129-不幸
人間の街は夜に足を踏み入れ、静かな住宅街にはぽつりと街灯の光が浮かぶ。
疎らに家へと帰る人間を避け、小さな電球のぶら下がった灰色の傘を差す灰色
(……まだ近くにいますね)
手紙の思念を辿り、差出人の居場所を捉える。踵の高いブーツで直ぐ様、爪先で地面を蹴って走った。
戦闘はまだ慣れない灰色海月だが、走る速さは平均的な無色の変転人ほどはあり、それは一般的な人間よりも速い。
歩く人間相手なら、傘を差したままでも追い付くことができる。とぼとぼと歩く学生服を着た少女の後ろ姿を見つけ、とんと前に回り込んだ。
「お迎えに上が……」
だが最後まで言わせてはもらえず、少女は灰色海月の姿を見るや否や駆け出した。
「あっ……」
怖がらせてしまったのかもしれない。もう少しゆっくりと登場すべきだったと反省しつつ、灰色海月は少女を追った。
「あのっ……待ってください。
「来ないで!」
先程ポストから回収した手紙を前方に突き出しながら追うが、少女は振り向かずに逃げる。獏に願い事の手紙を出しておきながら、逃げる人間は初めてだった。
(不審者だと思われたんでしょうか……どうしましょう……)
黒いマレーバクの面を被る獏はともかく、灰色海月は不審者に間違えられるような格好はしていないと思っている。何より獏の噂を知る者なら、迎えが来ると知っているはずだ。
「叶えたい願い事があるんですよね……? だから獏に……」
「来ないでってば! 願い事なんか無いから!」
「え……?」
思わず足を止めてしまった。
走っている内に差し掛かっていた踏切が音と光を上げ、黒と黄色の棒が少女と引き離すように下りる。踏切が鳴ると線路を渡ってはいけないことは灰色海月も知っている。傾く棒を潜って向こう側へ行ってしまった少女を追うことはできなかった。見る見る内に少女の姿は小さくなり、角を曲がって消えてしまった。
手紙の思念を辿れるのだから、姿が見えなくなっても少女を見つけることはできる。だが願い事は無いと言われてしまった。願い事が無いなら獏には用が無いと言うことだ。灰色海月は手元の手紙を見下ろし、途方に暮れて灰色の傘をくるりと回した。
転瞬の間に獏の牢である小さな街へと移動し、灰色の傘を畳んで店へと急ぐ。本当はこういう判断も監視役がすべきだろう。だが彼女にはまだ自分で決めることができなかった。
一つだけ明かりの灯る古物店のドアを開けると、並ぶ置棚の奥で古書を広げていた動物面が顔を上げた。机上に広げていた菓子の街は解体され、台所へ移動させたので本も置けるようになった。
「おかえり、クラゲさん」
「あの、尋ねたいことが……あ、た、只今戻りました」
「随分慌ててるね」
灰色海月は傘を持ったまま獏の前へ行き、回収した手紙を机上に置いた。
「この手紙の差出人に接触したんですが、逃げられてしまって……」
「おや、逃げ足の速い人間がいたんだね」
「追い付くことはできますが、願い事は無いと言われてしまって……この場合はどうすべきなんでしょうか?」
獏も不思議そうに瞬きをする。願い事の手紙を投函しておきながら、願い事が無いとは。
「えっと……投函したけど、取り消したい……とかかな?」
「そういう場合もあるんですか。では今後は追わない方がいいですか?」
「そうだねぇ……逃げるほど拒絶されちゃうとね。一応、どんな願い事なのか見てみようか」
「はい」
獏は手紙を手に取りながら、よく投函される封筒よりも少し大きいことが気になった。よくある茶封筒ではあるが、一般的に手紙を出す時に使用する封筒よりも大きい。
封を切って中を覗いた瞬間、その理由がわかった。
「…………」
封筒の中からもう一通、白い封筒が出て来た。これはよくある葉書に近い大きさだ。
「まさか入れ子みたいにどんどん小さい封筒が出て来る……なんてことはないよね?」
茶封筒の中を覗くが、白い封筒以外は何も入っていない。白い封筒も開けてみるしかない。
白い封筒を開けると今度は封筒ではなく四つ折りの紙が入っていた。
『これを受け取った者は不幸になる』
新聞や雑誌の文字を切り取って貼り付けられた手紙だった。
「……何これ?」
獏は首を傾げ、白い封筒の中を覗く。その紙以外は何も入っていない。
「願い事……じゃないよね。差出人の意図がわからないな」
「どうしますか?」
「ちょっと面倒だけど、もう一度確認して来てくれるかな? 本当に願い事は無いのか、この手紙は何なのか」
「わかりました。行ってきます」
灰色海月は頭を下げ、灰色の傘を両手で握りつつ急いで踵を返した。
店を出る彼女の背を見送り、獏はもう一度奇妙な手紙に視線を落として首を傾ぐ。
(受け取った者……僕を不幸にしたいってことかな? 恨まれるようなことしたかなぁ……?)
もしそうだとして、封筒を二重にした意味がわからない。白い封筒には宛名は無い。
(恨まれる覚えはあるけど、知らない人に恨まれる覚えは無いんだけどな)
もし面識のある人間なら、灰色海月がそう言うだろう。彼女が同行していない時の善行だろうか。手紙を封筒へ戻し、腕を組んで凝視する。
考えても答えは出ないまま、たっぷりと時間を掛けて灰色海月が戻って来た。
「おかえ……どうしたのクラゲさん!?」
ドアを開けた灰色海月は全身ずぶ濡れだった。長い灰色の髪やスカートの裾から尚も水が滴り、震えていた。
「急に大雨に降られた?」
「違います……」
「じゃあ一体何が……」
「池に突き落とされました」
「え!? 手紙の差出人に……?」
「違います。誰かはわかりませんが、押されて落ちました。差出人は死んでました」
「急展開だね……」
「差出人はマンションの下に倒れてました。血が出ていて、マンションから落ちたようです。事故か事件かはわかりません。転落に気付いた人達が様子を窺ってたので、あまり近付けませんでした」
「そうなんだ……じゃあ願い事は無しで、手紙も処分しておこうか」
「その近くに小さな池があって、突き落とされました。底に足が付いて良かったです。もしかしたら、ぶつかっただけかもしれませんが……っくしゅ」
灰色海月は床に水溜まりを作りながら小さくくしゃみをする。彼女は元は海の中にいたが、海月は漂うものだ。人の姿となった今も彼女は泳げない。泳ぐ機会も無いので、宵街も水泳を教えることはない。
「突き落とされたなら僕が仕返しをしてやる所だけど、まずは着替えた方がいいね。ここって御風呂とか……暖まれる物ってあるのかな?」
「この建物内にはありませんが、他の数軒にシャワーがあるみたいです」
「へえ、知らなかった」
「洗濯機もあります」
「何で僕の店には付けてくれなかったの?」
「罪人だからでは」
特別扱いを受けているとは言え、罪人は罪人だ。罪人を快適にさせるはずがない。
だが灰色海月は罪人ではなく只の監視役だ。彼女の快適を思って他の建物に備え付けたのだろう。獏もこの牢の街の中なら自由に歩いて構わないので、あるとわかれば利用ができる。覚えておこう、と獏は頭の片隅に置いた。
再び彼女を見送り、獏は古書を棚に仕舞う。シャワーがあってもタオルはあるかわからない。そのことに思い至って棚からタオルを探す。
手前の
「……クラゲさん?」
悲鳴のようにも聞こえた。手に当たったタオルを引っ張り出して握り締め、幾つか床に落ちた瓦落多に目もくれず獏は外へ飛び出す。微かな声だったが、ここは小さな街だ。方向がわかれば辿り着ける。斜め向かいの家のドアを開け、耳を澄ませる。すぐに物音を捉えて部屋の中央の机を跳び越え、奥のドアを開け放った。
「クラゲさん! 大丈――」
「!」
シャワー室のドアを開けたまま脱衣所に座り込む深海色の瞳が、驚いたように見上げていた。その白い体には一糸纏わず、呆然としている。
灰色海月に人の姿を与えた時に獏は彼女の裸を見ているが、今の彼女はじんわりと感情を理解できるようになっている。ドアの向こうの状況など知らなかったとは言え、覗いてしまったことは咎められる。
「ご、ごめん! えっと……タオル!」
獏は慌ててタオルを放り、背を向けた。一度服を着用するようになった変転人は、裸を見られることを恥じらうものだ。
「それから……こ、声が聞こえたんだけど、何かあった……?」
灰色海月は投げられたタオルを見下ろし、きょとんとしながら獏の背を見る。突然獏が飛び込んで来て驚いたが、灰色海月はまだ恥じらいを理解できていなかった。何故背を向けられたのかわからない。
「シャワーのお湯が凄く熱かったんです」
「…………」
池に落とされた直後だったので、もっと危険なことが起こったのだと思ってしまった。獏は冷静にならないと……と思いながらも安堵する。
「茹で海月になるかと思いました」
「それは……。えっと、もう振り返っていい?」
「? 何故後ろを向いてるんですか?」
「……タオルで体を隠して」
「はい」
獏が振り向くと灰色海月は肩からタオルを被って座っていた。見上げる彼女の脇を通り、シャワーの温度を確認してみる。
「――あっつ!」
思いの外熱い湯が飛び出し、獏も叫んだ。これは茹で海月も納得だ。
「この温度に設定したの誰!?
「この街を造ったのは
「地霊って……この温度でシャワーを浴びるの……?」
温度表示などは無いので手探りで温度を下げ、何とか程良い温度まで下げる。地霊は人型の獣とは違って全身が毛で覆われているが、丁度良いと感じる温度が異なるのかもしれない。
「……この温度なら茹だらないはず」
「ありがとうございます」
「心配だから、この家の中で待ってるね」
「一人でも大丈夫ですが」
シャワーくらい一人でも浴びられる。幼い子供のような扱いをする獏に灰色海月は不満だったが、熱湯を浴びて悲鳴を上げてしまったのは自分だ。渋々承諾してシャワー室のドアを閉めた。
獏も脱衣所をぐるりと見渡してから部屋を出る。彼女の言っていた洗濯機も脱衣所に置かれていた。既にその中で灰色の服が回っている。
中央の机には四脚の椅子が置かれ、獏はその一脚に座った。この小さな街には十軒の家があるが、全ての中は確認していない。入ったことのある家に置かれている家具は少しずつ異なっているが、どれも飾り気が無く殺風景だ。
(台所は僕の店が一番充実してるよね)
頬杖を突き、灰色海月が出て来るのを時計の無い部屋で待つ。
冷えた体を温めるためだけにシャワーを浴びた灰色海月はすぐに脱衣所から出て来たが、また獏を驚かせた。
「え……」
濡れた髪を垂らした彼女は、洗濯された服を濡れたまま着用していた。
「そっか……着替える服が無いんだね。宵街に行ったら貰えるかな? 濡れたままだと風邪ひいちゃう」
「私は大丈夫です。海ではいつも濡れてました」
「ここは海じゃないよ」
せめて髪をもっと拭いてやろうと苦笑しながら立ち上がった獏は、一歩出した足をはたりと止める。
耳を澄ませた瞬間、板の軋む音が大きくなり、轟音が降ってきた。
「っ!」
声を出す暇も無く、獏は灰色海月の腕を引く。灰色海月は何が起こったのかわからなかったが、獏に頭を押さえ付けられて一瞬で目の前に闇が下りた。床に全身を打ち付け、押さえ付けられて動かない。轟音が引いても、海の底のように何も見えなかった。
「……あ、あの……何が……」
「良かった……生きてるね」
「?」
真っ暗で何も見えないが、夜目の利く獏には見えているのかもしれない。灰色海月は体の下敷きになった腕をもぞもぞと抜き、身動きが取り難いながらも常夜燈を取り出した。細長い硝子の筒に入った
明かりを灯しても何故か視界は狭かった。床に倒れたまま起き上がれないことを不思議に思い、何とか首を回す。そこにあった見慣れたマレーバクの鼻に、灰色海月の顔は一気に青褪めた。
「ぁ……」
漸く理解できた。瓦礫に埋もれ、獏が彼女に覆い被さっているのだと。獏は片手を床に突いて体を僅かに浮かせているが、その背に黒い塊となった瓦礫が伸し掛かっていた。
「ちょっと……喋る余裕が無いんだけど……君だけでも、抜け出せるかな?」
もう片手には手作りの杖を持ち、灰色海月の死角で杖の先に付いている変換石が光っている。獏は咄嗟に杖を抜いて力を使ったが、伸し掛かる瓦礫が想像以上に重く、浮かせることができなかった。軽くすることができたのはほんの僅かだ。
「わ……私一人では……」
周囲に目を動かしても隙間などは無かった。何処の瓦礫が動かせるかもわからない。下手に動かせば崩れてしまいそうだ。だが早く瓦礫から抜け出さないと、獏の声は苦しそうで、体に相当な負荷が掛かっていることがわかる。
このままでは二人共潰れてしまう。灰色海月は考え、自分には傘があるではないかと気付く。獏が作ってくれた僅かな隙間で掌から灰色の傘を引き抜いた。だが傘を開く隙間は無い。
(完全に開けられなくても、少しなら……)
何とか開くことができたのは拳二つ分ほどの隙間だけだったが、床に突いた獏の手と膝がじりじりと限界を訴え高度を下げていくのを見て、思い切ってかくりと回した。
「!」
そんな半端な回し方で状況が悪化しないかと不安はあったが、一瞬で体が軽くなり二人は床に投げ出された。反動で獏の手から杖が転がる。
体を押さえ付ける物が無くなり、灰色海月は急いで身を起こして周囲を見渡した。仄かな常夜燈の光に照らされたそこは暗いままだったが、近くに倒れる獏の姿を見つけた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
僅かしか傘を開くことができなかったが、少しは移動できたようだ。まだ室内だが、瓦礫からは抜け出せた。どうやら落ちたのは天井だけで、屋根が落ちたわけではなさそうだ。
獏の両足はまだ瓦礫の下だったが、幸い割れた板が幾らか載っているだけだった。灰色海月の力でも獏を引き摺り出すことができた。
「大丈夫……ありがとう……」
瓦礫から解放されても獏はまだ全身で息をしている。何とか礼だけは言う。
「立てますか?」
「うん……擦り傷だから」
両手を突いてゆっくりと体を起こし、強がりながら転がった杖を拾う。数秒間息を整えることに集中し、足元を確かめながら立ち上がった。
「欠陥住宅……?」
頭上を見上げ、ぽっかりと空いた黒い穴に毒突く。二階の床が抜け、家具も落ちたようだ。
「……。いや……もしかしたら……」
あまりに災難が続いている。これは原因があるのではないかと、獏は眉を顰めながら灰色海月の腕を掴んで家を出た。
「クラゲさん、すぐに宵街に転送できる?」
「さっきのは不充分な転送だったので、すぐにできると思います」
「じゃあ僕を宵街に連れて行って。あの怪しい手紙を持って行く」
灰色海月を外に待たせ、獏は急いで店から手紙を拾って戻る。差出人が転落死し、その帰りに灰色海月は池に落とされ、ここでは天井が降ってきた。もしかするとシャワーの熱湯も関係があるかもしれない。
灰色の傘を開いて待っていた灰色海月は、獏が持つ手紙に視線を向ける。
「この手紙は宵街に処分してもらう」
「では私が一人で行きます」
「駄目。確証は無いけど、危な過ぎる」
「…………」
天井が落ちてくると確かに灰色海月ではどうしようもないが、そんなに頻繁に天井は落ちないだろう。灰色海月はまだ理解していなかった。獣が杖で攻撃をしたならともかく、人間の出したたった一通の手紙が危険だとはどうしても思えなかったのだ。だが獏の声色はいつもより低く、灰色海月は逆らうことができなかった。
渋々と灰色海月は灰色の傘をくるりと回し、宵街の下層の石段へと転送する。突然天井が落ちてきた動揺もあり、獏に首輪を嵌めることを失念していた。
(……この手紙……本当に妙な力があるなら、狴犴にプレゼントすれば狴犴に不幸が訪れるのかな)
真顔で石段を登りながら、獏は余計なことを考えていた。
科刑所は上層にある。獏の牢である小さな街を造った地霊も上層にいる。手紙の処理と地霊への苦情、一度に終わらせることができる。そして怪しい手紙を狴犴に渡せば、彼も何らかの痛い目を見るのではないか。獏は少し期待してしまった。
「……あ。クラゲさんは工房に行って着替えを貰って来なよ。手紙のことは僕が遣っておくから」
「私は監視役なので、付いて行きます」
「……危険なことが起こらないといいけど」
罪人が監視役に命令はできない。監視役を動かせるのは宵街の統治者である狴犴だけだ。灰色海月は嘗て罪人の獏の味方を幾度もしてしまい、再教育を受けることになった。また味方をすることになれば、今度こそ監視役を降ろされるかもしれない。
彼女を困らせるのは本意では無い。獏は怪しい手紙に目を落とし、それ以上は言わなかった。
次に前方へ目を向けると、赤い酸漿提灯の並ぶ石段を、飛び降りるかのような速度で駆け下りる白い少年が目に入った。
「っ!」
白い少年は最後に石段を纏めて跳び越え、束ねた白い髪と白い裾を靡かせて勢い良く獏の前へ踵を叩き付けて止まった。
「ま、マキさん……」
余りの勢いに獏は怯んだ。
「何故、首輪をしてないんですか?」
牢を出る時は烙印に首輪を装着する決まりだ。首輪をせずに牢を出ると、即座に宵街に感知される。
「すみません……動揺していて忘れてました。今すぐ付けます」
これは完全に灰色海月の失態だ。何度も灰色の頭を下げ、慌てて首輪を取り出す。教育を受けて遣る気はあるのに、どうにも上手くいかない。
「危ないっ!」
少し目を離した瞬間に、獏は白花苧環に飛び掛かった。白花苧環は前触れ無く体を押されて目を丸くする。獏は特別な罪人で、変転人に危害は加えない。そのはずだった。
白花苧環は石段に腰を打ち付け、その目の前で獏の背に落下物が直撃した。白花苧環の上に倒れ込む形となったが、落下物に気付いた獏が彼を庇ったのだとすぐに察した。
獏の背から、両手に載る程の大きさの植木鉢が転がる。土が零れたが、割れなかった。二階から落下したようで、あまり高さが無かった御陰だ。
「……だ、大丈夫ですか……?」
殺気や人の気配があれば白花苧環も落下物に気付けただろう。石段の左右に立つ石壁に空いた穴には有色の変転人がよく花の咲いた植木鉢を置いて彩りを与えているが、落とさないよう固定することが義務付けられている。だが固定器具が壊れていたのか、その植木鉢は独りでに落ちてきた。もう庇われたくないと思っていた白花苧環は遣る瀬無く、倒れ込んだ獏の肩に恐る恐る手を置く。
「大丈夫……それより早く、科刑所に行かなくちゃ」
ゆっくりと白花苧環の上から身を起こし、不安そうに手を伸ばす灰色海月の手も借りずに獏は一人で立ち上がった。
「科刑所に行くんですか?」
白花苧環も立ち上がり、眉を顰める。罪人が自ら科刑所に行くなど、妙な話だ。
「変な物を受け取ったから、狴犴に処理してもらおうと思って」
「変な物? 科刑所に行くならオレも行きます」
今度は頭上に注意しながら三人は石段を上がり、何も起こらずに科刑所に入ることができた。手紙を持っているだけで災難が起こるなら、あまり長時間持っていると差出人のように死が訪れるかもしれない。
おそらく差出人も誰かからこの手紙を受け取ったのだろう。次々と災難が差出人を襲い、手紙を持て余した。そこで獏の噂を頼りに、獏宛てに投函して処理しようとしたのだ。それが二重の封筒の答えだ。結局は手遅れだったが。
焦る気持ちを抑えながら科刑所を駆け上がり、ノックをする時間も惜しく、白花苧環は狴犴の部屋の扉を開け放った。
騒々しい開け方に、奥の席に座っていた狴犴も何事かと顔を上げる。
「狴犴! これを君にっ……」
狴犴に不幸がと思うと楽しくなってきた獏は、手紙を手に声を弾ませて部屋に入ろうとし、
「つっ……!」
烙印に激痛が走って崩れるように膝を突いた。
狴犴の部屋は罪人が入れないよう細工が施されている。興奮して忘れていた。
「……騒がしいな」
部屋に入れず烙印を押さえる獏の手から落ちた手紙を白花苧環が拾う。
「これを渡せばいいんですね」
入れない罪人の代わりに、庇われた借りを返すべく白花苧環は部屋へ入った。相手が罪人だろうと、借りは返さなければ気が済まない。
獏は声を上げようとしたが白花苧環の行動は早く、呼び止める前にそれは起こってしまった。
「苧環!」
「!」
狴犴が大声を出すのは珍しい。しかも焦燥を孕んだ声だ。白花苧環は反射的に足が止まってしまった。止まらせるつもりなどなかった狴犴は、机の死角に握っていた短い杖を素速く振る。
暗い大きな影が白花苧環の頭上から降り懸り、書類を纏めたファイルが幾らか目の前に落ちた。
狴犴は足早に彼の腕を引き、杖を下ろす。
「…………」
白花苧環は倒れた棚を見下ろし、不安そうに呟く。
「オレは……狙われてるんでしょうか……?」
「……?」
狴犴は答えることができず、床に座り込んだままの獏へ目を遣った。
「獏、説明しろ」
「何で僕に矛先を向けるかな……まあ僕が持ち込んだことだけど。その手紙だよ」
狴犴は無言で白花苧環の持つ手紙を素速く取り上げる。獏の言葉の真偽は置いておき、もし真だった場合を考慮した。
「これは何だ?」
「人間がポストに入れたんだよ。僕宛てに」
「善行か」
それなら只の願い事のはずだ。狴犴はその場で茶封筒から白い封筒を取り出し、中の手紙を開いた。『これを受け取った者は不幸になる』と文字を切り抜かれて貼り付けられた手紙に眉を顰める。白花苧環もそれを覗き込み、怪訝な顔をした。
「この手紙を受け取り、お前に何が起こった?」
「僕と言うか、手紙を回収したのはクラゲさんだから、まずクラゲさんだよ。その差出人は転落死して、クラゲさんは池に落とされた」
「それで全身濡れているのか」
「その後、僕の牢にある家の天井が落ちて、危うくクラゲさんと僕は潰される所だった。宵街に来てからは植木鉢が降ってきて、マキさんに当たりそうになったよ」
「…………」
狴犴は白花苧環の前髪に隠れていない片目を見、庇われた彼は不本意ながら頷く。『これを受け取った者は』とあるが、その周囲にも飛び火するようだ。獏と灰色海月はともかく、白花苧環は植木鉢が落ちた時には手紙の存在すら知らなかった。巻き込まれたのだ。
「人間のすることなど放っておけばいいが、これは野放しにすると危険だな。この手紙は地霊に処分してもらう」
そう言うと彼は手紙から『不』の文字を破って剥がす。この手紙の『強さ』によってはそれだけで効果が変わることはないが、応急処置だ。地霊が来るまでにまた何か災難が起こっては堪らない。
「その手紙は何なんですか?」
災難を目の当たりにしても、白花苧環は只の手紙一枚にそこまで警戒する理由がまだ理解できない。狴犴を嫌う罪人が科刑所へ行こうと考える程の何かが手紙にあるとは思えなかった。
「そうだな、少し話しておこう。あまり出会う物ではないが、おそらくこれは
「まじない……?」
「人間が目的を果たすために願う物だ。ただ願うだけなら何も問題は無い。だが人間の中には稀に特異な強い思念を有する者がいる。自覚の有無は関係無く、願いを現実にしてしまうんだ。禁厭……良いことに使用するなら構わないんだが、こういった不幸を呼ぶ悪いことに使用すると
以前、彼の兄である
「願いを現実に……? では獏の善行は必要無いんですか?」
「先にも言った通り、そんな人間は稀有だ。多少運の良い人間ならいるだろうが、この手紙のような強い力を持つ者は滅多にいない」
「そうなんですか。この手紙を書いた人間は自覚があるんでしょうか?」
「それは不明だが、どちらにせよ変転人に被害が出てしまった以上、野放しにできない。手紙の作成者はこちらで特定し、始末しておく」
作成者は差出人を狙っただけかもしれないが、宵街を巻き込んだばかりに重い罰を受けることになる。人間を一人呪い殺したのだから因果応報ではあるが、宵街を巻き込まなければまだ生きていられただろう。
暗い廊下からぺたぺたと足音がし、獏は座り込んだままそちらへ目を向ける。一メートル程はあるずんぐりとした黒い塊が歩いて来た。地霊だ。
地霊は兎のように長い耳をぴくりと動かし、土竜のような鼻をひくつかせて狴犴の部屋に入る。
「御呼びでしょうか?」
「この手紙を処分してほしい。作成者を特定し、
「わかりました」
「……もう一つ、獏の牢が一部崩落したようだ。修理を頼む」
「わかりました。すぐに向かいます」
地霊は質問などはせず、大きな爪で手紙を受け取りそのまま去って行った。地霊に何か災難が降り懸からないかと獏は心配しながら見送るが、姿が見えなくなるまで何も起こらなかった。狴犴の応急処置の御陰かもしれない。
「これで問題は片付いたか? 獏」
「狴犴に何も起こらなかったのはちょっと悔しい……」
面の下でぼそりと呟き、眉一つ動かさない狴犴に凝視された。
「罪人だと言うのに、随分と楽しそうだな」
たっぷりの皮肉を浴びせられ、獏は顔を顰めて歯軋りした。折角嫌いな狴犴の所まで来たのに、楽しい収穫が何も無かった。
「灰色海月は工房で着替えを貰って、怪我があれば病院にも行くといい。それが終われば獏を連れて牢に戻れ。今回のような件は已む無しだが、先に一報貰えると余計な心配をしなくて済む」
「は、はい。私は怪我は無いです」
獏の首輪を装着し忘れていたことを叱られると思っていた灰色海月は、声が裏返りそうになりながらも返事をする。
被害に遭って恐怖を覚えただろう彼女を労って、狴犴は言及しなかった。首輪を装着する義務は絶対だが、灰色海月の安全を考えると、今回に限っては首輪で獏の力を封じなくて良かっただろう。
「僕は背中が痣だらけだと思うけどね……」
灰色海月は急いで獏に手を差し伸べるが、獏は手を取らず首の烙印を摩りながら立ち上がった。手を取って腕を引かれると、おそらく背中が痛む。
去る二人に向かって白花苧環は胸に手を当てて深く頭を下げ、姿が見えなくなってからゆっくりと扉を閉めた。呪いとは恐ろしいものだ。
「倒れた棚はどうしますか?」
「……。
どっしりとした重い木で作られた棚は、中の書類を全て抜いてもかなり重い。二人掛かりでも起こすのは骨が折れる。重い物でも軽々と持ち上げることのできる贔屓なら、一人でも易々と棚を起こすことが可能だ。
贔屓は頼ってほしいと言っているが、狴犴はこんな頼みしか思い付かなかった。
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