香織の毎日
カミヤルイ
第1話
帰宅ラッシュが続く午後七時過ぎ。T駅構内にて人身事故のアナウンスが流れ、製薬会社で勤務して三年目になるMRの斎藤美波は足を止めた。
──またか。今年に入ってもう何度目よ。
今年もあとわずか。どのスーパーでもクリスマスと正月の飾りが一緒になって並ぶ時期にきて、そんなふうに思いながら大きく肩を落とす。
美波は人の生命を軽んじているわけでは決してない。しかし、たびたび足止めを喰らっていると、起こった事実に対して「またか」と思ってしまう人間も一定数はいるものだ。
美波だけでなく、列に並んで次の列車を待っていたサラリーマンも、重たそうな通学リュックを背負っている学生も、同じように「心配」ではなく、あからさまに迷惑そうな表情をしている。
このT駅と近辺の踏切りでは、とかく人身事故の発生率が高い────このホームから最初に飛び降りた人間の怨念だ、などの都市伝説も囁かれているが、その人間がどの時代のどんな人間か、誰も本当のことは知らない。
つまりは都市伝説になるくらい、発生率が高いということだ。
とにかくこうなれば二時間は列車は動かない。多くの利用者はため息を吐き、列車最後尾側の階段を使って改札へと向かって行く。
美波はもとから最後尾側にいたが、先頭車両のあたりが殺気を伴って騒然としているのに気づいていた。
──今日はこのホームからの飛び込みか……やるなら迷惑がかからないようにしてよ。
心の中でだが、つい本音が漏れた。美波は本当に人の生命を軽んじてなどいない。
だがいかなる理由にせよ、電車に飛び込む本人が生命を軽んじているのではないか、と思ってしまう。
五cmヒールで一日中個人病院間を走り回り、医師のご機嫌を取りながら、それでも新薬の契約が取れずに、疲れきった心身にさらに追い打ちをかけた事故者が憎らしくもある。
さあ、今夜はタクシーに乗って大きな駅まで出るしかないが、今、タクシー乗り場に向かっても大行列ができているだろう。きっと何十分も立って待たなければならない。
美波はひとまず疲れた身体を休ませたくて、左右に視線を振って空いている椅子の確認をした。
ある。それも二席。座れる。ラッキーだ。そう思いながら、足早に椅子に向かった。
しかし、あと一歩のところでくたびれたサラリーマンがドカリと音を立てて一席を奪う。もう一席は……。
──落とし物? ……忘れ物?
そこにはカセットテープが鎮座していた。
この時代にカセットテープ。美波が最後にカセットテープを目にしたのは幼稚園の頃だ。祖母が亡くなり、彼女が好んで聴いていた演歌のカセットテープを父親が処分していた際、その隣で黒いテープ部分を好きなだけ引っ張って玩具にしたのを覚えている。
もはや骨董品であるカセットテープに違和感を覚えながらも、着座したいあまりにそれを手に取り、腰掛けた。一応あたりを見回したが持ち主らしい人物は見当たらず、あとで駅を出る際に駅員に預ければいいだろうと考える。
そうして、奥二重の瞼を閉じ、ショートカットの小さな頭をこくんこくんと揺らして半時と少しが経った頃、珍しく早くに次の列車を報じるアナウンスが流れた。
反対車線を使って輸送運転をするとのことで、停止していた空の列車のドアが、間を置かずに開いた。
これ幸いだ。急がずに待っていてよかった。
美波はすぐに電車に飛び込み、端の席を確保した。ホームの椅子とは違い、クッション性のある椅子と、足元から出る温風が気持ちいい。
──あ。カセットテープ。
誰かの落し物か忘れ物を持ったまま乗り込んでしまった。しかし、今からホームの椅子に戻すと席を奪われてしまう。
怠慢心が出た美波はカセットテープを通勤バックに入れ、明日駅員に渡せばいいや、と、また瞳を閉じた。
***
それから三日。カセットテープはバッグに入ったままだった。
「ああ、また忘れてる」
自宅で発泡酒の二本目を飲み干しながらその存在を思い出した美波は、二階の自室に上がると、バッグの一番底からカセットテープを探し当てた。
厄介だ。カセットテープなどまだ必要なのだろうか。いや、年代物だから逆に大事にしているのかもしれない。中にはいったい何が録音されているのか……。
頭の中で呟きながら、ケースから中身を取り出す。忘れていたので確認していなかったが、貼られた紙ラベルには「香織の毎日」と丸文字で、最後にハートマーク付きで書かれてあった。
「だっさ……なに、これ」
つい吹き出したが、同時に興味が湧いた。よくないと知りつつ、落とし主の手がかりも必要だと、聴くすべを探してリビングルームに戻った。
ソファで寛いでいた母親に問うと、すぐに和室の押し入れを探ってくれる。
最奥から出てきたのは祖母の遺品だ。ラジオ面が半分、もう半分にカセットテープを入れる部分がある、小型の機器だ。
古いが壊れている様子はない。美波は機器を持って自室に戻ると、ベッドに寝転んだリラックス姿勢でそれを操作した。
電源が入った。なんともいえない期待を持ちながらカセットを入れ、再生ボタンを押す。
しばらくの間がって。それから……
「――こんばんは、香織です。今日から始まる"香織の毎日"。その日あったことなどを赤裸々にお話しする番組です。どうぞお付き合いください」
今の美波と同じ年頃だろうか。声質がそのように聴こえる。
──なにこれ。 ラジオのパーソナリティ気取り? 笑っちゃう。
美波はフッと鼻を鳴らし、"香織"を馬鹿にしたが、停止ボタンは押さなかった。
"香織"は調子よく語りを続ける。
「まずは私の自己紹介を。えーと、先日二十六歳になりました。昼間は金融関係で働いています。でも、アナウンサーの夢を諦められず、今、勉強再開中です。どうか応援してくださいね!」
──へぇ、一個上か。お堅い業種に就職して四年になるのにアナウンサーとか。こんなことするくらいだから、夢見がちな人なんだろう。
そう思いながら、アナウンサーを目指した理由を熱っぽく話す二日分七分間程度の録音を聞いた。
当然まだ"香織"の背景は多くは見えてこない。もう少し付き合ってやってもいいか、と、美波はそのままテープを持ち続けることにした。
録音時間は百八十分。一日五分の録音として、毎日聞けば一ヶ月と少しで聞き終わる。途中で早送りをしてもいい。
だが日が重なるにつれ、今は違ったとしても録音時点で年齢が近い彼女の語りは、美波の同調や関心を誘うようになり、"香織の毎日"を聴くことが夜の密かな楽しみとなっていた。
楽しみが危惧に変わったのは、テープの面を反対に変えて、二日分の「放送」が終わった頃からだ。片面の最後くらいから会社の愚痴が増えてきていたが、どうやら彼女がアナウンサーを目指していることを良く思わない上司や同僚がいるようだった。
確かに"香織"の話し方は、場の空気が読めなさそうなイメージがある。職場でも同じ様子なのだろう。
しかし、それは彼女が純粋ゆえだ。反感を買うのも彼女が良きにつけ悪しきにつけ、人の注目を浴びてしまうからなのだろうと美波は感じていた。
最初は小馬鹿にしていたが、美波は彼女に魅力を感じる側の人間だ。語りを続けて聴き、応援したくなる何かが"香織"にはある。
このテープを忘れたのが本人ではなく彼女の親族や友人だったとしても、おそらく同じ気持ちで聞いていたから骨董品のこれが残っているのだろう。
「こんばんは。香織です。……今日は、課長に酷い嫌味を言われました……う……ひくっ……容姿や話し方のことまで。先輩や同期は見て笑ってました……ひくっ」
片面に入って五日目。"香織"への嫌がらせはエスカレートしているようだった。折しも美波もセクハラスすれすれの医師からの契約が取れず、上司から嫌味を言われていて、気持ちが重なった。
「わかるよ。香織。……あたしだって。でも、負けないで頑張ろうよ」
今まで聞いているだけだった美波は、初めて録音の中の"香織"に向かって話しかけた。
前半の録音で、長い髪の裾をアイロンでクルクルに巻いて流行りの化粧を施し、当時人気だったアナウンサーになかなか似ているのだと言っていたから、ここにはいないはずの彼女の姿が機器の前に浮かんで見える。
すると、テープから返答があった。
いや、あったと言うよりそういった録音の仕方だ。ラジオ番組風に語りを入れていた彼女はときどき、リスナーに向けるかのように「あなたはどう?」などの質問や、間を置いて「ですよね」などの相槌を入れていたから。
「ありがとう。あなたも同じなのね。辛いわね……ひくっ……ああ、ごめんなさい。すっかり取り乱して。さ、一緒に笑いましょうか」
「ええ、香織。……ああ、駄目だわ」
「……本当に駄目ね、やっぱり泣けて来ちゃうわね。今日の放送はこれで終わりにするわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
機器の停止ボタンを押す。胸の奥が熱くなる。
まるで、香織が目の前にいて、本当に会話を交わしたかのような錯覚を起こした。
美波は熱くなった胸に手を当て、香織を思いながら瞳を閉じた。
***
翌日、翌々日は、仕事最中に何度か上の空になるほど香織を気にかけた。もう現実の友達……いや、それ以上だと感じていた。
就職してからのここ数年、学生時代の友人達とはスマートフォンメッセージでたまにやり取りする程度だが、香織とは毎晩「話して」いる。
カセットテープなのだから過去に録音されたものなのに、美波にとっては今現在進行系の出来事のように思え、われ知らず香織にのめり込んでいた。
そして今日も、早く録音が聞きたいあまりに、傷ついている友人に会いに行くかのように急いで退社しようとして、上司からお小言を食らった。
もう仕事納めも近いのに美波だけが契約件数が少ない。当然だ。仕事よりも香織を優先しているのだから、外回りが疎かになっている。
年度末の挨拶に向かうよう指示され、ルート内の数件への挨拶を、自腹を切って菓子折りを用意して回った。
帰りの列車に乗ったのはもう午後九時。
──今日は事故がありませんように。ああ、でもここのところ電車は止まっていないか。
反対側の座席の窓に映る疲れた自分の顔を見ながら思った。おかげで香織の毎日を欠かさず同じ時間に聴けている。
帰宅後は会話も食事もせずに部屋にこもり、両親に心配されたがどうでもよかった。
明日も挨拶回りがある。片面ももうすぐ終わりだから、聴いてしまいたい。そして、少ない情報から香織を探してみたいと思っていた。
確信はないが、なんとなく会社はわかるし、香織が好んだ雑貨屋もまだある。使っていたのは同じ路線だ。
美波は着替えもせずに機器の再生ボタンを押した。
「こんばんは。香織です」
「ああ、もう最初から声に元気がないじゃない」
「ごめんなさい。こんな声。でも、本当にもう辛くて……最近怒鳴られてばかり」
「そんな……」
「とにかく疲れました。早く眠りたいから今日はこれで。放送はしばらくお休します」
ブッ、と録音が切れる。
だが、聴いてしまうと決めていたし、香織が心配で仕方がない美波は停止ボタンを押さず、続けて聴いた。
「こんばんは。前回から四日も開いてしまいました。……頭の中で同期がぷーくすくす、と笑う声がします。おやすみなさい」
香織の声には張りがなく、美波の胸を切なく痛ませた。
「また一週間開いた。……毎日とても辛い。こんなんじゃアナウンサーの勉強も進まない……私、なにしてるんだろうね。おやすみなさい」
「……はぁ……何も言葉が出ません。もう、辞めようかな……おやすみなさい」
続けて録音を聴くうち、どんどん語りも元気も減っていく。
美波は切れた録音と次の録音のあいだに「香織、香織」と声をかける。
プツ。再び録音開始の音。
「ごめんなさい……私、もう限界」
次は少し聴き取りにくかった。外で録音しているのか、喧騒音が含まれている。
「香織!? どうしたの、香織。今、どこにいるの?」
「とにかくたくさん眠りたい。でも机の上でもベッドの上でも眠れない。……どうしたら寝れるのかな、って。考えたの」
「うん。香織。病院に……」
病院に行って相談しよう、と言おうとした。いい安定剤があるから、少しは楽になるはずだ。
だが、香織は美波の言葉を待たずに話し続ける。
「……今、T駅にいるわ。あと十分ほどで電車がきます。一両目まで行って、ぴょんと前に飛んだら……きっと眠れるよね」
「香織!」
心臓がどくんと跳ねた。香織は無言になる。その代わりに喧騒音がよく聞こえ、アナウンスが耳に入ってきた。
『次に二番線に到着の列車は……』
美波が利用する線の、午後七時台の時間帯の列車だ。
「……放送はこれで終了です。このテープを、私の思い出に、ここに、置いていきます」
「待って、香織、待って!」
「今まで聴いてくれてありがとう。あなたが、聴いてくれて、嬉しかった」
誰かが駅でテープを拾い、聴いてくれるのを期待していたのだろうか。独り言のような小さな声だが、香織は礼を言った。
「待って、香織、待」
ブツリ。
録音が切れ、美波は震える両手で機器を掴んだ。
──どうしよう、香織が。
過去のことなのに、混乱している美波には正常な思考ができなくなっている。
──どうしよう、どうしたら……。
おろおろしながら爪を噛んでいると、またブッ、と音がしてホームの喧騒が聴こえた。
美波はハッとして耳を澄ませ、汗をかいた両手で機器を掴み直す。
『一番線に、七時五十二分発、◯行きの電車が到着します。白線の内側まで下がって……』
「か、香織! 行っちゃ駄目!」
どうか踏みとどまって、と願って声を発した。
次の瞬間。
「────じゃあ、一緒にきてよ」
「え」
「一人じゃ、寂しい。一緒に、きて」
「ひゃっ……!」
今までにない、香織の低く重い声。背筋を冷やすような威圧感に、美波は思わず叫んで機器の停止ボタンを押した。
全身を血液が駆け巡り、胸がどくどくと拍動する。なのに指先は冷たい。
──今の、なに?
恐らくテープは最後まで回りきっていない。終われば自動で機器が停止するはずだし、美波が初めて聴いたとき、ちゃんとA面の頭から流れていたから。
このあとに録音の続きがあるのか、それとも無言で終わるのか、美波にはわからない。でも、とても嫌な予感がした。
聴かない方がいい。
本能がそう言っている。だが、誰かが後ろに立っているような気配がある。長い巻き毛が目の端に映り、女性物の服の袖が機器に伸びるような、そんな気配が。
──気のせいだ。そんなことあるわけがない。
背後は振り返らない。
美波は機器からテープを抜いてしまおうと思った。捨てるのは怖いから、明日、同じ場所に忘れ物のように置いておこうと。
だが、またブッ、と音がした。
「えっ」
無意識に手が当たってしまったのだろうか。テープが回り始めるのが機器の窓から見える。
──そんなはずない。触ってなんかない。とにかく停止ボタンを……。
そう思うのに指は動かず録音が流れ、香織の声とアナウンスが慌ただしく重なる。
「きて。きて。きて」
『二番線に、列車が到着します。白線の内側に下がって』
「きてきてきてきて」
『お待ち』
「きてきてきて」
『下さい』
美波は激しく首を振った。
手はぶるぶると震え、機器がカーペットを敷いた床に落ちた。だが、再生は終わらない。
「早く早く早く」
『きて、きて、きて』
『──こい!!!!』
──いやっ!!
美波は声なく叫んだ。なぜなら「早く」のあとの声が、もはや香織の声だけでなく、様々な念がこもった複数の声に聞こえたからだ。
そして……。
ガチ、と音がして、突然に録音は終わった。
歯の根が嚙み合わない。美波は膝もガタガタと震わせ、力を失くして床に倒れ込んだ。
そののち、美波は眠ったのか眠らなかったのかよく覚えていない。ただ、機器の操作はしていないし、自動ではテープの面は切り替わらないはずなのに、幾度も録音がリピートしていた気がする。
***
会社にはいつの間にか出社していた。
だが昨日と同じスーツに髪も整えない姿でずっと朦朧としていて、通常業務も手につかないどころか予定の挨拶回りも行かなった。
気づけば外は夕闇。美波は上司から怒鳴られていた。
頭が痛い。瞼が重い。上司の声にほとほと嫌気が刺した。美波は説教が続く中、無言で上司に背を向けた。
もう、誰の声も届かない。
いや、声は届いていた。
「きてきてきてきて」
「早く早く」
『きて、きて、きて』
『──こい!』
──ええ、今、行くから。
帰宅ラッシュが続く午後七時過ぎ。美波はT駅構内に入った。
もうすぐ次の列車がやってくる。夢の中を歩くように足の裏には感覚がないが、ホームに降り、先頭車両の到着位置を目指してひたすらに歩く。
途中でふと、待合の椅子が目に入った。まだ誰も座っていない。
──ああ、私、忘れ物をしてる。
美波はバッグからカセットテープを取り出し、椅子に置いた。そして再び歩き出し、目的の位置へ。
***
『T駅をご利用のお客様にご案内します。先程、当駅にて列車とお客様の接触が……』
──またか。この駅はどうなってるんだ。疲れてるのに勘弁してくれ。
次の列車に乗るためにホームに降りてきていた四十代後半の容貌のサラリーマンは、眉間に皺を寄せた。
あまりの疲れに、空いていた椅子に向かう。だが、席のひとつにカセットテープがあるのに気づいた。
なぜこんな年代物が、と思いつつ、着座しながら手に取りしばし眺める。
落とし物か忘れ物だろうか。だが、サラリーマンは他人を構えないほどに疲れていた。
──あとで駅員に渡せばいいだろう。
サラリーマンはコートのポケットにカセットテープを突っ込むと、休息のために目を閉じた。
終
香織の毎日 カミヤルイ @manaka17771
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