第4i話

「お待たせ。待った?」


6時3分前。多分、30分も前からこうして駅前のベンチで待っていたと思う。


「いや、僕も今来たところだよ。」


彼女は前に一緒に買った、薄紫色のワンピースを着ていた。


「その服、やっぱりよく似合ってるね。」


「そう?ありがと。」彼女は珍しく照れくさそうに頬をかいた。


そんな会話をしながら駅へと向かう。


「まずは何から?」


まだ人の少ない電車に揺られながら、彼女はスマホ上に映した、テーマパーク「東京ディスティニーワールド」のパンフレットを眺めていた。


「やっぱりジェットコースターかな、人気だからすぐ混んじゃうだろうし。でもお化け屋敷も捨てがたいね。」


「できれば、平和的なものがいいんだけど。」


「なに、怖いの?」彼女はからかうように目を細めた。


「……いつの時代も、最も恐ろしいのは人間の業だよ。」


「じゃあとりあえずジェットコースター、次にお化け屋敷だね。」


彼女は少しも僕の話を聞いていないようだった。


事実、僕は今お化け屋敷の出口に立っている。やはり、と思う。悪意を持って人を怖がらせようという人間ほど、怖いものはない。


「叫び過ぎ、お化けの人より声大きかったよ。」そう言いながら、彼女はお腹を抱えていた。


一方の僕は軽口を叩くどころか、言い返すこともままならず、地面に膝をついている。


「ちょっと早いけど、お昼にしようか。」ひとしきり笑った後、彼女はそんな提案をした。


何度かの昼飯トレーニングの成果もあって、彼女は自然体でトマトソースパスタを啜っていた。ソースが服に跳ねないよう、エプロンまでつけている。


「それ、美味しい?」


「もちろん、おしゃれな味がする。」


「……ついぞ食レポの練習はしなかったからね。」


午後は僕の要求が通ったのか、彼女は平和的なアトラクションを選択した。


「やっぱり、遊園地っていうのはこうでなくちゃ。」


回る馬に乗りながらぼやく僕を、彼女はやや冷ややかな目で見た。


「刺激が足りないなら、他のジェットコースターに乗ろうか?」


「いや、いいよ。」驚くべきことに、彼女は僕の提案を断った。「これも、なんだっけ、エレファントな楽しみ方ってやつでしょ?」


それをいうならエレガントだ、と訂正しようとして、彼女を見た。彼女は象に乗っていた。


陽が沈み始めたころ、パレードが始まった。正直な話をすると、僕はもちろん彼女も、道を練り歩くキャラクターたちのことをほとんど知らなかった。だが、時々こちらを見て手を振ってくる着ぐるみに、彼女は必死に手を振り返していた。


帰りの電車の中で、彼女は僕にもたれかかって寝ていた。それもそうだ、と思う。準備には何かと時間がかかるという彼女が、9時の1限にしょっちゅう遅刻する彼女が、6時の集合までにすべてを間に合わせたのだ。起きた時間もさぞ早かっただろう。もし今日を楽しみにしていたなら、昨日もちゃんと寝られなかったかもしれない。


願わくは、この幸せな時間が永遠に続けばいいのに。


でも、そうはならなかった。

なぜなら、今日彼女が一緒に東京ディスティニーワールドに行ったのは僕ではないし、したがってこのような出来事も起こらなかったからだ。

現実の僕は、独りベッドの上で天を仰いでいた。先刻彼女から「上手くいった」という趣旨のチャットが来た。なんと返したかは覚えていないが、おそらく思ってもいない祝福の言葉だろう、当時はまだそれくらいの理性は残っていたはずだ。その後スマホを壁に投げつけ、横の部屋から響く壁を叩く音に罵声で応え、頭を掻き毟り、トイレで嘔吐し、涙を流して、やがてそれらの稚拙な感情表現をする気力も失ってから、どれくらいの時間が経ったか。確認をする必要さえも感じられなかった。


そう考えると、今日の僕は、実に利口だった。あらかじめこのような事態を想定して、バイト先に向こう一週間の休暇を申請し、カップ麺や飲み物を大量に買い込んだ。


いやはやまったく、たいしたものだ。寸分の狂いもなく予期していた通りの結果となった。一週間という期間が十分ではない可能性だけが気がかりだが、よくやったとほめるべきだろう。いかにも小心者の僕が設定しそうな期間だ。いっそのこと、この機転をもっと早くから利かせておけば、こんな最悪の事態にはならなかったのではないか。今日までの僕は、実に愚かだった。


「ああ、嫌だ嫌だ。」


僕は目の前が真っ白になった。

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