと浮かぶ三日月は、青白い月光を私たちに浴びさせた。

 ふと、いつまでもこの車の中で、華と二人で生きて、部屋の外の世界を見ていきたいと思った。

 永遠に続きそうなこの夜も、もうすぐ明けてしまうのだろう。ぼんやりと顔を上げて、窓の外で揺らめく夜の海を眺めた。

 車が人工物の町に入った。五分ほどして、近くの海浜公園の駐車場に車を停めた。

 平日の早朝のせいか、海岸は人気がなくて、ひんやりとした風が防寒をしていない顔に刺さる。吐く息が白くて、冷たい外気に溶けていった。

 夜の海に浮かぶ月は、真っ暗な海を青白く照らしていた。

 誘うようにゆったりと寄せては返していた揺らめく波が、何かの生き物のように見えた。

 華と手を繋いで、波打ち際を歩く。

 ずっと、剥き出しの寂しさを抱えて、永遠に満たされないような気がしていた。自分と同じ境遇の、同じ感情を抱いている華に、出逢うまでは。

 手を強く握って、華と視線を合わせる。華の手は弱々しく私を握り返した。

 なぜか少し傷ついて、顔を逸らす。心に重い感情が渦巻いて、体の内側から刃物で切りつけられたような痛みが襲う。

「真白」

 私の名前を呼んだ華の顔をおそるおそるみつめる。華は、満面の笑みを浮かべていた。

「どうしたの? 真白。傷ついたみたいな顔して」

 聖母のような、柔らかい表情で私を覗き込む。

 この痛みが、存在が、こぼれて、落ちて、消えてゆく。


 ──華も、私と同じだったんだ。


 互いに欠けたものを補うように、傷を舐めるように、私たちは互いを求め合っていた。

 ずっと思っていたの。邪魔しないで、近寄らないで、私たちの中に入ってこないでって。華も同じ重いを抱えていたんだ。

 少しずつ夜空が明るくなって、東の空から燃えるような太陽がのぼってきた。

 自論だけど、人生は軽い絶望が積み重なっていくものだと思う。華が私の絶望を救って、私が華の絶望を救った。きっと、その時に二人の間になにかが生まれた。そのなにかは、今私の胸を締めつけている思いで、この思いの大きさ、激しさ、胸の高鳴りが愛なんだろう。

 ──愛だ。

 愛。ずっと求めていたもの、もう私は持っていた。貰っていた。

 私たちは深い関係で結ばれて、お互いを強く必要としている。

 狂ったようにお互いを愛している。

 急に泣けてきた。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 私は頬から顎に流れていく涙を手の甲で拭う。鼻をすする音が隣からもした。

 華を見上げると、華は屈託のない笑みを向けて私を見つめていた。華の目元や鼻の頭まで赤く染まっていく。雲間からこぼれ落ちた朝日に、涙が反射しながら頬を伝う様子を、私はただ美しいと思った。

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