舟墓のやがてたどり着く場所

雨籠もり

舟墓のやがてたどり着く場所

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 目が覚めたときには、白霧に囲まれていた。

 眠い目をこすりながら辺りを見渡すが、どれだけ目を凝らしても、白霧以外の何ものも見えない。立ち上がって移動してみようとして、膝に手をついて、そこで初めて――私は、自分が舟のうえにいるのだということに気付く。平衡感覚を失って落ちそうになり、慌てて座り込んだ。

 舟――だ。

 どこか見覚えのあるような、赤色の装飾のある、木製で、それほど頑丈そうには見えない舟。櫂の類のものは見当たらない。どこかで落としてきたのか、あるいはそのまま流されてきたのか、判断のつかない状況だった。

 いったい、どれくらいのあいだ眠っていたのだろう、と私は、ひとまず呼吸を確かめながら考える。生きていることは確実だ。空腹感はさほどない。船底に預けていた背中がちくちくと痛むけれど、特段、身体に何か異常があるわけではなさそうだった。

 しばらくのあいだ、ぼうっとして、試みに水面に人差し指を浸らせてみる。

 つ、と冷たい感触が指先を這いあがるように伝わった。

 流れはある。それも、割と強い速さだ。もちろん、河川の急流なんかに比べれば、さしたる速さではないけれど、笹船を浮かべれば、あっという間に見えなくなってしまうだろう、そういう速さ。

 水は透き通ってはいない。何か生物がいるような気配もないし、また海藻や水草の類があるような感触もなかった。しばらくのあいだ手探りにしてみるけれど、砂利や岩にさえ指先は触れない。相当に底が深いのだろう、と考えて、もしもさっき落ちていたら、と背筋が凍った。

 底が深い、か。

 私は水面から人差し指を話して、その手を顔の前にまで持って来る。汚れているようには見えない。透き通っていないのも、きっと白霧が水面に反射しているせいだろう。

 私はもう一度周りを見渡す。やはり白霧が邪魔をして、何も見ることはできなかった。

 明るいので夜ではないことは分かるけれど、日の向きすら曖昧なので、今がいったいいつなのか、それさえも判断しかねた。今はまだ何も感じないけれど、これが夜にでもなれば、途端に冷え込んでくるかもしれない。今の私は木綿の袴しか来ていなかった。

 ふう、と溜息をついて、再度自分の人差し指に視線を向ける。

 そのときふと、とある疑問が湧いてきた。

 この人差し指を舐めれば、ここが海か河川かが分かるのではないか。

 簡単なことだ。潮の味がすれば海。潮の味がしなければ河川だ。河川ならば、きっと家の近くの川だろう。

 私はひとつうなずいて、けれど心のどこかでは、あれだけ白く濁って見えた水を口に含むというのは、どこか気の引ける行為だ、と恐れながら、人差し指を口元にまで持って行った。

 さてどうしよう。

 もしも舐めて潮味がすれば、いよいよ私は自分の所在が分からない。

 安心が不安か。

 自らの精神のこれからを決してしまうのは、果たして良いことなのだろうか。

 ええい。

 いちがばちか、だ。

 そう思って、口に人差し指を突っ込もうとして――

「こら、ばっちいですよ」

 と、不意に隣から声をかけられた。

「ひっ」

 女の声だ。

 驚いた拍子にのけぞって、船体が大きく揺れる。慌てて体重を移動させ、どうにか安定させた。

「だ、誰だ」

 と私は訊く。白霧の向こう側から、その女は声とともに、ぬうと顔を突き出した。

「はじめまして、私は長靴マツリです」

 見たこともない恰好だった。

 ざんぎりの、まとまっていない髪の毛に、真っ赤な布を首に巻いている。衣服はかなり上等のもののようで、鹿の皮のようにも見えた。黒色の足袋ですっぽりと足を覆ってしまい、極めつけには、腰に短い布を巻いている。

 これでは下着が見えてしまうではないか。

「ええい、はしたないぞ」

 と私は視線をそらしながら言った。しかして長靴は、

「スパッツ履いてるので大丈夫ですよ」

 と意に介さない。

 長靴は、別の木船の先頭に立って、私のことを見下ろしていた。ぷかぷかと、長靴の乗っている舟は上下を繰り返している。

「しかしながら、こんなところで生きている人と出会うだなんて、奇遇ですねえ」

 と、長靴はその真っ黒な瞳を輝かせながら言った。

「生きている人?」

「はい」

 長靴はうなずく。

「ここは死者のための場所ですから」

「そんなこと言ったって――」

 私はまだ生きている。

 呼吸をしているし、思考をしているし、きちんと恐怖という感情が働いている。恐怖とは、生きるために死から身を遠ざけるためのものだろう。死者に恐怖心など不必要だ。そんなことを言ったって、私は生きているんだから――。

「……しょうがないじゃないか」

「しょうがない、とは?」

「どうしようもないということだ」

 長靴という少女は、あくまでこちらを品定めするように見つめている。なんだか気分が悪くなって、咄嗟に私は彼女から目を逸らした。逸らして、その先で、別のものを見つけた。

 舟だった。

 私の乗っている舟の頭に、別の舟の頭がぶつかる。

 それも、一隻だけではない。

 無数に――少し透明度の増した霧の向こう側、果てしない地平の先まで、おびただしい数の舟が、ここには並んでいる。さながらそれは、舟の墓場のようだった。

「……これはいったい、どういうことだ」

 私がそう呟くと、長靴は微笑んで、

「ですから言っているじゃあないですか」

 とこちらの舟に跳んでくる。船体が大きく揺れた。

「ここは死者のための場所なんです」

 ざぷん、と浮かんだ舟の片端が、大きく音を立てて着水した。

「死者のための――場所?」

「正しくは寄合所みたいなものですよ。ほら、船葬墓ってあるでしょう」

「舟に遺体を乗せて、川に流して埋葬するという、あれか」

「そうです」

 長靴は私の目の前に屈んで、私の顔を覗きこみながら続ける。

「ところであの舟って、いったいどこに行っているんだろう、とか考えたことはないですか?」

「船葬墓が……」

 何処に行っているのか。

 何処に行っているのだろう。

 川に流したあとは、誰も知らない。

 知らない場所に運ばれていく。それが船葬ではないのか。

「ここはですね」

 長靴は逆さにした「へ」の字のような笑みを浮かべて続ける。

「そういう舟の、行きつく終着点なんですよ」

 言って、立ち上がった。

 大きく手を広げて、辺りを見渡す。

「ここにある舟はすべて、すべて――右端から左端まで、船葬墓なんです。その死者の死亡した時代によらず、死者の性別や職業、人種によらず、死者がどこで死に至ったかによらず、また死者の死因によらず。すべて船葬墓によって葬られた人々は、ここにやってくるのです」

「すべて、か。……例外なく?」

「そうです。例外なく」

「つまりここは、冥府ということか?」

「うーん、それとはちょっぴり、違いますかね」

「違う?」

「だってここは、別にあの世じゃないんですよ。きちんと現世、つまるところ地球上に存在している場所です。ですから、頑張れば地上に戻れるし、死者でなくとも、こうしてたどりつくことができる」

 長靴は言って自分を親指で指した。似合わない動作だ、と私は思った。

 いや、待て。

「つまり、あんたは――自らの意志で、ここにやってきたってことか?」

「その通りですよ?」

 長靴は不思議そうに首を傾ぐ。

「あなたも同じく、自らの意志でここまでやってきたのでは?」

「違う、違う」私は慌てて手を振った。「気が付いたらここにいたんだ。本当に、前後のことが、まるで思い出せなくて……、けれど、自分が死んでいないことは確かだ。ほら、この通り、呼吸もしている」

「なるほど、確かに生きているみたいですね」

 長靴は私の前に座り込んだ。

「つまり、『お前は自分の意志で来たんだから、帰り方を知っているんだろう』と?」

「そ、そう。そういうこと」

 私は半ば焦りながら、長靴にすがるようにしてそう言う。ここで見捨てられては永久に水上をさまよう羽目になるかもしれないのだ。そんなことは御免だった。

「頼むよ。お願い、お願いします」

「えー、でもなー、私に見返りがないからなー」

 長靴はぶんぶんと顔を左右に振りながら答える。答えて、そして、「あ」とその動きを止めた。

「そうだ。手伝ってもらおう」

 言って、長靴は立ち上がった。

「手伝うって、何を……?」

 と、私は長靴を見上げて尋ねる。対して、長靴は私を見下ろして言った。

「代価として、ちょっくら死体探しを手伝ってくださいな」


 長靴マツリがここにやってきたのは、とある人物からの依頼を遂行するためだった。依頼というのは、数十年前に流した夫の船葬墓から、手鏡を取り返して欲しい、というものらしい。

 流した船葬墓を見つけるというだけでも途方もない話に聞こえるが、しかし長靴はその依頼を、ふたつ返事で了承したのだという。

「女の涙は見逃せないたちなんですよ」

 と長靴は首を左右に振りながら言う。

 幸いにも、長靴はこの場所について、依頼を受ける前から知識があったそうだ。船葬墓がたどりつくその場所について、それがどこにあるのかは知らないけれど、どうすれば行くことができるのかを、彼女は熟知していた。

 彼女いわく、ここには生贄としてやってきたらしい。古い時代に、権力者が亡くなった際には、生贄として百人以上もの人々が権力者の死体と一緒に生き埋めになったと聞くが、それを船葬墓にも応用したのだという。

 つまり、ここには死体と一緒に来たということだ。

「依頼人きってのお願いだったんです。私が死んだら、私のことは船葬して欲しい、と。手鏡は墓前に供えるように、とのご依頼でした」

 長靴は言いながら、舟と舟とのあいだを、源義経のように軽々と飛び越えていく。

「依頼人が死んだのに、わざわざ律儀にここまで来たのか?」

 私も、そう尋ねながら彼女の後を追った。何度か落ちそうになったけれど、舟と舟とが押し合いへし合いしているおかげで、すってんころりんと沈むことはなかった。

「報酬金は前払いで頂いていたんですよ」

 長靴は振り返らずに言う。

「いただいたお駄賃のぶんは、働きませんと」

「へえ……殊勝だな。いくらでもちょろまかせただろうに」

「私は良い子ですからね」

 長靴は言って微笑む。

 かれこれそうして、一時間くらいは歩いていた。

 踏み越えて跳び越えて、そうして過ぎて言った船葬墓のなかには、いずれにしても死体が安置されていた。あるものは着の身着のままに、あるものは溢れそうなほどの花束を抱えて、あるものは見たこともない箱を手に持ち、あるものは甲冑のようなものを身にまとっている。

 本当に、古今東西からこの船葬墓は集まっているようだった。それでいて、それぞれの船葬墓のなかにある死体は、まったくもって腐敗が進行していない。張りがあって、まるで眠っているかのように、美しいままだった。

 色々な人種の人間がいた。

 色々な年齢の人間がいた。

 色々な時代の人間がいた。

 そのすべてが十把一絡げに、死んでいた。

「うーん、ありませんねえ」

 長靴はそう言って首を傾ぐ。

「その船葬墓って、何か特徴はないのか?」

 私は、長靴の後を追いながら聞いた。長靴は目の前に浮かんでいる、黒色の船葬墓のうえに立って、顎に手を添えている。

「赤色の装飾がある船葬墓なんですよ」

 と長靴は言った。

「探しているのは男性の船葬墓で、日本人で、少し昔の人で……」

「長靴」

 私はその背中に向けて言った。

「なんですか?」

 と長靴は首だけで振り返る。そして続けた。

「そういえばあなたって、生贄でもないのにここに来たんですよねえ。なんでしょう、エドガー・アラン・ポーで言うところの早すぎた埋葬ならぬ、早すぎた船葬ってところでしょうか」

「えどが……知らないな」

「あれ。じゃあ、第四解剖室とか……はもっと知らないか」

 長靴はそして、ようやく全身で私のほうを振り返り、そして言った。

「江戸川乱歩はご存じないですか?」

 多分、きっと。

 その言葉は、介錯のようなものなのだろう。

「……知らないよ」

 と。

 私は、正直に言った。

「では……」

「長靴」

 私は長靴の言葉を遮るようにして続けた。

「もういい」

 私は手を、ちくちくと痛む背中に回す。

「もういいんだ」

 背中の肉をえぐって、何十本と突き刺さった矢の羽のいくつかが、私の手のひらをくすぐった。


 もっとずっと前から、気付いてもよかったのだと思う。

 例えば、長靴の服装だ。どう考えてみたところで、彼女のその服装は、私と同じ時代のものではない。あれはもっと、西の国の人々が着るようなものであって、そしてその文化が近い未来、あるいは遠い未来に、私と同じ言葉を使う国に入ってくるのだろう。

 ともすれば、現れる問題はふたつにひとつだ。

 私が過去なのか、長靴が未来なのか。

 当然、「生贄」という適正な手続きによって、死体とともにやってきた長靴の時代のほうが、「現在」として扱われるべきものだろう。ならば、必然的に、私は過去の存在となる。

 私は、長靴と出会ってからの数時間に、色々な船葬墓を見てきた。

 そのどれもが腐敗していなかったように、この私もきっと、腐らずにそのままだったのだろう。

 それがどうして、今更になって目覚めたのかは分からない。

 このあたりをさまよっていた私の霊が、元の身体に乗り移りでもしたのだろうか。それとも、本当に生き返ってしまったとか? ……いいや、それはあり得ないだろう。だってここは、長靴の言う通り、「死者のための場所」なのだから。

 私はすでに死んでいる。

 その事実を受け止めなければならない。

 きっと死因は矢傷だったのだろう。自分がなぜ、どのようにして幾多の矢を受けたのかについては、残念ながら記憶がないので回想できないが、けれど無残な死に方だったろうことは分かる。

 さぞかし、悲しい思いをさせただろう。

 辛い思いをさせただろう。

 私の死体を、遺された人々はどのように見送ったのだろうか。

 私の死体が、それを乗せた船が、果たしてどこに向かうのか、考えたりはしただろうか。

 船葬墓のやがて流れ着く場所に、思いをはせたのだろうか。

 水上にいる私には、それらを想像することしかできない。どちらにせよ、ここは死者のための場所なのだ。長靴はこの場所を、現世で、地球の一部であるとは言っていたけれど、ここが生きている人々とは隔絶された場所であることに変わりはない。

 ここには死が集まっているのだ。

 そして、朽ちることなく、腐ることなく、やがてやってくる仲間のことを待っている。

 ここはそういう、神聖な場所なのだ。 

 流れて、流されて、そういう無意識の力によって集められ、構築された場所なのだ。


「お孫さんだそうですよ」

 と、長靴は言って、長靴が乗ってきた、依頼人の乗っているという船葬墓のほうを見る。そこにはしわだらけの、明らかに私よりも年老いた老婆が、胸の前に手を組んで横たわっていた。

安らかな表情で、耳を澄ませば穏やかな寝息が聞こえてきそうな気さえする。

 きっと、幸せだったのだろう、と私は老婆の額を撫でた。長生きして、いろいろなものを見て、いろいろなものと出会って、いろいろなものを感じて、そうしてようやく穏やかに、愛しているものに囲まれて、安らかに息を引き取ったのだろう。

「多分、依頼されている手鏡というのは、これのことだと思う」

 と、私は私が乗っていた、赤色の装飾が施されていた木船から、美しい銀色の手鏡を取り出した。こうして見てみると、細やかな造形をしていて美しい。大切にしたいと考えるのもうなずける。

「それは元々、あなたの奥様のものだったそうです」

 と長靴は続けた。

「あなたの奥様が、あなたを船葬墓に運んで流す際に、愛の証として舟に入れたんだとか。いやあ、ロマンティックですよねえ。憧れてしまいそうです」

 長靴は飄々とした様子でそういうと、私の手から丁重に、その手鏡を受け取った。

「確かに、いただきました」

「それで、どうやって帰るんだ?」

 私は長靴に訊いてみることにした。長靴は私たちとは違って、まだ生きている人間なのだ。ならば生きなくてはならないし、ここから帰らなくてはならない。

「これを使うんです」

 と、長靴は自分が乗ってきた船葬墓から、一本のまばゆく輝く枝を取り出してみせた。

「それは?」

「桜の枝です」

 長靴は言って、その枝を水に沈めた。すると自然に、長靴の乗っていた船葬墓が、がくん、と揺れて、そのまま私たちのいる方向とは正反対に向けて進み始めた。

「文献によれば、桜は生命の象徴で、非常におめでたいですからね。こういう場所から離れるには、うってつけなんですよ」

「そういうものなのか?」

「そういうものなんです」

 では、と言って、長靴は桜の枝を、水面の一番深くにまで突き刺した。強い推進力で、長靴の乗っている船葬墓が、流れに逆らって白霧の向こうに消えていく。私が彼女に手を振ると、長靴の、霧越しでぼやけた影が、こちらに向かって手を振ってくれる。

「さようなら、名も知らない死者さん。どうか安らかに。良い眠りを、そして良い夢を」

 長靴の姿が完全に見えなくなって、私はその場に深く座り込んだ。そして、今しがたやってきたばかりの、孫の死体の傍に寝る。

 その表情は生きているように見えるけれど、触れればやはり脈がない。けれどきっと、穏やかな夢を見ているはずだ。穏やかな夢は、穏やかな死がもたらす。

 私は、彼女の死体の隣で目を閉じた。

 暗闇が優しく包み込む。

 おやすみなさい。

 良い夢を、永遠に。

                            ―――――(了)

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