128-見学


 誰もいない小さな街で、暇を持て余したばくはベッドに横になり仮眠を取っていた。この街の中では時間が停止していて睡眠を取る必要は無いが、寝ようと思えば眠ることは可能だ。

 夢を見ない只の闇から目覚めた獏は枕元の黒いマレーバクの面を手探りで拾い、大嫌いな醜い顔に覆う。

 ゆっくりとベッドから降り、部屋を出て物音のしない階下を覗く。

 一階へ下りていつもの机の方を見、思わず足が止まってしまった。

「何……してるの?」

 その向こうにいた灰色海月クラゲは動きを止めてはっと顔を上げ、小さく頭を下げた。机上に広がる街を確認しながら。

「これはヘクセンハウス……いえ、ヘクセンタウンです」

「魔女の……御菓子の街?」

 机に所狭しとクッキーを敷き詰めた街が広がり、ティーカップ一つ置く場所が無い。彼女はいつも同じ菓子を大量に作るが、ここまでの大作は初めてだ。クッキーの型が欲しいと宵街よいまちに要望を出したのだが、早速それを使ってこうなった。

「獣でなくても街くらい作れます」

 灰色海月は得意気に頷き、手に持っていた菓子をよく見えるよう差し出す。

「自信作のステンドグラスです」

 得意気な顔を一瞥し、獏は指で抓まれた物を見る。クッキーで作った枠に色取り取りの飴が溶かされてキラキラと窓を成していた。本物のステンドグラスのようだ。

「わあ、凄いね! 凄く綺麗だよ。……ちょっと科刑所の窓を思い出して複雑な気持ちになるけど」

 後半は小声で早口で呟いた。宵街の罪人を裁く科刑所の窓は色硝子だ。色の付いた窓は科刑所を連想してしまう。

 菓子で作られた家に自慢のステンドグラスを貼り付け、灰色海月は一歩下がって全体を見渡す。獏が寝ている間にとんでもない大作を拵えてしまった。

 机上を這う道にココアクッキーで作った石畳が敷かれ、クッキーやチョコレートでできた家が幾つも立っている。緑の木々まで生えている。

「植え込みも凄いね。これで完成なの?」

「木は抹茶のシフォンケーキを引き千切って作りました。これで完成にするか街を拡張するか、悩んでます」

 既に机上の端まで菓子で埋まっているが、床に拡張するつもりなのだろうか。

 獏は家の一つ一つをじっくりと眺め、家の中はどうなっているのだろうと考える。丁寧に砂糖で色付けられて飾り付けられた屋根は見ているだけで童心が躍る。木には星と銀色のアラザンが付いている物があり、おそらくクリスマスツリーだろう。宵街では見掛けない物だが、人間の街ではこの時期にこういった木がよく見られる。

「クラゲさんは狻猊さんげいみたいな細工師が向いてるのかなぁ」

「! ……罪人に解雇の権限は……」

「え? そんなつもりで言ったんじゃないよ。罪人にそんな権限は無いし」

 罪人の監視役と、宵街の工房で働く細工師は兼任できない。灰色海月は監視役の立場が脅かされそうになるとすぐに不安になる。何気無い言葉だったが獏は慌てて謝った。強制する権限があるのは、宵街の統治者である狴犴へいかんだけだ。

「街は完成でいいです……一思いに食べてください」

「凄く食べ難いんだけど……」

 大作と言うこともあり、手を付けるのを躊躇う。

 何だか妙な空気になってしまったが、誰もいないはずの店の外からドアを叩く音が聞こえて微かに空気が切り替わった。控え目で聞き逃してしまいそうな音だった。

「来客の予定でもあった?」

「いえ。何も聞いてません」

 ドアを叩く音は躊躇いがちにもう一度聞こえる。顔見知りの誰かならば、譬えノックをしたとしても返事を待たずに入って来るだろう。ドアへ向かおうとする灰色海月を制し、獏がドアへ向かう。嫌な気配はしないが、警戒はすべきだ。

 ゆっくりとドアを開けると、一歩下がった所に短い髪の白い少女が立っていた。

「……おや」

 珍しい客に獏は思わず声を漏らした。

 緊張した様子で視線を動かしながらそこに立っていたのは白所属の変転人、鉄線蓮テッセンレンだった。彼女は嘗て渾沌こんとんと言う獣に洗脳され、利用されていた。望まぬ罪に精神を磨り減らし続けたことで、今も病院で療養を続けている。洗脳からの解放直後は歩くことも儘ならなかったが、今は一人でここまで来られるほど回復しているようだ。

「どうしたの? 誰かの御使い?」

「御使いではないです。……あの、少し……」

「話をする? いいよ。中に入って」

 渾沌の洗脳を受けて行動や会話をしていた彼女は、まだ自分の意思で人と会話をすることに慣れていない。洗脳されていた期間も長いので、自分の意思に慣れるまで時間が掛かることだろう。

 穏やかに獏に招かれ、鉄線蓮は店の中に入る。左右の棚に並ぶ見慣れない物を珍しそうに見回し、華奢な黒い背中に付いて行く。

 奥の机まで歩を進め、鉄線蓮は机上の壮観な街に釘付けになってしまった。甘い香りが漂う箱庭は何のためにそこに広げられているのか、彼女には想像もできなかった。

「この街は全部御菓子でできてるんだよ。食べていいよ」

「! た、食べられる物なんですか……?」

「うん。クラゲさんが作ったんだけど、食べてもいいって。何処から食べればいいか迷うよねぇ」

 新鮮な反応に獏は微笑みながら古い革張りの椅子に腰掛ける。それを見て鉄線蓮も椅子に座ったが、街から視線が外せなかった。

「御菓子はよく知りませんが、どういう物なんですか?」

「うーん……御菓子にも色々あるけど、この街にある御菓子はどれも甘い物だよ。甘い物は好き?」

「甘い……物? 病院の食事は甘くないですが、美味しい……と思います」

「ああ、病院は御菓子は出ないもんね。僕も病院の御飯は食べたことがあるけど、美味しいよね」

 病院の食事は獏と灰色海月も食べたことがある。頻繁に同じメニュー――主にラクタヴィージャ手製のカレーとナンが出て来たが、どれも美味しかった。

 紅茶を淹れた灰色海月は菓子の街の路上にそれぞれカップを置く。カップを置く場所は残しておくべきだったかもしれない。

「渾沌の所にいた時は石を引っ繰り返したり土を掘ったり……虫を食べていたので」

「!?」

 獏は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。

「わかります。私も虫を食べたことがありますが、人型が嗜む食事の味は革命的でした」

 灰色海月は淡々と相槌を打つ。海月も確かに虫を食べることがあるが、人の姿となった今は食べない。二人の会話に獏は衝撃を受けながらカップを下ろす。

「……渾沌は、普通の御飯は教えてくれなかったの?」

 獏は話に付いていけないながらもどうにか質問を出した。獣の食事も様々ではあるが、虫を好んで食べる獣は周囲にいない。

「虫は何処にでもいて、変転人にも簡単に捕まえられるので。人間を捕まえて食べるのは難しいからと」

「あっ……そうか。渾沌は人間を食べるんだっけ……。それにしても虫は……あ、君が美味しいと思うなら、いいんだよ」

 もし嫌がらずに食べていたのなら、それを否定するわけにはいかない。

 だが彼女は首を振り、菓子の家に視線を落とした。

「虫はあまり味が無くて、口の中で動くので食べ難かったです」

「わああ……!」

 聞いているだけで震えてきた。獏は雑食だが、虫は食べない。虫を食べる人間が存在することは知っているが、果たして生きたまま食べる者がどれほどいるだろうか。

「うぅ……思わず泣きそう……」

 獏はあれほど食べることを躊躇っていたヘクセンハウスの煙突を圧し折り、口に放り込んだ。筒型に巻かれた細長いクッキーの美味しい煙突だ。

「私も初めて病院で食事を貰った時、無意識に泣きました」

「辛かったね……この街は好きなだけ食べてよ。道も木も全部食べられるからね」

「…………」

 煙突を食べて紅茶を啜る獏を見、鉄線蓮も躊躇いながら木を毟った。ふわふわと柔らかく、病院の食事のナンに似ているがそれよりも数段柔らかな感触だ。

「……美味しいです」

 ゆっくりと咀嚼して甘さを味わう。今までに食べたことの無い味だった。

「ふふ。いっぱい食べてね」

 獏は彼女の頭を一瞥する。彼女が元々被っていた目立つ大きな三角帽子は、今はもう被っていない。

 その視線に鉄線蓮も気付く。

「帽子……無いと変ですか? もう見つけてもらえて、渾沌もいなくなったので、これからは目立たずに生きていきたいです」

「変じゃないよ。本当にそれだけのために被ってたんだね……今更だけど、どうにかもっと早く見つけてあげられなかったのかな」

「その御礼を改めて言おうと、今日は許可を貰ってここに来ました」

「そうなの?」

 改めて彼女は席を立ち、白い頭を深々と下ろした。

「渾沌を殺したのは貴方だと聞きました。最後の楔を外してくれて、ありがとうございます」

「最後の……楔?」

 宵街で暴れた渾沌を殺したのは確かに獏だが、その言葉は初耳だった。

「宵街が襲われた時、私も錯乱していたので、あまり話ができない状態でした。渾沌の洗脳の菌糸は既に断たれてましたが、もっと深くに楔を刺されてたんです。万一菌糸が断たれた時のための予備のような物です。宵街で渾沌が暴れた時、楔を通じて遠くで呼ばれた気がしました。抗おうとして身動きが取れなくなっていた時に瓦礫が降ってきて……」

 彼女を庇って瓦礫の下敷きになった秋水仙アキズイセンは死んだ。鉄線蓮の所為で死んでしまった。自分が殺してしまったと鉄線蓮は放心し、錯乱した。その後は虚ろな目を病院の白い天井に向けながら、呆然と毎日を過ごした。

 その鉄線蓮がここまで他人と話せるようになった。過去を話しても錯乱しなくなった。それは感情が風化したわけではなく、認めて呑み込むことができるようになったのだ。

「うん。話してくれてありがとう」

「あの楔は簡単に断ち切れる物ではなく、渾沌が死ぬことでやっと消える物だったんです。私も渾沌が死ぬまで気付かなくて……」

「今はもう何ともないの?」

「……はい。何かに引っ張られるような感覚も無く、何処にでも歩いて行けます」

「それなら良かった。世界は広いからね、歩ききれないくらい色んな場所があるよ。君が願うなら僕が何処へでも――できる限り連れて行くよ」

 何処でもは難しいと思い直し、訂正した。

「それには及びません。私も自分の傘を作ってもらえました」

 変転人には有色と無色の二種類が存在し、元が有毒生物の者は無色と呼ばれ、自分の身から武器を生成することができる。武器があれば戦うことができ、戦闘が可能な無色にのみ傘が与えられる。この傘は獣の杖と同じように転送するための物だ。全ての無色に宵街が与えることになっている。その傘も無かった鉄線蓮は他人から奪い取った傘を使用していたが、漸く自分の白い傘を手に入れた。

「ふふ。そう言えば僕は自由に転送できないんだった」

 自分が罪人だということを忘れる罪人など存在するのだろうか。傍らに控える灰色海月は首を捻った。

「……貴方はあまり……罪人っぽくないですね」

「そう?」

 鉄線蓮もまた疑問を口にする。獏は含みのある笑みを向け、植え込みを毟った。

 黒い動物面で顔は隠れているが、にこにこと笑っていることは変転人にも手に取るようにわかる。罪人とは渾沌や檮杌とうごつのように、下賤で畏怖を感じるものだと鉄線蓮は今まで思っていた。

 傍らに静かに佇んでいた灰色海月は、少し屈んで何やら獏に耳打ちする。獏は頷き、灰色海月は潮流に乗るように静かに店から出て行った。

「折角来てくれたのにごめんね。願い事の投函があったみたいで。この時期は僕をサンタクロースだとでも勘違いした子供からプレゼント要求の手紙が多いんだけど、偶にそういうのじゃない願い事もあるから。勿論気にしないで御菓子の街を食べてくれていいんだけど、ちょっと横に移動してくれるかな?」

 ぽんぽんと机の側面を叩き、灰色の背を目で追っていた鉄線蓮の意識を前へ戻す。

「あ、願い事って言うのはね、」

「知ってます。渾沌の命令で、貴方が前にいた街の監視もしていたので」

「……やっぱり見てたんだね」

「貴方が悪夢と呼ぶ物に、渾沌の菌糸の種を蒔いたのも私です。悪夢を操作するためです。まさか外部に黒い菌糸となって漏れるとは思いませんでしたが」

「……そっか」

「樹海の悪夢にも私が菌糸の種を蒔きました。貴方はそれを食べ……菌糸を体内に入れました。悪夢に隠した菌糸に気付かずに。その菌糸を辿り、渾沌は貴方と接触しました」

「……うん。君が悪夢に襲われなくて良かったよ」

「それだけですか……? 怒鳴ったりとか……」

「ん? 君の声は僅かだけど震えて、怯えながら懺悔してるよね。洗脳されてたんだし、責められないよ」

 悪夢を手中に置いていたとしても、獏のように使役することはできない。精々、標的があればその方向へ何となく向かわせることができる程度だ。菌糸は方向を指差しただけで、実際に動いたのは悪夢だ。

 鉄線蓮はまだ納得できていないようだったが、邪魔にならないよう椅子を机の横に運んで座り直した。

 それを合図にするように店のドアが開き、灰色海月が手紙の差出人を連れて戻って来た。差出人は学生服を着た少女で、店に入るや否や奥の机に広がる菓子の街を見つけて楽しそうに駆け寄って来た。

「何これ!? 凄い! 写真撮っていい?」

 間髪を容れずポケットから携帯端末を取り出すので、獏は立ち上がってそのカメラのレンズに指を当てる。

「ここは撮影禁止。御菓子は食べてもいいけど、それは仕舞ってくれるかな?」

「えー……映えるのに……」

 獏の指を離そうと端末を動かすので、仕方無く力を入れて抓む。

「もし撮影したらその端末を破壊するから。全てのデータを消滅させる」

「…………」

 穏やかだった声が一段階沈み、抑揚の無い声が嘘では無いと言っている。

 少女は渋りながらも端末をポケットに仕舞い、灰色海月の置いた簡素な椅子に不貞腐れながら座った。端末を破壊した程度で全てのデータを消すことはできないが、折角買ってもらった端末を破壊されるのは困る。

「さて、君の願い事は何か……」

 灰色海月から手紙を受け取り確認しようとした所で、少女は砂糖で飾り付けられた屋根を豪快に引き剥がした。清々しいほど豪快な破壊だ。

 少女は屋根を裏返してみたりと見回し、破壊した家の中を覗いた。中は空ではなかった。

「あ、可愛いクッキーが入ってる!」

 屋根を植え込みに置き、クッキーを取り出す。家の中には宝石のように赤と緑のドレンチェリーが載っているクッキーが詰まっていた。灰色海月が先日絞って作っていた物だ。

 宝探しのように獏に一番に見つけてほしかった灰色海月は不満そうな顔をしたが、少女は見ていなかった。ぱくりとクッキーを齧る。

「……私、ダイエット中なんだよね」

 残っている半分を道端に置き、太っているようには見えない少女は手を仕舞った。破壊した屋根も口を付けたクッキーももう食べないようだ。

 獏は苦笑し、彼女の手紙を確認する。恋愛相談のようだ。この年頃の少女は本当にこういう願い事が多い。獏へ願い事をすると叶えてもらえるなど、夢見勝ちな少女には親和性が高いのかもしれない。

「好きな人に振り向いてほしいの?」

 願い事を読んだ獏は薄く笑いながら確認する。

「そうよ。私が片想いしてる間に横から奪っていった女がいるの。そいつを引き剥がして私と付き合えるようにして。もうすぐクリスマスだから」

 淡々と口にする少女に、黙って傍らで聞いていた鉄線蓮は唖然としてしまった。獏が人間の願い事を叶える善行をしていることは知っているが、それをこんなに近くで見るのは初めてだ。こんな理不尽な願い事をいつも人間に叩き付けられているのかと耳を疑う。

「成程。その奪った女っていうのは、君の知り合い?」

「同じ学年だけど違うクラスだから知らない人。向こうはどうだか知らないけど」

「じゃあ君の好きな人はその女と同じクラス? それとも君と同じクラス?」

「ああ……あいつとクラスは同じみたいね。だからって付き合っていい理由にはならないよね?」

「それじゃあ、好きな人は君のことを知ってる? 喋ったこととか……目が合ったことはある?」

「そ、そんなの! 恥ずかしくて喋れるわけないでしょ! 目を合わせるなんて……! 遠くから見てるだけで胸一杯で……」

 顔を赤らめて照れているが、要は面識は無いらしい。好きな人に認知されていない。なのに恨まれてしまう相手は堪ったものではない。

 鉄線蓮は、こんな願い事を叶えるのかと眉を寄せながら獏を一瞥する。面を被り表情の見えない獏は少しも動じず質問を続けた。

「状況は大体理解したけど……君の願い事は二つに分けた方がいいね」

「二つ? 一つしか叶えてくれないの?」

「叶えるのは二つでもいいんだけど、代価も二つ分になる」

「代価……?」

「うん。君の心の一番柔らかい所をほんの少し戴くよ。身体的な痛みは無いから安心して」

「よくわからないけど……痛くないならいいわ」

 理解していないようだが、承諾するなら理解することを放棄していても構わない。何が起こっても自業自得だ。

 灰色海月は菓子の残骸を一瞥して少女に紅茶を差し出し、獏の前にも新しいティーカップを置く。少女は一気に半分まで紅茶を飲んだ。

「君の願い事はね、好きな人と彼女を引き剥がす、で一つ。それから君が付き合う、で一つにしよう。願い事はこれでいいかな?」

「いい! 最高!」

「わかった。叶えるよ。代価は成功報酬だから、一つ叶う毎に代価を貰うね。今は……外は何時くらいかな? クラゲさん」

「先程は夕方でした。空が大分暗かったです」

「じゃあ明日にしようか。明日叶えるよ」

 とんとん拍子に話が進み、少女は満面の笑みで頷いた。ここに連れて来られる前は獏なんて言葉が通じるのだろうかと不安もあったのだが、話のわかる人で良かった。

 灰色海月に連れられ店を出る少女に獏は人差し指と親指で作った輪を向けつつ頬杖を突こうとして、菓子の街を思い出して腕を引いた。

 ドアが閉まると鉄線蓮は菓子の残骸を見下ろし、不満げな声を出す。

「……いつもあんな願い事を叶えてるんですか?」

「似たような願い事は前にも叶えたことがあるよ。話のわからない人は意外とたくさんいる。最初の頃に比べると、僕も大分人間に親身に話せるようになったよねぇ」

 あわよくば代価を二つ貰おうとしていることは親身と言えるのだろうか。

「楽しんでるんですか?」

「楽しそうに見える?」

「……わかりません」

「気になるなら善行の見学をしてもいいよ。君は白だから、やっぱり身勝手なことは抵抗があるみたいだね」

 無色の内、白に所属する変転人は悪を嫌って正義に傾く。鉄線蓮は罪人の渾沌の許にいたが、やはり白い心を持っている。例に漏れることなく悪を厭う。

「身勝手だとわかってるんですね。それなら……見学してみます」

「ふふ。その調子なら病院の世話にならない日も近いね」

 獏は少女の残した残骸に目を遣り、手近な一軒から屋根を取る。三角屋根を二つに割り、半分を鉄線蓮に手渡した。家の中には同じようにクッキーが詰まっていたが、まずは屋根だ。

「どんな願い事だろうと、それをどう叶えようと、狴犴に咎められることはないよ。だから君も、密告してやろうなんて面倒なことは考えなくていいからね」

「…………」

 その言葉を信じたか信じていないかはわからないが、彼女は無言で屋根を齧った。初めて食べるクッキーの味は、心情とは裏腹に甘くて美味しかった。



 翌日は契約者の少女の所へは行かず、灰色海月は獏に首輪を嵌めて目的地へくるりと灰色の傘を回した。鉄線蓮も一緒だ。宵街に保護されてから鉄線蓮が人間の街に来るのは初めてである。彼女は久し振りの景色に呆然とし、降り立った高層マンションの上から下界を見渡した。

「高い……」

 早朝の空はまだ白み始めて間も無く、清々しい空気だ。朝陽が眩しくて獏は顔を逸らす。

「このマンションに、契約者の好きな人とその御相手の人が住んでます」

「わあ」

「なんとお隣さんです」

「それは引き剥がすのが大変そうだね!」

 獏は大仰に驚いて見せる。願い事の契約者の少女に指の輪を向けた時、同じマンションであることくらいは見えていた。

「もしかしたら幼馴染みって奴かもしれないね」

「本当に別れさせるんですか?」

「え?」

 下界を眺めていた鉄線蓮は振り返り、不満そうに訴える。他人の幸せを簡単に引き裂いて良いものなのか。

「君が嫌だって言うなら、そんなことしないよ」

「え……?」

「人間はどう扱ってもいいけど、変転人の意見を無視するわけにはいかないからね。……じゃないと狴犴に何を言われるか……」

 最後はぼそぼそと小声でぼやく。狴犴は変転人を大切にしている。人間より変転人の方が大事なのだ。鉄線蓮が自分の気持ちで不服を申し立てれば、獏は御仕置きされるかもしれない。

「願い事を叶えないってことですか?」

「叶えるよ。まあ見てて」

 踊りを申し込むように手を差し出し、鉄線蓮は怪訝に思いながらも手を取る。獏は反対側の手を灰色海月に差し出し、彼女も手を置いた。

「部屋は三十二階です」

「このマンション、何階建て?」

「数えてませんが、四十はあるかと」

「じゃあ結構下りるね。レンさんも手を離さないように」

 両手を繋いだ獏はとんと屋上を蹴り、ふわりと柵を跳び越えた。両足が空を掻き、腹の奥から急に体が軽くなる。空中に投げ出された鉄線蓮は血の気が引き、もう片方の手も獏の手を握り締めた。

 悲鳴を上げそうになったが堪え、風を受けて急降下する体が無意識に恐怖を感じて硬直した。

 このまま地面に激突するのかと思ったが、不意に開いた窓に獏はとんと着地し、とんと廊下に足を下ろす。けろりとした顔で獏は両手を離した。

「もう大丈夫だよ、レンさん」

「え? え……?」

「怖かった?」

「い……意味がわからないです……」

「僕は触れるものを少し軽くすることができるんだ」

「軽くすると飛び降りるは違うんじゃないですか!?」

 混乱する鉄線蓮は声を上げるが、あまり大声を出しては住人に気付かれる。獏は口元に人差し指を当てた。

 灰色海月はもう慣れているので平然としているが、鉄線蓮には少々刺激が強かったようだ。うっかり落とすことはないが、今後はもう少し気遣おうと獏は反省する。

「ごめんね……慣れてると気付かなくて……」

「ぁ……ぃぇ……責めてるわけではなくて……」

 意見は述べるが、鉄線蓮は獣を敬っていないわけではない。渾沌と檮杌には敬う気持ちは無かったが、助けてくれた獣達には感謝と罪悪感しかない。白い頭を深々と下げ、距離を誤ってはいけないと自戒する。

 気を取り直して獏は指の輪をドアへ向ける。住人はまだ夢の中のようだ。

 輪を解いて手を翳し、素速く鍵を開ける。ドアを開けて薄暗い廊下を行くと、今まで訪れたマンションの中では一番広いリビングルームがあった。手前には大きなテレビが壁に掛かり、立派なソファが置かれている。その前には洒落た硝子のテーブルだ。奥に見晴らしの良い広い台所が見え、四人掛けのテーブルがある。そして天井に届きそうなほど大きなクリスマスツリーが部屋の隅に飾られていた。

「家族の人数も関係あるだろうけど、たぶんお金持ちって奴かな?」

「お金持ちは自宅に巨大な水槽があるような豪邸に住んでるんじゃないんですか?」

「何処情報なの? クラゲさん」

「違うんですか」

「お金持ち全員が水槽を置く趣味があるとは限らないんじゃないかなぁ」

「そうなんですね」

 音を立てずにそろそろと廊下へ出て、目的の部屋のドアをそっと開ける。契約者の意中の人の部屋だ。主の少年はまだベッドの中ですやすやと寝息を立て、勝手に訪問している獏達の存在に気付かない。

 少年の部屋は中々綺麗に片付いており、壁に大きな棚が置かれていた。中には本ではなく、小さな車の置物が整列している。どうやら車が好きなようだ。獏は珍しそうに棚を覗き、上から下までじっくりと見回す。この棚だけ見るとまるで店のようだ。店を開いている獏は良い並べ方だと感心する。隙間を空けて等間隔に、同じ方向を向いていて見易い。獏の古物店とは大違いだ。

「素材はプラスチックじゃないね。金属製かな? 美味しそ……じゃない。車を見に来たんじゃなかった」

 悪夢だけではなく金属片も食べる獏は、最近食べていないことを思い出す。勿論悪夢の方が美味しいし人間の食べ物や灰色海月の作る菓子も美味しい。だが金属片はそれらとは味が違う。偶には昔を思い出して金属片を食べるのも良い。思い出したくない見世物小屋のことまで思い出してしまうのが難点だが。

 ベッドの傍らに置いてある目覚まし時計を確認する。起床の時間まではまだ一時間もある。

「ちょっと可哀想だけど、起こさないと話ができないからね」

 そう言うと獏は少年の頬を軽く叩き、肩を揺すった。

「起きないと……食べられちゃうよ」

 優しい声で耳元に囁くと、少年は慌てたように飛び起きた。

「な……何に!?」

 耳を押さえながら壁に背を貼り付け、獏の動物面を見て悲鳴を上げそうになるが呑み込んだ。

 獏は笑いながら立ち上がり、胸に手を当て大仰に頭を下げる。

「初めまして、僕は獏。君に話があって来たんだ」

「獏……? 話……? 夢……?」

「夢じゃないよ。危害も加えない。警戒しなくても大丈夫。だから手に取った携帯電話を置いても大丈夫だよ」

「獏……は、何か聞いたことがある……。願い事を叶えてくれるとかって言う……」

「そうそう、それだよ」

「変態とか不審者とか……」

「誰そんな変な噂をくっつけたの。心外だよ」

 獏は頬を膨らせ、腕を組んで口を尖らせる。噂とは尾鰭が付くものではあるが、変態だなんて望んでいない。

「よく知らないけど……俺……何かしましたか……?」

 目覚めると目の前に見知らぬ妖しいお面を被った不審者が立っているのだから、警戒するなと言うのは無理な話だ。目の前の動物面がもし噂の獏とするなら、願い事を叶える押し売りかもしれない。少年の頭はまだ寝惚けていた。

「君は何もしてないよ。でも目を着けられちゃったの」

「……?」

「君の彼女……でいいのかな? 恋人のことを聞きたいんだけど」

「!? 何か……悪いことでも企んでるのか……?」

「いいね。凄く警戒してる。頼もしい彼氏だね」

 獏は人差し指と親指で輪を作って少年に向ける。強がっているが、内心は不安で一杯だ。恐怖も混ざっている。だが恋人を守ろうと必死だ。

「君と付き合いたいって言う子がいるんだけど、君は今の恋人のことが好き?」

「え……? ……それは当然、好き……だ」

 歯切れが悪いが、照れているだけだ。他にも自分を好きな人がいると聞いて動揺はあるが少しの嬉しさと照れ臭さ、でも恋人がいるのだからと振り払おうとする。覗き窓で丸見えだ。獏は楽しそうにくすくすと笑う。正直な少年だ。自分がモテていると喜んでいる。

「いつから付き合ってるの? 幼馴染み?」

 仄かに湧き上がった喜びの御陰で警戒心が薄れている。獏はクラスメイトと恋の話に花を咲かせるように楽しげな声色で畳み掛けた。

「え、えっと……去年から……。幼馴染み……でいいのかな? 小学校に上がる時に彼女が引越してきて……」

「じゃあまだ付き合って一年は経ってないのかな? 幸せ真っ盛りだね!」

「ま、まあ……」

 煽れば照れて素直に乗ってくる。わかりやすく操り易い。

「でもさ、付き合って見えてくる本性とか……不満とかはないの? そういうの気になっちゃう」

「い、いやぁ……全部可愛いので、不満とかは特に……へへ……」

「うん。じゃあ君にはそのまま幸せでいてもらおう」

「急に真顔になるなよ」

 楽しい話は終わりだ。獏は覗き窓を下ろす。動物面で顔は隠れているが、急な声色の変化で表情も変わったことが少年にもわかった。

「君が今後、恋人と幸せな日々を過ごすには、試練を乗り越えなくちゃいけない」

「試練? わけのわからない話になったな。最初からわからないけど……」

「一日だけでいい。君の恋人にも協力してもらって、無視し合ってほしい」

「……何で?」

「隣に住んでる恋人の所に僕が説明に行ってもいいけど、眠る彼女の部屋に侵入していいの?」

「そ、それは駄目だ! ちょっと待ってろ、起きてるかわからないけど確認する……」

 下ろしていた携帯端末を起動し、恋人の連絡先を開く。こんな妖しい奴に彼女を接触させるわけにはいかない。少年が動かなければ獏は彼女の部屋へ行ってしまう。彼女の寝顔なんて少年もまだ見たことがないのに。

「最近変な女の子に見られてるとか付いて来られるとか、あったか訊いてみて」

「何だそれ……?」

 少年は首を傾ぐが、言われた通りにメッセージを送った。五分ほど時間は掛かったが、恋人から返ってきたメッセージを獏に見せる。まさか本当に、知らない間にそんなことが起こっていたなんて少年は全く知らなかった。

「うん。一人になった時に特に視線を向けられてるんだね」

「何で俺に相談してくれなかったんだ……」

「視線だけだからね。危害を加えられてるわけじゃないし、君に相談した所で気の所為だって言われたら認めてしまうだろうね。今は僕と言う異物が現れたことで、剥き出しになった警戒心が、ちゃんと警報を鳴らしてくれてる」

「…………」

 確かに安心させるためにも気の所為だと言ってしまいそうな自分がいることに、少年は歯噛みした。何も反論できない。

「今日一日、君と恋人はまるで顔も知らないように過ごしてみて。なるべく近付かないように。そうしてくれたら優しい僕が解決してあげる」

「……確か、代価とか……が必要なんだよな?」

「最初はあんまり知らないみたいだったのに、そんなに知ってるなんてつれないなぁ。代価を戴く人は別にいるから、心配しなくても大丈夫だよ」

「胡散臭い……」

「信じなくてもいいけど、もし僕の言うことを聞かずに仲睦まじく一日を終えるんなら……僕はもう助けてあげられない。君達の幸せは終わりを迎える」

「…………」

 少年は渋い顔をして手元の端末を見下ろす。たった一日だけ、離れているだけで何が解決するのか。彼女に連絡すべきか悩んでしまう。

「なあ……」

 もう一度確認しようと顔を上げると、そこには誰もいなかった。まるで夢でも見ていたかのように、忽然と三人の姿が消えていた。目覚まし時計が時が動いたとばかりに鳴り出すが、これも夢なのだろうか。

「…………」

 だが端末には彼女に送ったメッセージが残っていた。彼女に尋ねれば夢か現実かわかるはずだ。近付かないようにと言うなら、メッセージを送ることは許されるだろう。



 獏は学校の誰もいない屋上の柵を背に座り、退屈そうに脚を伸ばした。灰色海月と鉄線蓮は柵から少し離れた場所に立ち、晴れた空を見上げる。

 契約者の少女には、引き剥がしておいたから意中の人を一日観察しておけと言っておいた。少年が獏の言うことを聞いてくれれば、『引き剥がされた』と思ってくれるだろう。獏としてはどちらに転んでも良いのだが、鉄線蓮の手前、少年に信じてもらえることを祈る。

「放課後まで暇だねぇ。クラスが違うんだから授業中は観察できないし、安泰かな」

「引き剥がすのは誤魔化すとして、付き合う方はどうするんですか? 二股ですか?」

「それも考えてあるよ。二股にはならない」

 また喰い物にするようなことを考えているらしい、と灰色海月は柵の外を覗く。もうすぐ生徒達が登校してくる時間だ。

 万一のために学校に待機しておくが、時間を持て余すので御喋りに興じる。鉄線蓮にも何か話したいことがあるならと発言を勧め、彼女は最初は遠慮していたが徐々に檮杌の愚痴を漏らし始めた。

「――檮杌は本当に話を聞かない人で、三歩歩く毎に叩き込んだことが抜け落ちていく人です。あんな獣に人にされて、私も将来あんな風になるんでしょうか……」

「人の姿を与えた獣と血の繋がりがあるわけじゃないから、同じ風になることはないよ。譬え血の繋がりがあっても全く同じ性格になんてならないし。影響するなら環境の方だね」

「そうですか……」

 饕餮とうてつ窮奇きゅうきの仲間である檮杌は『馬鹿』であると二人も散々言っていた。鉄線蓮の言う『三歩歩く毎に』は比喩だろうが、苦労したことを窺わせる。話を聞かないそうなので、忘れていると言うよりそもそも覚えていないのだろう。

 溜まりに溜まった愚痴を聞きながら、昼食は少し早めに灰色海月が近くのコンビニエンスストアでおにぎりを幾つか買って来た。晴れた空の下でまるでピクニックのようだった。鉄線蓮は初めて見る真っ黒な海苔に躊躇した後、恐る恐る頬張る。

「この黒い紙……美味しいです」

「海苔だよ」

 味付け海苔が気に入ったようで、鉄線蓮は海苔を剥がして食べ始める。

「これを買うお金はどうしてるんですか? 宵街で流通しているお金とは違うお金なんですよね?」

「えーと、どうなってるんだっけ?」

 おにぎりを頬張り、獏は灰色海月を見る。獏が開いている古物店の売上げなど無い。

「宵街から小額の支給があります。獏の善行にどうしても必要な時の助けにと。足りない時は私の御菓子を売ったお金を足します」

「罪人にそんな支給が……?」

「罪人にではなく私にです」

「……そうなんですか。人間のお金はどうやって手に入れるものなんですか?」

「それは……特別なつてで仕事を斡旋してくれる人が人間の街にいて、仕事がしたい、もしくは人間のお金が欲しい変転人が働いて、得たお金の一部を斡旋料として宵街に納めるそうです。他にも、宵街で作って販売した食べ物の残りを回収して人間に売り付けたり……それを狴犴さんが管理して、私はお小遣い……支給をしてもらってます」

 変転人にも色々いるのだ。浅葱斑アサギマダラのように自由に旅をする者もいれば、人間の中に混ざって仕事をしたいと言う者もいる。狴犴は変転人達の遣りたいように遣らせ、金を納める変転人も狴犴がどのように金を使用するのか気にしていない。宵街に棲んでいて不自由は無いため、細かいことは気にしない。

 狴犴なら変転人に小遣いを渡しても不思議ではない。獏はそう思っていたが、鉄線蓮には理解できなかったようだ。怪訝な顔で首を傾げている。

「そんなに簡単にお金が貰えるんですか……」

「狴犴は普段から無償で変転人達の要望に応えてるからね。獣の義務だって思ってる」

「宵街の仕組みはよくわかりませんが、例えば私がお小遣いを所望しても貰えるんですか?」

「貰えるんじゃないかな。何か欲しい物でもあるの?」

「…………」

 言い難いのか鉄線蓮は目を伏せ、もごもごと口を動かした。

「値段は……わからないんですが」

「ふふ。何が欲しいのかな?」

「以前……攫った時にしんさんに能力で出してもらったぬいぐるみが可愛くて……でも架空と指示をしたので、実在しないなら買えませんよね……?」

 そんなことをしていたのかと獏は目を瞬き、ぬいぐるみが欲しいだなんて可愛い願い事ではないかと微笑んだ。

「実在はしなくても似てる物はあるかもしれないし、他にもっと気に入る物が見つかるかもしれないよ。僕は自由に動けないけど、誰かに買物に連れて行ってもらったらどうかな?」

「いいんでしょうか、そんなこと……。私はまだ監視対象なのに……」

「監視じゃなくて療養だよ。君の体調を気遣ってるだけ。体調が良いなら自由に動いてもいいんだよ――っと」

 徐ろに立ち上がり、柵から下界を見下ろす。御喋りに興じる内にそろそろ放課後、気が緩む時間だ。

「力を使いたいから、二人はここで待機か、転送で来て」

「はい」

 灰色海月は頷き、掌から灰色の傘を抜く。付いて行くようだ。

 獏は柵の上へ跳び上がり、校舎の壁面の突起に足を掛けながらとんと下りた。自由落下と殆ど同じ速度で壁を下りるので鉄線蓮は慌てて柵に飛び付いたが、獏の姿はもう見えない。獣の身体能力は変転人よりも数段高い。

 生徒達は帰路につき、契約者に狙われる二人も校門から出る。今日一日獏の言い付けを守って互いに知らない顔をしていたが、帰る二人の距離が近い。学校を出て気が抜けたのだろう。何も知らない他人が見れば一緒に帰っているなど考え付かないだろうが、二人の仲を知る者から見れば怪しまれる距離だ。同じマンションに住んでいるのだから同じ方向に帰るのは当然なのだが、時間をずらせば良いのにと獏は思う。少し離れて契約者の少女も目を光らせている。契約者はもう不信感を抱いており、少しでも襤褸を出せば終わりだ。

(……しょうがないな。助けてあげるか)

 二人は人通りの無い角を曲がり、少女は後を追って曲がる。獏は屋根や塀を蹴り、少女が曲がった瞬間に飛び降りて手を翳した。

「!?」

 少女は驚く暇も与えられず、地面にべしゃりと倒れた。物音を聞き、前を歩いていた二人も振り返って目を瞠る。

「御苦労様。でも二人のその距離は近いよ。怪しまれてたから、これでお終いにしよう」

「お終い……?」

 少年は首を傾げ、恋人も不安そうに突然現れた妖しい動物面を注視する。

「うん。後は僕が処理しておくから……彼女は先に帰っててよ。彼氏もちゃんと帰してあげるから」

 少年が説得すると、彼女は不安ながらも一人で帰って行った。最初は獏を信用していなかった少年だが、随分と素直になったものだ。

「さて……と。この夢見勝ちな人間には飛び切りの夢を見せてあげなくちゃね」

 少年を下がらせ、獏は少女の耳元で囁いて彼女を起こす。少し眠らせただけで、危害を加えたわけではない。寝起きのまだぼんやりとする頭に更に囁き、まるで夢を見るように笑顔が蕩けていく少女を、少年は息を呑みながら見守っていた。それは不気味な光景だった。獏の囁きに少女は頷くことしかしない。

 一日様子を見させた少女に獏は二人が引き剥がされた確認ができたかと問い、少女は嬉しそうに頷く。判断力の鈍った寝起きの頭に優しく甘美な言葉を囁くだけで容易に頷かせられる。まるで糸に繋がれた操り人形だ。

 獏は少年に背を向けたまま少女の両目を塞いで面を取る。口付けて一つ目の代価を戴き、口を離して面を被る。惚けた少女にまた優しく囁き、背後の少年を手招いて耳打ちする。

 少年はこれが最後の任務だと言われ、渋々頷いて少女と歩き出した。

 その様子を近くの屋根の上から見ていた灰色海月と鉄線蓮はどう下りようかと辺りを見回し、見兼ねた獏が地面を蹴って屋根の上へ跳ぶ。

「終わったんですか?」

 灰色海月の問いに、獏は「一つ目はね」と頷く。

「恋人達を引き剥がす、は最後は催眠っぽくなっちゃったけど、依頼人が納得すれば大丈夫だから。夢の隙間に言葉を挟んであげると、錯覚を引き起こせるんだよ」

 そんなことができるのは獏だからだ。夢に入ることはできないが、干渉することはできる。夢見勝ちな少女にはよく効くのだ。

「二つ目はどうなったんですか?」

「二つ目は付き合う、でしょ? だから一緒に買物に行ってもらったよ。買物に『付き合う』ってね」

「…………」

 言葉を糸に、操り人形を踊らせるように指を動かす獏を見、灰色海月と鉄線蓮はきょとんとした。物凄い屁理屈ではないか。

「あの……それで納得するんでしょうか?」

「うん。あの子はもうまともに判断できない。納得してもらえる代価を戴いたからね」

 獏はくすくすと笑う。そのために願い事を二つに分けて、代価を先に一つ食べたのだ。

「廃人にしたわけじゃないし、大丈夫大丈夫。最初で最後のクリスマスデート、ちょっと早いけど良い思い出になるといいよね」

 気分も軽くなり、二人の手を取り獏は屋根を蹴った。

 こんな無茶苦茶な叶え方をしていても、手紙の差出人には『叶った』という事実がある。事実があるなら、それで充分だ。鉄線蓮が契約者の意中の相手に味方しなければ、契約者にもう少し幸せはあっただろうが。


     * * *


 宵街の各層には掲示板が設置されており、その横に置かれた要望箱の確認をするのは白花苧環シロバナオダマキの仕事だ。彼が生まれ変わる前は別の変転人が行っていたのだが、今は彼が回収を担当している。

 街を歩けば変転人と擦れ違うこともある。以前の白花苧環は他者との交流が極めて少なかった。その所為で知らないことが多くなってしまった。そのことを考え直し、知識や経験を増やすために、狴犴は彼に宵街を歩かせることにした。

 中層では掲示板の横以外に、病院内にも要望箱を置くようになった。受付の横に置かれているので、医者のラクタヴィージャが暇な時は顔を合わせることが多い。白花苧環が回収に行けば、彼女は目視で彼の体調を確認する。白花苧環の健康状態を気に掛ける狴犴の企みとも言える。

 大きな蝦蟇口がまぐちの鞄に詰めた要望書を持ち、白花苧環は狴犴の待つ科刑所へ戻る。

 狴犴はいつも仕事部屋の奥の席に座って書類を見ている。病院の要望は急を要する物が多いため、入れられていた一通を先に狴犴に渡した。

 病院からの要望は命に関わることもある。後に回すわけにはいかない。長い金髪を一つに束ねた青年――狴犴も書類から顔を上げ、先に目を通す。薬か器具か……機械なら珍しい品でなければ良いのだが。

「……『のり』と『おこづかい』?」

「鉄線蓮からのようですね」

「これでは接着する糊か食品の海苔かわからない。確認しておいてくれ。希望があるなら量もだ」

「わかりました」

 何に使うのか。そんな野暮なことは尋ねない。獣の勝手で人の姿を与えられた変転人は、獣が責任を持って面倒を見るものだ。望んだ物は用意してやるのが道理である。

 書類に目を戻そうとし、ふと狴犴は尋ねる。

「お前は小遣いはいらないのか?」

「必要なら要望を出します」

「そうか」

 少し残念そうな声だった。狴犴は再び書類に目を落とす。

 ここで言う小遣いとは、人間の街で流通している金のことだ。白花苧環は人間の街で何かを欲しいと思ったことが無い。人間のこともよく知らないのだから。

 要望書の入った鞄を置き、白花苧環は再び科刑所を出る。緊急ではないが、『のり』を先に確認しておくことにした。

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