たりないとか注ぐとか

霜月れお

🐕


 どうしてか、燈子は料理が苦手だ。

 どのくらい苦手かと問われたら、彼女は調味料を自己流で使うことができないのでオリジナルメニューは作れず、レシピ本に書いてある通りに作っても何かが違うと感じるものが出来上がると、答えるだろう。幸いにして食材を包丁で切ることはできたから、夫婦ふたりの生活であれば、燈子の腕前でも騙し騙し暮らしていくことはできていた。

 だが、世の中そう巧く作られてなくて、夫婦の元にも息子が産まれ、産院の教育によって半ば強制的に食事作りが始まった。

 息子の燈哉とうやが離乳食を食べ始めるようになると、燈子は朝から晩まで、病的なくらいにありとあらゆる野菜をすりおろし、加熱した。日々のタスクが順調に進めば、もっと多くのことが出来るかもしれないと模索し、息子が一日中泣いて作業が進まなかったときは、できない母親だと自身を追い込み、心底落ち込み哀しみに沈む日々を繰り返す。

 今となっては、売っている離乳食を与えれば問題ないだろうと考える隙間があるのに、野菜の緑やオレンジに染まった燈子の手は止まることなく、食事の手作りは母親の責務であり、最も手間をかけるものであるという刷り込みにより燈子の脳は圧迫され続けていた。

 息子が保育園に通い始め、離乳食を卒業する頃になると、調味料を自己流で使うことができず、レシピ本のような味にはならない燈子の食事は迷走し続けた。

 今日も燈子は「塩少々って一体どのくらい入れるのよ」と、つぶさに言う。

 味見をしているが、今日の夕食も何かが違う。残念ながら、何かが違う味が出来上がっても、塩か胡椒か、醤油か砂糖か、どれを足せば良いのか全く見当がつかない。燈子には修正不可である。

 けれども、幸いにして手を加える必要も感じない。

 燈子は、料理が苦手なのだから仕方がないという呪文を脳内で繰り返しながら、何かの味の足りない肉野菜炒め、炊飯器が炊いた白米、みそ汁を食卓に並べ、夫と息子をテーブルに呼び、3人で手を合わせ、一緒に「いただきます」を言う。

 燈子にとって食事前の最高のひとときであり、不安の影が現れる瞬間でもある。とはいえ、今は小学校の給食という安心があるから、燈子の心中は無我夢中で野菜をすりおろしていた頃に比べたら多少なりとも冷静を装っていることができている。

 燈子は、みそ汁をひと口、そおっと飲み込んだ。まだ熱すぎて、椀から唇をさっと離す。

「明日の夜は学童の父母会があって、ママが行くことになってるの。それで、帰りが遅くなる予定でね」

 ここまで言って、肉野菜炒めを多めに箸で口に運び頬張った。味見したときと変わらない不足感を噛みしめて、話を続ける。

「夕ご飯を作り置きしておくから、燈哉はパパと一緒に食べていて欲しいの」

「だそうだ。燈哉、明日はパパとふたりでご飯を食べよう」

 合いの手を入れてくれた夫も口に肉野菜炒めを運び、噛みしめている。夫は、美味しいとも不味いとも言えない表情で、眉ひとつ動くことなく食事を続けながら、燈哉の食事の世話を焼いてくれている。

「うん、わかった。トウヤが寝る前にママは帰って来る?」

「その予定のはずよ」

 会話もそこそこに、燈子は残りの食事を胃袋に流し込み、軽く手を合わせ「ごちそうさま」と言い、席を立つ。

「ボルトの散歩、行ってくるね」

 燈子は食卓に並ぶ不安から逃げるように、食べ終わっていない夫と息子を残し、犬のボルトを散歩に連れて行く。

 ボルトとの夜の散歩は、アスファルトの熱が残る日も冷たい雨が降る日も欠かしたことがない、燈子の大切な日課になっている。加えて、散歩に時間をかけるようにしたら、夫や息子が食事を食べ終わったのを見計らって家に戻ることができる。そのほうが燈子にとっても都合が良いのだ。

 上着を羽織り、家を出る。しんと冷えた空気に身震いしながら、慣れた散歩道にボルトと燈子のふたりで向かっていく。アスファルトにぶつかるボルトの爪音とカラビナが揺れる金属音が、一定のリズムで夜の住宅街に響いているだけで、燈子は微笑ましくなる。

「ボルト、今日は雲が無くて、月の明かりで影ができてるね」

 燈子の横をリズム良く歩くボルトは夜空を見上げることも無く、静かに燈子の話を聴いている。もちろん返事が無いことくらい承知はしているのだが、聡い犬のことだから繰り返していれば、ある程度の単語で理解してくれているのかもと声をかけ黙々と歩く。

 ボルトの口から出る白い吐息が夜道に流れ消えて行く。燈子が「冬が来たね」と呟くと、ボルトは躰を大きく震わせて、燈子に返事をするようだった。

 散歩から戻ると、浴室から響く夫と息子の楽しそうな声が聞こえてきた。普段と変わらないふたりの声に幸せを想いながら、ボルトを家にあげた。

 いつものように、夫が夕食の片づけをしてくれていて、キッチンの水切り籠には水が滴る食器が不規則に並んでいる。

 期待の眼差しを送るボルトの意向に沿い、燈子はボルトの食事をカラカラとステンレス皿に盛り、彼の目の前に差し出す。燈子が発する「いいよ」の合図で勢いよく食べ始める彼の咀嚼音が、食事の美味しさを物語っていて心地よい。

 ボルトの食事中、キッチンの蓋つきゴミ箱の中を確認することも燈子の日課である。

 ゴミ箱の中の、掃除の埃や犬の毛をべったりとつけた夕食の肉野菜炒めを見つけ、燈子は「いつものことか」と呟き、小さく肩を落とした。

 何かが足りないのだから、今日も口に合わなかったのだろうと目を反らす。

 視線の先に、ボルトが食べ終えたステンレス皿を加えて歩いてきたので、燈子は「今日も綺麗に食べたのね」と頭を撫で、皿を受け取った。

 食後に皿を舐めるボルトのお陰もあって、燈子には空っぽのステンレス皿が一段と輝いて見えた。


 燈子は仕事から早めに戻り、夕食に野菜スープと鮭の塩焼きを用意し、僅かに出遅れた分を取り戻そうと小走りで学童教室に向かった。

 学童教室はカーペットの上に座して待つ父母がひしめいていて、燈子は目立たないよう静かに出入口に近いところに居場所を確保する。この父母たち、みんな誰かの親なのだ。

 説明が始まる前のざわつく部屋で、目の前に座っているふたりの母親の会話が燈子の耳に飛び込んできた。

「ねえ? ハヤテくんは食べる量が急に増えることとか、そんなことって経験ある?」

「んー、うちはあんま無いかな」

「最近うちの子、よく食べるようになってしまって。作っても作っても自分の分が残らないのよ。それで最近、困ってるの」

「ご飯が美味しすぎるってことにしておいたら?」

 なにその羨ましい状況は。燈子には想像できない状況の会話に心臓が大きく波打った。

「うちはさ、料理苦手だからお湯かけるだけとか、温めるだけになりがち」

 無理無理と言わんばかりに手のひらを横に振る彼女の金髪の間から、煌びやかで鋭利な指先が見え隠れした。

「あらま、ちゃんと栄養付けないと成長しないわよ?」

「確かに栄養はなあ、偏ってるんだろうなー……」

 ぼんやりと返す金髪のハヤテくんママに、大きく相づちを打つ隣の母親。

「まあ、うちは手の込んだものは用意できないけど、お湯注ぐのも温めるのも、アキラくんとこに負けないくらい愛情注いでるし、美味しく食べてるから大丈夫っしょ」

 どうとでもなるさといった明るいトーンで高らかに言い放った彼女の言葉に、燈子は冷たくひきつって震えた言葉を漏らす。

「あの……料理に、食事に愛情って必要ありますか? 最後はゴミになるのに、愛情をかける価値あります?」

 ふたりの母親は同時に振り返り、燈子の顔をまじまじと見ている。急に会話に入ってしまった気まずさに耐えかねて、燈子は太ももの上に乗った拳を強く握り直し、ふっと俯いた。

「そうねえ、一生懸命作ってもねえ。あっさりと食べ終わったうえに、足りないって文句言われるし、作るのも嫌になっちゃうわよねえ」

 おっとりとしたアキラくんママの言葉に、燈子は「いえ、そうではなくて」と俯いたまま首を横に振る。

「でもさ、ふたりとも食事を作り続けるんでしょ?」

 ハヤテくんママの言葉に燈子はゆっくりと顔をあげると、頬に手をあてたアキラくんのママは、困った様子どころか、どこか嬉しそう頬を緩ませ言う。

「作らないわけには、いかないわよねえ」

「で、でも……作ってもどうせゴミになるんですよ?」

 狼狽うろたえる燈子を余所に、ハヤテくんママは太陽のように明るい笑みを見せ、燈子の肩を軽く叩き、

「もうさぁ、家族のために何かを続けることができるって、それも愛情じゃん」

と言って、燈子を濛々とした霧の中に連れ込んだ。


 結局、ハヤテくんママの言葉が頭から離れなくて、父母会の中身はさっぱり身につかずに帰宅することとなった。しかも、予定よりも遅い解散で、夫と息子は仲睦まじくベッドで寄り添い眠っており、息子の笑顔に会うことは叶わなかった。

 キッチンの水切り籠にボルトの皿が無いことに気が付いた燈子は、慌ててボルトを散歩に連れ出し、食事を与えた。

 彼は、昨日と同じ。ガリガリと勢いよく、心地よい音をたてて全て平らげていく。

 燈子は用意していた野菜スープを温め、キッチンで立ったまま口に運ぶ。何かが足りない味をしているのは、ハヤテくんママに言わせれば、塩でも胡椒でもなく、愛情なのだろうか。わからない。

 今夜もゴミ箱の中には、スープの具材になった野菜が散らばり、鮭の切り身がぐしゃりと放り込まれている。

「ねえ、わたしはいつまでゴミを作り続ければ、いいのかな」

 ひっそりとした暗いキッチンに燈子の湿った言葉が広がっていった。

 食べ終えたボルトが持ってくる空っぽの皿を受け取り、シンクに沈める。

 食事を完食するのはボルトだけ。

 燈子はボルトをぎゅっと抱きしめた。柔らかい毛布よりもふわりとしたボルトの温もりに、ハヤテくんママの言葉が蘇る。

「ボルトぉ……わたし、明日も明後日もきっと作り続けるんだと思うの……」

 抱きしめているボルトの背を大きくゆっくりと撫で続けた。





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