第5話
一週間ぶりの数学の講義は、まるで別言語の呪文のようだった。4限ということもあってか、書かれては消され、また書かれていく黒板の文字列を、僕は上の空で眺めていた。
講義が終わると、背後から肩を叩かれた。振り返ると、頬に指が刺さった。
「久しぶり。」姿を見る前に、彼女の声が頭に響いた。
「久しぶり、かな。」
一週間を久しぶりと形容するかどうかは、人によるかもしれないし、あるいは状況にもよるかもしれない。少なくとも僕にとっては、久しぶりなどという生易しい表現ができるものではなかった。
「どうしたの?最近は部室にも来なかったし。」
声色から彼女が心配してくれていることはわかったが、どうしても彼女の顔を見ることができなかった。
「まあ、あれだよ。ちょっと体調を崩してね。」
「あら大変。最近はいろいろ忙しかったから、今日はドラゴンハンターを進めようと思ってたのに。」
最近は忙しかった。きっと先週もそうだったのだろう。正直、その方向には話を広げたくなかった。聞きたくもない話だ。だが、同時に気になっている自分もいた。結局、ほんの少し好奇心が勝った。
「いいのかい?彼氏さんを放って他の男とゲームなんてやってて。」
「彼氏?」彼女はけげんな顔をした後、はっと思い出したように「ああ、彼氏ね。別れたよ。」と言ってのけた。
「別れたって。」思考が追いつかないままに、言葉を繋いだ。「それはまたなんで。」
「彼を嫌いになるような、大きな出来事があったとか、そういうわけじゃないんだけど。」彼女もまた、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「違う所が多すぎた、っていうのかな。私は、あるいは彼も、その違いのどれかに惹かれたんだろうけど、お互いの全てを受け入れようとも思わなかったし、思えなかった。多分、そんな感じ。」
彼女が何を言っているのか、さっきの講義の続きを受けているくらいには、理解ができなかった。だがしかし、安心もしていた。
本当に?
本当に、今は安心できる状況だろうか。確かに彼女は別れたが、いつかまた次の恋をするかもしれない。いや、きっとするだろう。次も上手くいかない保証なんて、あるはずもない。じゃあ今はなんだ?今が僕に残された最後の機会なんじゃないか。
「少し難しすぎたかな?」彼女はふふん、と鼻を鳴らした。
「わかる、わかるよ。とてもよくわかる。その点で言えば、1週間くらい前かな、ちょうどそんな理由で僕も彼女と別れたんだ。」
僕は大げさに頷いた。さも本当にそうであるかのように。
「もしかして、体調不良っていうのはそういう?」
「あえて隠したんだから、触れないでくれよ。」
吐いた嘘は戻らない。ならせめて、最後の最後まで嘘を吐き続けろ。未来に繋がる嘘を。
「それはお気の毒に。いや、お互い様か。」
「そうだね。」
大きく息を吐いた。肺の空気を、胸の奥の本音を全部外に出せるように。
「だからさ。お互い様ついでに、僕らならこんな間違いは起こらないと思わない?」
「というと?」
「僕は君のことをよく知ってるし、君も僕のことをよく知ってくれてる、と思ってる。僕の勘違いじゃなければね。」
彼女は少しの間黙っていたが、「それは、確かに。」と返した。
「同じ所も違う所もお互いに知ってて、僕らはこうして話しているんだ。もう少し関係性を進めてみても、上手くいくんじゃないかな、僕らなら。」
「ふぅん。」彼女は僕の目を覗き込んだ。「一つだけ質問。私のどこを好きになったの?」
難しい質問だ。好きな男のために自分を変える努力ができるところとか、あるいはその努力の結果とか、挙げればキリがない。
「何であれ、君が君だから好き、なんだと思う。事実として、君以外の女性に同じ魅力があったとしても、少なくとも今の僕はその女性を好きだと思わない。」
彼女の目を、まっすぐに見つめて言った。彼女も、少しも目を逸らすことなく聞いていた。
「綺麗事だね。」彼女の表情が少し緩んだように見えた。
「ごめん、答えになってないのはわかってたんだけど。」
「じゃあ、せめて行動で示してもらおうか。」
そう言って、彼女は鞄からゲームのパッケージを2つ取り出した。
「それは、ドラゴンハンター3?」
「私に教えてくれた発売日まで忘れてるなんて、随分ご傷心だったみたいね。」
彼女はいつもの、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「後でお支払いはしてもらうとして。もちろん、付き合ってくれるよね?」
策士 藤宮一輝 @Fujimiya_Kazuki
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