130-初詣で
誰もいない小さな街の古物店の台所で、灰色
台所へ運んだ菓子の街をいつまでも積んでおくわけにもいかず、
人間の街では新年を迎え、今は正月で浮かれている。獏へ願い事を投函するのではなく、神仏に手を合わせていることだろう。なので獏は暇で、のんびりとした時間が流れる。時間の停止したこの街では、時間は流れていないが。
灰色海月が人の姿を与えられ獏の許に来てから二度目の年を越した。一度目は宵街の病院の中だった。獏と共に越したのはこれが初めてだ。獏は罪人なのでこれと言った特別な祝い事はしないが、人は年越し自体を特別なものとしている。気分だけでもそわそわと浮き足立つ感覚があった。
穏やかな空気に、ドアの軋む音が混じる。台所を覗いていた獏は動物面を正面に戻し、店に入ってきた者と視線を合わせた。
「おや」
「……獏」
誰かと思えば、見知った顔だった。白銀の青年は平素の通り無表情で、片手を背に回し、置棚に囲まれた狭い通路を進む。
「久し振り、
蒲牢は相変わらず表情が乏しく物静かだ。彼は宵街を統治する
蒲牢は周囲に目を動かして
「台所に家がある」
重箱にまだ詰められていない、解体された菓子の街を目敏く見つけた。まだ家の形が残っている物がある。
「ん? 机を使うから解体してもらったけど、食べてもいいよ」
「食べられるのか……?」
「御菓子だからね」
信じられない物を見るように蒲牢は台所を覗いて蹲み、目線を低くして家を覗いた。まるで自分が小さくなって迷い込んだかのようだった。家のドアを開こうとし、壁ごと破壊してしまう。
「……ごめん」
ドアが開くと思ったのだが、壁に接着されていたようだ。壁の一面が路上に倒れてしまった。重箱に詰めていた灰色海月も蒲牢に気付き、壁が倒れたことは気にせず頭を下げる。
「ふふ。食べてくれるなら壊してもいいよ。でもまさか御菓子の街を嗅ぎ付けて来たわけじゃないよね? 何か用かな?」
「あ、そうだった」
ゆっくりと立ち上がると、まるで自分が巨人にでもなったようだった。
「獏に手紙を書いてきた」
「手紙? 目の前にいるんだから口頭でいいのに」
「郷に入っては郷に従えって言うし。俺の願い事」
蒲牢は背に隠していた白い手紙を差し出し、もう片手で破壊した家の壁を拾った。美味しそうなクッキーの壁だ。
獏は怪訝に手紙を受け取り、目を通す。その間、蒲牢は遠慮無く壁を食べた。
「……『縁日に来てほしい』?」
「名称は縁日でいいのか? たくさん露店が並ぶって……。宵街にもこの時期は露店が並んで正月の御菓子が売られるって聞いたんだけど、花火とか騒々しくて……。人間の街の方が露店が多いみたいだし、一緒に来てもらいたい」
「ああ、初詣でかな? 人間の初詣での方が騒々しいと思うけど。とにかく人が多いと思うよ。宵街とは比べ物にならないくらい」
「そう言われると……だけど、人間の街にはたくさん露店が……。遠目から見たことあるし、人が多いのはわかる。俺の姿は目立つから、獏も道連れに」
「道連れは嫌だよ。目立たないように着替えよ」
「
「狻猊じゃなくて。――クラゲさん、願い事の善行だから転送を頼めるかな?」
「蒲牢さんの願い事ですか?」
「もしかして獣からの願い事は駄目? 人間の願い事を叶える善行だから……」
「蒲牢さんなら大丈夫だと思います」
つまり人によると言うことだろう。善行を科した狴犴は蒲牢の弟だ。身内なら構わないはずだ。
もし悪意のある獣が手紙を出して灰色海月が接触すれば、彼女に身の危険がある。知らない獣からの願い事には慎重になるべきだ。
「蒲牢が初詣での露店で買物をしたいんだって」
「私も興味があります」
重箱の蓋を閉め、灰色海月は急いで獏の首に冷たい首輪を嵌めた。まさか罪人の監視役をしながら正月らしいことができる日が来るとは思わなかった。一度目は正月をあまり理解していなかったが、今は違う。宵街よりも規模の大きな人間の街の正月と言うものを灰色海月自身も見てみたいと思っていた。
獏も腰を上げ、掌から灰色の傘を抜く彼女の耳元に囁く。彼女は頷き、先に店の外へ出た。獏も蒲牢を促して後に続く。
黒い空の下でくるりと灰色の傘を回して一瞬で場所を移し、三人はとあるマンションのベランダへ下り立った。陽が見下ろす人間の街は明るくて眩しい。
獏は先に窓に人差し指と親指で作った輪を向けて気配を確認し、手を翳して鍵を開ける。一人暮らしの彼は出掛けることなく部屋に居るようで安心した。窓とカーテンを開け、ベッドに潜っている人間に目を遣る。獏達は土足で中に入り、布団を軽く捲って肩を叩いた。
「
「食べ……?」
青年は眠そうな目を擦り、無防備に欠伸をした。寝正月を過ごすつもりだったのだが、枕元に置いた時計を見て目を細める。まだ朝の九時だ。
「獏……? 何で……。何か用ですか……新年の挨拶?」
仕方無く起き上がり、寝癖の付いた髪を軽く撫で付ける。
「初詣でに行きたいから、服を貸してほしいんだ。この人に」
「初詣でに……?」
由宇は寝惚けながら、傍らに立つ全身が白い青年を見上げる。ここには過去に獏が何人か人間では無い者を連れて来ているが、彼は初めてだ。無表情で少し冷たい空気を纏っており、由宇は一目見て彼が人間では無いと悟った。今まで獏が連れて来た者の中で一番異様さを感じた。閉じそうだった目が一気に冴える。
「……獏。この人間は?」
「由宇だよ。何度か善行を手伝ってもらったことがあるんだ」
「俺はあまり人間の前に姿を現すのは……」
「初詣での人混みに突っ込もうとしてる人が何言ってるの?」
人間一人にその態度では先が思い遣られる。初詣でには一体何倍の人間が犇めいていると思っているのだ。
蒲牢は不服だが、獏の言うことは尤もだ。苦手な大勢に揉まれても得たい物があるのだ。今までは遠目から見るだけだったが、今はそれを叶えてくれる獏がいる。
「由宇も警戒しないで大丈夫だよ。この人は只の喰いしん坊だから」
「え……人を食べたりはしないですよね? 人を襲ったり……」
「そんなことしないよ。蒲牢は人間を食べない獣だから」
由宇の知人は以前、
「何なら力強い味方だよ。彼がいたから敵を倒せたようなものだから」
「そうなんですか……。それならまあ……」
獏から暴力を振るわれたことは無いので、由宇も信じようとする。何より妹の由芽が獏を信じている。それを否定してしまうと、由芽にも恐怖が伝染してしまうのではないかと不安になる。だから由宇は今は信じることにした。
「……ちょっとトイレに行ってきます。クロゼットは先に見てていいので」
携帯端末を拾い、由宇は寝間着のままそそくさと部屋を出た。獏は以前にも服を借りているので、服の在処は知っている。
「じゃあ蒲牢。服を出していくから、気になるのがあったら着てみて」
「人間の服はよくわからない。任せる」
「変な組み合わせになっても文句を言わないならいいよ」
「目立たなかったらいい」
「そう言えばスミレさんはちょっとズボンの丈が足りなかったんだよね。蒲牢も足りないかな? スミレさんより蒲牢の方がちょっと背が低いかな?」
「…………食べ物がある」
「ちょっと。声が遠くなったと思ったら……何で冷蔵庫開けてるの」
「獏はクロゼットとか言うのを開けてるから」
「意味がわからないよ」
ベッドに服を放っていた獏は、冷蔵庫に顔を突っ込む蒲牢を連れ戻す。これから食べ物を買いに行くのに、何故ここでも食べ物を漁ろうとするのか。彼の食べ物への好奇心は人一倍だ。流行には疎いが。
トイレから出て来た由宇はここで漸く皆が土足であることに気付き、頭を抱えた。
いつものビニル袋を差し出すが、蒲牢は嫌がって足に被せない。靴を脱ぐ気も無い。人間の言うことなど聞かないとでも言うようにそっぽを向く。
無理強いする度胸は由宇には無く、仕方無く雑巾でブーツを拭くことにする。ビニル袋を履かなくても良いのならと、獏と灰色海月も同じ扱いにしてもらった。ビニル袋を履くと滑り易いのだ。
ベッドに広げた服を合わせつつ、獣と変転人は首を捻る。直接蒲牢の体へ翳して確認してみるが、似合っているのかよくわからなかった。その奮闘を観察しつつ、由宇は冷めたように笑う。
「イケメンは何着ても似合うって相場が決まってるんですよ」
蒲牢は訝しげに獏に小声で囁く。獏は首を傾いで苦笑した。
「イケメンは麺類の一種じゃないよ、蒲牢」
蒲牢は少し残念そうな顔をした。警戒していた由宇は馬鹿らしくなってきた。
服を並べたまま決め倦ねて時間だけが過ぎていき、やがて由宇の携帯端末が軽快な音を奏でる。由宇は寝間着から着替えることもできなかったが、端末の画面を確認して構わず玄関を開けた。
「獏さん! お久し振りです。明けましておめでとうございます」
大きな鞄を抱えて遣って来たのは、由宇の妹の由芽だった。こちらは警戒無く頭を下げ、にこにこと挨拶をする。
「
「うん。この人は蒲牢だよ」
「初めまして」
初対面の彼に頭を下げ、提げていた大きな鞄を前に出す。
「初詣でに行くと聞いて、振袖を持って来ました」
「え? もしかしてクラゲさんに?」
「はい!」
当の灰色海月はきょとんとしている。着替えるのは蒲牢だけだと思っていた。何故自分なのかと小首を傾げる。
トイレに端末を持って行ったのは連絡をするためだったのだと獏は納得したが、何故隠れて連絡する必要があったのか。サプライズと言う奴かもしれない。
「着付けは場所を取るからな。海月以外は外に出ろ」
適当に服を引っ掴み、由宇は狭い廊下に手招いた。部屋を灰色海月達に明け渡し、廊下で着替えろと言うことらしい。
「獏さんも着ますか? 二着持って来たので」
「僕も? 動き難そう……」
獏は動物面の下で眉を寄せ、蒲牢と由宇と共に廊下へ出た。
「獏って女?」
「え? ……え? あれ? 言われてみれば……どっちなんだろう……」
由宇と由芽は首を傾げ、獏は興味が無さそうに乾いた笑みを浮かべた。
「ふふ……どっちでもいいけど、昔――江戸時代には男性も振袖を着てたらしいよ」
由宇と由芽は「へえ……」と目を丸くし、獏はくすくすと笑った。
蒲牢は性別になど興味が無いが、初詣での光景を頭に浮かべてぽつりと漏らす。
「獏は振袖を着ないのか? 確かに初詣でって奴には着物を着てる人を見掛ける。着た方が目立たないなら、着た方がいいのかも」
「君が着ろって言うなら着るよ。君の願い事だから」
「いいと思う」
獏は笑いながら部屋へ入らせてもらう。風呂敷を開けていた由芽は慌てて場所を空けた。
「隅で着替えてもいい?」
「獏さんも着るんですか? 二人分だと時間が掛かってしまいますが、いいですか?」
「僕は自分で着るから心配しないで」
「獏さんは何でもできるんですね!」
由芽は感嘆の声を上げながらドアを閉めた。ドアの硝子の部分から中が見えるので、落ちていた丈の長い服を引っ掛けて塞ぐ。
二人が着替え終わるのを待ちながら、蒲牢は由宇をトイレに押し込んでから着替えた。着替えを見られるのが恥ずかしいわけではなく、無防備な姿を人間に見せたくないのだ。彼に自覚は無いが、そういった所は龍の気高さがある。
獏の方が些か早く着替え終わったが、灰色海月が終わるまで獏は振り返らずに待っていた。
「獏さんがそんなに着付けが上手いなんて……私は昔教えてもらっただけなので、手間取ってしまいました」
「終わった?」
「あ、はい! 終わりました。ど、どうでしょうか……? 先生……」
「先生じゃないんだけど」
獏の着付けは習ったわけではなく、見世物小屋で着物を着せられていた時に覚えたものだ。現代の着物の着方とは少し違うが、裾を引き摺らないよう現代の着方を真似ている。
着物を見ると見世物小屋にいた時のことを思い出して不快な気分になるが、あれはもう過去のことだと振り払う。いつまでも引き摺っていては弱みを利用されるだけだ。
「……うん。帯も綺麗に結べてるよ。裾が少し短いけど、ブーツを履くから気にしなくていいよ」
「やっぱり少し短いですよね……? 思ったより身長が高くて。獏さんもですよね? 私の身長に合わせた着物だから……って、獏さん綺麗ですね!」
変わらず動物面は被っているが、華奢な体躯の獏は桜柄が鏤められた淡い桜色の着物がよく似合っていた。
「黒以外は慣れないなぁ」
表面上は穏やかに言うが、内心は複雑だった。見世物小屋で着せられていた夜桜柄の着物を思い出す。色は異なるが、選りに選ってあの時と同じ桜とは。いつまでも悪夢を見ているようだった。
「クラゲさんも綺麗だよ」
海のような深い青に白い芍薬が咲く着物を纏った灰色海月は静かに頭を下げた。白い帯に白いレースが配われており、歩くとふわりと揺れる。まるで海を漂う海月のようだ。
「後は髪にも飾りを付けるので、ベッドに座ってください」
「この白いひらひらした紐は、海月の触手のようで良いです」
白い花の先にぶら下がって揺れるそれに、灰色海月は興奮する。頭に付けると見えなくなってしまうのが惜しい。
灰色の長い髪を纏め上げ、つまみ細工の白い花飾りを添える。由芽は普段あまり着飾ることがないが、飾らせてもらえる機会に自然と顔が綻ぶ。
「化粧はどうしますか? 獏さんは……」
「僕は顔を晒さないけど、どうしてもって言うなら、口元だけならいいよ」
「お二人共、化粧なんて必要ないくらい肌がきめ細かくて綺麗ですよね……」
「獣も変転人も基本的に老化は無いからね」
変転人には寿命らしいものがあるが、それは体の機能に関してだ。表面の老化は殆ど無いと言っても良い。
「そうなんですか!? う、羨ましい……」
「そう? 僕の醜い顔に比べれば皆綺麗でしょ?」
「獏さんの顔って……い、いえ、聞かないようにします!」
由芽は獏の面の下を見たことが無いが、見ても何と言えば良いのかわからなかったので話題を打ち切った。何を言っても余計な御世話になってしまいそうだった。
獏は自身の顔を未だ醜いと言うが、人形のように整った綺麗な相貌をしていることを灰色海月は知っている。彼女は何も言わないが、それは獏の言葉を否定したくないからだ。
やや空気が陰ったが由芽は人形を着飾るように楽しく作業をし、獏の唇に紅を入れる時はマレーバクの面の鼻が邪魔だった。灰色海月には着物の色に負けない赤を引き、獏には優しい桜色を引く。それらは白い肌によく映えた。
最後に二人に白い羽毛のショールを掛け、待ち草臥れている蒲牢とトイレに入れられたまま放置されている由宇を呼ぶ。蒲牢は黒いブルゾンを羽織り、白い髪を隠すために毛糸の帽子を深く被っていた。全て由宇の服だがイケメンが着ると何でも良く見える、と由芽も思う。
「獏も海月も綺麗になってる」
「おお、確かに。こんな美人を連れてたら目立ちそうだな」
「……目立たないようにって言ったのに何で目立つんだ?」
蒲牢は不満そうだが、着ろと言ったのは彼である。
「気配は可能な限り薄めておくけど、僕達が目立つなら、蒲牢からは視線が外れるってことじゃない?」
「……あ、そうか。でも一緒に歩くんだから、俺も目立つんじゃ……?」
「腕でも組んで歩いてない限り大丈夫だと思うけど」
「露店のため……」
何とか自分を納得させ、蒲牢はベランダの窓を開けた。冷たい空気が流れ込む。着替えたなら善は急げだ。
「初詣では何処の神社に行くんですか?」
由芽は何気無く問うが、蒲牢は怪訝そうに振り向く。
「露店のたくさんある所……」
「だったら大きい神社ですよね」
「獏……」
「え?」
何処へ行けば良いのかわからず、蒲牢は獏に助けを求めた。蒲牢は宵街を去った後、殆どを山で過ごしている。人間の街を眺めることはあるが、徘徊しているわけではない。どの神社に店が出ているかなど知らなかった。
「なるべく参拝者の少ない所がいいけど、露店が多いとなると人も多いよね」
行き先がまだ決まっていないらしいと由宇と由芽も気付き、二人は揃って携帯端末を取り出した。
「露店の多い所、調べてみますね」
「着物だし駅から近い方がいいですよね」
人間の二人は慣れた手付きで端末を操作し頼りになる。あの端末は宵街にあっても良い物だろう。何でも作る細工師の狻猊の今後に期待が高まる。
二人の助力により行き先が決まり、由宇は三人に日頃の感謝だと御年玉もくれた。蒲牢は初対面だが。金のことを失念していた蒲牢は人間を見直した。
「昨年は本当に色々してもらったので、貰ってください」
「御年玉はよくわからないけど、これでたくさん買う」
「御年玉は御正月に大人が子供にあげる御小遣いのことだよ」
「……餅?」
「それは昔の話だね。今は現金だよ」
由宇と由芽は何の話なのか理解できなかった。御年玉は現代では殆どが現金だが、昔は正月に備えた餅を家長が家族に分けていたのだ。長命な獣と人間は会話が噛み合わないことが儘ある。
年齢で言えば御年玉を渡さねばならないのは獏と蒲牢の方だが、三人は可愛らしいキャラクターの描かれたポチ袋を離さず大事に持つ。人間二人に頭を下げ、灰色海月はくるりと灰色の傘を回し三人纏めて姿を消した。
転送で一瞬で目的地に着くとは言え、行き先は人混みだ。転送の瞬間を見られないよう
三人は暗い路地から出て何喰わぬ顔で人の流れに加わる。振袖の人間は目に入るが、想像よりも少ない。華やかな振袖に人々の視線を感じた。
「……獏。着物にそのお面は目立ち過ぎるんじゃないか?」
首輪も目立つが、それはショールで隠している。
「僕は気配を薄めてるから、突然派手に踊り出したり大声を出したりしない限りは気付かれないよ。クラゲさんが目立ってるんじゃないかな」
小声で話す二人の会話を聞き、灰色海月ははっとした。彼女は気配の消し方などわからない。
「この首の目立つふわふわ……貸しましょうか?」
白い羽毛のショールを手に取る彼女に、蒲牢は小さく首を振った。獏も似たショールを装備しているが、それは防寒具だ。獣はともかく変転人は普通の人間のように冬の寒さを感じる。目立つが着けておいた方が良い。
「クラゲさんが見られてるだけなら、気にしなくていいんじゃない?」
「……見られてなくても、人が集まるのはやっぱり苦手だな」
「食べ物を買うんでしょ?」
「……買う」
意を決してここまで来たのだ。今更引き返せない。
大きな石の鳥居が近付くと人間の流れは押し合いながら吸い込まれ、参道を覆い尽くした。真昼に来たのは間違いだったかもしれない。だがもう流れには逆らうことができず後戻りはできない。
「帰りたい」
「早いよ」
「
「君の方が逸れそうだから服を掴んでるよ」
「……あ。露店」
すぐに足をそちらへ向けるので、ほら逸れそう、と思いながら獏は灰色海月の腕を掴んで彼を追った。鳥居を潜った直後から参道の左右には、ずらりと大きく食べ物などの名が書かれた鮮やかな露店が並ぶ。
「端から順に全部見ていく気?」
人の流れから何とか脱出し、蒲牢は無表情ながら機嫌良くポチ袋を取り出した。最初の獲物は鯛焼きだ。
失念していたが蒲牢の外見は人間であれば二十歳前後といった所だ。そんな彼がポチ袋から支払うのは少々目立つ。財布も借りれば良かったと獏は後悔したが、店の人間には何を取り出すかは問題では無く、支払うなら等しく客だ。周囲の他の人間にはあまりポチ袋が見えないように獏は壁となった。
腹に餡の詰まった鯛焼きを三つ受け取り、蒲牢は獏と灰色海月にも手渡す。
「僕達の分も? ありがとう」
「ありがとうございます」
「え? 皆で食べるのかと思った……」
「君ほど大喰いじゃないから、君と同じ数は食べられないよ」
「鯛焼きは皆で食べる。後のは考える」
そう言いながら隣の露店で林檎飴を三つ買った。苺や蜜柑など他の飴も気になったが、昔からある林檎を選んだ。
「これは袋に入ってるし持って帰れるから」
要は皆で食べたいようだ。九人兄弟の第三子は一人だと寂しいのかもしれない。
温かいもちもちの生地の中に粒餡がみっちりと詰まった鯛焼きに三人は齧り付き、三軒目で蒲牢は大きな袋に入った綿飴をまたも三つ買った。鞄も借りるんだったと獏はまた後悔する。
「……獏。思ったより御年玉の減りが早い」
「三人分だからね……ちゃんと計算して買わないと駄目だよ」
「計算はできるけど」
「僕達の分は気にしなくていいよ。ほら、僕の御年玉もあげるから」
獏がポチ袋を差し出すと、灰色海月も倣って渡した。どうしても三人分買うと言うなら、獏達も御年玉を出さないと公平ではない。
「大事に使う」
次はあれだと焼きトウモロコシを指差し、二人がまだ鯛焼きを頬張っているのを見て保留にした。露店は所狭しと並んでいて目移りするが、食べる時間は必要だ。だが人の流れは待ってくれない。想像以上にこの任務は難易度が高い。
「鯛焼きって魚の味がするのかと思った」
「ふふ。形が魚ってだけだよ。どう? 美味しい?」
「美味しい……でも他の味も気になる」
「後悔しないようにね。また来たいって言うなら付き合うけど」
「俺は遠慮したい……」
人混みは蒲牢には堪えるようだ。
「次があるなら、買って来てって願い事にする」
「それは狴犴に要望を出すといいよ」
変転人は欲しい物があれば科刑所に要望を出し、纏めて買って来てもらう。獣も対象なのかは知らないが、蒲牢なら話を聞いてもらえるだろう。
「それは言い難い……」
「遠慮しなくていいのに」
「狴犴がまた倒れたら大変だから」
「気にしなくていいのに」
「そういう所は罪人だな」
罪人は皆、狴犴を嫌う。獏も例外では無い。罪人に烙印を捺す狴犴の心配などするはずがない。
嫌う程度でとやかく言うつもりは無いので蒲牢も口を閉じるが、統治者は大変だと他人事のように思う。
「食べ物以外には興味ないの? ほら、金魚掬いとか」
「金魚は美味しいのか?」
「食べないでよ。観賞用だよ」
「観賞か……」
丁度金魚掬いの店があり、挑戦している子供達が目に留まった。薄い紙が張られた小さな団扇のような物で、泳ぐ金魚を追い掛けて掬おうとする。紙の強度はかなり低いようで簡単に破れている。
店の前を通過するまでに観察し、蒲牢は一人分の代金を店の男に差し出した。
「あ、遣るんだ」
「獏も遣るか?」
「ううん。見守ってる」
「じゃあちょっと持ってて」
買った物を獏へ預け、蒲牢は遣る気を出す。
灰色海月も少し興味はあったが、何だか難しそうなので獏と共に見守ることにした。
彼女だか女友達だかに良い所を見せようとしているのだろうと店の男は思いながら、笑顔でポイと器を手渡す。受け取った蒲牢の纏う空気が変わった。
揺らぐ水面を撫でるように蒲牢はポイを操り、素速く次々と赤い金魚を器に放り込んでいく。器には瞬く間に金魚が犇めき、店の男は徐々に笑顔を失って血の気が引いていった。
「……蒲牢、そろそろ勘弁してあげて」
「あ」
集中していた蒲牢はぴたりと手を止め、水槽の金魚が半分近く減っていることに気付いた。
「遣り過ぎた。これ、どうすればいいんだ?」
「掬った金魚は持って帰っていいと思うけど、いらないなら返せばいいんじゃない?」
獏の発言に、店の男ははっとした。掬った金魚を全て持って行かれては店仕舞いだ。こういう異常に上手い客の対策のために、予め持ち帰る数に上限を決めているのだ。
蒲牢は顔を上げて蒼白な店の男を見詰め、男が口を開く前に何匹かを残して金魚を返してやった。
「面白さはよくわからなかったけど、獏、これ代価」
二匹を袋に入れてもらって獏に差し出す。こんな願い事の代価は初めてだと、獏はふふと笑って灰色海月へ譲った。彼女は蒲牢が掬う様を喰い入るように見詰めていたので、欲しいのだろうと思ったのだ。
「ありがとうございます。美味しそうです」
「えっ」
「狴犴にもあげよう。――後は何も掬えてない子供にあげる」
隣でぽかんと口を開けながら蒲牢のポイ捌きを見ていた幼い少女は器に残った金魚を突然差し出されて呆然とするが、蒲牢の顔色を窺いながら小さな手を出した。
「じゃあ次」
狴犴への土産を手に提げ、獏から荷物を返してもらって蒲牢は人間の流れに戻る。風のように去って行く彼を、店の男と幼い少女は何が起こったんだという目をして見送った。
人の流れに乗りながら、蒲牢は左右を見渡して少し残念な顔をする。左右に露店が並んでいるのに、人間の壁が邪魔をして向こう側へ行けない。
「何でこんなに人間がいるんだろう……」
「人間の街だからね」
「昔はもう少し少なくなかったか?」
「昔ってどのくらい前? 長生きするようになると増えるものだよ」
「獏が生まれる前とか」
「生まれる前はわからないなぁ……おっと、何かあった? クラゲさん」
蒲牢と話しながら、灰色海月の足が遅くなっていることに気付く。何か気になる物があるようだ。
「あ、いえ……無いです」
灰色海月は慌てて視線を戻すが、蒲牢は彼女が見ていた物に気付いた。二人をその店の前に誘う。
「ボール掬い? これが気になったの?」
「い、いえ……キラキラして綺麗だと思っただけで……」
罪人の監視役が善行中に物を
「いいよ。俺が取ってあげる。金魚は生き物だから普通に掬ったけど、ボールは生き物じゃないから簡単だ」
「動かないから?」
「動かないと言うより、生きてないから」
「? 何するの……?」
店の若い男に代金を差し出し、金魚掬いと同じポイと器を受け取る。金魚のようにボールは跳ねないが、代わりに重みがある。同じようには掬えないだろう。
先客の子供から離れて隅に腰を下ろし、蒲牢はポイの柄の根元を持って小指の先を少しだけ水に浸けた。
水に浸けた指先の周囲の水が唐突に静止し、獏は目を瞠る。店の男は子供の方を見ており、蒲牢の遣っている不正に気付かない。いや、見ていたとしても気付かないだろう。蒲牢の指先から狙うボールに向けて、水面が薄く凍るなどと。
「ちょ……蒲牢! 何してるの!?」
獏も隣に蹲み、小声で尋ねる。蒲牢の能力は
「驚いてる」
蒲牢は無表情を貼り付けているが、何処か得意気だ。
「龍の力を物にしたくて、
薄い氷でボールを掴み、ひょいと器に落とす。確かにこれなら金魚掬いより簡単である。すぐに破れるポイを使う必要が無いのだから。
「ちょっとしたことって……杖を出さずに力が使えるの?」
「このくらいなら、耳にある杖で何とか。水面全部となると、杖を出さないと駄目だ」
蒲牢は耳に小さな杖を下げている。それは別の用途がある物だが、少しなら他のことにも使用できる。
「人間に怪しまれないようにね」
「獏もいる? あの大きいのとか」
「大きいのはさすがに怪しまれるよ。怪しまれると目立つよ?」
「目立つのは良くない……」
透明でキラキラのボールを二つ取り、ボール掬いは終えることにした。灰色海月と獏に一つずつ手渡す。氷は水に戻ったが、ボールはまだ仄かに冷たい。本当に凍らせて取ったのだと理解した。
「ありがとうございます」
「ありがと。面白いものを見せてくれて」
「もっと強くなるよ。強くなるのは獏だけじゃないから」
「僕は別に……まあいっか」
渾沌相手に獏と共闘した蒲牢はあれから、仮にも龍なのだから獏より強くなれるはずだと考えるようになった。獏には悪夢に触れる特権があり、烙印の無い状態の獏とどちらが強いのか、蒲牢にはわからなかった。
螭は雨を降らせることのできる龍で、水を戦闘に取り入れている。蒲牢も何かできるのではないかと思ったのだ。その成果を少し見せることができて、蒲牢は思わず無表情が緩みそうになる。
獏自身は龍に張り合われるような強さは無いと思っているのだが、やはり特権持ちは特別に見られるようだ。
そうして話しながら波に流されていく内に門が現れ、壁に囲われた拝殿の屋根が見えてくる。人の流れに乗るだけでなく、僅かな流れの隙間を利用して前進しているので、他の人間よりも早く着いた。普通の人間にはこんなことはできないだろう。灰色海月はあちこちで引っ掛かってしまうが、獣は自身の気配を少しばかり操作することができる。人間に対して誤認させることができるのだ。今は人間が無意識に回避するように操作している。回避してくれるなら、周囲の僅かな範囲ではあるが前に進むことができる。
「さすがに拝殿前は食べ物のお店は無いね。御神籤でも引く?」
「御神籤は食べられない」
「じゃあ参拝する?」
「ここって誰かいるのか?」
「さあ?」
神社には獣が祀られていることもあるが、そこに棲んでいるわけではない。人間に祀られていることに気付いていない獣もいるだろう。
「蒲牢は龍だから、祀られる側なの?」
「知らない」
人の流れに乗って賽銭箱の前まで来てしまった。折角なので手を合わせる。いつも願い事を叶える側である獏は、自分が願い事をする側になるのは初めてだった。
「釈放されますように」
「それは狴犴次第だな」
「もし蒲牢が統治者だったら、僕を釈放する?」
「……首輪を繋いでおいた方が都合が良さそう」
「そんな風に思ってたんだ……」
「繋がれてるから、今日はここに来られたし」
「複雑だなぁ」
いつまでも頭を下げて会話をしていると人間に突き飛ばされそうだ。顔を上げ、視線を感じて人間の波の向こうへ目を遣る。片耳にカフスを付けた黒い服の少女が二人を見て小さく口を動かした。
獏と蒲牢は唇の動きを読み、獏は思わず笑ってしまった。
「……『獣が参拝に来るなんて笑える』だってさ。強気な変転人だね」
神を信仰するのは人間だけだ。獣が手を合わせているのは嘸かし奇妙な光景だろう。
「言い返すか?」
「言わせておけばいいよ。確かに笑えるしね」
黒い服の少女はそれ以上は何も言わず、踵を返して人混みの中へと消えていった。
「あの人も参拝したんなら、僕達と同じなのにね」
「獣の方が変だけど。それより獏、一人いない」
「え? ……あっ!」
先程まで傍にいたはずの灰色海月の姿が消えていた。手を合わせるために手を離したが、その僅かな時間に人混みに流されてしまったようだ。周囲を見渡すが、灰色頭が視界に入らない。
「大変だ……見晴らしのいい場所に行って探そう!」
「見晴らしのいい場所って?」
「神社の屋根!」
幾ら気配を薄めていても、突然屋根に跳び上がれば注目の的だ。
獏は蒲牢まで逸れてしまわないよう腕を掴み、人混みから抜けるために壁へ向かった。
「屋根に跳んだら目立たないか?」
「跳ぶんじゃなくて、死角を縫って君が転送するんだよ!」
「俺……?」
「僕は罪人だから、自力の転送はできない」
罪人の監視役が行方不明となっては、蒲牢も狴犴に何を言われるかわからない。灰色海月を放っておくわけにもいかず、蒲牢は壁を背に後ろ手に杖を召喚した。
「こんなに人間が密集した場所で……」
「君の腕を信頼してるよ」
かくんと首を傾け飛び切りの笑顔を向けるが動物面で隠れているため、蒲牢は白々しいと思いながら獏の腕を引いた。流れる人間に合わせて死角は常に移動する。金魚掬いと同じだ。それを感じ取りながら小さく杖を回した。転送する対象に近いと巻き込まれてしまうので、人間を巻き込まないよう細心の注意を払った。
神社の中で一番高い屋根の上へ二人は現れ、誰も巻き込まなかったか周囲を確認する。人間に気配を認識させないよう操作しているので、屋根が吹き飛びでもしない限り、譬え屋根を見上げたとしても二人は認識されない。
「さすがだね、蒲牢」
「あんまり無茶は言うなよ。ほら、鳩が驚いてる」
「おや……ごめんね、鳩」
屋根に留まっていた鳩が幾らか飛び立ち、残った鳩も二人を避けて移動した。突然屋根に割り込んできた気配に、鳩は気付いたようだ。動物は勘が良い。
獏は動き難い着物の裾を捲り上げる。端たない格好だが、どうせ見ているのは蒲牢だけだ。
「どう? 見つけた?」
「人間が多過ぎて気配を探れない……。目視で探すしかない。白い花が咲いた灰色頭……」
「そっちを探してて。僕は反対側を探す」
「うん……。あの身長だと埋もれることはないと思うんだけど……」
それでも灰色頭は見つからず、獏も焦燥が募る。こんなことなら参道だけで引き返せば良かった。そうすれば手を離すこともなかった。
「獏……見つからない……」
「目立つことをしてクラゲさんに気付いてもらうしかないかな……」
「目立つことって? 踊るのか?」
「蒲牢、試しに歌って! 君の歌なら注目間違いなし!」
「い……嫌なんだけど……。幾ら何でも人が多過ぎる」
「そこを何とか、代価だと思って……」
「代価はさっき払ったんだけど……。ちょっと待ってて。訊いてみる」
「?」
蒲牢は辺りをぐるりと見渡した後、虚空に向かって杖を振った。杖に付いている変換石は光っておらず、力を使っていない。力を使わずに杖を振って何をしているのかと獏は小首を傾ぐ。
「……
「あっ、そっか。鴟吻の千里眼があれば見つけられるよね」
暫く杖を振り続けるが反応は無く、諦めようとした時、不意に小さな紙切れが降ってきた。
「……虫の知らせか、贔屓が見るよう言ったみたいだ」
「さすが贔屓」
紙切れを開き、中を確認する。
「丁度暇だったみたいだ」
「何だ只の暇潰しか……」
「右手の大きな木の所に行ってみて、だって」
「わかった。ありがとう、鴟吻!」
「聞こえてないよ」
「じゃあこれで」
獏は虚空に向かって親指を立てた。蒲牢も真似をして親指を立ててみる。鴟吻は千里眼で遠方を覗き見ることができるが、音を拾うことはできない。
「何も言ってないのにクラゲさんを探してるってわかるなんて、兄弟だからわかるものなの?」
「そんな能力は無いよ。獏の格好を見たら誰でもわかると思う」
着物の裾を捲り上げて必死な姿を見れば、すぐに察することができるだろう。それに罪人が人間の街で監視役を連れずにいれば不審に思うものだ。
「木って壁の向こうだよね。人に流されてそんな所まで行くかなぁ……」
「さあ……」
木の方を見てみるが、敷地を仕切る壁か木の陰にでもいるのか灰色頭は見えない。
「とにかく転送で行ってみよう」
「……あ、俺か」
屋根の上ならともかく、壁の向こうとなると人間がいる。地面に忽然と人が現れれば間違い無く注目を浴びるだろう。蒲牢は暫し杖を見下ろして考え、小さくくるりと回した。
幸いそれは常緑樹で冬でも葉が茂っていたので目立たない枝葉の中に転送したが、樹上の枝葉に二人捩じ込むのは容易では無い。木に突っ込む形となり、叩き付ける枝葉を受け止めるため顔を腕で覆う。獏は動物面があるので問題無いだろう。
忽然と割り込んだ二人に驚いた鴉が飛び立ったので、周囲の人間は葉音の原因を鴉だと思ってくれるはずだ。
「着物は破れてないけど……もうちょっと丁寧に着地してほしかったな」
「樹上に転送は初めてだった」
身動きの取り難い獏を助け、太い枝に立たせる。
「……ごめん、獏。帯が少し解けた」
「え? ……ああ、そのくらい構わないよ。すぐ締める」
蒲牢に手伝ってもらいながらすぐに帯を締め直す。乱れたまま飛び降りると目立ってしまう。
着物を着るといつも乱れて、綺麗なままで一日を終えたことがない。そんな過去を思い出し、獏は憂鬱な目を伏せた。
横道に逸れると思いの外、参拝客の数が少なかった。木々の死角から飛び降り、素速く裾を整える。薄暗い壁と木々の陰に、綿飴の袋を抱き、金魚の袋を提げて蹲み込む灰色頭が見えた。
「クラゲさん」
彼女の周りを避けるように、近くに人間はいなかった。安心しながらも警戒して周囲を見渡し、二人は彼女に接近する。
灰色海月も足音に気付き、顔を上げて慌てて立ち上がった。
「も、もう会えないかと……」
「遅くなってごめんね。でも随分流されたんだね。地上だと門を出て壁を回り込まないとこっちに来られないよね」
「……誰かに後ろから腕を引かれたんです。始めは貴方に引っ張られたんだと思って抵抗しませんでした」
「誰かと間違えられたのかな? それとも……」
「…………」
灰色海月は俯き、黙り込んでしまった。
「怖かった?」
優しく問うが、灰色海月は何処か上の空のようだった。
「……ぁ……」
俯いたかと思えば忙しなく辺りを見回す。少し様子がおかしい。
「……獣の傍にいない方がいい……と言われました」
獏と蒲牢は顔を見合わせ、先程見掛けた変転人の顔が浮かんだ。
「それって、耳飾りを付けた黒い服の女の子?」
「! はい、そうです……」
「悪戯かな。狴犴は変転人に甘いみたいだけど、こういう悪戯は注意してほしいね」
「一応狴犴に言っておくよ。罪人から監視役を剥がすのは悪戯じゃ済まない」
「そっちか」
監視役云々ではなく、どのような変転人に対しても注意してもらいたいものだ。
「クラゲさん、他には何か言われた?」
「獣の傍にいると碌なことが無い、と言われましたが……言い返してやりました」
「言い返したの?」
「教育がなってないんですね、レオ先生に躾けてもらえばどうですか? と言ってやりました」
「それは……よく言い返したね」
得意気に胸を張る彼女に苦笑し、争いが起こらなくて良かったと安堵した。カフスを付けた黒い少女はもうこの辺りにはいない。
「レオって誰? と言われてしまいましたが、恍けても無駄です。レオ先生は黒なら誰でも知ってる有名人なので」
「……?」
ならばそんな誰でも気付くような嘘を吐く理由がわからない。獏は訝しげな顔をし、本当に知らないのではないだろうかと考える。
「あの子……何なんだろう。何処かの獣に所有されてるのかな」
「鴟吻に調べてもらうか?」
「……それはいいや。そこまで興味は無いし」
「じゃあ露店巡りの続きをしよう。まだ気になるのがたくさんある。ベビーカステラとか蛸焼きとか」
「はいはい。太って杖から落ちないようにね」
「獏は相変わらず面白いことを言う」
「あ、そうだ。折角ここは人がいないから、嵩張る綿飴を食べて行かない? この袋、大きくて邪魔だよね」
「良いことを言う」
三人は薄暗い木陰で蹲んで綿飴の袋を開けた。綿飴は潰れないよう袋が空気で膨らんでいる。人の頭以上の大きさの袋を人混みの中で持ち歩くのは至難だ。
蒲牢は袋から取り出した白いふわふわとした綿飴を珍しそうに眺める。灰色海月は綿飴は二度目なので驚きはしないが、二度目でも不思議な形だと思う。
「……甘い雲だ。俺もこういうのを降らせたい」
「掃除が大変そうだね」
「獏は夢が無い……獏の癖に」
「獏が夢に囚われたら、誰が悪夢の処理をするの?」
「さあ……」
「そう言えば蒲牢、悪夢を食べてほしいって言わなくなったけど、もういいの?」
生まれてからずっと消えなかった過去の悪夢に苛まれていた蒲牢は、母龍と思い込んでいた者を殺してからぱたりとそれを見なくなっていた。母龍の始末は兄弟以外には話さないよう決めたので獏にも言っていないが、悪夢を食べてほしいと一度は頼んだのだから夢のことは話すべきだ。
「……うん。もういい。あれも呪いの一種だったのかもしれない。毎日よく眠れてるから。でも幼い皆の姿が薄れていくようで、少し寂しい。もしかしたら俺は、今の皆が本当の兄弟だと思えないのかも……」
「蒲牢……」
「時々本当に……あの幼い頃に戻りたいって思うことがある。もしあのまま生きてたら、どうなってたんだろう……」
綿飴を見詰めたまま、蒲牢の動きが止まってしまう。兄弟のいない獏は彼の気持ちを完全には理解できないが、独りの寂しさはわかる。獏も睫毛を伏せ、掛ける言葉を考える。
「……偶には兄弟全員で何処かに遊びに行ってみたら? たぶんだけど、今世では過去ほどたくさん喋ったりしてないんじゃない? 会話は相手を知るために必要なことだよ。狴犴に休暇を取らせるのは大変そうだけど」
「狴犴は何で仕事なんてするんだろう……」
「ふふ……。近くに人間がいたら振り向きそうな言葉だね」
ふわふわと捕らえ所無く舌に触れるとすぐに溶けてしまう綿飴は、あっと言う間に消えて無くなってしまった。甘い時間はすぐに終わってしまう。それも寂しいと思いながら、蒲牢は徐ろに腰を上げた。
「……帰りにまた綿飴を買おう」
すぐに終わってしまうなら、また買えば良い。消えてしまってもまた取り戻すことはできる。
帰りも参道の人混みに揉まれながら、蒲牢はあれもこれもと露店を堪能した。鳥居を出る頃にはぐったりと疲れ果てていたが、手には戦利品を抱えて御満悦だ。
帰りの綿飴は二つ買った。一つは狴犴に食べさせるのだ。仕事以外に興味が湧けば、彼も仕事を休んでくれるかもしれない。
透明街の人喰い獏(2) 葉里ノイ @harinoi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。透明街の人喰い獏(2)の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます