モネの「睡蓮」とおじいさん
九月ソナタ
一話完結
数年前にサンフランシスコの美術館でモネの展覧会が開催されました。
その時の話です。
そのエキジビションは大きな規模ではなく、50枚ほどの絵が展示されていました。目玉はミズーリ州にあるセントルイス美術館所蔵の大作「睡蓮」(200x426.1cm、1915-1926年制作)でした。
この企画をした方のレクチャーがあったので、出席してみました。
彼は元キンベル美術館のキュレーターだった人で、その時代に、他の美術館とのつながりができたのでしょう。その時の縁で、今ではいろいろな美術館から絵を借りて、こういうエキジビションができるのだろうと思いました。
私は美術館がひとつしかない町で育ったので、キュレーターという職業があることすら、知りませんでした。もっと若かったら、美術を専攻して、キュレーターになる道を進みたかったなぁ。できたかどうかは別として。
レクチャーの中でのおもしろいエピソードとしては、今回モネ展を企画するにあたり、彼はある蒐集家が所有している1枚を、ぜひ貸してほしいと思いました。
モネの睡蓮の連作には、パリのオランジェリーに、4連作がふたつ、つまり計8枚あります。その他に3連作がふたつあり、それもオランジェリーのために描かれたものでしたが、そのうちの1セットが、アメリカにあります。
今、展示されている「睡蓮」の大作は、睡蓮3連作( Water Lilies Triptychs)として描かれたものの真ん中の1枚です。
あとの1枚はクリーブランド美術館にあります。このクリーブラント美術館の「睡蓮」はよく貸し出していますので、借りることは難しくはありません。
それで、ここで彼が借りたいのは、まだどこにも貸されたことのない1枚です。
モネの「睡蓮」3連作が一堂に会したら、大きな話題にもなるでしょう。
それで、彼が持ち主のところに連絡してみると、そのモネの絵はカンサスのネルソン・アトキンズ美術館に寄贈されたところでした。さっそくその美術館に電話をかけてみると、
「94歳の老人が、毎日、欠かさずそのモネを見にくるので貸せません」
と断られました。
*
その夜、少し寝始めた時、レクチャーでの話をふと思い出し、老人が毎日、モネを見に行っている姿が目に浮かんできました。
ちょっと調べてみようかな。
ベッドの中からスマホに手を伸ばして、「94歳 カンサス 美術館 モネ」と入力してクリックしてみました。
すると、
おおおっ、なにこれ、
ずらりと情報が出てきて、私は起き上がりました。
どうも、このおじいさんは、どうもただ者ではないようです。
ただ者でないどころか、アメリカ人なら、誰でも知っている超有名な人でした。
彼はヘンリー・ブロック(Heny Bloch)さん 、アメリカでH&R Blockを知らない人はいないでしょう。
町でよく見かける「H&R Block」、H&R Blockというのは税金申告のサービス会社です。
アメリカでは税金は毎年4月15日までに個人で申告しなければなりません。日本のように、勤め先がやってはくれるということはありません。
これがなかなか複雑なので、計算が苦手だったり、どの資料をどうすればよいのかわからなかったり、税金の申告は誰にとっても頭の痛い問題なのです。H&R Blockはそれを安い手数料で手伝ってくれる会社です。
ヘンリーさんはカンザスシティで生まれ育ったヤダヤ系アメリカ人で、空軍に行った後、24歳の時に当地で、兄と小さな会計事務所を開いたそうです。しかし、仕事はうまくいかず、兄は数ヵ月でやめてしまいましたが、ヘンリーは諦めず、今度は弟のリチャードを雇い、細々と仕事を続けたのです。
1955年、経営がうまくいかないので一般会計部門だけにして、税金関係はやめようと思っていた時、人に勧められて「5ドルで税金申告を手伝います」という宣伝を新聞に2回出したのです。
すると翌朝、弟から自宅に電話があり、事務所に人が殺到しているというではありませんか。
そんなに人が集まったのには、IRS〈税務署〉がそれまで行っていた無料サービスをやめたことも原因のひとつでした。
それが「H&R Block」の誕生物語です。今ではアメリカ各地のみならず、世界中に事務所があります。
YouTubeに、ヘンリーさんが絵のことを語っている動画がありました。
ヘンリーさん奥さんは1970年代に丘の上に家を建て、部屋に飾る絵画がほしいと思ったのでした。
当時、彼はネルソン・アトキンズ美術館の会長にはなってはいたものの(大体、こういう会長には、お金持ちがなります)、絵のことは何もわかりません。その時、美術館のディレクターとニューヨークに行くことがあり、その時、1枚のオランダの絵を紹介されました。妻のマリオンがそれをすごく気にいって、これからはオランダ絵画を集めましょうと言ったのです。
それで、ふたりはオランダまで出かけました。現地で絵は安くて来たかいがあったと思い、ある著名画家の絵だというのを何枚も購入したのです。しかし、それが届いて専門家に調べてもらうと、「もしかしたらその画家の作だという可能性もあるけれど、だとしても、全面的に他人の手で描き直されていて、全く価値のないシロモノ」だとわかったのでした。
そのことを、ヘンリーさんは「Lucky Break(幸運をつかむきっかけ)」と言っています。
夫婦はオランダ絵画とかかわるのはやめ、薦められて小さなルノワールの「腕をつく女」を買ったのです。夫婦ともその絵がとても気に入り、そこから印象派、ポスト印象派の絵を集めることにしたのです。つまりオランダでのミステイクが印象派に導いてくれたというのです。
彼は言っています。
「自分は生涯、ずうっとラッキーだった」と。
ヘンリーさんのこういう態度がラッキーを産むのでしょうね。
当時、絵に投資をすると何倍にもなると言われたそうですが、彼は一度も投資だと考えたことはないそうです。すべて気にいったから買った絵ばかりです。
そして、彼は12億円を出してネルソン・アトキンズ美術館内にブロック・ギャラリーを作り、集めた絵画29点をすべて寄贈しました。モネの「睡蓮」もその1枚です。
ヘンリーさんの家では、美術館に寄贈した後、絵のかかっていた壁にはそっくりの複製が飾られました。
「保険を払わなくてすむし、外出しても、もう心配することもない」
ヘンリーさんが笑っていました。
動画の中にも、ヘンリーさんが毎日、美術館を訪れているという話は全くなかったです。
すべての絵をネルソン・アトキンズ美術館に寄贈した理由については、以前、美術館のレクチャーで、
「メトロポリタンにはどうしてあんなにたくさんの美術品があるのか。それはニューヨークの人々が、寄贈するからだ」
というのを聞いて、そのことが頭に残っていたそうです。
他州の美術館や、個人からも、所有の絵画を譲ってほしいと乞われました。それらを売却すればものすごい金額になりますが、彼はこの地元の美術館に寄贈する以外、考えたことがなかったそうです。
ヘンリーさんって、とても純粋なところのある方ですよね。これも、ラッキーが向うから寄って来る要素でしょうか。
今回「モネ展」を企画したキュレーターが美術館に電話をかけた時は、ブロック・ギャラリーは開館したばかり。モネの睡蓮はギャラリーの花形ですから、いくらキュレーターに頼まれても、貸すことはできないことがわかります。
でも、「貸せるわけがないじゃないですか」ではなくて、
「老人が毎日来ているから」というエピソードをつけてやんわりと断ったのは、おもしろいところです。その方の人柄かもしれませんし、またキュレーター同士、関係をうまく保っていかなければならないからでしょうか。
少しの記憶と疑問から、すばらしいことが次々とわかり、眠気が飛んでしまった楽しい夜でした。
了
モネの「睡蓮」とおじいさん 九月ソナタ @sepstar
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます